第68話 裏切り者は、もういなかった
呂蒙から糜芳へ届いた提案は、丁寧だった。
《城を開けば、民と兵の生命を守る》
《糜芳殿の官位と財産も保証する》
《劉備殿へ長年仕えた功績を、呉は軽んじない》
《関羽殿の怒りを恐れる必要もなくなる》
最後の一文が、最も危険だった。
呂蒙は糜芳の心を理解している。
関羽への恐怖。
失敗を隠した罪。
劉備へ戻っても処罰されるかもしれない不安。
歴史では、この提案が糜芳を動かした。
だが、今の糜芳には別の道があった。
辞表は受理されている。
引き継ぎを終えれば、成都の商業調達部門へ移る。
失敗も報告した。
処分内容も決まっている。
戻る場所がある。
糜芳は呂蒙へ返書を書いた。
《ご配慮に感謝する》
《しかし、既に劉備様のもとで別の職務を与えられている》
《関羽将軍の下から離れるために、国まで替える必要はない》
《南郡の城門を開く意思はない》
俺は報告書を読み、しばらく動けなかった。
英雄的な文章ではない。
「劉備様への忠義ゆえ、死ぬまで戦う」とも書いていない。
関羽への不満も消えていない。
ただ。
国を替える必要がなくなった。
それだけだった。
【糜芳】
呉への降伏意思
0
離反危険度
2% → 0%
新規特性
【辞められる者は、裏切らない】
人を縛れば忠誠が高まるとは限らない。
辞める道があるから、最後まで働けることもある。
呂蒙は糜芳の返答を受け取ると、すぐに攻撃を命じなかった。
代わりに、南郡城内へ使者を送った。
《呉軍は略奪しない》
《城内の民が望むなら、安全に退去させる》
《戦えば、城壁と市場が焼ける》
糜芳は城門を閉じたまま、城内の民へ説明した。
呉軍の条件。
蜀軍の兵力。
食料。
救援までの見込み。
以前なら、関羽の命令だけを示したかもしれない。
今回は違う。
民へ情報を出した。
「残りたい者は残る」
「西へ逃れたい者には、船と道を用意する」
「呉へ従うことを選んだ者を、裏切り者とは呼ばない」
糜芳自身が、裏切り者と呼ばれる恐怖を知っていた。
南郡の民は分かれた。
蜀軍と共に西へ向かう者。
故郷へ残る者。
呉の保護を受ける者。
全員を連れていくことはできない。
全員へ同じ選択を強制することもできない。
潘濬は民の名簿を作った。
家族が分かれた場合、誰がどこへ行ったか記録する。
後で探せるようにする。
一方。
公安では士仁が呉軍と向かい合っていた。
呉の使者は言った。
「南郡が落ちれば、公安だけでは持ちこたえられない」
「まだ落ちていない」
士仁が答える。
「糜芳殿も、いずれ賢明な判断をする」
「賢明とは、降伏か」
「生きることだ」
士仁は黙った。
能力画面の遠隔情報が更新される。
【士仁】
関羽への恐怖 91
劉備への忠誠 76
部下生存責任 88
降伏意思 21
撤退意思 72
士仁は、死ぬまで城を守りたいわけではない。
部下を連れて逃げたい。
事前に定めた撤退条件では。
呉軍が城を包囲。
関羽軍の到着見込みが二日以上ない。
民間人の避難が完了。
この三つが成立した場合、公安を放棄できる。
一つ目。
成立。
二つ目。
関羽軍の位置から見て成立。
三つ目。
あと半日。
士仁は城門を守り続けた。
歴史では、呂蒙の説得を受けて降伏した男。
今は、降伏ではなく撤退の準備をしている。
民間人の最後の船が出た。
士仁は倉庫を確認した。
持ち出せない食料には毒を入れない。
燃やさない。
呉軍が得る。
敵へ物資を渡すことになる。
しかし城内に残る民も食べる。
軍事的利益と、民の生活。
士仁は迷った。
最後に、軍用武器だけを破壊した。
食料と井戸は残した。
橋へ火をかける。
部下を率い、西へ撤退。
呉軍が城へ入ったとき。
士仁も、民もいなかった。
略奪する対象もない。
市場は閉じている。
井戸は使える。
倉庫には、三日分の食料が残されている。
呂蒙は城内を見回し、呟いたという。
「逃げたか」
陸遜が答えた。
「事前に逃げる権限を与えられていたのでしょう」
「以前の士仁なら、降った」
「今は戻る場所があります」
呂蒙は少し笑った。
「殿下に、先を越されたな」
公安は失った。
だが、士仁と守備兵は生きた。
【公安】
領有
蜀
↓
呉
城内戦闘
回避
民間人死者
最小
士仁
離反危険度
38% → 0%
新規状態
【命令された撤退】
関羽軍生還予測
59% → 63%
四ポイント上昇。
城を一つ失って、四ポイント。
土地を失うことが、常に失敗とは限らない。
士仁は西への街道を進み、関羽軍のために橋と休憩地点を確保した。
撤退した兵が、次の撤退を助ける。
糜芳も、南郡を永遠に守れるとは考えていなかった。
南郡の倉庫を開く。
関羽軍へ送る食料。
負傷者を乗せる船。
残る民のための食料。
三つに分けた。
自分が隠した過去の火災記録も、全て後任と潘濬へ渡した。
「糜芳様」
部下が尋ねた。
「城を捨てるのですか」
糜芳は答えた。
「城は、動かせぬ」
「では」
「人を動かす」
関羽の軍が帰ってくる。
そのための食料と船を用意する。
民を逃がす。
記録を残す。
それが終われば、南郡を放棄する。
「関将軍は、お許しになるでしょうか」
糜芳の顔が少し引きつる。
まだ怖い。
「許さぬかもしれぬ」
正直に答えた。
「だが、殿下と主公が決めた撤退条件だ」
関羽一人の感情ではなく、組織の決定に従う。
糜芳は城門へ立った。
遠くに呉軍の旗が見える。
背後では、最後の船へ負傷者が運ばれている。
「以前の私なら」
糜芳は小さく言った。
「呉の旗を見た瞬間、門を開けていたかもしれぬ」
部下は何も言わない。
「今も怖い」
糜芳は続けた。
「だが、怖いと言ってよいと知った」
怖い。
辞めたい。
できない。
助けてほしい。
それを言えるだけで、人は裏切らずに済むことがある。
糜芳から最終報告が届いた。
《南郡の避難と物資移送を完了》
《城を放棄する》
《呉軍とは戦わず、西へ退く》
《責任は私が負う》
俺は返信した。
《責任は、決定した全員が負います》
《糜芳殿一人へ負わせません》
城を捨てる決定は、執行評議と現地責任者が作った。
失敗した場合も。
成功した場合も。
誰か一人のせいにしない。
南郡の城門が開いた。
糜芳は呉へ降伏するためではなく。
最後の蜀軍と民を外へ出すために。
呂蒙軍が入城した頃。
城内には糜芳の姿はなかった。
【南郡】
領有
蜀
↓
呉
糜芳
撤退成功
民間避難
多数成功
軍用物資
大部分を移送
呉軍の追撃余力
低下
荊州の城が、次々に呉へ渡る。
領土画面は赤くなっていく。
それでも。
裏切り者は、一人も生まれなかった。
その夜。
関羽軍から報告が届いた。
徐晃軍の攻撃により、前衛が崩れた。
関平は父を守りながら後退。
周倉の部隊が川岸へ向かっている。
趙雲は、関羽軍まであと一日。
しかし呂蒙は。
南郡と公安を得たことで、西への街道へ兵を進め始めた。
関羽の退路は、再び狭くなっていた。




