第67話 退路は、一人の英雄には作れない
建安二十四年。
西暦二一九年。
俺は十二歳になっていた。
前世なら、まだ中学生にもなっていない年齢である。
だが今の俺の前には、荊州全域の地図が広げられていた。
北には樊城。
関羽軍。
徐晃軍。
曹仁軍。
南には長江。
呂蒙軍。
陸遜軍。
中央には南郡、公安、江陵。
その間を、洪水で傷んだ道と川がつないでいる。
関羽へ送った帰還命令は届いた。
関羽は従った。
樊城の包囲を解き、南へ向かっている。
それなのに、生還予測は五十一パーセントまで下がっていた。
【関羽救出プロジェクト】
残された時間
推定七日
関羽軍
現在兵力
推定二万一千
負傷者
約四千
同行捕虜
約一万二千
離脱捕虜
約一万八千
帰還経路
水路
呉水軍が監視
南郡街道
呉軍が侵攻
公安経路
士仁が防衛
西側山道
洪水・崩落
北方
徐晃軍が追撃
捕虜一万二千。
関羽は、全員を連れて帰ろうとしていた。
俺は報告書を読んで、頭を抱えた。
関羽らしい。
自分へ降伏した兵を置き去りにすれば、魏軍から報復されるかもしれない。
助けを求めて武器を置いた者を見捨てたくない。
その気持ちは分かる。
だが、負傷兵四千と捕虜一万二千を連れた軍が、魏と呉の間から脱出するのは難しい。
「捕虜を解放すべきです」
馬良が言った。
「武器を返すのですか」
荊州の官吏が尋ねる。
「武器は返しません」
俺は答えた。
「名簿を作り、帰郷証明を渡します」
捕虜の名前。
出身地。
所属部隊。
降伏した日。
受けた怪我。
家族。
関羽軍のもとでどのように扱われたか。
記録を残す。
「魏へ戻れば、再び敵になります」
官吏は言った。
「全員ではありません」
帰る者。
荊州に残る者。
蜀軍へ加わりたい者。
働いてから故郷へ戻りたい者。
本人へ選ばせる。
ただし、蜀へ加入する者は小隊ごとに分け、直ちに前線へ出さない。
忠誠を確かめる期間を設ける。
「関羽叔父上は、認めないでしょう」
馬良が地図を見ながら言った。
「降伏した者を守るのも、将の責任だと考えておられます」
「守る方法は、連れていくことだけではありません」
食料を与える。
洪水の少ない道を教える。
魏軍へ、降伏者へ報復しないよう使者を出す。
交換可能な将校だけを連れる。
于禁は重要人物である。
魏との交渉材料にもなる。
だが、一般兵まで全員同行させる必要はない。
俺は関羽へ書状を送った。
《叔父上へ》
《捕虜の希望を聞いてください》
《全員を連れて帰ることが、全員を守ることではありません》
《叔父上と共に進めば、戦へ巻き込まれます》
《帰りたい者には、食料と記録を与えてください》
返事を待つ時間はない。
同時に救出計画を動かした。
趙雲。
精鋭騎兵を率い、西側の山道から関羽軍へ接近。
道の崩落を確認し、通行可能な経路を確保する。
ただし、関羽の軍へ到達しても、戦闘を拡大しない。
目的は救出。
徐晃軍との決戦ではない。
士仁。
公安を守りながら、負傷兵と民間人の受け入れ準備。
城を最後まで守ることではなく、一定時間、退路を維持する。
守備不能になれば、事前に定めた橋を壊し、撤退する。
糜芳。
南郡の倉庫と商人船を使い、食料と船を集める。
既に兵站責任者を辞める予定だった。
それでも、自分が残した輸送網の最後の仕事を引き受けた。
馬良。
呂蒙との交渉。
関羽軍を追撃しない代わりに、荊州南部の城を無傷で引き渡す案を提示する。
潘濬。
民衆の避難と行政記録の移送。
税台帳、土地台帳、裁判記録。
全てを燃やして逃げれば、後に民が自分の土地や家族関係を証明できなくなる。
敵に渡したくない情報は別にする。
だが、民の生活に必要な記録は残す。
俺。
江陵の後方指揮所で、全ての報告をつなぐ。
地図の上に色の異なる木札を置いた。
赤。
敵軍。
青。
関羽軍。
白。
避難民。
黒。
通行不能。
緑。
食料と船。
三刻ごとに更新する。
「殿下」
馬良が心配そうに俺を見た。
「お休みになってください」
「まだ始まったばかりです」
「孔明殿へ、いつも同じことをおっしゃっています」
自分へ返ってきた。
「ですが、今は緊急です」
「孔明殿も、毎回そうおっしゃいます」
反論できない。
「二刻眠ります」
「三刻です」
「二刻半」
「殿下」
「分かりました」
会議の途中で寝るなど考えられない。
だが、俺が倒れれば情報をつなぐ者が減る。
休養は、余裕のある人間だけが取るものではない。
危機だからこそ必要なのだ。
眠る前。
関羽から返書が届いた。
《殿下へ》
《捕虜へ希望を聞いた》
《魏へ帰る者、故郷へ帰る者、荊州へ残る者に分ける》
《帰る者には五日分の食料を与える》
《負傷者は、可能な限り同行させる》
《于禁は連れて帰る》
関羽が、自分の判断を変えた。
関羽軍同行人数
捕虜
一万二千
↓
二千四百
移動速度
上昇
食料消費
大幅低下
生還予測
51% → 59%
八ポイント上がった。
まだ十分ではない。
だが、一人の英雄が全てを背負うのではなくなった。
捕虜は、自分の道を選んだ。
趙雲は退路を探す。
糜芳は船を集める。
士仁は城を守る。
馬良は敵と話す。
潘濬は民の記録を残す。
俺は情報をつなぐ。
退路とは、地図の上に最初から存在する道ではない。
人と人が役割を果たし。
約束を守り。
少しずつ作るものだった。
俺が目を覚ましたとき。
赤い木札が一つ、南郡へ近づいていた。
呂蒙軍。
その横には、糜芳からの緊急報告が置かれている。
《呉より、降伏すれば南郡太守の地位を保証すると提案された》
《回答を求められている》
歴史と同じ誘惑だった。
糜芳が何と答えるか。
関羽の退路は、その答えにかかっていた。




