第59話 魯粛の最後の国境会議
——建安二十二年の秋である。
二年前。
俺は、まだ十歳だった。
そして、あの人は、まだ生きていた。
◆
魯粛は、以前より痩せていた。
大柄な身体は変わらない。
しかし頬が落ち、歩くときには部下の肩を借りている。
それでも俺たちを迎えるため、立ち上がろうとした。
「そのままでいてください」
俺が言うと、魯粛は苦笑した。
「若君は、以前より命令が増えましたな」
「従わない人が多いからです」
俺は関羽と諸葛亮を思い浮かべた。
龐統と法正も。
張飛も。
従わない人しかいない。
会談の場所は、荊州と呉の境界近くにある小さな館だった。
武装兵は外へ置く。
室内に入ったのは、関羽、俺、馬良、趙雲。
呉側は魯粛と、数人の側近だけだった。
魯粛の能力画面を開く。
【魯粛 字・子敬】
外交 100
同盟構築 100
長期戦略 98
利害調整 97
身体疲労 100
発熱 高
呼吸状態 悪化
休養意思 71
生命危険度
赤
治療による回復可能性
低
休養意思は上がっている。
以前は、ほとんど休む気がなかった。
だが、気付くのが遅かった。
医師を付けた。
仕事を減らした。
食事も変えた。
それでも病は進んだ。
全ての死を、組織改革で止められるわけではない。
「子敬」
関羽が呼んだ。
「雲長殿」
二人は、しばらく互いの顔を見た。
戦場で向かい合う敵のようでもある。
長年の友人のようでもある。
「随分と弱ったな」
関羽が言った。
馬良が止める間もなかった。
魯粛は笑った。
「雲長殿は、相変わらず言葉を飾りませんな」
「嘘を言う必要はない」
「心配している、と申せばよいでしょう」
「しておる」
関羽は即答した。
魯粛の笑みが止まった。
「それは、ありがたい」
二人の間に、言葉のない時間が流れた。
魯粛は卓上へ竹簡を置いた。
「本日は、新しい領土交渉ではありません」
「では何だ」
「私がいなくなった後の話です」
関羽の顔が険しくなる。
「死ぬ前提で話すな」
「死ぬ者へ、その言葉を言っても意味がありません」
「医師は何と言っている」
「休め、と」
「ならば休め」
「雲長殿に言われるとは思いませんでした」
確かに。
関羽の平均睡眠も短い。
魯粛は竹簡を開いた。
湘水協定。
国境会合。
商船登録。
住民保護。
兵士の越境。
烽火台の誤作動時の連絡。
これまで口頭や個別書状で運用していた内容を、一つの規定へまとめてある。
「私がいなくなっても、会合を続けてください」
魯粛が言う。
「次の担当者は?」
馬良が尋ねる。
魯粛は少し迷った。
「呂蒙」
関羽の眉が動く。
「呂子明か」
「はい」
「武に優れる男と聞く」
「今は、学問と戦略にも通じております」
俺は呂蒙の名を知っている。
白衣渡江。
関羽が樊城へ北上している間に、商人へ化けた兵を送り、荊州の烽火台を制圧した男。
関羽を死へ追い込む中心人物である。
「信用できるのですか」
俺が尋ねる。
魯粛は俺を見る。
「孫権様への忠誠は、疑う必要がありません」
「蜀との同盟は」
「必要と考えている間は守ります」
魯粛と同じ答え。
ただし、必要性の判断が違うのだろう。
「呂蒙は、荊州を呉の安全へ対する脅威と見ています」
魯粛は率直に言った。
「私も同じです」
関羽が腕を組む。
「ならば、何が違う」
「私は、脅威を同盟によって管理しようとした」
「呂蒙は?」
「機会があれば、取り除こうとするでしょう」
室内の空気が冷たくなる。
「なぜ、その男を後任にする」
関羽の声が低い。
「能力があるからです」
魯粛は答えた。
「そして私に、後任を選ぶ権限はありません」
孫権が決める。
魯粛は推薦や助言ができるだけだ。
「だから、仕組みを残すのです」
魯粛は竹簡を指す。
「呂蒙が関係を壊そうとしたとき、簡単には壊せないように」
共同会合。
複数の担当者。
商船の相互登録。
国境での事件を即座に報告する経路。
関羽と魯粛だけの個人的関係ではなく、制度へする。
「雲長殿」
魯粛は関羽を見る。
「あなたも、同じです」
「何がだ」
「荊州を、あなた一人の武名で守ってはならない」
関羽の目が鋭くなる。
「私が守れぬと?」
「守れます」
魯粛は静かに言った。
「だから、皆があなたへ任せすぎる」
俺と同じことを言った。
「あなたは強い」
「その強さが、周囲を弱くすることがあります」
関羽は黙った。
怒っているようにも見えた。
だが反論しなかった。
魯粛は咳き込んだ。
布に血が付く。
俺は立ち上がった。
「もう休んでください」
「若君」
「会議は終わりです」
「もう一つだけ」
この言葉を言う人は、絶対に一つで終わらない。
しかし魯粛の残された時間は、本当に短い。
俺は座り直した。
魯粛は俺へ向き直った。
「若君は、以前、私へ死ぬなと命じられました」
「今も同じです」
「申し訳ありません」
魯粛は穏やかに笑った。
「その命令には、従えそうにありません」
胸が苦しくなった。
「まだ分かりません」
「自分の身体です」
魯粛は自分の手を見る。
「私にも分かることがあります」
「子敬殿がいなくなれば、同盟が危険になります」
「はい」
「だから」
「だからこそ、私がいなくても続くものを作りました」
魯粛は竹簡を俺へ渡した。
「人が死ぬことを、失敗だと思わないでください」
「ですが」
「誰も死なない国は作れません」
俺が一歳の頃に語った言葉を覚えている。
「無駄に死なない国でしたな」
「はい」
「ならば、私の死を無駄にしないでください」
張松と同じだ。
死者は、残された俺へ仕事を託す。
俺は救えなかったという後悔を抱える。
その後悔を使って、制度を作る。
「若君」
魯粛が手を差し出した。
痩せた手だった。
俺は握った。
「呂蒙を、最初から敵と決めないでください」
「ですが、荊州を狙っています」
「呉の将なら、当然です」
「関羽叔父上を殺すかもしれません」
俺の言葉に、関羽が俺を見た。
言いすぎた。
だが魯粛は驚かなかった。
「ならば、殺す必要がない状態を作ってください」
戦えば得をする。
奇襲すれば成功する。
関羽が孤立する。
だから呂蒙は動く。
動かない方が得になる仕組みを作ればよい。
「呂蒙は、話の分からぬ男ではありません」
魯粛が言う。
「ただし、好機を見逃す男でもない」
注意と信頼の両方を求めている。
「分かりました」
俺は答えた。
「話します」
魯粛は満足そうに目を閉じた。
会談は終わった。
別れ際。
関羽が魯粛の前へ立った。
「子敬」
「はい」
「次の会合にも来い」
魯粛は笑った。
「努力します」
「努力では足りぬ」
「若君と同じことを申されますな」
「命令だ」
魯粛は長い間、関羽を見た。
「承知しました」
従えないと分かっている命令。
それでも、そう答えた。
魯粛は、その夜に容体を崩した。
翌朝。
呉から使者が来た。
魯粛は死んだ。
【魯粛 字・子敬】
生命状態
死亡
関係
協力者
↓
故人・遺志継承対象
遺産
・湘水協定
・国境定期会合
・相互通商規定
・後継者情報
・呉蜀同盟という選択肢
俺は、いいえを選ぶ必要もなかった。
システムは魯粛を消さなかった。
張松のときに、俺が選んだからかもしれない。
人材台帳には、死者も残る。
関羽は、魯粛の死を聞いても何も言わなかった。
ただ、会談のときに使った水の杯を、長く見つめていた。
しばらくして、馬良へ言った。
「次の国境会合は、予定どおり行う」
「子敬殿はおられません」
「分かっている」
関羽の声は静かだった。
「だから行う」
関羽
外交意識 38 → 45
制度継承理解 17 → 39
孤立危険度
36% → 33%
魯粛の死が、関羽を少し変えた。
しかし、同時に危険も増えた。
呉側責任者変更
魯粛
↓
呂蒙
荊州攻略構想
潜在 → 検討中
関羽孤立危険度
33% → 41%
魯粛が残した橋の向こうから。
関羽を倒す男が、歩いてこようとしていた。
◆
——二年が、過ぎた。
魯粛は、その年の冬に死んだ。
四十六である。
報せは、一行で来た。
《呉の魯子敬、卒す》
……
俺は、あの人の没年を知らなかった。
十年前、木簡に書こうとして、書く場所がなかった。
そして、《子敬どの いつか》とだけ書いた。
——「いつか」が、来た。
そして、俺は何もしていない。
……
——十年前、公安の庭で、あの人は言った。
「私は、呉におらねば価値がないのです」
そして、俺は書いた。
《採ってはいけない人材》
一行目に、魯粛。
……
——採らなかったのは、正しかった。
そして、正しかったことと、同盟が残ることは、別だった。
◆
俺は、竹簡を巻いた。
そして、馬良を呼んだ。
「季常」
「殿下」
「これを、写してください」
「……子敬どののものでございますか」
「はい」
「何部でございましょう」
俺は、答えた。
「五部です」
馬良が、顔を上げた。
「五部?」
「成都に一部。荊州に一部。関羽叔父上に一部」
「はい」
「糜芳どのに一部」
「……」
「そして、士仁どのに一部」
——
馬良は、しばらく黙っていた。
そして、聞いた。
「殿下」
「はい」
「なぜ、その二人に」
——
俺は、答えた。
「あの人が、そう書いていたからです」
竹簡には、こうあった。
《関羽と魯粛だけの個人的関係ではなく、制度へする》
……
——制度というのは、そういうことだ。
一人が持っていると、その人が死んだ日に消える。
五人が持っていると、消えない。
……
——そして、二年前、俺はこれを一部しか持っていなかった。




