第56話 私が、荊州へ行きます
羽扇が、床に落ちた。
十二年で、初めてである。
——この人が、物を落とすのを、俺は見たことがなかった。
◆
「殿下」
諸葛亮は、羽扇を拾わなかった。
拾えなかったのだろう。
「もう一度、仰せいただけますか」
「荊州へ、行きます」
「……」
「私が、行きます」
——
長い沈黙があった。
灯火の芯が、二度、鳴った。
◆
やがて、諸葛亮は言った。
「なりませぬ」
——
即答だった。
そして、これは二度目である。
去年、俺が「荊州へ人を出したい」と言ったときも、この人は「なりませぬ」と言った。
……
——そして、俺は押し切った。
馬良と陳紀を送った。
そして、関羽の信頼を、七十一から三十四へ落とした。
◆
「せんせい」
「はい」
「去年、私は間違えました」
「……」
「内部で分かることを、外へ聞きに行きました」
「はい」
「そして、叔父上に疑われました」
——
「今度は、違います」
「何が、違いますので」
——
俺は、答えた。
「人ではなく、私が行きます」
◆
「殿下」
諸葛亮は、床の羽扇を見たまま言った。
「それは、同じでございます」
「違います」
「なぜ」
俺は、言った。
「人を送るのは、監査です」
「はい」
「自分で行くのは、訪問です」
——
「……」
「そして、叔父上は、来た人を追い返しません」
——
羽扇が、まだ床にあった。
◆
諸葛亮は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「主公との、お約束は」
——
来た。
「戦場へ出ない、と仰せになりました」
「覚えています」
「八年前でございます」
「四つでした」
「はい」
「声に出して、二度言いました」
——
この人は、その場にいなかった。
それなのに、知っている。
……
——趙雲が、報告したのだろう。
あの人は、全部、書く。
◆
「せんせい」
「はい」
「荊州は、戦場ですか」
——
諸葛亮の顔が、初めて、はっきり歪んだ。
「殿下」
「はい」
「そのような詭弁は、殿下らしくございませぬ」
——
俺は、そこで、頭を下げた。
「すみません」
「……」
「詭弁でした」
——
そして、顔を上げた。
「それでも、行きます」
◆
——議論は、三日続いた。
◆
龐統は、賛成した。
——即座に、である。
「行かれるべきです」
「士元どの」
諸葛亮が、珍しく声を上げた。
「危険でございます」
「危険です」
龐統は、頷いた。
「そして、行かねば、雲長どのが死にます」
——
広間が、静かになった。
◆
「なぜ、そう思われます」
諸葛亮が問う。
龐統は、地図を広げた。
そして、三箇所を指した。
「一つ。樊城を包囲すれば、荊州の兵は北へ寄ります」
「はい」
「二つ。南郡と公安が、薄くなります」
「はい」
「三つ。呉は、それを見ています」
——
「呂蒙は、魯粛とは違います」
——
その名前で、俺は顔を上げた。
……
魯粛。
——二年前、この人は死んだ。
四十六だった。
報せは、一行で来た。
《呉の魯子敬、卒す》
……
——俺は、あの人の没年を、知らなかった。
八年前、木簡に書こうとして、書く場所がなかった。
そして、《子敬どの いつか》とだけ書いた。
……
——「いつか」が、来た。
そして、俺は何もしていない。
◆
「魯粛どのは、同盟を守る人でございました」
龐統は、続けた。
「はい」
「そして、呉で一人でございました」
「はい」
「その一人が、二年前に死にました」
——
「今、呉で同盟を守れと申す者は、おりませぬ」
——
俺は、そこで、あの日のことを思い出した。
十年前、公安の庭である。
あの人は、湯を飲みながら、こう言った。
> 「私が蜀へ参れば、その日に同盟は終わります」
> 「江東で、劉皇叔と手を組むべしと申しておるのは、私一人でございます」
> 「私は、呉におらねば価値がないのです」
——
そして、俺は書いた。
> 《採ってはいけない人材》
> 一行目に、魯粛。
……
——採らなかった。
そして、あの人は死んだ。
……
——採らなかったことは、正しかった。
そして、正しかったことと、同盟が残ることは、別だった。
◆
法正は、漢中から書状で答えてきた。
——一行である。
> 《行かせなさい》
——
そして、その下に。
> 《ただし、私も帰ります》
——
この人は、病んでいる。
去年から、咳が止まらない。
そして、それでも帰ると書いてきた。
◆
劉巴は、こう言った。
「銭は、出ます」
「え」
「殿下が荊州へ行かれる費えは、出ます」
「……」
「それだけでございます」
——
この人は、賛否を言わない。
数だけを言う。
そして、その数が「出る」と言った時点で、賛成である。
◆
そして、四日目。
父から、書状が来た。
——漢中から、である。
十日かかるはずが、六日で来た。
馬を、代えたのだろう。
◆
俺は、封を切った。
手が、震えていた。
——反対だと思った。
当然である。
「戦場へ出るな」と言った人だ。
……
そして、書状は、短かった。
> 《阿斗へ》
——
「殿下」ではなかった。
「王太子」でもなかった。
……
——阿斗、である。
> 《行け》
——
俺は、その二文字を、三度読んだ。
> 《ただし、三つ守れ》
> 《一つ。子龍を連れよ》
> 《二つ。戦場へは出るな》
> 《三つ。毎月、私へ書け》
——
そして、最後に、一行あった。
> 《雲長を、頼む》
◆
俺は、その一行の前で、しばらく動けなかった。
——頼む。
……
十二年、この人が俺に「頼む」と言ったのは、三度目である。
一度目は、八年前。
益州へ発つ日に、「留守を、頼む」と言った。
そして、俺は「よっつだよ」と答えた。
二度目は、その直後。
趙雲に「阿斗を、頼む」と言った。
……
——そして、三度目が、今日である。
「雲長を、頼む」
……
——弟を、息子に頼んでいる。
十二の息子に。
◆
諸葛亮は、その書状を読んだ。
そして、長く黙っていた。
やがて、床の羽扇を拾った。
四日ぶりである。
——四日間、この人はそれを拾わなかった。
「……殿下」
「はい」
「条件を、加えます」
「はい」
「馬良を、同行させます」
「はい」
「そして——」
——
諸葛亮は、俺を見た。
「毎月の報告は、私へも送ってください」
「……」
「主公へだけでは、足りませぬ」
——
「なぜですか」
——
この人は、答えた。
「主公は、悪い報せを読むと、動かれます」
「はい」
「私は、読んでも動きませぬ」
「……」
「代わりに、数えます」
——
俺は、そこで、頷いた。
……
——去年から、この人は変わり始めている。
黄夫人が来てからだ。
あの人は、二十年、数えていた。
そして、この人は、それを知った。
◆
出発は、十日後と決まった。
◆
その前の夜、俺は黄夫人のところへ行った。
——庭にいた。
粟が、刈り取られた後だった。
「夫人」
「殿下」
「荊州へ、行きます」
「聞きました」
「……」
「いつ、お戻りに」
——
俺は、答えられなかった。
……
分からない。
関羽が助かれば、戻る。
助からなければ——
……
分からない。
「分かりません」
——
黄夫人は、頷いた。
そして、こう言った。
「では、数えておきます」
——
「え」
「殿下が、留守にされた日数を」
——
俺は、そこで、言葉が出なくなった。
◆
「夫人」
「はい」
「なぜ、数えるのですか」
——
黄夫人は、答えた。
「帰ってこられたとき、お伝えするためでございます」
「……」
「『これだけ、いなかった』と」
——
「それは、何のために」
——
この人は、少し笑った。
そして、こう言った。
「いない間のことを、誰かが覚えていると、人は帰ってきます」
——
「……」
「二十年、そう思っておりました」
——
俺は、そこで、この人が二十年やってきたことの意味を、初めて、正確に理解した。
……
——あの竹簡は、記録ではない。
帰ってこいという、二十年分の合図だった。
◆
出発の朝。
趙雲が、門にいた。
——漢中から、戻ってきていた。
父が、そう命じたのだろう。
「殿下」
「しりゅう」
——
「叔父上」と呼ぼうとして、口が滑った。
十二年、この人を「しりゅう」と呼んできた。
一歳のときからだ。
趙雲は、少し笑った。
「そのままで、結構でございます」
「……はい」
「私も、若君とお呼びしてよろしいか」
——
俺は、頷いた。
……
——王太子である。
「殿下」と呼ばれるのが正しい。
そして、この人にだけは、そう呼ばれたくなかった。
◆
「若君」
「はい」
「八年前の約束を、覚えておられますか」
「戦場へ出ない、です」
「はい」
「そして、破ったら、縛れと」
「……はい」
——
趙雲は、頭を下げた。
「縄を、持って参りました」
——
俺は、その言葉に、思わず笑った。
十二年で、いちばん、この人らしい冗談だった。
……
——冗談ではなかった。
本当に、持っていた。
◆
出発の前に、俺は木簡を確認した。
——十二年分である。
《名のない者》——八十人と、犍為郡の二千四百戸。
《殴られた者》——四十八人。
《正しく呼ばれていない者》——二人。
《救えなかった者》——甘夫人、孫夫人、張松。
——そして、魯粛。
去年、書き足した。
《ふるい功》——簡雍。
《四方将軍に、入らなかった人》——趙雲。
《かぞえていた人》——黄氏。
……
そして、死亡年表。
二〇九——母。丸。
二一二——張松。丸。
二一四——龐統。四角。
二一七——魯粛。丸。
二一九——関羽。丸。
二二〇——法正。丸。
二二一。二二二——馬超。四角。
二二三——劉備。丸。
二二八——孟達。四角。
二二九。
二三四——諸葛亮。縦線。
——
丸が、五つ。
四角が、三つ。
縦線が、一つ。
……
——五つのうち、二つは、もう起きた。
そして、三つ目が、今年である。
◆
俺は、その木簡を、全部、箱に入れた。
そして、荷に積んだ。
——十二年分である。
重かった。
馬良が、それを見て言った。
「殿下。それは」
「簿です」
「お持ちになるので」
「はい」
「十二年分でございますか」
「はい」
——
馬良は、しばらくそれを見ていた。
そして、こう言った。
「荊州には、書く者がおりませぬ」
「はい」
「潘濬どのが、お一人で書いておられます」
「はい」
「そして、読む者がおりませぬ」
——
俺は、答えた。
「だから、行きます」
◆
成都を出たのは、建安二十四年の十月である。
——阿斗、十二歳。
趙雲。馬良。
そして、兵、五百。
……
荊州まで、三十日。
三峡を、上る。
——五年前、俺は逆向きにここを通った。
あのとき、俺は七つで、船の縁から動けなかった。
両側が壁で、空が細かった。
そして、こう思った。
> ——関羽が守っているのは、領土ではない。この線の、片方の端である。
……
——今度は、その端へ、俺が行く。
◆
船の上で、俺は趙雲に聞いた。
「しりゅう」
「はい」
「間に合いますか」
——
この人は、いつも正直に答える。
そして、今日も、そうだった。
「分かりませぬ」
「……」
「ですが」
——
趙雲は、川の先を見ていた。
「十二年前、長坂坡で、若君は私に命じられました」
「……はい」
「一音でございました」
「はい」
「あのとき、私は間に合いました」
——
「間に合ったのは、私が速かったからではございませぬ」
「……」
——
「若君が、待っておられたからでございます」
(第57話「関羽は、救出されたくない」へつづく)




