第51話 民はKPIではない
犍為郡が、表彰された。
輸送の達成が、益州で最も高かったからである。
——そして、その郡から、最も多くの民が逃げていた。
◆
建安二十三年の夏。
漢中の戦は、二年目である。
山で、止まっている。
そして、糧だけが減っていく。
諸葛亮は、輸送に課目を設けた。
——目標である。
郡ごとに、月に運ぶべき斛数を決めた。
そして、達成の度合いを記録し、考課に反映させることにした。
——
極めて、正しい。
前世で言えば、部門別の目標管理である。
目標がなければ、誰も急がない。
測らなければ、誰も改善しない。
——教科書に、そう書いてある。
◆
そして、効いた。
恐ろしく、効いた。
```
【益州 輸送実績】
課目設定前(二一七年) 月平均 一万二千斛
課目設定後(二一八年) 月平均 一万九千斛
改善率 五十八%
```
——五十八パーセント。
半年で、である。
劉巴が、珍しく感心していた。
「課目というのは、効きますな」
「はい」
「人は、数えられると、動きます」
——
その通りである。
そして、俺は、その言葉を七年前から言い続けてきた。
◆
七月、表彰が行われた。
犍為郡が、首位だった。
達成率、百三十一パーセント。
——目標の、三割増しである。
太守が、成都へ呼ばれた。
劉備は漢中にいるので、諸葛亮が代わりに褒めた。
「よくやった」
「はっ」
「何が、よかったのだ」
太守は、胸を張って答えた。
「郡の者が、皆、進んで出ましてございます」
「うむ」
「男も、女も、老いも、若きも」
——
俺は、その言葉を、隅で聞いていた。
そして、何かが引っかかった。
◆
その夜、俺は文書庫へ行った。
十一である。
もう、一人で歩ける。
転ばずに、走れる。
そして、竹簡を一日五十本、読める。
俺は、二つの帳を出した。
一つは、輸送の帳。
——諸葛亮が作ったものである。
郡ごと、月ごとの達成率が書いてある。
もう一つは、戸籍の帳。
——龐統が九年前に作り、陳紀が守っているものだ。
郡ごと、年ごとの戸数が書いてある。
——
この二つを、並べて見た人は、たぶん、いない。
担当が、違うからである。
◆
俺は、犍為郡の行を、指でなぞった。
```
【犍為郡】
輸送達成率
二一七年 88%
二一八年 131%
戸数
二一七年 二万四千一百
二一八年 二万一千七百
```
——
戸数が、減っている。
二千四百戸。
一割である。
◆
俺は、次の郡を見た。
巴西郡。
達成率、九十四パーセント。
戸数、減少八百戸。
——広漢郡。
達成率、百六パーセント。
戸数、減少千五百戸。
——蜀郡。
達成率、七十二パーセント。
戸数、増加二百戸。
——
俺は、そこで、手が止まった。
◆
——並べた。
十二の郡、全部。
そして、線を引いた。
達成率が高い郡ほど、戸数が減っている。
——例外は、二つだけだった。
```
【相関を検出しました】
輸送達成率 × 戸数変動
相関 強い負の関係
備考
達成率が十%上がるごとに、
戸数がおよそ四百減少しています
```
——四百戸。
一戸を五人として、二千人。
——
達成率十パーセントごとに、二千人が消える。
◆
俺は、その竹簡を持って、走った。
そして、諸葛亮の部屋の前で、止まった。
……
——待て。
「消える」というのは、何だ。
死んだのか。
逃げたのか。
それとも——数え間違いか。
……
——確かめていない。
三か月前、俺は同じ失敗をした。
数字の齟齬を見つけて、荊州へ人を送った。
そして、成都の帳を読めば分かることだった。
——
俺は、文書庫へ戻った。
そして、犍為郡から来た報告を、二年分、全部読んだ。
四十七本あった。
明け方までかかった。
◆
——見つけた。
去年の秋の報告に、一行だけ書いてあった。
> 《当郡、耕地の三割、荒るる》
——
そして、その隣に、注記があった。
陳紀の字である。
——命令照合役が、書いたものだ。
> 《輸送の課目と、突き合わせるべきか》
——
そして、その下に、返事が書いてあった。
別の字である。
> 《担当外につき、要せず》
◆
俺は、その七文字を、長いこと見ていた。
——担当外につき、要せず。
……
——陳紀は、気付いていた。
去年の秋に、である。
そして、聞いた。
そして、断られた。
——
誰が断ったのかは、書いていない。
字が、俺の知らないものだった。
そして、たぶん、それを調べても意味がない。
——その人も、正しいからだ。
輸送は輸送の担当。戸籍は戸籍の担当。
三年前に、俺たちが職掌を分けた。
——分けたのは、二重命令を防ぐためだった。
そして、分けた線が、こんどは情報を止めた。
◆
俺は、朝になってから、陳紀を探した。
この人は、文書庫の奥にいた。
いつも、そこにいる。
「陳紀どの」
「若君? 徹夜でございますか」
「これを、書きましたか」
俺は、竹簡を見せた。
陳紀は、それを見た。
そして、顔色を変えた。
「……はい」
「去年の秋ですね」
「はい」
「そして、断られました」
「……はい」
——
「なぜ、もう一度、言わなかったのですか」
——
陳紀は、答えなかった。
そして、しばらくして、言った。
「……私は、記録の役でございます」
「はい」
「気付いたことを、書きました」
「はい」
「そして、要らぬと言われました」
「はい」
「それ以上は、越権でございます」
——
俺は、そこで、何も言えなくなった。
——正しい。
この人は、【前例どおり】である。
改革意思、十二。
気付いて、書いて、断られたら、そこで止まる。
——それが、この人の性質だ。
そして、三年前、俺はこの人を守った。
「命令が三つ来て、選ばせて、罰するのはおかしい」と言って。
……
——
あのとき、俺はこの人に「動け」とは教えなかった。
「守ってやる」と言っただけだ。
◆
俺は、諸葛亮のところへ行った。
朝の評定の前である。
この人は、既に働いていた。
「先生」
「はい、若君。——目が、赤うございますな」
「寝ていません」
「……」
「先生には、言われたくないと思います」
——諸葛亮は、少し笑った。
「ごもっともでございます」
◆
俺は、竹簡を二本、並べた。
「輸送の帳と、戸籍の帳です」
「はい」
「並べて、見てください」
——
諸葛亮は、それを見た。
そして——
羽扇が、止まった。
長い、長い沈黙があった。
この人は、二本の竹簡を、何度も見比べた。
そして、言った。
「……達成の高い郡ほど、戸が減っております」
「はい」
「十のうち、十でございますな」
「十二のうち、十です」
「……」
「例外が、二つあります」
「どこでございます」
「蜀郡と、江陽郡です」
——
「なぜ、そこだけ」
俺は、答えた。
「達成していないからです」
◆
——沈黙が、長かった。
やがて、諸葛亮は言った。
「若君」
「はい」
「なぜ、戸が減るのでございましょう」
——
俺は、答えを持っていた。
四十七本の報告を、明け方まで読んだからだ。
「三つ、あります」
◆
「一つ」
俺は、言った。
「種まきの時期に、人を出しています」
「……」
「課目は、月ごとです。三月も、四月も、同じ数を運ばせます」
「はい」
「三月と四月は、田に人が要ります」
「……」
「運べば、田が荒れます」
——
諸葛亮の顔から、表情が消えた。
◆
「二つ」
「はい」
「達成した郡が、褒められます」
「……はい」
「褒められた太守は、来年も達成しようとします」
「はい」
「そして、来年は、田が荒れているので、人手が余ります」
——
「余った人手を、また出します」
「……」
「そして、もっと荒れます」
——
「二年目のほうが、達成率が上がるのは、そのためです」
◆
「三つ」
俺は、最後の一つを言った。
——これが、いちばん重い。
「田が荒れると、翌年の税が払えません」
「はい」
「税が払えないと、罰せられます」
「はい」
「だから、逃げます」
——
「山へ入るか、豪族の下に入るか、他の郡へ移ります」
「……」
「そして、戸籍から消えます」
——
「死んだのではありません」
——
「数えられなくなっただけです」
◆
諸葛亮は、しばらく動かなかった。
そして、こう言った。
「……私が、作りました」
「はい」
「課目を、私が定めました」
「はい」
「そして、達成した郡を、私が褒めました」
「はい」
——
「若君」
「はい」
「この課目は、何のために作ったと、お思いですか」
——
俺は、答えた。
「糧を、漢中へ届けるためです」
「はい」
「そして、達成しました」
「はい」
——
諸葛亮は、言った。
「目的は、糧を届けることでございました」
「はい」
「そして、課目は、その手段でございました」
「はい」
——
「いつの間にか、課目のほうが、目的になっておりました」
——
「そして、目的が、目的を殺しました」
◆
俺は、そこで、自分の胸を押さえた。
——痛かった。
……
——七年前。
俺は、夏口で、糧の単位を統一させた。
「数えられなければ、管理できない」と思ったからだ。
そして、名簿を作らせた。
戦死者の名を書かせた。
輸送で死んだ人も、数えさせた。
——
数えることで、人を守ろうとしてきた。
九年、そうしてきた。
……
そして今日、数えることが、二千四百戸を消した。
◆
「先生」
「はい」
「わたしが、悪いです」
「……若君?」
「課目を作ったのは、せんせいです」
「はい」
「でも、『測れ』と言い続けたのは、わたしです」
——
「七年、言い続けました」
「……」
「そして、測ったものが、増えました」
「……」
「測っていないものは、増えませんでした」
——
「田が荒れることは、誰も測っていませんでした」
◆
——長い沈黙があった。
やがて、諸葛亮が言った。
「若君」
「はい」
「では、どういたしましょう」
——
この人が、俺に「どうしましょう」と聞いたのは、初めてだった。
——三十七である。
この人は、三十七で、答えを持っていない。
そして、俺は十一で、答えを持っていない。
◆
俺は、一晩考えて、翌朝、三つ持っていった。
——完璧ではない。
それでも、三つある。
◆
「一つ。課目を、月ごとにやめます」
「……」
「年ごとにします」
「はい」
「そうすれば、三月と四月に運ばなくて済みます」
「……なるほど」
——
「二つ。課目を、二つにします」
「二つ?」
「運んだ量と、」
俺は、言った。
「戸が減っていないこと」
——
諸葛亮の羽扇が、止まった。
「……両方を、測るのでございますか」
「はい」
「片方だけを測ると、片方が壊れます」
「……」
「だから、壊れるほうも、測ります」
——
諸葛亮は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「……それでも、三つ目が壊れましょう」
「はい」
「壊れます」
俺は、認めた。
「そのときは、三つ目も測ります」
「四つ目も、壊れます」
「測ります」
「終わりませぬな」
俺は、答えた。
「終わりません」
——
諸葛亮は、そこで、初めて笑った。
——疲れた笑い方だった。
「……若君」
「はい」
「それは、骨の折れる仕事でございますな」
「はい」
「そして、誰にも褒められませぬ」
「はい」
◆
「三つ目」
俺は、言った。
「表彰を、やめます」
——
諸葛亮が、顔を上げた。
「……表彰を?」
「はい」
「なぜでございます」
俺は、答えた。
「褒められた人は、来年も同じことをします」
「……」
「そして、褒められなかった人は、来年、無理をします」
——
「達成率を、順に並べるのを、やめます」
「……」
「並べると、下の人が、無理をします」
——
俺は、そこで、前世を思い出していた。
——営業の成績を、支店ごとに壁に貼った会社があった。
最下位の支店長は、翌年、架空の契約を作った。
——貼らなければ、そうならなかった。
……
そして、それを提案したのは、俺だった。
◆
```
【制度が改訂されました】
輸送課目
周期 月次 → 年次
指標 輸送量 → 輸送量+戸数維持
順位公表 廃止
【予測】
輸送量 一九、〇〇〇斛 → 一六、〇〇〇斛(低下)
戸数減少 年間 八千戸 → 三千戸(予測)
備考
輸送量は、下がります。
```
——下がる。
三千斛、下がる。
そして、漢中では、まだ戦っている。
◆
俺は、その数字を見て、しばらく動けなかった。
——三千斛。
兵の、何日分だろうか。
……
そして、五千戸である。
——二万五千人。
……
——どちらを取るか、という話ではない。
両方、必要である。
そして、両方は、取れない。
——
俺は、そこで、劉備のことを思い出した。
九年前、龐統が聞いた質問である。
> 「一万人を見捨てれば十万人を救えるとします。見捨てますか」
そして、父は答えた。
> 「分からぬ」
> 「だが——最初から一万人を数字として切り捨てられる人間には、なりたくない」
——
あのとき、俺は父を、非効率だと思った。
……
——今日、俺は自分で決めなければならない。
そして、父は漢中にいて、聞けない。
◆
俺は、決めた。
——戸数を、取った。
理由は、一つだけである。
——糧は、来年も作れる。
逃げた民は、来年、戻らない。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
そして、書いた。
《測ると、測ったものが増える》
《測らないものは、壊れる》
——
そして、その下に。
《だから、壊れるほうも測る》
《それでも、三つ目が壊れる》
——
俺は、そこで筆を止めた。
……
——終わらない。
永遠に、終わらない。
測るたびに、測っていないところが壊れる。
……
——それは、負けなのだろうか。
……
いや。
俺は、もう一行、書いた。
《だから、毎年、確かめる》
——
そして、その下に。
《それが、仕事だ》
◆
最後に、俺は《名のない者》の簿を開いた。
七十七人。
——そして、犍為郡から消えた、二千四百戸。
一万二千人である。
……
書けない。
名前が、分からない。
——一人も、分からない。
俺は、その簿を、長いこと見ていた。
そして、七十八人目に、こう書いた。
《犍為郡 二千四百戸》
《名前は、分からない》
——
九年で、初めて、名前のない行を書いた。
次回 第52話「父と子の人事論」




