第51話 民はKPIではない
【建安二十三年|成都】
犍為郡が、表彰された。
輸送の達成が、益州で最も高かったからである。
そして、その郡から、最も多くの民が逃げていた。
◆
建安二十三年の夏。漢中の戦は、二年目である。山で、止まっている。そして、糧だけが減っていく。
諸葛亮は、輸送に課目を設けた。目標である。
郡ごとに、月に運ぶべき斛数を決めた。そして、達成の度合いを記録し、考課に反映させることにした。
極めて、正しい。
前世で言えば、部門別の目標管理である。目標がなければ、誰も急がない。測らなければ、誰も改善しない。教科書に、そう書いてある。
そして、俺が七年言い続けてきたことでもある。
そして、効いた。恐ろしく、効いた。
【益州 輸送実績】
課目設定前(二一七年) 月平均 一万二千斛
課目設定後(二一八年) 月平均 一万九千斛
改善率 五十八%
五十八パーセント。半年で、である。
劉巴が、珍しく感心していた。
「課目というのは、効きますな」
「はい」
「人は、数えられると、動きます」
その通りである。
俺は、そこで、一つ聞いた。
「子初どの」
「はい」
「数えられると、どう動きますか」
劉巴は、少し考えた。そして、答えた。
「……数えられているものを、増やします」
「はい」
「それだけですか」
「——」
「数えられていないものは、減らします」
前世で、俺はこれを何度も作った。そして、何度も同じ目に遭った。
事故報告の件数を評価に入れた工場は、報告が減った。事故は、減っていない。納期遵守率を評価に入れた部署は、遵守率が上がった。無理な納期を、最初から断るようになったからである。
測ったものは、良くなる。ただし、良くなるのは、測った数字のほうだけだ。
そして、そのとき必ず、測っていないものが痩せていく。誰も悪気はない。人は、見られているところに手をかける。それだけである。
だから、この問いには続きがある。増やしたものと、減らしたもの。両方を聞かなければ、片方しか分からない。
俺は、それを前世で二十六社見て、一度も両方を聞かなかった。
俺は、そこで、動きを止めた。そして、聞いた。
「いま、数えていないものは、なんですか」
この人は、答えた。
「……多うございます」
「なんこ」
「——」
「数えておりませぬ」
◆
七月、表彰が行われた。犍為郡が、首位だった。達成率、百三十一パーセント。目標の、三割増しである。
太守が、成都へ呼ばれた。劉備は漢中にいるので、諸葛亮が代わりに褒めた。
「よくやった」
「はっ」
「何が、よかったのだ」
太守は、胸を張って答えた。
「郡の者が、皆、進んで出ましてございます」
「うむ」
「男も、女も、老いも、若きも」
俺は、その言葉を、隅で聞いていた。そして、何かが引っかかった。
引っかかったのは、「皆」である。
去年の秋、俺は市で女に声をかけた。三度目だ、と言った。一度が、五十日だと。
あのとき、あの人は「進んで」とは言わなかった。そして、この太守は「進んで」と言った。
同じことを、別の場所から見ている。
その夜、俺は文書庫へ行った。十一である。もう、一人で歩ける。転ばずに、走れる。そして、竹簡を一日五十本、読める。
俺は、二つの帳を出した。
一つは、輸送の帳。諸葛亮が作ったものである。郡ごと、月ごとの達成率が書いてある。
もう一つは、戸籍の帳。龐統が九年前に作り、陳紀が守っているものだ。郡ごと、年ごとの戸数が書いてある。
この二つを、並べて見た人は、たぶん、いない。担当が、違うからである。
俺は、犍為郡の行を、指でなぞった。
【犍為郡】
輸送達成率
二一七年 88%
二一八年 131%
戸数
二一七年 二万四千一百
二一八年 二万一千七百
戸数が、減っている。二千四百戸。一割である。
俺は、次の郡を見た。
巴西郡。達成率、九十四パーセント。戸数、減少八百戸。
広漢郡。達成率、百六パーセント。戸数、減少千五百戸。
蜀郡。達成率、七十二パーセント。戸数、増加二百戸。
俺は、そこで、手が止まった。
並べた。十二の郡、全部。そして、線を引いた。
達成率が高い郡ほど、戸数が減っている。
例外は、二つだけだった。
【相関を検出しました】
輸送達成率 × 戸数変動
相関 強い負の関係
備考
達成率が十%上がるごとに、
戸数がおよそ四百減少しています
四百戸。一戸を五人として、二千人。
達成率十パーセントごとに、二千人が消える。
俺は、その竹簡を持って、走った。そして、諸葛亮の部屋の前で、止まった。
待て。
「消える」というのは、何だ。死んだのか。逃げたのか。それとも、数え間違いか。
確かめていない。
三か月前、俺は同じ失敗をした。数字の齟齬を見つけて、荊州へ人を送った。そして、成都の帳を読めば分かることだった。
俺は、文書庫へ戻った。そして、犍為郡から来た報告を、二年分、全部読んだ。四十七本あった。明け方まで、かかった。
見つけた。
去年の秋の報告に、一行だけ書いてあった。
《当郡、耕地の三割、荒るる》
そして、その隣に、注記があった。陳紀の字である。命令照合役が、書いたものだ。
《輸送の課目と、突き合わせるべきか》
そして、その下に、返事が書いてあった。別の字である。
《担当外につき、要せず》
俺は、その七文字を、長いこと見ていた。
担当外につき、要せず。
陳紀は、気付いていた。去年の秋に、である。そして、聞いた。そして、断られた。
誰が断ったのかは、書いていない。字が、俺の知らないものだった。そして、たぶん、それを調べても意味がない。その人も、正しいからだ。
輸送は輸送の担当。戸籍は戸籍の担当。三年前に、俺たちが職掌を分けた。
分けたのは、二重命令を防ぐためだった。そして、分けた線が、こんどは情報を止めた。
◆
俺は、朝になってから、陳紀を探した。この人は、文書庫の奥にいた。いつも、そこにいる。
「陳紀どの」
「若君。徹夜でございますか」
「これを、書きましたか」
俺は、竹簡を見せた。陳紀は、それを見た。そして、顔色を変えた。
「……はい」
「去年の秋ですね」
「はい」
「そして、断られました」
「……はい」
「なぜ、もう一度、言わなかったのですか」
陳紀は、答えなかった。そして、しばらくして、言った。
「……私は、記録の役でございます」
「はい」
「気付いたことを、書きました」
「はい」
「そして、要らぬと言われました」
「はい」
「それ以上は、越権でございます」
俺は、そこで、何も言えなくなった。
正しい。この人は、【前例どおり】である。改革意思、十二。気付いて、書いて、断られたら、そこで止まる。それが、この人の性質だ。
そして、三年前、俺はこの人を守った。「命令が三つ来て、選ばせて、罰するのはおかしい」と言って。
あのとき、俺はこの人に「動け」とは教えなかった。「守ってやる」と言っただけだ。
俺は、そこで、一つ聞いた。
「陳紀どの」
「はい」
「ほかにも、ありますか」
「……は」
「かいて、いらないと言われたことが、ほかにも」
陳紀は、しばらく黙っていた。そして、答えた。
「……ございます」
「なんこ」
この人は、竹簡を出した。そして、こう言った。
「……十四でございます」
十四。三年で、十四である。
俺は、そこで、聞いた。
「かぞえていましたか」
陳紀は、答えた。
「数えておりませぬ」
「では、なぜ、すぐ出せますか」
この人は、こう言った。
「……全部、覚えておりますゆえ」
◆
俺は、諸葛亮のところへ行った。朝の評定の前である。この人は、既に働いていた。
「先生」
「はい、若君。——目が、赤うございますな」
「寝ていません」
「……」
「先生には、言われたくないと思います」
諸葛亮は、少し笑った。
「ごもっともでございます」
俺は、竹簡を二本、並べた。
「輸送の帳と、戸籍の帳です」
「はい」
「並べて、見てください」
諸葛亮は、それを見た。そして——羽扇が、止まった。
長い、長い沈黙があった。この人は、二本の竹簡を、何度も見比べた。そして、言った。
「……達成の高い郡ほど、戸が減っております」
「はい」
「十のうち、十でございますな」
「十二のうち、十です」
「……」
「例外が、二つあります」
「どこでございます」
「蜀郡と、江陽郡です」
「なぜ、そこだけ」
俺は、答えた。
「達成していないからです」
沈黙が、長かった。やがて、諸葛亮は言った。
「若君」
「はい」
「なぜ、戸が減るのでございましょう」
俺は、答えを持っていた。四十七本の報告を、明け方まで読んだからだ。
「三つ、あります」
「一つ」
俺は、言った。
「種まきの時期に、人を出しています」
「……」
「課目は、月ごとです。三月も、四月も、同じ数を運ばせます」
「はい」
「三月と四月は、田に人が要ります」
「……」
「運べば、田が荒れます」
諸葛亮の顔から、表情が消えた。
「二つ」
「はい」
「達成した郡が、褒められます」
「……はい」
「褒められた太守は、来年も達成しようとします」
「はい」
「そして、来年は、田が荒れているので、人手が余ります」
「余った人手を、また出します」
「……」
「そして、もっと荒れます」
「二年目のほうが、達成率が上がるのは、そのためです」
「三つ」
俺は、最後の一つを言った。これが、いちばん重い。
「田が荒れると、翌年の税が払えません」
「はい」
「税が払えないと、罰せられます」
「はい」
「だから、逃げます」
「山へ入るか、豪族の下に入るか、他の郡へ移ります」
「……」
「そして、戸籍から消えます」
「死んだのではありません」
「数えられなくなっただけです」
諸葛亮は、しばらく動かなかった。そして、こう言った。
「……私が、作りました」
「はい」
「課目を、私が定めました」
「はい」
「そして、達成した郡を、私が褒めました」
「はい」
「若君」
「はい」
「この課目は、何のために作ったと、お思いですか」
俺は、答えた。
「糧を、漢中へ届けるためです」
「はい」
「そして、達成しました」
「はい」
諸葛亮は、言った。
「目的は、糧を届けることでございました」
「はい」
「そして、課目は、その手段でございました」
「はい」
「いつの間にか、課目のほうが、目的になっておりました」
「そして、目的が、目的を殺しました」
俺は、そこで、自分の胸を押さえた。痛かった。
七年前。俺は、夏口で、糧の単位を統一させた。「数えられなければ、管理できない」と思ったからだ。そして、名簿を作らせた。戦死者の名を書かせた。輸送で死んだ人も、数えさせた。
数えることで、人を守ろうとしてきた。九年、そうしてきた。
そして今日、数えることが、二千四百戸を消した。
「先生」
「はい」
「わたしが、悪いです」
「……若君」
「課目を作ったのは、せんせいです」
「はい」
「でも、『測れ』と言い続けたのは、わたしです」
「七年、言い続けました」
「……」
「そして、測ったものが、増えました」
「……」
「測っていないものは、増えませんでした」
「田が荒れることは、誰も測っていませんでした」
長い沈黙があった。やがて、諸葛亮が言った。
「若君」
「はい」
「では、どういたしましょう」
この人が、俺に「どうしましょう」と聞いたのは、初めてだった。
三十七である。この人は、三十七で、答えを持っていない。そして、俺は十一で、答えを持っていない。
◆
俺は、一晩考えて、翌朝、三つ持っていった。完璧ではない。それでも、三つある。
「一つ。課目を、月ごとにやめます」
「……」
「年ごとにします」
「はい」
「そうすれば、三月と四月に運ばなくて済みます」
「……なるほど」
「二つ。課目を、二つにします」
「二つ」
「運んだ量と、」
俺は、言った。
「戸が減っていないこと」
諸葛亮の羽扇が、止まった。
「……両方を、測るのでございますか」
「はい」
「片方だけを測ると、片方が壊れます」
「……」
「だから、壊れるほうも、測ります」
諸葛亮は、しばらく黙っていた。そして、言った。
「……それでも、三つ目が壊れましょう」
「はい」
「壊れます」
俺は、認めた。
「そのときは、三つ目も測ります」
「四つ目も、壊れます」
「測ります」
「終わりませぬな」
俺は、答えた。
「終わりません」
諸葛亮は、そこで、初めて笑った。疲れた笑い方だった。
「……若君」
「はい」
「それは、骨の折れる仕事でございますな」
「はい」
「そして、誰にも褒められませぬ」
「はい」
「三つ目」
俺は、言った。
「表彰を、やめます」
諸葛亮が、顔を上げた。
「……表彰を」
「はい」
「なぜでございます」
俺は、答えた。
「褒められた人は、来年も同じことをします」
「……」
「そして、褒められなかった人は、来年、無理をします」
「達成率を、順に並べるのを、やめます」
「……」
「並べると、下の人が、無理をします」
俺は、そこで、前世を思い出していた。
営業の成績を、支店ごとに壁に貼った会社があった。最下位の支店長は、翌年、架空の契約を作った。
貼らなければ、そうならなかった。そして、それを提案したのは、俺だった。
俺は、そこで、一つ言った。
「先生」
「はい」
「順を並べるのを、提案したのは、わたしです」
「……」
「三年前です」
「はい」
「そのときは、良いことだと思っていました」
諸葛亮は、そこで、一つ聞いた。
「若君」
「はい」
「順を廃せば、下の郡は、どうなります」
俺は、少し考えた。そして、答えた。
「たぶん、運ばなくなります」
「はい」
「それでも、やめます」
「なぜでございましょう」
俺は、答えた。
「無理をするより、いいからです」
「……」
「運ばない郡は、後で叱れます」
「——」
「逃げた民は、後で戻せません」
【制度が改訂されました】
輸送課目
周期 月次 → 年次
指標 輸送量 → 輸送量+戸数維持
順位公表 廃止
【予測】
輸送量 一九、〇〇〇斛 → 一六、〇〇〇斛(低下)
戸数減少 年間 八千戸 → 三千戸(予測)
備考
輸送量は、下がります。
下がる。三千斛、下がる。そして、漢中では、まだ戦っている。
俺は、その数字を見て、しばらく動けなかった。
三千斛。兵の、何日分だろうか。
俺は、劉巴に聞いた。
「子初どの」
「はい」
「三千斛は、五万の兵で、何日ですか」
この人は、即答した。
「六日でございます」
六日。そして、五千戸である。二万五千人。
どちらを取るか、という話ではない。両方、必要である。そして、両方は、取れない。
俺は、そこで、劉備のことを思い出した。九年前、龐統が聞いた質問である。
《一万人を見捨てれば十万人を救えるとします。見捨てますか》
そして、父は答えた。
《分からぬ》
《だが——最初から一万人を数字として切り捨てられる人間には、なりたくない》
あのとき、俺は父を、非効率だと思った。
そして今日、俺は自分で決めなければならない。父は漢中にいて、聞けない。
俺は、決めた。戸数を、取った。
理由は、一つだけである。糧は、来年も作れる。逃げた民は、来年、戻らない。
◆
俺は、そこで、一つだけ書き残した。諸葛亮に、書かせた。
《建安二十三年七月。輸送課目を改む》
《輸送量、六日分の減を見込む》
《決めた者——劉禅》
俺は、その三行目を見て、一つ言った。
「先生」
「はい」
「なぜ、わたしの名を書きますか」
諸葛亮は、答えた。
「決めたのが、若君でございますゆえ」
「十一です」
「はい」
「——」
「そして、決めました」
俺は、そこで、頷いた。そして、こう言った。
「せんせいの名も、書いてください」
「なぜでございましょう」
俺は、答えた。
「六日分、足りなくなります」
「はい」
「——」
「そのとき、わたし一人のせいだと、みんなが思います」
「……」
「そうなると、次から、誰も決めません」
その夜、俺は木簡を出した。そして、書いた。
《測ると、測ったものが増える》
《測らないものは、壊れる》
そして、その下に。
《だから、壊れるほうも測る》
《それでも、三つ目が壊れる》
俺は、そこで筆を止めた。
終わらない。永遠に、終わらない。測るたびに、測っていないところが壊れる。
それは、負けなのだろうか。
いや。
俺は、もう一行、書いた。
《だから、毎年、確かめる》
そして、その下に。
《それが、仕事だ》
そして、俺は、もう一枚の木簡を出した。
《まだ、てのないもの》
五年前に作った簿である。一行目は、こうだ。
《かんうどのに、いう ひと》
俺は、二行目に書いた。
《いらないと、いわれたあとに、もういちど いう ひと》
そして、その下に。
《陳紀どの、十四》
十四である。三年で、十四。そして、この人は、全部覚えている。
最後に、俺は《名のない者》の簿を開いた。
七十八人。そして、犍為郡から消えた、二千四百戸。一万二千人である。
書けない。名前が、分からない。一人も、分からない。
俺は、その簿を、長いこと見ていた。そして、七十九人目に、こう書いた。
《犍為郡 二千四百戸》
《名前は、分からない》
九年で、初めて、名前のない行を書いた。
俺は、そこで、一つだけ足した。
《いつか、しらべる》
そして、その下に。
《たぶん、しらべられない》
そして、その下に。
《それでも、行を、あけておく》
四十五年後、俺は、この行のことを思い出す。
そして、そのとき、まだ埋まっていない。
〈あとがき〉
《劉禅文庫 蔵書その四十『マーケティング・マネジメント』——測ったものは、良くなる。良くなるのは、測った数字のほうだけである。そして、測っていないものが、静かに痩せる》
次回 第52話「父と子の人事論」




