第50話 関羽からの抗議状
荊州から、書状が来た。
七日に一度の、定例の報告ではない。
——別便であった。
◆
建安二十三年。
俺は、十一になった。
漢中の戦は、二年目に入っていた。
陽平関で止まっている。
山道が細く、軍が動かない。
そして、糧だけが、消えていく。
◆
事の起こりは、陳紀だった。
——三年前、三つの命令に挟まれて震えていた男である。
今は、命令照合役をしている。
【誤記発見 九十一】
この国の記録は、この人が守っている。
その陳紀が、俺のところへ来た。
顔色が、悪い。
「若君」
「陳紀どの」
「……お目通しいただきたいものが」
——
竹簡を、三本持っていた。
◆
「荊州からの、報告にございます」
「はい」
「七日ごとの、数でございます」
「はい」
陳紀は、竹簡を並べた。
「六月の分。七月の分。八月の分」
「はい」
「糧の残り日数が、書いてございます」
——
六月——八月分。
七月——七月分。
八月——七月分。
——
「……七月から、減っていません」
「はい」
「一月経って、減っていません」
「はい」
——
「食べていないのですか」
陳紀は、俯いた。
そして、言った。
「あるいは、補ったか」
◆
俺は、視界を確認した。
```
【荊州 兵糧】
報告値 七月分(二月連続)
推定実値 五月分
乖離 二月分
考えられる要因
・計量誤差
・報告時点のずれ
・実地との不一致
```
——実地との、不一致。
……
——数字が、合っていない。
◆
俺は、諸葛亮のところへ行った。
「先生」
「はい」
俺は、竹簡を置いた。
「荊州の糧が、二月、減っていません」
——
羽扇が、止まった。
諸葛亮は、竹簡を三本、順に読んだ。
そして、こう言った。
「……計り方が、変わったのかもしれませぬ」
「はい」
「あるいは、途中で買い足したか」
「はい」
「あるいは、報告の日付がずれたか」
——
全部、あり得る。
そして、全部、確かめていない。
◆
「先生」
「はい」
「人を、出したいです」
——
諸葛亮の手が、止まった。
「……人、でございますか」
「はい」
「荊州へ」
「はい」
「何をさせます」
俺は、答えた。
「倉を、見てきてもらいます」
——
長い、長い沈黙があった。
◆
やがて、諸葛亮は言った。
「なりませぬ」
——
即答だった。
この人が、俺に「なりませぬ」と言ったのは、初めてである。
「なぜですか」
「雲長どのを、疑うことになります」
「疑っていません」
「向こうは、そう受け取ります」
「……」
「若君」
諸葛亮は、羽扇を膝に置いた。
「今、あの方を怒らせてはなりませぬ」
「なぜですか」
「漢中でございます」
——
「主公は、定軍山の前でございます」
「はい」
「この戦の間、荊州が動かぬことが、何より大事でございます」
「……」
「動かぬために、あの方の機嫌を損ねてはなりませぬ」
——
正しい。
——そして、俺は、この言い方を知っている。
前世で、何百回も聞いた。
「今は、彼の機嫌を損ねる時期ではない」
そして、その「今」は、永遠に終わらない。
◆
俺は、しばらく黙っていた。
そして、聞いた。
「先生」
「はい」
「いつなら、いいですか」
——
諸葛亮は、答えなかった。
「漢中が終われば、いいですか」
「……」
「来年ですか」
「……」
「再来年ですか」
——
羽扇が、動かなかった。
やがて、この人は言った。
「……分かりませぬ」
◆
俺は、その日、父に会いに行けなかった。
父は、漢中にいる。
だから、俺は自分で決めた。
——十一である。
発言権は、まだない。
そして、名目上、俺は劉備の嫡子である。
——使えるものは、使う。
◆
俺は、二人の官吏を選んだ。
一人は、陳紀。
——誤記発見九十一。
そして、改革意思十二。
この人は、余計なことを一切しない。
言われた数だけを、数える。
もう一人は、馬良。
——白眉。断る力十七。
そして、荊州の生まれである。
襄陽の宜城。
——関羽の下で、五年働いたこともある。
顔が、通る。
◆
「季常」
「はい、若君」
「荊州へ、行っていただけますか」
馬良は、少し驚いた顔をした。
「……何を、いたしますので」
「倉を、見てきてください」
「……」
「数えてください」
——
馬良は、しばらく黙っていた。
そして、白い眉を下げた。
「……若君」
「はい」
「それは、雲長さまが」
「はい」
「お怒りに、なります」
「知っています」
——
「……」
「それでも、行っていただけますか」
——
馬良は、答えた。
——断る力、十七である。
「……承知いたしました」
——
俺は、その返事を聞いて、少し嫌な気持ちになった。
——この人は、断れない。
そして、俺は、それを知っていて、頼んだ。
◆
二人は、十月に発った。
そして、十二月に、書状が来た。
——馬良からではない。
関羽からである。
◆
俺は、それを一人で読んだ。
誰にも、見せなかった。
——竹簡は、一本だった。
短い。
そして、字が、いつもと違った。
——太い。
筆圧が、強い。
◆
> 劉禅さまへ
——
若君、ではなかった。
諱で、書かれていた。
> 馬良と陳紀、参りました。
>
> 倉を開き、数えて帰りました。
>
> 私は、拒みませんでした。
——
> 一つ、申し上げます。
>
> 私は、建安の初めより、主公に仕えております。
>
> 二十余年でございます。
>
> その間、糧を私したことは、一度もございませぬ。
——
> 数を数えられるのは、構いませぬ。
>
> 七日に一度、書いております。
>
> 数も、改めました。若君の仰せどおりに。
>
> ——ですが。
——
> 人を寄越すのは、数えるためではございませぬ。
>
> 見に来たのでございましょう。
>
> 私が、嘘を書いていないかを。
——
> 劉禅さま。
>
> 私は、あなたさまが三つの頃から、存じ上げております。
>
> 春秋を、お教えいたしました。
>
> 曹沫のことも、あなたさまに教わりました。
——
> あのとき、私は申しました。
>
> 「若君の申されることを、一つだけ、聞くことにする」
>
> ——
>
> これが、その一つでございますか。
——
俺は、そこで、竹簡を落とした。
◆
手が、震えていた。
——違う。
これは、そうではない。
あの「一つ」は、まだ使っていない。
——五年、取っておいた。
関羽の死を止めるために、取っておいた。
……
——だが、この人には、そう見えている。
そして、俺は、そう見えるように振る舞った。
◆
書状には、まだ続きがあった。
> 返答は、要りませぬ。
>
> 私は、荊州を守ります。
>
> 二十年、そうしてまいりました。
そして、最後の一行。
> 荊州、異常なし。
——
俺は、その四文字を、長いこと見ていた。
◆
```
【関羽 字・雲長】
劉禅への信頼 71 → 34
劉禅への態度 保護対象 → 保護対象(要警戒)
荊州孤立危険度 19% → 27%
```
——三十七、下がった。
そして、危険度が八、上がった。
……
——俺が、上げた。
◆
——そして、馬良が帰ってきた。
年が明けて、二月である。
◆
「若君」
馬良は、痩せていた。
顔色も、悪い。
「季常」
「……ただ今、戻りました」
「倉は」
馬良は、竹簡を出した。
そして、言った。
「足りませぬ」
——
「どれくらい」
「二月分」
——
陳紀の見立てと、同じである。
誤記発見九十一。
この人は、竹簡を読んだだけで、当てていた。
◆
「なぜですか」
俺は、聞いた。
「盗まれましたか」
「……いいえ」
「腐りましたか」
「……いいえ」
——
馬良は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「南郡の倉でございます」
——南郡。
——江陵である。
そして、南郡太守は——
「糜芳どのでございます」
——
俺は、その名を聞いて、動きを止めた。
◆
糜芳。
——糜竺の、弟。
八年前、俺が名前を書いた人である。
《名のない者》の簿に。
あのとき、この人は言った。
> 「私は、雲長さまの下で、うまくやれておりません」
> 「申し上げると、兄に迷惑がかかります」
——
```
【糜芳】
内部不満 71
表明経路 なし
```
——八年前の数字である。
◆
「季常」
「はい」
「びほうどのは、何をしましたか」
馬良は、答えた。
「何も、しておりませぬ」
「……え」
「数えて、おられませぬ」
——
「倉の出し入れを、帳に付けておられませぬ」
「……」
「下の者に任せ、下の者は、前の月の数を写しておりました」
——
俺は、そこで、頭を抱えた。
——写した。
前の月の数字を、そのまま。
だから、二月、減らなかった。
……
——不正では、ない。
盗んでもいない。
——
ただ、数えていないだけである。
◆
「季常」
「はい」
「なぜ、数えないのですか」
——
馬良は、長いこと黙っていた。
そして、答えた。
「……若君」
「はい」
「南郡の倉は、糜芳どのお一人で、四十を超えております」
「……」
「そして、書ける者が、三人しかおりませぬ」
——
「荊州の書記は、みな漢中へ回されました」
——
俺は、そこで、息が止まった。
◆
——漢中である。
去年、俺は数字を見た。
輸送人員、十万以上。
そして——
書ける人間も、そこへ行った。
……
——読み書きできる者、三十四名。
九年前、龐統が兵籍を整理したときに見つけた数字である。
あのとき、俺は喜んだ。
「名前を書いたら、船大工が七人出てきた」と。
——そして、その人たちを、全部、漢中へ送った。
◆
「先生」
俺は、諸葛亮のところへ走った。
「はい」
「荊州の書記は、何人ですか」
——
羽扇が、止まった。
そして、この人は答えた。
——即座に、である。
「十一名でございます」
「前は」
「四十七名」
——
三十六人、減っている。
「どこへ」
「漢中でございます」
——
「いつですか」
「一昨年の冬」
——
「誰が、決めましたか」
——
諸葛亮は、答えた。
「私でございます」
◆
——沈黙が、長かった。
やがて、この人は言った。
「若君」
「はい」
「荊州の糧が合わぬのは、私の責でございます」
「……」
「書ける者を、私が引き上げました」
「……」
「そして、それを雲長どのへ伝えておりませぬ」
——
「伝えれば、拒まれると思いました」
——
俺は、そこで、この人の顔を見た。
——目の下の影が、去年より深い。
そして、この人は、逃げなかった。
自分の責だと、先に言った。
◆
「先生」
「はい」
「わたしも、間違えました」
「……」
「倉を数えれば、分かると思いました」
「はい」
「数えました」
「はい」
「そして、二月足りないと分かりました」
——
「でも、なぜ足りないかは、数えても分かりませんでした」
——
「書ける人が、いなかったからです」
——
「それは、成都の帳に、書いてあったはずです」
——
俺は、拳を握った。
「荊州へ行かなくても、分かりました」
——
「行かせたのは、わたしです」
——
「そして、うんちょうどのに、疑われました」
◆
その夜、俺は木簡を出した。
そして、一行書いた。
《内で分かることを、外へ聞きに行った》
——
そして、その下に。
《いちばん、やってはならぬことだった》
——
前世で、俺はこれを何度も見た。
——現場を疑う前に、本社の資料を全部読む。
それが、最初にやることだ。
「現場へ行って確かめよう」は、その後である。
……
そして、順番を間違えると、現場は二度と本当のことを言わなくなる。
◆
——そして、荊州で、もう一つのことが起きていた。
馬良が、最後に、それを報告した。
◆
「若君」
「はい」
「もう一つ、ございます」
「なんですか」
馬良は、言いにくそうにした。
そして、言った。
「雲長さまが、糜芳どのへ、仰せになりました」
「……何と」
——
馬良は、竹簡を見ずに、そのまま復唱した。
——たぶん、忘れられなかったのだろう。
「還らば、當にこれを治めん」
——
戻ってきたら、処分する。
——
「いつ、仰せに」
「私どもが、倉を数え終えた日でございます」
——
「皆の前で、ですか」
「……はい」
——
「何人、聞きましたか」
馬良は、答えた。
「二十人ほど」
◆
俺は、視界を確認した。
```
【糜芳 字・子方】
内部不満 71 → 89
恐怖 34 → 71
表明経路 なし
離反危険度 11% → 34%
```
——三十四。
二十三、上がった。
……
——関羽は、間違っていない。
帳を付けていない太守を、放置はできない。
そして、この人は「今すぐ斬る」とは言わなかった。
「戻ったら処分する」と言った。
——猶予を、与えている。
……
——だが。
二十人の前で言われた人間に、猶予は、猶予に見えない。
——判決の、予告に見える。
◆
俺は、木簡を出した。
《名のない者》
七十七人。
その中に、糜芳の名がある。
八年前に、俺が書いた。
——あのとき、俺は言った。
> 「いって、いい」
> 「おれに、いって」
——
そして、八年、何も来なかった。
一度も、である。
……
——孟達と、同じだ。
三年前、俺は同じことを言った。
「逃げる前に、言え」
そして、来ていない。
——
窓口を作った。
二人分、作った。
そして、二人とも、使っていない。
◆
最後に、俺は関羽の書状を、もう一度読んだ。
そして、返事を書いた。
——三日、かかった。
十一の字で、何度も書き直した。
最終的に、四行になった。
> 《雲長どのへ》
>
> 《違います》
>
> 《あれは、一つでは、ありません》
>
> 《一つは、まだ、使っていません》
——
それだけである。
言い訳は、書かなかった。
「疑っていない」とも、書かなかった。
——書いても、意味がない。
この人は、事実しか読まない。
◆
返事は、来なかった。
代わりに、七日後、いつもの報告が届いた。
数字が、並んでいた。
魏軍の旗の数。呉の使者の往来。糧の日数。病者の数。修繕の箇所。
そして、六番目の欄。
《部下からの進言》
——
そこには、こう書いてあった。
——なし。
——
八年で、一度も。
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