第49話 兵站は戦わない将軍である
第四部 関羽を死なせるな
漢中を取ると、決まった。
正しい決断だった。
——そして、この決断が、関羽を殺す。
◆
建安二十二年。
俺は、十になった。
——十である。
「四つだから」も「七つだから」も、もう通用しない。
そして、まだ大人でもない。
一番、中途半端な歳だった。
◆
その年の春、法正が献策した。
——二年前に、この人が言ったとおりである。
> 「待ちます。曹操が去り、守将だけが残ったところを、取ります」
> 「一年か、二年」
——二年目に、来た。
「主公」
法正は、地図を広げた。
「曹操は、漢中を取って、そのまま北へ帰りました」
「うむ」
「残ったのは、夏侯淵と張郃」
「うむ」
「曹操が、二年、戻って参りませぬ」
法正は、指で漢中を叩いた。
「これは、曹操が漢中を捨てたのではございませぬ」
「では」
「手が回らぬのでございます」
◆
そして、二年前の議論が、蘇った。
三十七の前提を書き出し、三十四が一致し、三つが分かれた。
——分かれた三つは、こうだった。
一つ。夏侯淵は謀に長けているか。
二つ。二年後、益州の民は回復しているか。
三つ。荊州から兵を割けるか。
◆
「では、三つを確かめます」
諸葛亮が言った。
——この人は、二年、覚えていた。
◆
一つ目。夏侯淵。
——馬超に、聞いた。
俺が、聞いた。
去年の冬、馬場で、二人きりで。
この人は、壁を背にして座る。
だから、俺は横に座った。
後ろには、立たなかった。
「もうきどの」
「はい」
「夏侯淵は、どういう人ですか」
——
馬超は、しばらく黙っていた。
そして、答えた。
「速うございます」
「はい」
「涼州では、『三日に五百里、六日に千里』と申しました」
「はい」
「あの男が来ると聞けば、既に来ております」
——
「それは、強いということですか」
——馬超は、そこで、初めて笑った。
苦い笑い方だった。
「……いいえ」
「え」
「速いということは、待てぬということでございます」
——
「あの男は、動きます」
「はい」
「動かずにいられませぬ」
——
俺は、その日、竹簡に書いた。
《夏侯淵 動く 待てない》
そして、二年後、定軍山で、この一行が効く。
◆
二つ目。民の回復。
——劉巴が、数えていた。
```
【益州 市の税】
二一四年 100
二一五年 61
二一六年 78
二一七年 94
```
「九十四でございます」
「戻りましたか」
「戻っておりませぬ」
劉巴は、あっさり言った。
「二一四年は、成都を取った年でございます。あの年が、そもそも高うございました」
「……」
「平年で申せば、既に超えております」
——
回復していた。
諸葛亮の見立てが、外れた。
そして、この人は、あっさり認めた。
「……私が、誤っておりました」
——
それだけだった。
言い訳も、補足も、なかった。
法正が、少し驚いた顔をしていた。
◆
三つ目。荊州から、兵を割けるか。
——関羽に、書状で聞いた。
返事は、二行だった。
> 《荊州、異常なし》
>
> 《割ける》
——
俺は、その四文字を、長いこと見ていた。
——「割ける」。
この人は、そう書いた。
そして——
割けるかどうかを判断する材料が、この二行のどこにもない。
◆
俺は、諸葛亮のところへ行った。
「せんせい」
「はい」
「これで、決めるのですか」
「……」
「二行です」
諸葛亮は、羽扇を止めた。
「若君」
「はい」
「雲長どのの報告は、七日に一度、数で参っております」
「はい」
「兵の数も、糧の日数も、書いてございます」
「はい」
「それを、こちらで読めばよろしゅうございます」
——
正しい。
去年、俺が作った制度である。
「異常なし」と書けないよう、全項目を数字にした。
そして、数字は届いている。
……
——だが。
数字は、「割けるかどうか」を答えない。
兵が三万いる。糧が八月分ある。
——そこから「割ける」を導くのは、判断である。
そして、その判断をしているのは、関羽一人だ。
◆
——結局、漢中攻略は、決まった。
三つの相違点のうち、二つが解けた。
一つは、二行の書状で済まされた。
```
【決定】
漢中攻略 実施
時期 建安二十二年〜
主力 劉備・法正・張飛・馬超・黄忠・趙雲
兵站 諸葛亮
荊州 関羽(現状維持)
歴史変動率 11.8% → 12.1%
```
——ほとんど、動かなかった。
史実と、同じ道である。
◆
そして、戦が始まった。
◆
——長かった。
建安二十二年から、二十四年まで。
丸二年である。
陽平関で、張郃に阻まれた。
馬超を武都へ回した。
張飛が瓦口で勝った。
——そして、止まった。
山である。
道が、細い。
軍が、動かない。
◆
戦っていたのは、前線だけではなかった。
俺は、諸葛亮の執務室で、その数字を見た。
```
【漢中戦 兵站】
前線兵力 推定 五万
輸送人員 推定 十万以上
輸送路 成都 → 葭萌 → 陽平
距離 およそ千里
損耗率 推定 三割
備考
輸送中に消費される糧が、
前線へ届く糧を上回る区間があります
```
——
輸送中に消費される糧が、届く糧を上回る。
……
十人で運ぶ。
十人が、道中で食う。
千里である。
——届く頃には、半分以下になっている。
◆
そして、俺は、成都の街を歩いて、それを見た。
◆
——男が、いない。
去年まで、市には男がいた。
荷を担ぐ男。魚を捌く男。鍛冶屋。
——いなくなっていた。
代わりに、女が荷を運んでいた。
背負い籠に、糧を詰めて。
列になって、北へ歩いていく。
——若い女もいた。
四十を過ぎた女もいた。
そして、十を過ぎたばかりの娘もいた。
俺と、同じ歳である。
◆
俺は、その列の脇に立って、しばらく見ていた。
趙雲は、漢中にいる。
護衛は、別の兵だった。
——名前を、俺は知っている。
《名のない者》の簿に、書いてある。
「若君。お戻りを」
「まだです」
「人が、多うございます」
「まだです」
——
俺は、その列を数えた。
四百二十七人まで数えて、やめた。
まだ、続いていた。
◆
——後の世に、こう伝わる。
> 《男子は戦いに当たり、女子は運搬に当たる》
——
教科書で読んだときは、一行だった。
「益州の総力を挙げた」という意味の、比喩だと思っていた。
……
——比喩では、なかった。
目の前を、女が歩いている。
籠を背負って。
千里を、歩く。
そして、その三割は、道中で消える。
◆
俺は、その夜、諸葛亮に聞いた。
「せんせい」
「はい」
「兵站は、誰の担当ですか」
「私でございます」
「はい」
「では、伺います」
俺は、言った。
「この戦で、輸送に出た者のうち、何人が帰りませんか」
——
羽扇が、止まった。
長い沈黙があった。
そして、この人は答えた。
「……数えておりませぬ」
「数えてください」
「若君」
「数えてください」
——
「戦死者は、数えております」
「はい」
「輸送で死んだ者は、戦死ではございませぬ」
「……」
「病、事故、凍え、飢え」
「はい」
「それは、簿に載りませぬ」
——
俺は、そこで、三年前を思い出した。
楊阿七。
龐統を庇って死んだ、二十三歳。
あのとき、俺は《戦死者名簿》を作らせた。
そして——
戦死者しか、載らない簿を作った。
◆
「せんせい」
「はい」
「簿を、増やします」
「はい」
「戦って死んだ人と、運んで死んだ人を、分けて数えます」
「……」
「両方、書きます」
——
諸葛亮は、しばらく黙っていた。
そして、聞いた。
「若君」
「はい」
「分けて数えて、どうなさいます」
——
俺は、答えた。
「多いほうを、減らします」
——
羽扇が、動き出した。
「……承知いたしました」
```
【制度が追加されました】
輸送死亡記録
記載事項 姓名/出身/年齢/死没地/死因
分類 戦死とは別に記録する
組織能力
人事制度 C+ → B-
備考
初年度の集計は、四千を超えます
```
——四千。
前線の戦死者より、多い。
◆
——そして、その年の秋。
呉から、一人の少年が来た。
◆
諸葛亮が、俺に紹介した。
成都の、丞相府の庭である。
「若君。この者、諸葛喬と申します」
——
俺は、その少年を見た。
十七である。
背は、既に大人と変わらない。
顔立ちが、諸葛亮に少し似ていた。
——甥だから、当然である。
そして、目が、違った。
この人の目は、優しい。
◆
「諸葛喬にございます」
——礼が、丁寧すぎた。
丁寧すぎるというのは、緊張しているということだ。
「若君と、七つ違いにございましょう」
諸葛亮が言った。
「はい」
「呉より、参りました」
「……はい」
俺は、聞いた。
「お父上は」
「諸葛瑾にございます」
「……」
「呉の、長史を務めております」
——
兄は、呉の重臣である。
弟は、蜀の軍師将軍である。
そして、兄が弟に、子を渡した。
◆
「きょうどの」
「はい」
「お字は」
——少年は、少しだけ、言いにくそうにした。
そして、答えた。
「伯松と申します」
「はい」
「……もとは、仲慎と申しました」
——
俺は、そこで、動きを止めた。
「変えられたのですか」
「はい」
「なぜ」
諸葛喬は、答えた。
「私が、嗣子となりましたゆえ」
——嗣子。
跡継ぎである。
「仲は、次男の字でございます」
「はい」
「跡を継ぐ者が、次男の字を名乗るわけには参りませぬ」
「……」
「ゆえに、伯へ改めました」
——
伯は、長男である。
◆
俺は、その場に立ったまま、動けなかった。
——三年前。
孟達が、字を子敬から子度へ改めた。
避諱である。
十数秒で、終わった。
そして、誰も覚えていなかった。
——今度は。
呉から来た十七歳が、次男から長男になった。
名前の上だけで、である。
——本当の兄は、まだ呉にいる。
◆
「きょうどの」
「はい」
「お兄上は」
「諸葛恪と申します」
「呉に?」
「はい」
「お会いになりますか」
——
諸葛喬は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「分かりませぬ」
——
俺は、それ以上、聞かなかった。
◆
——そして、任が決まった。
諸葛亮が、告げた。
「喬」
「はい」
「兵五百を率いよ」
「はっ」
「谷の糧道である」
——
俺は、顔を上げた。
——糧道。
さっき、四千人が死ぬと聞いた、あの道である。
千里の輸送路。
損耗三割。
そして——凍え、飢え、事故で死ぬ。
その簿を、俺は今年、作らせたばかりだった。
◆
「せんせい」
——俺は、思わず言った。
「はい」
「そこは」
「はい」
「危ないです」
——
諸葛亮は、羽扇を止めなかった。
そして、静かに言った。
「存じております」
「……」
「喬は、私の子でございます」
「はい」
「ゆえに、最も辛い任に就けます」
——
「なぜですか」
諸葛亮は、答えた。
「そうせねば、他の者が納得いたしませぬ」
——
正しい。
完全に、正しい。
——前世で、俺は同族企業を何社も見た。
創業者の息子が、いきなり本部長になる会社。
そして、優秀な社員が、三年で全員辞める。
——だから、この人は、逆をやる。
……
——だが。
◆
俺は、諸葛喬を見た。
この人は、何も言わなかった。
顔色も、変えなかった。
ただ、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
——
俺は、その様子を見て、思った。
——この人は、断らない。
そして、断り方を、たぶん知らない。
呉から来て、名を変えられて、糧を運ぶ。
——文句を言う資格が、自分にはない、と思っている。
◆
その夜、俺は黄夫人のところへ行った。
この人は、庭にいた。
去年から、丞相府の庭で、粟を作っている。
——誰も止めなかった。
丞相の妻が畑をやることを、誰も止められなかった。
「夫人」
「若君」
「きょうどのが、糧道へ行きます」
黄夫人は、粟の穂を見ていた。
そして、言った。
「聞きました」
「……」
「止められましたか」
「危ないと、申しました」
「そして?」
「存じております、と」
——
黄夫人は、少し笑った。
そして、こう言った。
「あの人は、自分に厳しゅうございます」
「はい」
「ゆえに、近い者にも厳しゅうございます」
「はい」
「そして——」
この人は、粟の穂を、指で撫でた。
「それを、優しさだと思っております」
——
◆
「夫人」
「はい」
「それは、優しさですか」
——
黄夫人は、しばらく黙っていた。
そして、答えた。
「半分は」
「半分」
「はい」
「残る半分は」
黄夫人は、言った。
「自分の子だけを守れぬという、意地でございます」
——
「そして、意地は、人を殺します」
◆
その夜、俺は木簡を出した。
《正しく呼ばれていない者》
一行目に、孟達 字・子度(旧・子敬)
俺は、二行目に書いた。
諸葛喬 字・伯松(旧・仲慎)
——二人になった。
片方は、四十を過ぎた将軍。
もう片方は、十七の少年。
——両方、組織の都合で、名を変えられた。
◆
次に、俺は死亡年表を開いた。
——諸葛喬の名を、書こうとした。
そして、手が止まった。
……
——知らない。
この人が、いつ死ぬのか、俺は知らない。
……
いや。
——諸葛瞻という名は、知っている。
諸葛亮の子である。
そして、この人ではない。
——ということは。
この人は、跡を継がなかった。
……
——
俺は、そこで、筆を置いた。
手が、震えていた。
——また、やった。
四年前、俺は諸葛喬に会う前から、この計算をした。
「覚えていないのだから、短いのだ」
そして、自分の思考の醜さに、吐き気がした。
——直っていない。
今日、本人に会って、話をして、頭を下げるのを見て。
そして、また同じ計算をした。
◆
俺は、死亡年表を閉じた。
そして、別の木簡を出した。
《名のない者》
七十六人。
——ここへ書こうとして、また止まった。
この人は、名のある人だ。
丞相の嗣子である。
……
——だが。
呉から来て、名を変えられて、糧を運ぶ。
そして、この国で、この人の名を正しく呼ぶ人が、何人いる。
俺は、筆を取った。
そして、七十七人目に、書いた。
諸葛喬
その横に、一行足した。
《今、十七》
——
歳を書いたのは、初めてだった。
◆
最後に、俺は関羽の数字を見た。
```
【関羽 字・雲長】
荊州孤立危険度 12% → 19%
上昇要因
・漢中戦への兵站集中
・成都からの往来減少
・援軍余力の低下
```
——七、上がった。
理由は、全部、漢中である。
——正しい戦をしている。
この戦に勝てば、益州の北が固まる。
そして、この戦のために、荊州が薄くなる。
……
——二年ある。
二一九年まで、二年。
そして、俺は十二になる。
十二の子供に、何ができる。
——
三年前、俺は同じことを考えた。
そして、まだ、答えを持っていない。
次回 第50話「関羽からの抗議状」




