第48話 二十年、数えていた人
荊州から、一台の車が来た。
出迎えに行った者は、一人だけだった。
——九歳である。
◆
建安二十一年の冬。
——俺が、呼んだ。
二年前、成都に着いた夜、俺は馬良に聞いた。
> 「おくがたさまを、よべますか」
そして、馬良は言った。
> 「孔明さまが、お呼びになりませぬ」
> 「呼べば、ご自分が帰らぬことになりますゆえ」
——
二年、俺は迷った。
そして、去年の暮れ、書状を出した。
荊州の隆中へ、である。
九つの字で。
内容は、三行だった。
> 《成都へ、来てください》
>
> 《先生は、寝ていません》
>
> 《劉禅》
——
返事は、来なかった。
そして、十一か月後に、車が来た。
◆
——誰も、出迎えなかった。
理由は、簡単である。
誰も、知らなかった。
俺が、誰にも言わなかったからだ。
諸葛亮にも、言っていない。
——言えば、断られると思った。
そして、断られたら、二度と呼べない。
……
——これは、越権である。
九歳が、丞相府の家族を勝手に召した。
諸葛亮が怒っても、俺に言い分はない。
◆
門の前に立っていると、趙雲が来た。
この人は、いつも来る。
「若君。何をしておられます」
「まってます」
「何を」
「くるまを」
趙雲は、少し考えた。
そして、聞いた。
「……若君が、お呼びに?」
「うん」
「どなたを」
俺は、答えた。
「せんせいの、おくがたさま」
——
趙雲の動きが、止まった。
そして、この人は、しばらく黙っていた。
やがて、言った。
「……私も、待ちましょう」
——
何も、聞かなかった。
この人は、いつもそうだ。
◆
車は、昼過ぎに着いた。
——粗末な車だった。
幌が、繕ってある。
荷は、少ない。
供の者は、二人だけだった。
——丞相府の家族が乗るものとは、思えなかった。
車が止まった。
そして、一人の女性が降りた。
◆
——四十前後だろうか。
背は、高くない。
衣は、地味である。
染めていない麻に、見えた。
そして——手が、荒れていた。
書を扱う手ではない。
——畑をやる手である。
俺は、その人を見つめた。
```
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……
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備考
当該人物は、あなたの記録の外にあります。
```
——
俺は、そこで、息を呑んだ。
——初めてである。
九年、俺は人を見れば数字が出た。
兵も、侍女も、老女も、敵兵も、全部。
——この人だけ、出ない。
◆
その人は、俺を見た。
そして、少し首を傾げた。
「……劉禅さま、でございますか」
「はい」
「九つと伺いました」
「はい」
「思ったより、小そうございます」
——
俺は、そこで、少し笑ってしまった。
——この人は、慰めない。
関羽と、同じである。
◆
「お名前を、伺ってよろしいですか」
俺は、聞いた。
——最初に、それを聞くと決めていた。
その人は、答えた。
「黄氏にございます」
——
やはり、である。
「それは、家の名です」
「はい」
「お名前を」
——
黄夫人は、しばらく俺を見ていた。
そして、こう言った。
「若君。ずいぶんと、性急でいらっしゃる」
「はい」
「降りて、まだ十を数えておりませぬ」
「はい」
「……」
「すみません」
黄夫人は、少し笑った。
——初めて、表情が動いた。
「謝られるのも、性急でございますな」
◆
俺は、その人を、書斎の一つへ案内した。
——諸葛亮のところへは、まだ連れて行かなかった。
理由は、二つある。
一つ。俺が、勝手に呼んだからだ。
先に、この人と話しておかなければ、筋が通らない。
二つ。——怖かった。
六年ぶりの夫婦を、九歳が引き合わせる。
そこで何が起きるか、俺には想像がつかなかった。
◆
湯を出した。
茶は、まだこの時代には普及していない。
黄夫人は、それを一口飲んだ。
そして、言った。
「若君」
「はい」
「なぜ、私をお呼びに」
俺は、答えた。
「せんせいを、止めたいからです」
——
黄夫人の手が、止まった。
そして、聞いた。
「どのように、止めるとお考えです」
「……」
「若君は、既に何かをなさっておられましょう」
——
俺は、正直に答えた。
「九年、やっています」
「はい」
「袖を掴みました」
「はい」
「座り込みました」
「はい」
「書状も、出しました」
「はい」
「上限も、決めました」
「はい」
俺は、言った。
「全部、効きませんでした」
◆
黄夫人は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「それは、そうでございましょう」
——
「……」
「若君」
「はい」
黄夫人は、湯の椀を置いた。
そして、はっきりと言った。
「私も、止められませぬ」
——
俺は、そこで、肩が落ちた。
……
——期待していた。
母は、三度言えば、あの人を止められた。
「お休みください」と、同じ調子で、三度。
——その母は、もういない。
だから、この人なら、と思った。
六年、呼ばれていない妻なら、何か持っていると思った。
「……そうですか」
「はい」
「二十年、止まりませんでした」
◆
長い沈黙があった。
書斎の外で、鳥が鳴いた。
やがて、黄夫人が言った。
「若君」
「はい」
「ですが」
——
この人は、懐から、一本の竹簡を出した。
——古い。
端が、擦り切れている。
そして——分厚い。
一本ではなかった。
綴じてある。
「止められませぬゆえ、数えておりました」
——
「……数える?」
「はい」
◆
俺は、それを受け取った。
重い。
そして、開いた。
——
数字が、並んでいた。
月ごとに。
年ごとに。
《一日、二刻半》
《一日、二刻半》
《一日、二刻》
《一日、二刻》
《一日、一刻半》
——
眠った時間である。
——
二十年分、である。
◆
俺は、その竹簡を、震える手で持っていた。
——
九年、俺は木簡を書いてきた。
《名のない者》七十五人。
《殴られた者》四十二人。
《正しく呼ばれていない者》。
《救えなかった者》。
死亡年表。
——
同じことをしている人が、いた。
二十年、である。
俺より、十一年長い。
◆
「……夫人」
「はい」
「なぜ、数えたのですか」
黄夫人は、答えた。
「減っておりますゆえ」
「……」
「隆中におりました頃は、二刻半でございました」
「はい」
「荊州で軍師になられて、二刻」
「はい」
「去年、益州から人が参りましたので、聞きました」
「……」
「一刻半だそうでございます」
——
俺は、その数字を知っている。
去年、俺が評定で言った数字だ。
——この人は、直接見てもいないのに、追っている。
◆
「夫人」
「はい」
「これは、何のために数えたのですか」
——
俺は、それを聞いた。
——記録には、目的がある。
俺が名前を書くのは、母の名が残らなかったからだ。
この人が睡眠を数えるのは、何のためか。
黄夫人は、少し黙った。
そして、言った。
「いつ終わるかを、知りたかったのでございます」
——
俺は、動けなくなった。
◆
この人は、竹簡の最後を指した。
そこには、一行だけ書いてあった。
——数字ではない。
文である。
俺は、それを読んだ。
そして、身体が冷たくなった。
> 《この減り方であれば、還暦には届きませぬ》
——
還暦。
六十である。
——諸葛亮は、いま三十六。
そして、五十四で死ぬ。
……
——合っている。
未来知識も、能力画面もない。
ただ、二十年、数えただけで。
——この人は、俺と同じ場所に、辿り着いている。
◆
「夫人」
「はい」
「これを、先生に見せましたか」
黄夫人は、答えた。
「いいえ」
「なぜですか」
「見せれば、あの人は数え方を変えます」
——
俺は、そこで、声が出なかった。
「……」
「眠らずに、眠ったと申すようになりましょう」
「……」
「そうなれば、私は数えられなくなります」
——
正しい。
恐ろしく、正しい。
前世で、俺はこれを何度も見た。
——勤怠を厳しく管理した会社は、残業がなくなった。
記録の上だけで、である。
そして、二年後、二人倒れた。
……
測ることを知られると、測れなくなる。
◆
「夫人」
「はい」
「あなたは、何をなさっているのですか」
——
俺は、そう聞いた。
止めない。見せない。ただ、数える。
——それは、何なのか。
黄夫人は、湯を飲んだ。
そして、あっさりと答えた。
「看取る支度でございます」
——
俺は、息を呑んだ。
「……」
「若君」
「はい」
「私は、あの人を止めようとしたことが、一度だけございます」
「いつですか」
「二十年前でございます」
「……」
「隆中で、劉さまが三度お見えになったときでございます」
——三顧の礼。
「……何と、仰いましたか」
黄夫人は、少し笑った。
「『行くな』と、申しました」
——
「そして?」
「行きました」
——
「それきりでございます」
◆
——それきり。
二十年、この人は一度も止めなかった。
一度だけ止めて、負けた。
そして、二度と言わなかった。
代わりに、数え始めた。
◆
「夫人」
「はい」
俺は、聞いた。
——聞くべきかどうか、迷った。
そして、聞いた。
「恨んで、おられますか」
——
黄夫人は、俺を見た。
しばらく、見ていた。
そして、言った。
「若君は、本当に九つでいらっしゃいますか」
「……九つです」
「そのようには、見えませぬ」
「よく言われます」
黄夫人は、少し笑った。
そして、答えた。
「恨んではおりませぬ」
「……」
「ただ」
「はい」
「惜しゅうございます」
——
「あの人は、畑が上手でございました」
——
俺は、そこで、初めて、この人の声が揺れるのを聞いた。
◆
「畑?」
「はい」
「隆中で、粟を作っておりました」
「……」
「下手な作り方をいたしました」
黄夫人は、湯の椀を見ていた。
「畝を細かく分けて、水の入り方を変えて、どちらが実るかを試すのでございます」
——
俺は、そこで、思わず声を上げた。
「それは」
「はい」
「それは、実験です」
「……」
「せんせいは、いま、同じことをしています」
——
六年前、建安十五年である。
矢の規格で、龐統と衝突したとき。
この人は、試験の条件を細かく設計した。
弓兵の技量を三段階に分け、各十名。風向と距離を三通り。
——同じである。
畝を分けるのと、同じだ。
黄夫人は、少し目を伏せた。
「……そうでございましょうな」
そして、言った。
「あの畑を、誰かに引き継いでほしいと、思っておりました」
——
「七年目に、諦めました」
◆
その夜、俺は諸葛亮のところへ行った。
——謝るためである。
勝手に呼んだ。
責められるのは、当然だった。
「せんせい」
「はい、若君」
「謝ることが、あります」
「なんでございましょう」
俺は、言った。
「奥方さまを、お呼びしました」
——
羽扇が、止まった。
長い、長い沈黙があった。
灯火の芯が、二度、鳴った。
やがて、諸葛亮は言った。
「……いつ、でございますか」
「去年の暮れに、書状を出しました」
「……」
「本日、着かれました」
——
諸葛亮は、動かなかった。
竹簡の山を、見ていた。
そして、こう言った。
「……どこに、おられます」
「東の書斎です」
「……」
「せんせい」
「……はい」
「行かれますか」
——
この人は、答えなかった。
そして——
筆を、取った。
書きかけの竹簡へ、目を落とした。
——
俺は、その手を見ていた。
震えていた。
◆
「せんせい」
「……はい」
「何を、書いておられますか」
「……梓潼の、戸籍でございます」
「急ぎますか」
「……」
「明日で、間に合いますか」
——
長い沈黙のあと、この人は言った。
「……間に合います」
——
そして、筆を置いた。
置いてから、しばらく動かなかった。
やがて、立ち上がった。
——羽扇を、持っていかなかった。
机の上に、置いたままだった。
九年で、初めてである。
◆
俺は、その場に残った。
ついていかなかった。
——そこから先は、俺の仕事ではない。
俺は、机の上の羽扇を見た。
柄の端に、細い糸が巻いてある。
繕った跡である。
——五年前、俺は二種類の糸を数えた。
今は、四種類になっていた。
——四度。
九年で、四度、繕われている。
◆
視界に、表示が出た。
```
【諸葛亮 字・孔明】
休養意思 2 → 2
実際の行動 執務中断
所要 —
備考 九年間で、最も長い中断です
```
——所要時間が、空欄だった。
測れないほど長い、という意味らしい。
◆
翌朝、俺はもう一度、黄夫人のところへ行った。
この人は、既に起きていた。
そして、庭で、土を見ていた。
「夫人」
「若君」
「成都の土は、どうですか」
黄夫人は、答えた。
「隆中より、よろしゅうございます」
「うん」
「粟なら、二割は多く実りましょう」
——
この人は、そういう人である。
俺は、そこで、最後の質問をした。
「夫人」
「はい」
「お名前を、教えていただけますか」
——
黄夫人は、土から目を上げた。
そして、しばらく俺を見ていた。
やがて、こう言った。
「若君」
「はい」
「あの人も、二十年、聞きませんでした」
——
俺は、そこで、何も言えなくなった。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
《名のない者》
阿仙。阿六。王阿三。楊阿七。陳紀。
——七十六人。
俺は、そこへ書こうとして、手を止めた。
……
書けない。
名前を、知らない。
——
俺は、別の木簡を出した。
《救えなかった者》
甘夫人。
孫夫人。(名前の欄は、空白)
張松。
——
三行目まで、埋まっている。
俺は、四行目を作った。
そして、そこで、また手が止まった。
……
——この人は、救えなかった人ではない。
生きている。
今日、成都に着いた。
そして、たぶん、これから何年かは、ここにいる。
——
俺は、その木簡を閉じた。
そして、新しい木簡を、一枚おろした。
表題を、書いた。
《かぞえていた人》
一行目に、書いた。
黄氏
そして、その下に。
《二十年。ねむった時を》
《おれより、十一年ながい》
◆
最後に、俺は死亡年表を開いた。
二三四——諸葛亮。五十四。
記号は、まだ描いていない。
——九年、描けずにいる。
丸にも、四角にも、できなかった。
……
——今日、一つ分かったことがある。
この人が倒れる年を、俺以外にも、知っている人がいた。
未来知識なしで、である。
ただ、二十年、数えただけで。
——
俺は、筆を取った。
そして、二三四の横に、初めて記号を描いた。
丸でも、四角でもない。
——
縦の線を、一本、引いた。
——
《まだ、決めていない》という意味である。
そう、決めた。
今、決めた。
——十八年ある。
そして、俺は今日、九年で初めて、あの人に筆を置かせた。
言葉ではなかった。
袖を掴んだわけでもない。
——
人を、一人、連れてきただけだ。
次回 第49話「張飛、評定の机を壊す」




