第47話 天才を二人置く方法
六年、この二人は喧嘩をしてきた。
そして今日、初めて分かった。
——九割、同じことを考えていた。
◆
建安二十一年の秋。
議題は、漢中だった。
去年、曹操が張魯を降し、漢中を取った。
そして——
そのまま、北へ帰った。
夏侯淵と張郃を残して、である。
「取るべきです」
法正が言った。
——半年前に、俺が「難しい交渉」の職掌を渡した男である。
「取れば、益州の北が固まります。取らねば、いつでも山から降りてこられます」
「うむ」
劉備が、腕を組んだ。
「孔明は」
諸葛亮は、羽扇を止めた。
そして、言った。
「時期が、早うございます」
——
始まった。
◆
龐統が、口を挟んだ。
「私は、孝直どのに同じます」
「ほう」
「遅れれば、夏侯淵が守りを固めます」
「孔明は反対か」
「反対ではございませぬ」
諸葛亮は、静かに言った。
「時期の話をしております」
「では、いつだ」
「二年後」
「なぜ二年だ」
「民が、疲れております」
——
法正が、笑った。
あの、皮肉な笑い方である。
「軍師将軍は、いつも二年後と仰せになる」
——
空気が、悪くなった。
◆
俺は、その様子を見ていた。
——六年である。
建安十五年、矢の規格で衝突してから、六年。
あのときは、実験で決着した。
統一矢と従来の矢を、三十本ずつ作って、射比べた。
——数字が出た。
そして、二人とも、数字には従った。
——だが、今回は。
漢中は、一つしかない。
取るか、取らないか。
——試せない。
一度やったら、戻せない。
そして、失敗したら、国が傾く。
◆
俺は、視界を確認した。
```
【評定 状態】
諸葛亮 正当性確信 94
龐統 正当性確信 97
法正 正当性確信 99
相互理解 諸葛亮→龐統 81
龐統→諸葛亮 84
法正→諸葛亮 52
会議決裂危険度 橙
```
——法正の、諸葛亮への理解が、低い。
五十二。
この二人は、あまり話していない。
◆
俺は、机の上に這い上がった。
——九つになって、ようやく立ったまま机に手が届くようになった。
這い上がる必要が、なくなった。
……いや。
顔は、まだ出ない。
趙雲が、抱え上げた。
この動作は、たぶん、あと三年は続く。
◆
「みなさん」
俺は、言った。
「一つ、お願いがあります」
三人が、俺を見た。
「なんでしょう、若君」
諸葛亮が言う。
俺は、言った。
「結論を、言わないでください」
——
広間が、静かになった。
◆
「……結論を、でございますか」
「はい」
「では、何を申せば」
俺は、答えた。
「そう思う理由を、全部です」
「理由なら、既に申しております」
「ちがいます」
俺は、首を振った。
「理由ではなく、」
「はい」
「そう思うために、正しいと信じていることです」
——
龐統の目が、細くなった。
「……前提、でございますか」
「はい」
「それを、書けと」
「はい」
「全部です」
◆
前世で、俺はこの手法を、何十回も使った。
——優秀な人間が二人、対立する。
どちらも、論理が正しい。
どちらも、経験がある。
——なぜ、結論が違うのか。
答えは、たいてい、一つである。
論理が違うのではない。
——
前提が、違う。
そして、本人たちは、そのことに気付いていない。
なぜなら、前提というのは、「言うまでもないこと」だからだ。
言うまでもないから、言わない。
言わないから、比べられない。
——そして、結論だけをぶつけ合って、三時間が過ぎる。
◆
作業は、三日かかった。
——長い。
法正は、二日目で明らかに苛立っていた。
この人は、速さの人である。
龐統も、退屈しかけた。
——【退屈すると働かない】が、発動しかけた。
そこを、諸葛亮が「あと少しです」と言って引き止めた。
——この人だけが、この作業を苦にしなかった。
理由は、簡単である。
この人は、いつもこれを、頭の中でやっているからだ。
◆
三日目の夕方、竹簡が並んだ。
——三十七の前提が、書き出された。
俺は、それを一つずつ読み上げた。
九つの声で、三十七回。
喉が、痛くなった。
◆
「一つ。曹操は、漢中に長く留まらない」
——三人とも、○。
「二つ。曹操は、許を離れられない」
——三人とも、○。
「三つ。夏侯淵は、勇猛である」
——三人とも、○。
「四つ。夏侯淵は、謀に長けていない」
「……」
諸葛亮が、少し考えた。
「長けていない、とまでは申せませぬ」
法正が、即座に言った。
「長けておりませぬ」
「根拠は」
「十年、見ております」
——
法正は、涼州の情勢を、益州にいながら追っていた。
馬超のことも、夏侯淵のことも。
「……では、△といたしましょう」
——一つ目の、相違点である。
◆
「五つ。漢中を取れば、益州の北が固まる」
——三人とも、○。
「六つ。漢中を取らねば、いつでも攻め込まれる」
——三人とも、○。
「七つ。今、兵は足りている」
——三人とも、○。
「八つ。今、糧は足りている」
——
そこで、劉巴が口を挟んだ。
この人は、議論には入っていない。
だが、数字の話になると、必ず出てくる。
「足りております」
「うむ」
「ただし、一年でございます」
——
「一年、戦えます。二年は、無理でございます」
——三人とも、その数字は認めた。
◆
——そして、二十三番目に来た。
「二十三。二年後、益州の民は、今より回復している」
——
そこで、初めて、三人が分かれた。
諸葛亮——×。
龐統——○。
法正——○。
——
俺は、その三つの印を、長いこと見ていた。
◆
「せんせい」
「はい」
「なぜ、×ですか」
諸葛亮は、答えた。
「去年、市が半分閉じました」
「はい」
「曹操が漢中を取ったと聞いただけで、でございます」
「はい」
「あれから一年、戻っておりませぬ」
——
俺は、視界を確認した。
```
【益州 市場活動】
昨年 44%
現在 61%
```
——六十一。
戻っている。
だが、二年前の七十一には、届いていない。
◆
「しげんどの」
「はい」
「なぜ、○ですか」
龐統は、言った。
「戦をせぬからでございます」
「……」
「二年、戦をせねば、民は必ず回復いたします」
「では、その二年で戦をしなければ、ですね」
「はい」
「漢中を取るのは、戦です」
——
龐統が、止まった。
「……」
「しげんどの」
「……確かに」
——
この男は、間違いを認めるのが、この国で一番速い。
◆
俺は、続けた。
「では、こうなります」
俺は、竹簡に書いた。
《二年後に回復する。ただし、その二年、戦をしなければ》
《今、戦をすれば、回復しない》
《ゆえに——取るなら、回復を待たずに取ることになる》
——
三人が、その三行を見た。
そして、法正が、初めて真顔になった。
「……若君」
「はい」
「それは、私が申していたことでございます」
「はい」
「そして、軍師将軍が申していたことでもございます」
「はい」
「同じことを、申しておりました」
——
◆
俺は、頷いた。
そして、竹簡を三十七枚、並べた。
「一致している前提が、三十四です」
——
「分かれているのが、三つです」
——
広間が、静かになった。
◆
「一つ目。夏侯淵が謀に長けているかどうか」
「二つ目。二年後の民の回復」
「三つ目。荊州から兵を割けるかどうか」
——
俺は、続けた。
「九割、同じでした」
——
諸葛亮の羽扇が、止まった。
龐統が、酒杯を置いた。
——この二人は、六年、喧嘩をしてきた。
矢の規格。名簿の書式。倉庫の指示。糧の運搬。
そして今日——
三十七のうち、三十四が同じだった。
◆
「……若君」
龐統が言った。
「はい」
「六年でございます」
「はい」
「私は、この方と六年、言い争って参りました」
「はい」
龐統は、諸葛亮を見た。
そして、少し笑った。
「九割、同じでしたか」
諸葛亮は、答えなかった。
代わりに、こう言った。
「士元どの」
「はい」
「私は、あなたが慎重さを軽んじておられると思っておりました」
「……」
「違いましたな」
——
「孔明どのは、私が民を軽んじていると思っておられましたか」
「……はい」
「違います」
「……存じております」
——
今、である。
六年目に、である。
◆
俺は、その様子を見て、思った。
——なぜ、六年もかかったのか。
答えは、簡単だ。
——結論しか、言わなかったからである。
「今すぐ取れ」
「二年後にせよ」
——この二つをぶつけると、相手が馬鹿に見える。
そして、九割の一致は、永遠に見えない。
前世で、俺は同じ光景を何百回も見た。
役員会で、二人の部長が三時間争う。
——そして、後で個別に話を聞くと、九割同じことを言っている。
残りの一割は、たいてい、
「相手が信用できるかどうか」だった。
◆
「では」
俺は、言った。
「三つを、どうするか決めます」
「はい」
「一つ目。夏侯淵」
俺は、法正を見た。
「測れますか」
法正は、少し考えた。
そして、言った。
「測れます」
「どうやって」
「涼州の者を、呼びます」
「……」
「あの男と戦ったことのある者を、五人ほど」
——
俺は、そこで馬超のことを思い出した。
この国に一人、夏侯淵と直接戦った男がいる。
そして、負けている。
——一族二百人を、失った戦である。
◆
「こうちょくどの」
「はい」
「孟起どのに、お聞きしますか」
法正の動きが、止まった。
そして、静かに言った。
「……お辛いでしょうな」
「はい」
「ですが、あの方以上に知る者は、おりませぬ」
「はい」
俺は、言った。
「では、わたしが聞きます」
——
法正が、俺を見た。
「……なぜ、若君が」
俺は、答えた。
「あの人は、後ろに人が立つのを嫌います」
「……」
「わたしは、小さいので、後ろに立っても、たぶん平気です」
——
法正は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「……若君は、恐ろしい方でございますな」
「よく言われます」
◆
「二つ目。民の回復」
俺は、劉巴を見た。
「ししょどの」
「はい」
「測れますか」
劉巴は、即答した。
「測れます」
「どうやって」
「市の税でございます」
「……」
「月ごとに、市で取れる税を数えます。人が動けば、増えます」
——
俺は、そこで、思わず声を上げた。
「それ、去年から数えていますか」
「数えております」
「見せてください」
「どうぞ」
——
この人は、当たり前のように、竹簡を出した。
二年分の数字が、月ごとに並んでいた。
——誰も、見ていなかった。
この人は、二年間、誰にも見せずに数えていた。
理由を聞いたら、こう答えた。
「聞かれませなんだので」
```
【劉巴】社交 8
```
——
数字は、正しい。
◆
「三つ目」
俺は、言った。
「荊州から、兵を割けるかどうか」
——
三人が、顔を見合わせた。
そして、諸葛亮が言った。
「これは、雲長どのにお尋ねするしかございませぬ」
「はい」
「書状を出します」
「はい」
——
そして、この議題は、そこで終わった。
誰も、それ以上、何も言わなかった。
◆
評定が終わった。
三日かけて、結論は出なかった。
——だが、三つの相違点が、はっきりした。
そのうち二つは、測れる。
一つは、聞けば分かる。
——
```
【意思決定手法が確立しました】
前提比較法
結論を述べる前に、前提を書き出す
一致する前提を除去する
相違点のみを検討対象とする
測定可能なものは測定する
組織能力
意思決定 C → B
【諸葛亮・龐統】
共同作業受容度
諸葛亮 47 → 71
龐統 29 → 63
```
——六年かかって、ようやくここまで来た。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
そして、書いた。
《結論を、比べるな》
《前提を、比べろ》
——
そして、その下に、もう一行。
《たいてい、九わりは、おなじ》
——
俺は、そこで筆を止めた。
……
——
待て。
九割は、同じだった。
三十七のうち、三十四。
——
その三十四は、誰が確かめた?
◆
俺は、竹簡を引き寄せた。
三十七の前提が、書いてある。
そして、三十四には、○が三つずつ並んでいる。
——一致している。
だから、検討しなかった。
——
俺は、その三十四を、一つずつ読み直した。
曹操は漢中に長く留まらない。——たぶん、正しい。
曹操は許を離れられない。——正しい。
兵は足りている。——数えた。
糧は一年分ある。——劉巴が数えた。
……
そして、二十九番目に、こう書いてあった。
> 《荊州は、雲長どのが守る》
——
○。
○。
○。
——三人とも、○である。
誰も、疑っていない。
◆
俺は、その一行を、長いこと見ていた。
——正しい。
関羽は、荊州を守れる。
統率九十七。武力九十八。威圧百。
兵の掌握、九十三。
——守れる。
……
——三年前、俺は評定でこう言った。
> 「まもれるから、ひとりに、なる」
——
あのとき、誰も、それを前提に書かなかった。
そして今日も、書かれなかった。
「荊州は、雲長どのが守る」
——それは、前提である。
そして、一致している前提は、検討されない。
……
——
俺は、その竹簡を、震える手で握った。
——前提比較法の、弱点である。
全員が一致している前提は、除去される。
そして、除去されたものは、二度と検討されない。
——
もし、全員が同じ間違いをしていたら。
その間違いは、永遠に見つからない。
◆
俺は、筆を取った。
そして、木簡に書き足した。
《一致している前提が、いちばん危ない》
——
そして、その下に。
《荊州は、雲長どのが守る》
——
俺は、その一行の横に、記号を描こうとして、手を止めた。
丸か。四角か。
……
——これは、人の死ではない。
前提である。
記号は、要らない。
——だが、俺は書いた。
丸でも、四角でもない。
——
疑問符を、描いた。
——
そして、その日から、俺は毎月、一つずつ、
「全員が一致している前提」を、疑うことにした。
三十四ある。
月に一つで、三年かかる。
——
そして、関羽が死ぬまで、
あと、三年である。
次回 第48話「湘水の盟——荊州を半分に切る」




