第44話 誰が何を決めるのか
一人の役人が、三つの命令を受け取った。
どれも、正しかった。
そして、三つとも、違うことを命じていた。
◆
建安二十年の冬。
曹操が、漢中を取った。
張魯が降った。
——益州の、真上である。
成都から、漢中までは、山を越えて数百里。
遠い。
だが、繋がっている。
そして、この時代、山を越えて軍が来るというのは、想像より現実的だった。
◆
俺は、八つになっていた。
言葉が、まともに話せるようになった。
長い文が、崩れずに出る。
——七歳までは、三語で息が切れた。
八つになった月から、急に、一息で十語が言えるようになった。
身体というのは、そういうものらしい。
——そして、そのぶん、言い訳が減った。
「四つだから」「七つだから」で許されていたものが、通用しなくなり始めた。
◆
成都は、動揺した。
——本当に、動揺した。
一日に、何度も警報が出る。
「曹操軍が葭萌関に迫った」
「いや、陽平関に留まっている」
「いや、既に南下を始めた」
——全部、噂である。
商人が、荷を畳んで逃げ出した。
農民が、家財を埋め始めた。
先月まで市が立っていた通りが、半分、閉まった。
俺は、視界を確認した。
```
【益州 民心】
不安 88
逃散兆候 中
市場活動 71% → 44%
```
——四十四。
去年の秋、七十一まで戻したものが、ひと月で半分になった。
曹操は、まだ一人も兵を出していない。
——名前だけで、これである。
◆
評定が、開かれた。
——そして、五人が、五つのことを言った。
◆
諸葛亮。
「動いてはなりませぬ」
「なぜだ」
劉備が問う。
「民が既に揺れております。ここで兵を動かせば、戦が近いと確信いたします」
「うむ」
「まず、糧を各郡へ配し、市を開かせ、曹操は来ぬと示すことでございます」
——正しい。
民心の安定が第一。
軍事行動は、それ自体が信号になる。
◆
龐統。
「直ちに、北へ兵を出すべきです」
「孔明と正反対だな」
「はい」
龐統は、地図を叩いた。
「曹操は、漢中に長くは留まりませぬ。許が遠すぎる」
「うむ」
「去る前に、こちらが山の入口を押さえておかねば、次に来たとき、押さえる場所がございませぬ」
「民は」
「揺れましょう」
「では」
「揺れても、土地は残ります」
——これも、正しい。
地形の要衝は、平時にしか取れない。
◆
法正。
「両方、違います」
「ほう」
「曹操は、漢中を取りましたが、留まりませぬ。士元どのの見立ては正しい」
「うむ」
「ですが、今出しても、間に合いませぬ」
「では、どうする」
法正は、笑った。
あの、危険な笑い方だった。
「待ちます。曹操が去り、守将だけが残ったところを、取ります」
「いつだ」
「一年か、二年」
——
これも、正しい。
そして、これが史実である。
二年後、この人の献策で、漢中戦が始まる。
◆
劉巴。
「銭が、ございませぬ」
——一言だった。
「三つのうち、どれをなさっても構いませぬ。ただ、府庫が持ちませぬ」
「直百銭は」
「鋳っております。ですが、三年で戻す約束でございます」
劉巴は、俺のほうを一瞬だけ見た。
——去年、俺が期限を読んだ、あの約束である。
「期限を延ばせば、値が崩れます」
——これも、正しい。
◆
そして、彭羕。
「私なら、三つとも同時にできます」
——
広間が、微妙に静かになった。
「糧の配布、北への部隊派遣、そして一年後の準備。すべて並行して進められます」
「人が足りるか」
「足ります。段取りの問題でございます」
——
```
【彭羕】
自己評価 96 → 97
```
——上がった。
去年、俺が九下げた分が、じわじわ戻っている。
◆
劉備は、腕を組んで聞いていた。
そして——やった。
「孔明の申すとおり、民が第一だ。そのとおりだ」
「はっ」
「士元の申すとおり、山の入口は要る。そのとおりだ」
「はっ」
「孝直の申すとおり、機を待つのも兵法だ。そのとおりだ」
「はっ」
「子初の申すとおり、銭は大事だ。そのとおりだ」
「……はっ」
「永年が三つできると申すなら、やってみよ。そのとおりだ」
——
俺は、頭を抱えた。
七年前、赤壁の戦記を作ったとき、馬良の筆が止まった。
あのときと、同じである。
——いや。
あのときより、悪い。
あれは、記録の話だった。
今度は、命令である。
◆
——五日後。
現場で、それが起きた。
◆
俺は、その日、文書庫にいた。
八つになってから、俺は自分で竹簡を読めるようになった。
そして、読み始めると、止まらなくなった。
——前世の癖である。
現場の書類を全部読む。
そこにしか、本当のことは書いていない。
そして、俺は一本の竹簡を見つけた。
梓潼郡からの、報告である。
そこには、こう書いてあった。
> 《本郡、兵の徴発、二度に及ぶ》
——
俺は、その一行で、手が止まった。
◆
——二度。
同じ郡から、兵を二回、集めている。
——一回目は、龐統の命令だった。
「北の山道へ、五百」
——二回目は、彭羕の命令である。
「北方警戒のため、五百」
——同じ目的だ。
そして、別々に出された。
梓潼郡は、千人を出した。
——その郡の、丁(成人男子)の三割である。
冬である。
麦の種まきが、終わっていない。
◆
俺は、次の竹簡を探した。
そして、見つけた。
> 《涪城、糧、往復す》
——往復。
諸葛亮の命令で、涪城から各郡へ糧を配った。
その三日後、龐統の命令で、北へ送る糧を集めた。
——同じ糧である。
配った先から、また集めた。
運搬に、延べ二千人。
そして、往復のあいだに、
——雨が降った。
◆
```
【益州 物流】
穀物 輸送中損耗 推定 三千斛
運搬人足 延べ 二千百
再徴発による農作業遅延 梓潼郡ほか三郡
備考
当該損失は、いずれの命令にも違反しておりません。
すべての命令が、正しく実行されました。
```
——
すべての命令が、正しく実行された。
そして、三千斛が消えた。
◆
俺は、竹簡を持って走った。
八つの脚は、七つのときより速い。
それでも、二度転んだ。
——趙雲が、いない。
この人は、北の警戒に出ている。
転んでも、誰も拾わなかった。
自分で、立った。
◆
文書庫の奥に、陳紀がいた。
第十九話で、龐統を「風采も上がらぬ」と言った男である。
そして第二十話で、記録監査責任者になった。
【前例どおり】。改革意思十二。誤記発見九十一。
——この国の記録は、この人が守っている。
その陳紀が、床に座り込んでいた。
竹簡が、周りに散らばっている。
そして——
手が、震えていた。
◆
「ちんきどの」
陳紀が、顔を上げた。
目が、赤かった。
「……若君」
「どうしました」
「……」
「どうしました」
陳紀は、竹簡を指した。
そして、絞り出すように言った。
「私は、命令違反を犯しました」
——
「三つの命令が参りました」
「はい」
「どれにも、期限がございました」
「はい」
「そして、三つとも、同じ人足を要求しておりました」
——
「……私は、選びました」
「どれを」
「軍師将軍のを」
陳紀は、俯いた。
「理由は、いちばん先に届いたからでございます」
——
「そして、士元どののご命令が、遅れました」
「はい」
「三日、遅れました」
「はい」
「士元どのは、お怒りにございます」
——
「私は、処罰されます」
◆
俺は、その場に立ち尽くしていた。
——この人は、何も間違えていない。
三つの命令が来た。
全部やる人手が、ない。
——だから、選んだ。
先に来たものから。
それは、この人の【前例どおり】という性格が出した、最も無難な答えである。
そして、罰される。
◆
「ちんきどの」
「はい」
俺は、聞いた。
八つの口で、初めて、こういう長い文が言えた。
「三つの命令が来たとき、誰に聞けばよかったのですか」
——陳紀が、俺を見た。
そして、答えなかった。
「誰に聞けばよかったのですか」
「……」
「ちんきどの」
陳紀は、震える声で言った。
「分かりませぬ」
——
「軍師将軍と、軍師中郎将と、治中従事」
「はい」
「どなたが、上でございましょう」
——
俺は、そこで、答えられなかった。
——知らない。
俺も、知らない。
この国には、それが決まっていない。
◆
その日の夕方、俺は評定に乱入した。
八つである。
発言権は、まだない。
——構わなかった。
俺は、竹簡を三本、床に投げた。
音が、響いた。
「阿斗?」
劉備が、驚いた顔をした。
俺は、言った。
「ちちうえ」
「なんだ」
「梓潼郡が、兵を千人出しました」
——広間が、静かになった。
「千?」
「五百ずつ、二度です」
「なぜ、二度も」
俺は、龐統を見た。
そして、彭羕を見た。
「お二人が、別々に命じられました」
◆
龐統が、眉を上げた。
「私は、五百と命じました」
「はい」
「二度、命じてはおりませぬ」
「はい」
彭羕も言った。
「私も、五百でございます」
「はい」
「重ねてはおりませぬ」
「はい」
——
「お二人とも、正しいです」
俺は、言った。
「そして、梓潼郡には、千人来ました」
——
広間が、しんとした。
◆
「涪城の糧も、往復しました」
俺は、続けた。
「軍師将軍が配らせ、三日後に、軍師中郎将が集めさせました」
諸葛亮の羽扇が、止まった。
「……私は、各郡へ糧を配れと命じました」
「はい」
「それを集めよとは、命じておりませぬ」
「はい」
「孔明どのは、正しいです」
俺は、言った。
「そして、三千斛が、雨で腐りました」
◆
——沈黙が、長かった。
やがて、法正が口を開いた。
「若君」
「はい」
「誰が悪いと、お考えです」
——
俺は、その質問を、待っていた。
俺は、答えた。
「だれも、わるくありません」
——
「全員、正しいことを命じました」
「……」
「そして、現場に、三つ来ました」
「……」
「現場は、一つしか、できません」
◆
俺は、三本目の竹簡を指した。
「これは、陳紀どのの記録です」
「陳紀?」
「記録監査の」
「うむ」
「三つの命令を受けて、一つを選びました」
「うむ」
「そして、処罰されようとしています」
——
「理由は、命令違反です」
——
「どれを選んでも、二つに違反します」
◆
龐統が、酒杯を置いた。
この男が、評定で杯を置くのは、珍しい。
「……陳紀を、罰するなと?」
「はい」
「遅れたのは、事実です」
「はい」
「軍は、遅れれば死にます」
「はい」
俺は、言った。
「では、あの人は、どうすればよかったのですか」
——
龐統が、答えなかった。
俺は、続けた。
「三つ来たとき、誰に聞けばよいか、決まっていません」
「……」
「決まっていないのに、選ばせて、罰します」
「……」
「それは、あの人の責任ではありません」
◆
諸葛亮が、静かに言った。
「……若君」
「はい」
「では、誰の責任でございましょう」
——
俺は、そこで、一度、息を吸った。
八つの肺で、大きく吸った。
そして、言った。
「きめなかった人の、責任です」
——
広間が、凍った。
◆
——言ってから、俺は自分の言葉に気付いた。
「決めなかった人」というのは、誰か。
諸葛亮か。
龐統か。
——違う。
職掌を定めるのは、主君の仕事である。
——父だ。
そして。
……
——四年前、俺は、それを見ていた。
建安十五年。
龍と鳳が、矢の規格でぶつかった日。
あのとき、表示が出た。
```
職務重複率 71%
予測される問題
権限争い/二重命令/部下の派閥化/責任所在の曖昧化
備考
現時点では、両者の人格により表面化していません。
人格に依存した状態は、制度とは呼びません。
```
——四年前である。
俺は、あのとき「わける」と言った。
諸葛亮に「いま」を、龐統に「つぎ」を渡した。
——それで、済んだ気になっていた。
そして、四年で、人が三人増えた。
法正。劉巴。彭羕。
——分けた線が、増えた人の下で、消えた。
……
——きめなかった人の責任、と俺は言った。
その中に、俺も入っている。
◆
俺は、頭を下げた。
八つである。
膝をつくのは、まだ様にならない。
それでも、ついた。
「ちちうえ」
「阿斗。何をしておる」
「わたしも、きめませんでした」
——
「四年前、荊州で、職掌を分けよと申しました」
「うむ」
「そのあと、人が増えました」
「うむ」
「わたしは、増えたことを、知っていました」
「……」
「そして、分け直しませんでした」
——
広間が、静かだった。
誰も、何も言わなかった。
◆
やがて、劉備が言った。
「阿斗」
「はい」
「顔を上げよ」
俺は、顔を上げた。
父は、笑っていなかった。
——珍しい。
この人は、たいてい笑っている。
「お前は、八つだ」
「はい」
「職掌を定めるのは、私の役目だ」
「……」
「お前の責ではない」
——
「ですが」
「阿斗」
父の声が、少し強くなった。
「私は、決めるのが苦手だ」
——
「二十年、そうだった」
「……」
「誰かの顔を潰すのが、嫌なのだ」
——
この人は、初めて、それを言った。
「だから、全員に『そのとおりだ』と言う」
「……」
「そして、全員が、自分の案が通ったと思う」
「……」
「そして、こうなる」
劉備は、床の竹簡を見た。
三千斛と、千人と、一人の役人。
◆
「孔明」
「はっ」
「職掌を、定めよ」
「……はっ」
「士元も、孝直も、子初も、永年も、みな入れよ」
「はっ」
「そして、私にも、定めよ」
——
諸葛亮の羽扇が、止まった。
「……主公に、でございますか」
「うむ」
劉備は、言った。
「私が何を決め、何を決めぬかを、紙に書け」
「……」
「書いたら、私は守る」
——
```
【劉備】
約束管理 22 → 24
```
——二、上がった。
七年で、二である。
——だが、上がった。
◆
そして、陳紀の処分は、取り消された。
代わりに、この人には新しい役目が与えられた。
——龐統が、提案した。
「陳紀を、命令の照合役とせよ」
「照合?」
「出された命令を、すべて一箇所に集める。同じ人手、同じ糧、同じ船を求める命令が二つあれば、出す前に止める」
——
俺は、その提案に、驚いた。
——この男が、それを言うのか。
去年、俺が言った言葉を、この人は覚えていた。
> 「同じ帳が、二つの目的に使える。これを、良い制度と申します」
——今度は、逆である。
同じ人手に、二つの命令が来ることを、止める帳を作る。
◆
「士元どの」
諸葛亮が言った。
「はい」
「それは、あなたのご命令も止まりますが」
龐統は、酒を飲んだ。
そして、あっさり言った。
「止めていただきましょう」
「……」
「私は、三千斛を腐らせました」
——
「若君が数えたので、分かりました」
——
この男は、そういう人である。
上司配慮四。組織適応十一。
そして——間違いを認めるのが、この国で一番速い。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
そして、書いた。
《職掌を、決める》
《人が、増えたら、決め直す》
——二行目が、本体である。
分けるのは、一度ではない。
人が増えるたびに、分け直す。
——四年、それをしなかった。
そして、その下に、もう一行。
《陳紀どのは、悪くない》
——陳紀。
改革意思十二。
この人は、新しいことを何一つしない。
そして、この人がいなければ、誰も三千斛が消えたことに気付かなかった。
——記録していたのは、この人だからだ。
俺は、《名のない者》の簿を開いた。
七十四人になっていた。
そして、その中に、陳紀の名はない。
——理由は、簡単だった。
この人は、名のある人だからだ。
記録監査責任者である。
……
——だが。
この人の名を、誰が呼ぶだろう。
この人が今日、床に座り込んで手を震わせていたことを、誰が知るだろう。
俺は、筆を取った。
そして、《名のない者》の七十五人目に、書いた。
陳紀
——そして、その横に。
《皆、名前は、知っている》
次回 第45話「諸葛亮をCOOに任命する」




