第42話 馬超は、誰も信じない
その人が広間に入ると、誰も喋らなくなった。
恐れているのではない。
——何を話せばいいか、分からないのである。
◆
建安十九年の冬。
成都の評定に、馬超がいた。
字を孟起という。
——この人が来たから、成都は開いた。
去年の暮れ、劉璋は籠城していた。城には、まだ三万の兵と、一年分の糧があった。
それが、この人が来たと聞いた十日後に、降った。
戦っていない。
——名前だけで、城が落ちた。
◆
俺は、その人を見た。
背が高い。
肩幅が広い。
顔立ちが整っている。
——関羽とも張飛とも違う、涼州の骨格だった。
そして、若い。
まだ三十代の後半だろう。
それなのに——
この人には、老人のような静けさがあった。
◆
俺は、視界を開いた。
```
【馬超 字・孟起】
統率 94
武力 97
知略 68
政務 41
魅力 88
騎兵指揮 100
突破力 98
威名 100
西方人脈 96
自己弁明 4
他者信頼 9
帰属意識 6
固有特性
【錦馬超】
その名を聞いただけで、敵軍の士気が低下する。
【一族を失った者】
父を含む一族二百余人を、曹操に誅殺されている。
【疑われ続ける者】
降伏した先で、常に監視される立場に置かれてきた。
本人も、それを当然と考えている。
【正しく記された者】
本人の行動と、記録の内容が、一致している。
訂正の余地がない。
総合評価 S
重大危険
孤立/過度の自己抑制/保身のための密告
```
——他者信頼、九。
帰属意識、六。
孟達の十四より、低い。
そして、最後の特性。
【正しく記された者】
——
俺は、その五文字を、二度読んだ。
◆
評定のあいだ、馬超はほとんど喋らなかった。
発言を求められれば、短く答える。
それ以外は、黙っている。
姿勢を崩さない。
——一度も、崩さない。
俺は、その様子を見ていて、思った。
——この人は、面接を受け続けている。
降伏してから、ずっと。
そして、たぶん、一生、終わらない。
◆
評定が終わったあと、張飛が関羽に話しかけていた。
声が、大きい。
この人は、内緒話ができない。
「雲長。あの男、兄者を何と呼んだ」
「聞いた」
「玄徳、と呼んだぞ」
——
俺は、そこで動きを止めた。
——字で、呼んだ。
主君を、字で呼ぶ。
それは、対等の相手にすることである。
——涼州では、そうなのかもしれない。
あの土地では、劉備と馬騰は、同格の諸侯だった。
馬超にとって、劉備は「新しい上司」ではなく「昔からの同業者」だ。
——だが、蜀では違う。
「無礼であろう」
張飛が言った。
「次に呼んだら、俺が斬る」
関羽は、髭を撫でた。
そして、静かに言った。
「斬らずともよい」
「なぜだ」
「一度で、済む」
——
何が「一度で済む」のか。
俺は、翌日、それを見た。
◆
翌朝の評定。
劉備が入ってきた。
そして——その両脇に、関羽と張飛が立っていた。
剣を、帯びている。
何も言わない。
ただ、立っている。
——馬超が、それを見た。
そして、深く拝礼した。
「主公」
——
それで、終わりだった。
誰も、何も言わなかった。
張飛は満足そうで、関羽は無表情で、劉備は少し困った顔をしていた。
——そして、馬超は、その日から二度と、父を字で呼ばなかった。
```
【馬超】
自己抑制 71 → 88
帰属意識 6 → 4
```
——
二、下がった。
誰も、殴っていない。
誰も、罰していない。
——立っていただけだ。
◆
俺は、その日、馬超を探した。
城の外れの、馬場にいた。
一人で、馬の脚を見ていた。
——将軍が、自分でやる作業ではない。
「もうきどの」
馬超が、振り返った。
そして、即座に片膝をついた。
——速い。
反射である。
「若君」
「たって、いい」
「いえ」
「たって」
馬超は、立たなかった。
——この人は、俺を主君の子として扱っている。
七歳に、である。
◆
「もうきどの」
「はい」
「うま、すき?」
馬超が、少し目を上げた。
「……好き、というより」
「うん」
「分かるのは、これだけでございます」
——
この人は、そう言った。
——分かるのは、これだけ。
騎兵指揮百。
政務四十一。
そして、この国には、騎兵がほとんどいない。
蜀は、山の国である。
平原を駆ける戦は、ほとんどない。
——この人の百は、この土地では使えない。
◆
俺は、馬の脚を見た。
七歳の背では、腹しか見えない。
「もうきどの」
「はい」
「これ、どう?」
「……脚に、熱がございます」
「わるい?」
「明日、休ませれば治ります」
「なんで、わかる」
馬超は、初めて——少しだけ、表情を緩めた。
「触れば、分かります」
「うん」
「若君も、触れてご覧なさい」
——
俺は、驚いた。
この人が、俺に何かを勧めたのは、初めてだった。
◆
俺は、馬の脚に触った。
——熱い。
もう片方より、確かに熱い。
「あつい」
「はい」
「わかった」
「……」
「さわると、わかる」
馬超は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「父も、そう教えました」
——
俺は、そこで、聞くべきかどうか迷った。
そして、聞いた。
七歳だからだ。
七歳には、聞ける。
◆
「もうきどの」
「はい」
「おとうさまは」
——馬超の手が、止まった。
長い沈黙があった。
馬が、尾を振った。
そして、この人は、あっさりと言った。
「曹操に、殺されました」
「……」
「一族、二百余人でございます」
——二百。
俺は、その数字を聞いて、動けなくなった。
◆
「……なんで」
俺は、聞いた。
なぜ、そんなことになったのか。
それを聞いたつもりだった。
——だが、馬超は、別の答え方をした。
「私が、挙兵したからでございます」
——
俺は、顔を上げた。
「父は、許におりました」
「うん」
「朝廷に、召されておりました」
「うん」
「……人質でございます」
——
「そして、私は潼関で兵を挙げました」
「……」
「父が、あちらにいると知って、挙げました」
——
馬超は、続けた。
声が、まったく変わらない。
「負けました」
「……」
「そして、父と、弟たちが、殺されました」
◆
俺は、そこに立ったまま、動けなかった。
——記録に、どう書かれるか。
「馬超は、父を見捨てて挙兵した」
——そう、書かれる。
そして。
——それは、事実である。
◆
俺は、視界を見た。
```
固有特性【正しく記された者】
本人の行動と、記録の内容が、一致している。
訂正の余地がない。
```
——訂正の余地がない。
俺は、そこで、初めて理解した。
——法正は、「誤って記された者」だった。
「素行が悪い」と書かれた。事実ではなかった。
だから俺は、木簡に書いた。
《行い、悪くない》
四つの字である。
そして、あの人は、庭の土の上に手をついた。
——だが、この人には、それができない。
書き直せる嘘が、ない。
書かれていることが、全部、本当だからだ。
◆
「もうきどの」
「はい」
俺は、必死に言葉を探した。
——何を言えばいい。
「仕方がなかった」と言うのか。
この人は、それを何十回も言われただろう。
「あなたは悪くない」と言うのか。
——この人は、それを信じない。
信じられるなら、他者信頼が九にはならない。
俺は、結局、こう聞いた。
「うしろに、いる?」
「は?」
「ずっと、うしろに、だれか、いる?」
——馬超の目が、大きくなった。
◆
長い沈黙があった。
そして、この人は言った。
「……なぜ、それを」
「すわりかたが、へん」
俺は、答えた。
「かべを、みてる」
——
この人は、どの部屋でも、必ず壁を背にして座る。
そして、扉の位置を確認する。
——七年間、俺は英雄を観察してきた。
そういう座り方をするのは、この人だけだった。
◆
馬超は、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「冀城で、裏切られました」
「うん」
「私が城を空けたとき、私が信じた者が、門を閉じました」
「うん」
「妻と、子が、城の中におりました」
——
「戻ったときには、おりませんでした」
——
「それから、後ろが気になります」
```
【馬超】
他者信頼 9
```
——九。
この数字は、この人が悪いのではない。
この人に起きたことの、記録である。
◆
俺は、そこで、自分の無力を知った。
——俺には、木簡がある。
《名のない者》に、七十三人の名前を書いてきた。
《正しく呼ばれていない者》に、孟達の名を書いた。
《法正、行い、悪くない》と書いた。
——この人に、何を書けばいい。
「馬超は、父を見捨てていない」——嘘である。
「馬超は、悪くない」——判定できない。
「馬超は、裏切られた」——それは、書いても意味がない。
——
俺の方法は、ここで、通用しない。
◆
俺は、しばらく黙っていた。
そして、聞いた。
「もうきどの」
「はい」
「ぜんぶ、しんだ?」
「は?」
「にひゃくにん」
「……」
「ぜんぶ?」
——馬超は、答えなかった。
そして、しばらくして、言った。
「……一人、おります」
——
俺は、顔を上げた。
◆
「馬岱と申します」
「ばたい」
「従弟でございます」
「うん」
「若うございます。私より、十ほど下」
「うん」
「あれだけが、残りました」
——
馬超の声が、そこで、初めて変わった。
——ほんの少しだけ、である。
気付かない人のほうが多いだろう。
だが、七年間、人を観察してきた俺には、分かった。
この人が、この世で唯一、感情を出せる名前だった。
◆
俺は、帯から木簡を抜いた。
七歳の帯には、まだ挟まらない。
歩くと落ちる。
それでも、毎日、持ち歩いている。
「もうきどの」
「はい」
「なまえ、かいていい?」
馬超が、俺を見た。
「……私の、でございますか」
「ばたいどのの」
——
馬超の動きが、止まった。
「……なぜ」
俺は、答えた。
「ひとりだから」
——
「ひとりだと、わすれられる」
——
馬超は、長いこと、俺を見ていた。
そして——
片膝をついたまま、頭を下げた。
深く、深く、下げた。
「……お願いいたします」
◆
その夜、俺は木簡を出した。
《名のない者》
阿仙。阿六。王阿三。楊阿七。
——七十三人。
俺は、その下に書いた。
馬岱
そして、その横に、一行足した。
《一人だけ、残った》
```
【馬超 字・孟起】
劉禅への評価 主君の子 → ?
他者信頼 9 → 12
帰属意識 4 → 7
```
——三。
両方、三ずつ上がった。
そして、評価欄に、疑問符が出た。
——龐統のときと、同じである。
◆
俺は、死亡年表を開いた。
二〇九。二一二。二一四。二一九。二二〇。二二一。二二三。二二八。二二九。二三四。
——馬超の名は、ない。
書いていない。
——理由は、簡単である。
俺は、この人の没年を、覚えていなかった。
……いや。
違う。
——曖昧に、覚えている。
二二〇年代の、早い時期。
四十七で、病死。
戦場ではない。
暗殺でもない。
——ただ、病んで死ぬ。
法正と、同じだ。
俺は、しばらく迷った。
そして、二二二の行を、新しく作った。
馬超 四十七
——
記号を、描こうとした。
丸か。四角か。
——病である。
去年、俺は法正について同じことを考えた。
そして、丸を描いた。
「病は、どうやって変える」と思ったからだ。
——今日は。
俺は、筆を持ったまま、長いこと動かなかった。
そして。
——四角を、描いた。
理由は、一つだけである。
——この人は、まだ、四十を過ぎたばかりだ。
八年ある。
そして、この人が病むのは、傷のせいでも、疫のせいでもない。
たぶん——
壁を背にして座り続けたからだ。
扉の位置を、毎日確認し続けたからだ。
七年間、誰も後ろに立たせなかったからだ。
——それは、変えられるかもしれない。
制度では、無理だ。
だが、人は、置ける。
◆
俺は、木簡の余白に、一行書いた。
《孟起どのの、後ろに、立つ人を、探す》
——
そして、その下に。
《馬岱どのを、側に》
——八年ある。
この人の後ろに、誰かを一人、立たせる。
それだけで、四角が四角のまま終わるかもしれない。
——龐統のときは、兜だった。
兜一つで、四十一パーセントが止まった。
今度は、人である。
次回 第43話「彭羕は、抜擢されすぎた」




