第41話 名を変えられた男
その日、一人の男が、名前を取り上げられた。
十数秒で、終わった。
——そして、俺以外、誰も覚えていなかった。
◆
建安十九年の冬。
成都が開いてから、二十日が過ぎていた。
城内は、まだ、負けた街の匂いがしていた。
焼けた木と、片付けきれない糞尿と、そして誰も掃除しない官署の埃。
勝った側は忙しく、負けた側は動く理由がない。
だから街は、汚れたままだった。
◆
俺は、七つになっていた。
もう「勘のいい四歳」では通らない。
だが「妙に賢い七歳」なら、まだぎりぎり許される。
父は、俺を評定の隅に座らせるようになった。
発言権はない。
ただ座って、聞いている。
——それで、十分だった。
◆
その日、俺が聞いていたのは、辞令の読み上げだった。
論功行賞である。
益州平定の功に対して、官職と土地が配られていく。
法正——蜀郡太守・揚武将軍。
諸葛亮——軍師将軍。
龐統——軍師中郎将。
黄忠——討虜将軍。
馬超——平西将軍。
劉巴——左将軍西曹掾。
——読み上げの声が、単調に続く。
紙が、めくられる。
俺は、少し眠くなっていた。
◆
「孟達を、宜都太守に任ずる」
——
俺は、顔を上げた。
孟達が、前へ出た。
そして、拝礼した。
——三年前、荊州で初めて会ったときと、体格も態度も、ほとんど変わっていない。
堂々としていて、礼儀正しく、声が落ち着いている。
この場にいる誰よりも、まともに見える。
——それが、この男の最も危険なところだ。
◆
俺は、視界を確認した。
```
【孟達 字・子敬】
統率 85/武力 81/知略 79/政務 68/魅力 82
現場指揮 88
地方人脈 94
危機察知 91
忠誠安定 43
自己保全 97
帰属意識 11
将来離反危険度 54%
抑制要因 法正(同郷・唯一の理解者)
```
——帰属意識、十一。
三年前は、十四だった。
下がっている。
◆
宜都太守は、悪い人事ではない。
むしろ、要職である。
宜都は、長江の要衝だ。
——先月、俺が通ってきた場所である。
三峡を抜けた、その出口。
荊州と益州を繋ぐ、細い一本の線。
あのとき、俺は船の縁で思った。
> ——関羽が守っているのは、領土ではない。この線の、片方の端である。
そして今、もう片方の端に、この男が置かれる。
——線の、真ん中である。
功績に対して、不当ではない。
それなのに、なぜ帰属意識が下がる。
◆
「ただし——」
礼官が、竹簡をもう一本開いた。
「一つ、申し上げねばならぬことがございます」
孟達が、顔を上げた。
「主公の叔父君に、劉子敬さまと申される方がおられます」
——
室内の空気が、微妙に変わった。
「将軍の字と、重なっております」
——避諱だ。
主君の一族の名を、臣下が名乗り続けるのは無礼にあたる。
この時代の常識である。
俺も、知識としては知っていた。
——だが、実際に行われるところを見るのは、初めてだった。
「改めていただきたく存じます」
◆
沈黙が、落ちた。
俺は、孟達を見た。
——この男は、二十年以上、その字で生きてきたはずだ。
父がつけた字か、師がつけた字か、それは分からない。
だが、少なくとも成人したときから、周りの人間は全員、彼をそう呼んできた。
友も。
上官も。
部下も。
妻も。
——それを、今、取り上げられる。
◆
「……承知いたしました」
孟達は、言った。
——一拍の間も、なかった。
「では——子度と」
——
俺は、思わず息を止めた。
◆
——即答した。
名前を変えろと言われて、その場で新しい字を出せる人間が、どこにいる。
普通は、考える。
数日もらう。
一族に相談する。
字には典拠がいる。適当につけるものではない。
——用意していたのだ。
いつか言われると分かっていて、この男はずっと、二つ目の名前を懐に入れて歩いていた。
◆
劉備が、満足そうに頷いた。
「うむ。子度どの、と」
「はっ」
「これからも、頼む」
「身命を賭して」
——それで、終わりだった。
礼官が、次の竹簡を開いた。
読み上げが、次の人物へ移った。
誰も、この十数秒のことを気に留めなかった。
法正でさえ、である。
——同郷の、十五年の相棒でさえ。
俺だけが、動けなかった。
◆
評定のあと、俺は回廊で孟達を待った。
七歳の身長では、大人を待ち伏せるのに柱の陰は要らない。
ただ立っているだけで、誰も俺を障害物と認識しない。
孟達が、出てきた。
「子度どの」
——
孟達の足が、止まった。
振り返った顔に、初めて、はっきりした感情が浮かんでいた。
驚きだった。
◆
「……もう、そう呼んでくださるのですか」
「さっき、決まったことだから」
「はい」
「決まったなら、そう呼ぶ」
孟達は、しばらく黙っていた。
そして、何でもないことのように言った。
「皆さま、しばらくは子敬とお呼びになりますよ」
「なぜ」
「慣れですから」
「慣れなら、直せる」
「直す理由が、皆さまにはございません」
——
ああ。
俺は、そこで理解した。
この男は、これから何年も、間違えて呼ばれ続けるのだ。
そして——誰も、間違えたことに気づかない。
気づいたとしても、「ああ、そうだった、悪い悪い」で終わる。
孟達は「お気になさらず」と答える。
それが、百回、繰り返される。
——その百回のたびに、この男の帰属意識は、一ずつ削れていく。
◆
「子度どの」
「はい」
「腹が立ちますか」
——七歳の質問としては、あまりに直截すぎた。
だが俺は、聞いた。
孟達は、少し笑った。
「まさか」
「本当に」
「主公のご一族のお名を避けるのは、当然のことでございます」
「それは、理屈です」
俺は、言った。
「理屈は、聞いていません」
——孟達の笑みが、消えた。
回廊の外で、誰かが荷車を引いている音がした。
石畳の上を、木の車輪が跳ねている。
◆
「……若君」
「はい」
「三年前、荊州で、あなたさまはおっしゃいましたね」
「何を」
「逃げる前に、言え、と」
——覚えている。
四つのときだ。
あのとき俺は、こう言った。
> 「にげる、とき」
> 「にげる、まえに」
> 「いって」
俺は、頷いた。
「言っております」
「今、ですか」
「今でございます」
◆
孟達は、真っ直ぐに俺を見た。
「私は劉璋どのに仕え、益州の民を守るために働きました」
「はい」
「張魯を防ぎ、豪族と交渉し、兵を養いました」
「はい」
「功はございます」
「はい」
「それは正しく数えられ、宜都太守という職を賜りました。ありがたいことです」
——淡々としていた。
「ただ——」
孟達は、そこで一度、言葉を切った。
「私がこの国から貰ったものは、それだけでございます」
——
「職では、足りませんか」
「職は、働いた分の対価です」
孟達は、言った。
「対価は、もらったからといって、身内になった証にはなりません」
◆
——俺は、言葉を失った。
正確すぎる。
この男は、自分の状況を完璧に言語化している。
彼は、益州人ではない。
扶風の出身だ。
法正と二人、飢饉から逃げて益州へ来た流れ者である。
益州では「よそ者」であり、いま蜀では「旧劉璋派」だ。
荊州から来た古参にとっては新参で、益州豪族にとっては裏切り者。
——どこにも、この人の椅子がない。
そして、この国が彼に対して行った唯一の働きかけが、
「名前を変えろ」
だった。
◆
俺は、そこで、あることを思い出した。
——三年前、俺は木簡の隅に、二文字書いた。
《子敬》
そして、こう考えた。
> きれいな字だと思った。
あれは、魯粛の字である。
呉の重臣。
——あの人も、子敬だ。
そして、あの人は、変えていない。
変えなくてよかった。
——理由は、能力でも、功績でも、忠誠でもない。
あの人が、外にいたからである。
外にいる人間は、名前を守れる。
内に入った人間は、名前を取られる。
◆
俺は、拳を握った。
——おかしい。
去年、俺は制度を作った。
《戦死者名簿》
——名前を、記録する制度である。
そのために、三千百四十二人分の欄を作らせた。
そして今日、俺は、名前を消す儀式に立ち会った。
同じ一つの城で。
同じ月に。
◆
「子度どの」
「はい」
「私は、あなたの居場所を作ります」
——孟達が、瞬きをした。
「……居場所」
「はい」
「若君は、まだ七つでいらっしゃる」
「七つです」
「私は、四十を過ぎております」
「知っています」
「では、なぜ」
俺は、正直に答えた。
「あなたが、いつか逃げるからです」
——孟達の顔から、表情が完全に消えた。
回廊が、静まり返った。
◆
「……どういう意味でしょうか」
「意味は、そのままです」
俺は、続けた。
「あなたは危険を感じたら逃げます。それは臆病ではなく、生き残る力です。悪いことだと思っていません」
「では」
「ただ、逃げるときに、あなたは一人で逃げません」
——孟達の目が、わずかに動いた。
「あなたが逃げるとき、あなたの兵も逃げます」
「……」
「あなたが守っている土地も、一緒に持っていかれます」
「……」
「それは、私にとって困ります」
——そして、あなた自身にとっても。
魏へ行った孟達は、九年後に殺される。
司馬懿という男に、十六日で。
「だから」
俺は、言った。
「逃げなくてよい理由を、作ります」
「そんなものが、作れますか」
「分かりません」
俺は、正直に言った。
「作ろうとしたことのある人間が、この国に一人もいないので」
◆
——孟達が、初めて、声を出して笑った。
「……若君は、恐ろしい方だ」
「よく言われます」
「ですが」
孟達は、膝を折り、俺と目線を合わせた。
——三年前、荊州で張松がしたのと、同じ動作だった。
そして、張松は、去年死んだ。
「一つだけ、申し上げてよろしいか」
「どうぞ」
孟達は、言った。
「私を留めておきたいのなら、居場所より先に——」
「……」
「名を、呼んでください」
——
俺は、息を呑んだ。
「間違えず、でございます」
「……はい」
「それだけで、しばらくは持ちます」
孟達は、立ち上がり、礼をして去っていった。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
そして、新しい列を作った。
《正しく呼ばれていない者》
一行目に、書いた。
孟達 字・子度(旧・子敬)
視界に、表示が出た。
```
【孟達 字・子度】 ※旧字・子敬
帰属意識 11 → 13
将来離反危険度 54% → 51%
新規特性
【改めさせられた名】
組織から与えられた唯一のものが、義務であった。
所属先への感情的結び付きが形成されない。
```
——五十一パーセント。
三、下がった。
そして、新しい特性が生えた。
——【改めさせられた名】。
この特性名を、俺は長いこと見ていた。
◆
俺は、筆を置いて、天井を見上げた。
——制度は、作れる。
組織図も引ける。
権限も分けられる。
それが、俺の仕事だ。
前世で、何十社もやってきた。
だが。
——人が組織を「自分の場所だ」と思う理由を、俺は一度も設計したことがない。
給与でも、役職でも、権限でもない。
——名前を、間違えずに呼ぶこと。
それは、組織図に書けない。
課目にもならない。
数にも、できない。
そして——
それができなかった組織から、人は静かに出ていく。
◆
俺は、木簡の余白に、もう一行書いた。
《明日、朝の評定で、全員の字を正しく呼ぶ》
◆
翌朝、俺は実行した。
三十七人。
成都の評定に出ている、全員である。
孔明どの。士元どの。孝直どの。子初どの。子仲どの。漢升どの。孟起どの。
——そして、子度どの。
一人も、間違えなかった。
七歳の口には、言いにくい字が三つほどあった。
前の晩、部屋で練習した。
◆
——誰も、そのことに気づかなかった。
当たり前である。
正しく呼ぶというのは、そういうことだ。
間違えないと、誰も気づかない。
間違えたときだけ、少し気まずくなって、すぐ忘れられる。
——だから、誰も、直そうとしない。
直しても、何も起きないからだ。
◆
評定が終わって、皆が出ていく。
その途中で。
孟達だけが、一度、こちらを見た。
何も言わなかった。
礼もしなかった。
ただ、一度、見た。
そして、出ていった。
```
【孟達 字・子度】
帰属意識 13 → 14
```
——一。
一、上がった。
◆
その夜、俺はもう一枚、木簡を出した。
《名のない者》
阿仙。阿六。王阿三。楊阿七。
——七十三人になっていた。
俺は、その簿を見ながら、考えた。
——この簿は、名前のない人のために作った。
記録に載らない人。
呼ばれない人。
そして今日、新しい簿ができた。
《正しく呼ばれていない者》
——名前は、あるのだ。
載ってもいる。
ただ、誰も、正しく呼ばない。
——どちらのほうが、きついのだろう。
俺には、まだ分からなかった。
◆
最後に、俺は死亡年表を開いた。
二〇九——母。丸。
二一二——張松。丸。
二一四——龐統。四角。(生存確定)
二一九——関羽。丸。
二二〇——法正。丸。
二二一。二二三。
二二八——孟達。四角。
二二九。二三四。
——四角のままだ。
俺は、その四角の横に、三年前に書いた一行を見つけた。
《ほうせい、しんだら?》
——
あのとき、俺は気づいた。
抑制要因は、法正である。
その法正が、二二〇年に死ぬ。
そして、孟達が魏へ去るのも、二二〇年。
——同じ年だ。
俺は、その一行の下に、新しく書き足した。
《あと、六年》
——六年ある。
六年で、この男に、名前以外のものを渡さなければならない。
——名前は、俺が正しく呼ぶ。
それは、今日から始めた。
だが、それだけでは、足りない。
「しばらくは持ちます」と、本人が言った。
——しばらく、である。
六年ではない。
次回 第42話「馬超は、誰も信じない」




