表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生したら劉禅だったので、諸葛亮に有給休暇を取らせます~MBAホルダーの阿斗、関羽の孤立・張飛のパワハラ・孔明の過労死を組織改革で止める~  作者: 東雲 諒杏
第三部 蜀漢役員会は今日も大炎上

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
42/77

第41話 名を変えられた男


その日、一人の男が、名前を取り上げられた。


十数秒で、終わった。


——そして、俺以外、誰も覚えていなかった。



    ◆



建安(けんあん)十九年の冬。


成都が開いてから、二十日が過ぎていた。


城内は、まだ、負けた街の匂いがしていた。


焼けた木と、片付けきれない糞尿(ふんにょう)と、そして誰も掃除しない官署の埃。


勝った側は忙しく、負けた側は動く理由がない。


だから街は、汚れたままだった。



    ◆



俺は、七つになっていた。


もう「勘のいい四歳」では通らない。


だが「妙に賢い七歳」なら、まだぎりぎり許される。


父は、俺を評定の隅に座らせるようになった。


発言権はない。


ただ座って、聞いている。


——それで、十分だった。



    ◆



その日、俺が聞いていたのは、辞令の読み上げだった。


論功行賞である。


益州(えきしゅう)平定の功に対して、官職と土地が配られていく。


法正(ほうせい)——蜀郡(しょくぐん)太守・揚武将軍(ようぶしょうぐん)


諸葛亮(しょかつりょう)——軍師将軍(ぐんししょうぐん)


龐統(ほうとう)——軍師中郎将ぐんしちゅうろうしょう


黄忠(こうちゅう)——討虜将軍(とうりょしょうぐん)


馬超(ばちょう)——平西将軍(へいせいしょうぐん)


劉巴(りゅうは)——左将軍西曹掾さしょうぐんせいそうえん


——読み上げの声が、単調に続く。


紙が、めくられる。


俺は、少し眠くなっていた。



    ◆



孟達(もうたつ)を、宜都(ぎと)太守に任ずる」


——


俺は、顔を上げた。


孟達が、前へ出た。


そして、拝礼した。


——三年前、荊州(けいしゅう)で初めて会ったときと、体格も態度も、ほとんど変わっていない。


堂々としていて、礼儀正しく、声が落ち着いている。


この場にいる誰よりも、まともに見える。


——それが、この男の最も危険なところだ。



    ◆



俺は、視界を確認した。


```

【孟達 字・子敬】


統率 85/武力 81/知略 79/政務 68/魅力 82


現場指揮 88

地方人脈 94

危機察知 91

忠誠安定 43

自己保全 97

帰属意識 11


将来離反危険度 54%

 抑制要因 法正(同郷・唯一の理解者)

```


——帰属意識、十一。


三年前は、十四だった。


下がっている。



    ◆



宜都(ぎと)太守は、悪い人事ではない。


むしろ、要職である。


宜都は、長江(ちょうこう)の要衝だ。


——先月、俺が通ってきた場所である。


三峡(さんきょう)を抜けた、その出口。


荊州と益州を繋ぐ、細い一本の線。


あのとき、俺は船の縁で思った。


> ——関羽が守っているのは、領土ではない。この線の、片方の端である。


そして今、もう片方の端に、この男が置かれる。


——線の、真ん中である。


功績に対して、不当ではない。


それなのに、なぜ帰属意識が下がる。



    ◆



「ただし——」


礼官が、竹簡をもう一本開いた。


「一つ、申し上げねばならぬことがございます」


孟達が、顔を上げた。


「主公の叔父君に、劉子敬(りゅうしけい)さまと申される方がおられます」


——


室内の空気が、微妙に変わった。


「将軍の字と、重なっております」


——避諱(ひき)だ。


主君の一族の名を、臣下が名乗り続けるのは無礼にあたる。


この時代の常識である。


俺も、知識としては知っていた。


——だが、実際に行われるところを見るのは、初めてだった。


「改めていただきたく存じます」



    ◆



沈黙が、落ちた。


俺は、孟達を見た。


——この男は、二十年以上、その字で生きてきたはずだ。


父がつけた字か、師がつけた字か、それは分からない。


だが、少なくとも成人したときから、周りの人間は全員、彼をそう呼んできた。


友も。


上官も。


部下も。


妻も。


——それを、今、取り上げられる。



    ◆



「……承知いたしました」


孟達は、言った。


——一拍の間も、なかった。


「では——子度(しど)と」


——


俺は、思わず息を止めた。



    ◆



——即答した。


名前を変えろと言われて、その場で新しい字を出せる人間が、どこにいる。


普通は、考える。


数日もらう。


一族に相談する。


字には典拠(てんきょ)がいる。適当につけるものではない。


——用意していたのだ。


いつか言われると分かっていて、この男はずっと、二つ目の名前を懐に入れて歩いていた。



    ◆



劉備(りゅうび)が、満足そうに頷いた。


「うむ。子度(しど)どの、と」


「はっ」


「これからも、頼む」


「身命を賭して」


——それで、終わりだった。


礼官が、次の竹簡を開いた。


読み上げが、次の人物へ移った。


誰も、この十数秒のことを気に留めなかった。


法正(ほうせい)でさえ、である。


——同郷の、十五年の相棒でさえ。


俺だけが、動けなかった。



    ◆



評定のあと、俺は回廊で孟達を待った。


七歳の身長では、大人を待ち伏せるのに柱の陰は要らない。


ただ立っているだけで、誰も俺を障害物と認識しない。


孟達が、出てきた。


子度(しど)どの」


——


孟達の足が、止まった。


振り返った顔に、初めて、はっきりした感情が浮かんでいた。


驚きだった。



    ◆



「……もう、そう呼んでくださるのですか」


「さっき、決まったことだから」


「はい」


「決まったなら、そう呼ぶ」


孟達は、しばらく黙っていた。


そして、何でもないことのように言った。


「皆さま、しばらくは子敬(しけい)とお呼びになりますよ」


「なぜ」


「慣れですから」


「慣れなら、直せる」


「直す理由が、皆さまにはございません」


——


ああ。


俺は、そこで理解した。


この男は、これから何年も、間違えて呼ばれ続けるのだ。


そして——誰も、間違えたことに気づかない。


気づいたとしても、「ああ、そうだった、悪い悪い」で終わる。


孟達は「お気になさらず」と答える。


それが、百回、繰り返される。


——その百回のたびに、この男の帰属意識は、一ずつ削れていく。



    ◆



「子度どの」


「はい」


「腹が立ちますか」


——七歳の質問としては、あまりに直截すぎた。


だが俺は、聞いた。


孟達は、少し笑った。


「まさか」


「本当に」


「主公のご一族のお名を避けるのは、当然のことでございます」


「それは、理屈です」


俺は、言った。


「理屈は、聞いていません」


——孟達の笑みが、消えた。


回廊の外で、誰かが荷車を引いている音がした。


石畳の上を、木の車輪が跳ねている。



    ◆



「……若君」


「はい」


「三年前、荊州で、あなたさまはおっしゃいましたね」


「何を」


「逃げる前に、言え、と」


——覚えている。


四つのときだ。


あのとき俺は、こう言った。


> 「にげる、とき」

> 「にげる、まえに」

> 「いって」


俺は、頷いた。


「言っております」


「今、ですか」


「今でございます」



    ◆



孟達は、真っ直ぐに俺を見た。


「私は劉璋(りゅうしょう)どのに仕え、益州の民を守るために働きました」


「はい」


張魯(ちょうろ)を防ぎ、豪族と交渉し、兵を養いました」


「はい」


「功はございます」


「はい」


「それは正しく数えられ、宜都太守という職を賜りました。ありがたいことです」


——淡々としていた。


「ただ——」


孟達は、そこで一度、言葉を切った。


「私がこの国から(もら)ったものは、それだけでございます」


——


「職では、足りませんか」


「職は、働いた分の対価です」


孟達は、言った。


「対価は、もらったからといって、身内になった証にはなりません」



    ◆



——俺は、言葉を失った。


正確すぎる。


この男は、自分の状況を完璧に言語化している。


彼は、益州人ではない。


扶風(ふふう)の出身だ。


法正(ほうせい)と二人、飢饉から逃げて益州へ来た流れ者である。


益州では「よそ者」であり、いま蜀では「旧劉璋派」だ。


荊州から来た古参にとっては新参で、益州豪族にとっては裏切り者。


——どこにも、この人の椅子がない。


そして、この国が彼に対して行った唯一の働きかけが、


「名前を変えろ」


だった。



    ◆



俺は、そこで、あることを思い出した。


——三年前、俺は木簡の隅に、二文字書いた。


《子敬》


そして、こう考えた。


> きれいな字だと思った。


あれは、魯粛(ろしゅく)の字である。


呉の重臣。


——あの人も、子敬だ。


そして、あの人は、変えていない。


変えなくてよかった。


——理由は、能力でも、功績でも、忠誠でもない。


あの人が、外にいたからである。


外にいる人間は、名前を守れる。


内に入った人間は、名前を取られる。



    ◆



俺は、拳を握った。


——おかしい。


去年、俺は制度を作った。


《戦死者名簿》


——名前を、記録する制度である。


そのために、三千百四十二人分の欄を作らせた。


そして今日、俺は、名前を消す儀式に立ち会った。


同じ一つの城で。


同じ月に。



    ◆



「子度どの」


「はい」


「私は、あなたの居場所を作ります」


——孟達が、瞬きをした。


「……居場所」


「はい」


「若君は、まだ七つでいらっしゃる」


「七つです」


「私は、四十を過ぎております」


「知っています」


「では、なぜ」


俺は、正直に答えた。


「あなたが、いつか逃げるからです」


——孟達の顔から、表情が完全に消えた。


回廊が、静まり返った。



    ◆



「……どういう意味でしょうか」


「意味は、そのままです」


俺は、続けた。


「あなたは危険を感じたら逃げます。それは臆病ではなく、生き残る力です。悪いことだと思っていません」


「では」


「ただ、逃げるときに、あなたは一人で逃げません」


——孟達の目が、わずかに動いた。


「あなたが逃げるとき、あなたの兵も逃げます」


「……」


「あなたが守っている土地も、一緒に持っていかれます」


「……」


「それは、私にとって困ります」


——そして、あなた自身にとっても。


魏へ行った孟達は、九年後に殺される。


司馬懿(しばい)という男に、十六日で。


「だから」


俺は、言った。


「逃げなくてよい理由を、作ります」


「そんなものが、作れますか」


「分かりません」


俺は、正直に言った。


「作ろうとしたことのある人間が、この国に一人もいないので」



    ◆



——孟達が、初めて、声を出して笑った。


「……若君は、恐ろしい方だ」


「よく言われます」


「ですが」


孟達は、膝を折り、俺と目線を合わせた。


——三年前、荊州で張松(ちょうしょう)がしたのと、同じ動作だった。


そして、張松は、去年死んだ。


「一つだけ、申し上げてよろしいか」


「どうぞ」


孟達は、言った。


「私を留めておきたいのなら、居場所より先に——」


「……」


「名を、呼んでください」


——


俺は、息を呑んだ。


「間違えず、でございます」


「……はい」


「それだけで、しばらくは持ちます」


孟達は、立ち上がり、礼をして去っていった。



    ◆



その夜、俺は木簡を出した。


そして、新しい列を作った。


《正しく呼ばれていない者》


一行目に、書いた。


孟達(もうたつ) 字・子度(しど)(旧・子敬(しけい)


視界に、表示が出た。


```

【孟達 字・子度】 ※旧字・子敬


帰属意識 11 → 13

将来離反危険度 54% → 51%


新規特性

【改めさせられた名】

 組織から与えられた唯一のものが、義務であった。

 所属先への感情的結び付きが形成されない。

```


——五十一パーセント。


三、下がった。


そして、新しい特性が生えた。


——【改めさせられた名】。


この特性名を、俺は長いこと見ていた。



    ◆



俺は、筆を置いて、天井を見上げた。


——制度は、作れる。


組織図も引ける。


権限も分けられる。


それが、俺の仕事だ。


前世で、何十社もやってきた。


だが。


——人が組織を「自分の場所だ」と思う理由を、俺は一度も設計したことがない。


給与でも、役職でも、権限でもない。


——名前を、間違えずに呼ぶこと。


それは、組織図に書けない。


課目にもならない。


数にも、できない。


そして——


それができなかった組織から、人は静かに出ていく。



    ◆



俺は、木簡の余白に、もう一行書いた。


《明日、朝の評定で、全員の字を正しく呼ぶ》



    ◆



翌朝、俺は実行した。


三十七人。


成都の評定に出ている、全員である。


孔明(こうめい)どの。士元(しげん)どの。孝直(こうちょく)どの。子初(ししょ)どの。子仲(しちゅう)どの。漢升(かんしょう)どの。孟起(もうき)どの。


——そして、子度(しど)どの。


一人も、間違えなかった。


七歳の口には、言いにくい字が三つほどあった。


前の晩、部屋で練習した。



    ◆



——誰も、そのことに気づかなかった。


当たり前である。


正しく呼ぶというのは、そういうことだ。


間違えないと、誰も気づかない。


間違えたときだけ、少し気まずくなって、すぐ忘れられる。


——だから、誰も、直そうとしない。


直しても、何も起きないからだ。



    ◆



評定が終わって、皆が出ていく。


その途中で。


孟達(もうたつ)だけが、一度、こちらを見た。


何も言わなかった。


礼もしなかった。


ただ、一度、見た。


そして、出ていった。


```

【孟達 字・子度】

帰属意識 13 → 14

```


——一。


一、上がった。



    ◆



その夜、俺はもう一枚、木簡を出した。


《名のない者》


阿仙(あせん)阿六(あろく)王阿三(おうあさん)楊阿七(よう・あしち)


——七十三人になっていた。


俺は、その簿を見ながら、考えた。


——この簿は、名前のない人のために作った。


記録に載らない人。


呼ばれない人。


そして今日、新しい簿ができた。


《正しく呼ばれていない者》


——名前は、あるのだ。


載ってもいる。


ただ、誰も、正しく呼ばない。


——どちらのほうが、きついのだろう。


俺には、まだ分からなかった。



    ◆



最後に、俺は死亡年表を開いた。


二〇九——母。丸。


二一二——張松(ちょうしょう)。丸。


二一四——龐統(ほうとう)。四角。(生存確定)


二一九——関羽(かんう)。丸。


二二〇——法正(ほうせい)。丸。


二二一。二二三。


二二八——孟達(もうたつ)。四角。


二二九。二三四。


——四角のままだ。


俺は、その四角の横に、三年前に書いた一行を見つけた。


《ほうせい、しんだら?》


——


あのとき、俺は気づいた。


抑制要因は、法正である。


その法正が、二二〇年に死ぬ。


そして、孟達が魏へ去るのも、二二〇年。


——同じ年だ。


俺は、その一行の下に、新しく書き足した。


《あと、六年》


——六年ある。


六年で、この男に、名前以外のものを渡さなければならない。


——名前は、俺が正しく呼ぶ。


それは、今日から始めた。


だが、それだけでは、足りない。


「しばらくは持ちます」と、本人が言った。


——しばらく、である。


六年ではない。



次回 第42話「馬超は、誰も信じない」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ