第39話 成都買収後の百日計画
成都に着いた日、俺は市場を見た。
店が、開いていた。
——落城から、二か月である。
◆
建安十九年の秋。
俺は、生まれて初めて、荊州を出た。
長江を、遡る。
三十日以上かかった。
三峡を通ったとき、俺は船の縁から動けなかった。
両側が、壁だった。
空が、細い。
水音が、岩に跳ね返って、腹に響く。
——地図では、線が一本引いてあるだけだった。
実際は、こうだった。
この一本の線を通らなければ、荊州と益州は繋がらない。
そして、この線が塞がれたら——
二つの土地は、別の国になる。
俺は、そこで、初めて実感した。
——関羽が守っているのは、領土ではない。
この線の、片方の端である。
◆
成都は、大きかった。
荊州の公安とは、比較にならない。
城壁が長い。街路が広い。人が多い。
そして——市が立っていた。
俺は、輿の上から、それを見ていた。
布を売る店。
塩を量る店。
魚を並べる店。
竹細工の店。
子供が走っている。
犬が寝ている。
婆さんが、店主と値段でもめている。
——落城から、二か月である。
◆
前世で、俺は買収直後の会社を、何十社も見た。
買収の翌週、社内は必ず死ぬ。
誰も喋らない。
廊下で目を合わせない。
辞める人間が出る。
そして三か月後、優秀な人から順にいなくなる。
——占領も、同じはずだった。
それが、二か月で市が立っている。
◆
「阿斗」
声がした。
——三年ぶりの、声だった。
俺は、振り返った。
劉備が、立っていた。
——老けていた。
目の下の皺が、深い。
髪に、白いものが増えている。
そして、少し痩せていた。
「……ちちうえ」
「大きくなったな」
——それだけ言って、この人は俺を抱き上げた。
三年前より、腕の力が弱かった。
それでも、投げなかった。
◆
「阿斗」
「うん」
「父が、お前に見せたかったのは、これだ」
劉備は、市場を指した。
「みせ」
「うむ」
「うん」
「焼かなかった」
——
「兵に、略奪を許さなかった。一人も、だ」
「うん」
「不満は出た。一年半、雒城で戦った兵だ。褒美が欲しかろう」
「うん」
「それでも、許さなかった」
劉備は、市場を見ていた。
「三年前、お前が申したな」
「なに」
「『益州人を、敗者にするな』と」
——
俺は、そんなことを言った覚えがない。
……いや。
言ったかもしれない。
四つの頃だ。
覚えていないほど、たくさんのことを言った。
——だが、この人は、覚えていた。
そして、三年かけて、実行した。
◆
俺は、視界を確認した。
```
【益州の民】
劉備軍への評価 やや好意的 → 好意的
略奪被害 なし
市場活動 回復(落城前比 71%)
備考
占領軍が略奪を行わなかった事例は、
当該時代において極めて稀です。
```
——七十一パーセント。
二か月で、七割まで戻った。
前世の統合案件で、これができたら、俺は表彰されている。
◆
その夜、宴があった。
——三年ぶりに、全員が揃った。
◆
趙雲。
この人は、俺を見た瞬間、片膝をついた。
「若君」
「しりゅう」
「……ご無事で」
「うん」
俺は、そこで、言葉が出なくなった。
——一年である。
去年の冬に別れた。
七年間、毎日そばにいた人が、一年いなかった。
俺は、この人の袍を掴んだ。
七歳である。
もう、抱っこをせがむ歳ではない。
——それでも、掴んだ。
趙雲は、何も言わずに、抱き上げた。
そして、小さな声で言った。
「……重くなられました」
「うるさい」
——泣きそうだったので、そう言った。
◆
張飛。
この人は、遠くから走ってきて、俺を高く持ち上げた。
「阿斗ォ!」
「たかい!」
「大きくなったな!」
「おろして!」
——変わっていない。
三年経っても、この人だけは、何も変わっていない。
だが、下ろされたあと、張飛は懐から何かを出した。
竹簡である。
汚い。
泥がついている。
「阿斗」
「なに」
「読め」
俺は、受け取って、開いた。
——字が、下手だった。
恐ろしく、下手だった。
そして、名前が書いてあった。
六つ。
「……これ」
「俺が、殴った者だ」
——
俺は、顔を上げた。
「一年で、六人だ」
張飛は、腕を組んだ。
「その前の年は、阿斗の簿では、何人だった」
「……にじゅうご」
「減ったな」
——
この人は、自分で数えていた。
一年間、自分で。
そして、名前を書いていた。
字が下手なので、書くのに時間がかかっただろう。
六人分、書いた。
```
【張飛】
暗殺危険度 7% → 6%
```
——一、下がった。
七年で、初めて下がった。
「よくとく」
「うむ」
「すごい」
「当然だ!」
張飛は、胸を張った。
そして、小さな声で付け足した。
「……七人目を殴りかけて、やめた」
「うん」
「あれが、一番、きつかった」
◆
諸葛亮。
この人は、変わっていた。
——痩せていた。
目の下に、影がある。
七年前、初めて会ったとき、この人には影がなかった。
「若君」
「せんせい」
「よくぞ、お越しに」
俺は、この人を見上げた。
そして、言った。
「ねてない」
「……」
「ねてない!」
「若君。到着早々、それでございますか」
「ねてない!」
```
【諸葛亮】
睡眠時間 直近三日 三刻
```
——六時間。
三日で、である。
七年前と、まったく変わっていない。
変わったのは、この人の顔だけだ。
◆
俺は、その夜、宴の途中で、広間を見回した。
——龐統がいる。
法正がいる。
趙雲がいる。
張飛がいる。
糜竺も、孫乾も、馬良もいる。
父もいる。
……
——先生の家族が、いない。
俺は、そのとき、初めてそのことに気付いた。
三年ぶりの再会である。
家族がいれば、来る。
来ないということは、いない。
——七年である。
七年、俺はこの人の家族の話を、一度も聞いていない。
いや。
——一度だけ、聞いた。
五年前、公安で、羽扇のことを尋ねたときだ。
「これ、だれの」
「……ある者から、贈られました」
「だれ」
「若君には、まだ早いお話です」
そして、俺がもう一度聞いたとき、この人はまったく同じ台詞で逃げた。
——二度、同じ台詞である。
……
俺は、馬良を探した。
この人は、真面目である。
そして、こういうことを、正確に知っている。
「きじょう」
「若君? どうなさいました」
「せんせいの、おうちは」
馬良は、少し驚いた顔をした。
「孔明さまの、でございますか」
「うん」
「隆中にございます」
「まだ、ある?」
「……ございましょう」
「だれか、いる?」
馬良は、答えにくそうにした。
そして、小さな声で言った。
「……奥方さまが、おられます」
——
「なんて、いうひと」
「黄氏にございます」
「なまえは」
馬良は、俺を見た。
そして、正直に答えた。
「……存じ上げませぬ」
——
俺は、そこで、動きを止めた。
「きじょう」
「はい」
「あなたは、なんねん、せんせいと、はたらいていますか」
「……五年でございます」
「そのあいだに、おくがたさまに、あいましたか」
馬良は、しばらく黙った。
そして、言った。
「……一度も、ございませぬ」
——
俺は、宴の広間を、もう一度見た。
酒がある。肉がある。
三年ぶりに会った人たちが、笑っている。
その中央で、諸葛亮が、羽扇を動かしている。
——三年である。
三年、この人は西にいる。
そして、その前の三年は、荊州にいた。
——六年、家に帰っていない。
「きじょう」
「はい」
「おくがたさまを、よべますか」
馬良の手から、杯が落ちそうになった。
「……若君」
「よべますか」
「……荊州からでございます。三十日、かかります」
「うん」
「そして——」
馬良は、言葉を選んだ。
「……孔明さまが、お呼びになりませぬ」
——
「なんで」
「分かりませぬ」
馬良は、白い眉を下げた。
「……ただ」
「うん」
「呼べば、ご自分が帰らぬことになりますゆえ」
——
俺は、その一言で、全部が分かった。
——この人は、家族を呼ばない。
呼べば、「もう帰らない」と決めたことになるからだ。
呼ばずにおけば、「いつか帰る」という嘘が、まだ持つ。
——五年前、この人は言った。
「私は、帰るために働いております」
——
嘘である。
そして、この人自身が、それを嘘にしないために、家族を呼ばずにいる。
◆
龐統。
この男は、宴の隅で酒を飲んでいた。
そして、俺が近づくと、顔を上げた。
——右の頬に、傷があった。
目尻から、顎の近くまで。
——
あの矢の傷である。
「若君」
「しげん」
「大きくなられましたな」
「……」
俺は、その傷を見ていた。
言葉が、出なかった。
龐統は、俺の視線に気付いた。
そして、あっさり言った。
「これでございますか」
「うん」
「兜のおかげで、ここで止まりました」
彼は、傷を指でなぞった。
「兜がなければ、ここまで来ておりました」
——指が、眉間まで上がった。
——
俺は、そこで、腰が抜けた。
その場に、座り込んだ。
「若君?」
「……」
「いかがなさいました」
——俺は、答えられなかった。
四十一パーセントという数字を、俺は毎日見ていた。
数字だった。
——今、それが、顔の上にある。
眉間から顎まで、一本の線として。
◆
龐統は、しばらく黙っていた。
そして、床に座った。
俺と、同じ高さになった。
「若君」
「……」
「私は、あなた様の書状を、九通いただきました」
「うん」
「そのうち、七通は『かぶと』とだけ書いてございました」
「……うん」
「残る二通は、『かぶと』と『はずすな』でございます」
「……」
「内容が、あまりに乏しゅうございます」
——
俺は、そこで、少し笑った。
笑ったつもりが、変な音が出た。
龐統は、そのまま続けた。
「若君」
「なに」
「礼を申します」
——
「私は、あなた様に煩がられ、煩わされ、九通も同じことを書かれ、そして生きております」
彼は、杯を置いた。
「生きているというのは、妙な気分でございますな」
◆
法正。
この男は、宴の中心にいた。
三年前とは、別人である。
蜀郡太守。
益州の、実質的な差配役。
そして——笑っていた。
あの、演技の笑いではなかった。
「若君」
法正は、俺の前へ来て、深く礼をした。
「こうちょくどの」
「三年ぶりにございます」
「うん」
「私は、いま、蜀郡太守にございます」
「しってる」
「……」
法正は、少し黙った。
そして、言った。
「十五年、軍議校尉でございました」
「うん」
「三年で、太守にございます」
「うん」
「若君」
「なに」
法正は、俺を見た。
「簿は、まだお持ちですか」
——
俺は、帯から木簡を抜いた。
七歳の帯には、まだ挟まらない。
歩くたびに落ちる。
それでも、持ってきた。
荊州から、三十日の船旅を、これを持って来た。
法正は、それを見た。
《法正 字 孝直》
《行い、悪くない》
——四つの頃の、歪んだ字である。
法正は、長いこと、それを見ていた。
そして、言った。
「……もう、要りませぬな」
「いる」
俺は、即答した。
「え」
「まだ、いる」
法正が、俺を見た。
「なぜでございます」
俺は、答えた。
「すこし、あぶない」
```
【法正】
私怨 91 → 88
```
——三、下がった。
そして、まだ八十八である。
法正は、声を出して笑った。
「さすが、若君でございます」
◆
宴の翌日、俺は成都の外へ連れて行かれた。
諸葛亮が案内した。
「若君に、見ていただきたいものがございます」
「なに」
「都江堰でございます」
——聞いたことのない名前だった。
◆
それは、川だった。
正確には、川を割る仕掛けである。
岷江という川が、山から成都平原へ出てくる。
そこに、堤が築かれていた。
川が、二つに分かれている。
片方は、そのまま流れていく。
もう片方は、細い水路になって、平原へ引かれていく。
「これは」
俺は、聞いた。
「水を、分けております」
諸葛亮が答えた。
「洪水のときは、余分な水を外江へ流します」
「うん」
「渇水のときは、内江へ多く引きます」
「うん」
「堰を上げ下げせずに、そうなります」
——
「川の流れの速さと、堤の形だけで、そうなるように作られております」
——
俺は、その堤を、長いこと見ていた。
——人が、いない。
堰を操作する役人が、いない。
川が勝手に分かれて、勝手に量が変わる。
「せんせい」
「はい」
「だれが、つくった」
諸葛亮は、答えた。
「李冰という方でございます」
「いま、どこ」
「四百年前の方でございます」
——
俺は、そこで、動けなくなった。
◆
「四百年前」
「はい。秦の頃でございます」
「……」
「その方は、既にこの世におられませぬ」
「うん」
「それでも、この堤は、水を分け続けております」
——
四百年。
作った人は、いない。
引き継いだ人も、たぶん何十代も入れ替わっている。
——それでも、動いている。
この平原に米が実るのは、四百年前に死んだ男が、川の形を計算したからだ。
そして、その男の名を、この土地の農民は、たぶん知らない。
——知らなくても、米は実る。
◆
俺は、その場に座り込んだ。
膝が、震えていた。
「若君?」
「……」
「いかがなさいました」
俺は、答えられなかった。
——七年前、俺は木簡に書いた。
《英雄がいなくても動く国家を作る》
あれは、俺が前世から持ってきた言葉だった。
経営の言葉だ。
属人化の排除。持続可能な組織。
——ずっと、それを言ってきた。
そして今日、初めて、実物を見た。
四百年、動いているものを。
俺は、諸葛亮を見上げた。
「せんせい」
「はい」
「これ、つくりたい」
「堤を、でございますか」
「ちがう」
俺は、首を振った。
そして、言った。
「くにを」
◆
諸葛亮は、しばらく俺を見ていた。
そして——羽扇を、閉じた。
「……若君」
「うん」
「それは、私が七年前に、隆中で申したことでございます」
「え」
「天下三分」
「……」
「あのとき、私は主公に申しました。荊州を取り、益州を取り、天下を三つに分けよと」
「うん」
「そして、その先を、申しませんでした」
——
「三つに分けたあと、何を作るのか」
諸葛亮は、都江堰を見ていた。
「私は、それを考えておりませんでした」
「……」
「戦のことだけを、考えておりました」
そして、この人は言った。
「若君は、四百年もつものを作れと仰せです」
「うん」
「……」
「できる?」
諸葛亮は、答えなかった。
代わりに、こう言った。
「私は、あと二十年、生きられるかどうかでございます」
——
俺は、その一言に、殴られた気がした。
——二十年。
この人は、あと二十年、と言った。
俺は、知っている。
——二十年、ない。
◆
その夜、俺は府庫の帳簿を見せてもらった。
七歳が帳簿を見たいと言うと、糜竺は喜んで持ってきた。
この人は、俺が「ちょ」と言った日から、ずっとこうである。
俺は、竹簡を開いた。
そして——
手が、止まった。
```
【益州 府庫】
接収時 金・銀・銭・錦 多数
現在
金 —
銀 —
銭 —
錦 —
備考
全額、将兵への恩賞として支出済み
```
——空だった。
綺麗に、空だった。
「……びじく」
「はい」
「これ」
「はい」
「からっぽ」
糜竺の顔が、みるみる青ざめた。
「……はい」
「なんで」
「……主公が」
——
「兵に、褒美を出されました」
「いくら」
「……全部にございます」
——
俺は、その場に座り込んだ。
今日、二度目である。
```
【劉備】
財務管理 31
```
——三十一。
七年前と、まったく同じ数字だった。
次回 第40話「益州人を敗者にするな」




