第37話 死ぬはずだった男
その朝、表示が消えた。
龐統の、死亡危険度である。
——数字が、なくなっていた。
◆
建安十九年の夏。
俺は、七つになろうとしていた。
雒城の攻囲は、一年を超えていた。
——長い。
長すぎる。
前世の感覚で言えば、一つの案件に一年半かかっている。
その間、他のすべてが止まっている。
荊州からは、兵と糧を送り続けた。
送っても、送っても、城は落ちない。
◆
俺は、毎朝、視界を確認していた。
——習慣になっていた。
歯を磨くより先に、確認していた。
```
【龐統 字・士元】
落鳳坡死亡危険度 41%
```
四十一。
——三月前と、同じである。
動いていない。
兜をかぶらせた。斥候を二倍にした。別働隊を先行させた。危機評価役を置いた。
そして、四十一。
——これ以上、俺にできることがない。
四百里の彼方で起きることを、七歳が動かす方法は、もうなかった。
◆
七月に入って、報せが来た。
——総攻めが決まったという。
一年の攻囲で、城の糧が尽きかけている。
そして、こちらの兵も限界だった。
どちらが先に潰れるかの勝負になっていた。
関羽が、竹簡を読んで、低く言った。
「兄者は、決めたな」
「きめた?」
「もう、待たぬということだ」
俺は、視界を開いた。
```
【龐統】
落鳳坡死亡危険度 41% → 58%
変動要因
・総攻めへの参加
・前線指揮の必要性
```
——五十八。
——
五十八という数字を、俺は知っている。
張松である。
二年前、あの人の「兄への情報開示確率」が、五十八だった。
そして、起きた。
◆
俺は、その夜、眠れなかった。
書状を書こうとした。
——何を書けばいい。
「行くな」と書いても、届くのは十日後だ。
総攻めは、もう始まっている。
俺は、筆を持ったまま、朝まで座っていた。
そして、何も書けなかった。
——初めてだった。
転生してから七年。
何かできることが、一つもない朝は、初めてだった。
◆
そして、三日後。
表示が、消えた。
```
【龐統 字・士元】
落鳳坡死亡危険度 —
```
——
俺は、寝床から転がり落ちた。
膝を打った。
痛みは、感じなかった。
——見間違いだと思った。
何度も瞬きをした。
表示は、変わらなかった。
——空欄である。
数字が、消えている。
◆
五年前、俺は同じものを見た。
母の寝台の前で。
```
【甘夫人】
```
その下に、何もなかった。
生命危険度も、疲労も、恐怖も、何一つ。
——数字が消えるというのは、そういう意味だ。
俺は、部屋を飛び出した。
七歳の脚で、廊下を走った。
三度、転んだ。
膝から血が出た。
構わなかった。
◆
「馬良!」
「若君? どうなさいました、そのお膝は」
「えきしゅう」
「は?」
「えきしゅうから、なにか、きた?」
馬良は、首を振った。
「まだ、何も」
「いつ」
「若君?」
「いつ、くる」
馬良は、俺の様子に驚いていた。
「……早ければ、本日中には」
——本日中。
俺は、その場に座り込んだ。
◆
伝令が来たのは、日が傾いてからだった。
馬を、二頭潰したという。
俺は、城門で待っていた。
関羽が、隣に立っていた。
この人は、何も聞かなかった。
ただ、朝からずっと俺の隣にいた。
伝令が、馬から降りる。
——顔が、見えた。
俺は、その顔を見た。
泣いていなかった。
——だが、笑ってもいなかった。
疲れ切った、無表情だった。
——どちらとも、取れる顔だった。
◆
「雒城、落ちましてございます」
——
「劉循は降り、我が軍は成都へ向かっております」
関羽が、頷いた。
「よくやった」
「はっ」
「損害は」
「兵、およそ三千」
「……多いな」
「一年の攻囲にございます」
俺は、そこで割り込んだ。
「しげんは」
伝令が、俺を見た。
「は?」
「ほうとう。しげんどのは」
——
伝令は、少し困った顔をした。
そして、言った。
「……ご無事でございます」
——
俺は、その場に、崩れ落ちた。
◆
膝が、抜けた。
関羽が、俺を抱き上げた。
この人の腕は、硬い。
それが、なぜか、ありがたかった。
「若君?」
「……」
「若君。いかがなされた」
「……」
俺は、答えられなかった。
声が、出なかった。
代わりに、勝手に涙が出た。
七歳の身体は、こういうときに、俺の意思を無視する。
関羽は、しばらく黙って俺を抱えていた。
そして、伝令に言った。
「続けよ」
「……はっ」
◆
伝令の話は、こうだった。
総攻めは、明け方に始まった。
龐統は、東の攻め口を指揮していた。
城壁の下まで、自分で出た。
——いつものように、である。
そして、城壁の上から、矢が降った。
「その中の一本が、士元どののお顔へ」
——顔。
俺は、息を呑んだ。
「兜の——眉庇に、当たりました」
——
「鏃が、逸れました」
「……」
「頬に、傷を負われましたが、それだけにございます」
——
兜。
二年前、俺が着けさせた兜である。
「視界が狭くなります」と言われて、「かぶと」と繰り返した、あの兜だ。
「重い。首が痛い。三十日で外す」と書いてきた、あの兜だ。
「うるさい」「かぶっておる」と返してきた、あの兜だ。
——
俺は、関羽の肩に額を押し付けた。
声を、殺した。
◆
```
【歴史改変を確認しました】
事象 龐統 雒城における戦死
本来の結果 死亡
変更後の結果 生存(軽傷)
主要因
防具着用(71%)
護衛配置
斥候増強
歴史変動率 5.1% → 11.8%
```
——十一・八パーセント。
倍以上に、跳ね上がった。
——歴史が、動いた。
俺が、動かした。
七年かけて、初めて、人を一人、死なせなかった。
◆
——そして、俺は、次の一行を読んだ。
```
備考
当該戦闘における戦死者 三千百四十二名
うち、龐統直属の護衛 十一名
※うち一名は、龐統を庇い、戦死
```
——
俺の身体が、固まった。
◆
「……でんれい」
「はっ」
「しげんどのを、まもったひと」
伝令が、首を傾げた。
「は?」
「かばった、ひとが、いる」
「……ああ」
伝令は、思い出したように言った。
「はい。護衛の一人が、士元どのの前へ出て、矢を受けたと」
「なまえ」
「は?」
「そのひとの、なまえ」
——伝令は、答えられなかった。
長い沈黙があった。
そして、言った。
「……存じません」
「しらべて」
「若君」
「しらべて!」
伝令は、困り果てた顔をした。
そして、正直に言った。
「……護衛は、その日の朝に配された者にございます」
「……」
「名簿には、載っておりましょう」
「のってる?」
「……おそらく」
「おそらく?」
伝令は、俯いた。
「……三千を超える戦死者にございます」
「……」
「すべての名を、記す暇は、ございませんでした」
◆
——俺は、そこで、全部が分かった。
四年前、龐統が兵籍を作り直した。
一人につき一つの基本記録。固有の印。十人単位の確認責任者。
——あれで、名簿はできた。
そして。
——死んだ人間を、名簿から消す仕組みは、作らなかった。
いや。
消すだけなら、できる。
「戦死」と書けばいい。
——だが、「誰が、どこで、どうやって」は、書かない。
書く欄が、ない。
そして、三千百四十二人分の死を、誰も記録していない。
◆
俺は、関羽の腕から降りた。
膝が、痛かった。
朝、転んだ傷である。
血が固まっていた。
俺は、地面に座り込んだまま、言った。
「うんちょう」
「うむ」
「しげんどのは、いきてる」
「うむ」
「うれしい」
「うむ」
「……」
「でも」
俺は、続けた。
「しらないひとが、しんだ」
——関羽は、答えなかった。
そして、しゃがんだ。
俺と、目線を合わせた。
この人が、そんなことをするのは、初めてだった。
「若君」
「うん」
「戦とは、そういうものでござる」
「……」
「三千は、多い。だが、雒城を落とさねば、来年また同じ数が死ぬ」
「……」
「そして、その者らの名も、記されぬ」
——
この人は、慰めなかった。
「気にするな」とも「仕方がない」とも言わなかった。
——同じことを、繰り返し言った。
そして、最後に、こう言った。
「若君。私は、自分が斬った者の名を、一人も知らぬ」
「……」
「二十年、知らぬ」
——
「知る術が、なかった」
◆
俺は、顔を上げた。
——術がなかった。
なかったのだ。
この人が冷たいのではない。
——仕組みが、なかっただけだ。
俺は、立ち上がった。
膝が痛んだが、立った。
「うんちょう」
「うむ」
「つくる」
「何をだ」
俺は、言った。
「しんだひとの、なまえ」
「……名簿か」
「うん」
関羽は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「三千だぞ」
「うん」
「書く者が、要る。紙も、竹も要る。運ぶ者も要る」
「うん」
「そして、それは兵を一人も増やさぬ」
「うん」
俺は、頷いた。
知っている。
四年前、龐統にも、同じことを言われた。
——「それは、国の利にはなりませぬ」と。
そして俺は、「する」と答えた。
関羽は、俺をじっと見ていた。
そして——深く息を吐いた。
「……よかろう」
「え」
「荊州の分は、私が命ずる」
——
俺は、口を開けたまま固まった。
「うんちょう?」
「若君は、私に反対する者を置けと申された」
「……うん」
「私は、置かなかった」
「……」
「代わりに——」
関羽は、立ち上がった。
「若君の申されることを、一つだけ、聞くことにする」
——
```
【関羽】
新規状態
【若君の申すことを、一つだけ聞く】
備考:一つだけです。
```
——一つだけ。
この人らしい。
そして、俺はこの「一つ」を、五年後に使うことになる。
——だが、このときの俺は、まだ知らない。
◆
十日後、龐統から書状が来た。
相変わらず、短い。
> 《兜は、重い》
——
> 《だが、外さぬ》
——
> 《顔に傷ができた。もともと不細工ゆえ、支障なし》
——
俺は、そこで少し笑った。
そして、最後の一行を読んだ。
> 《若君。私を庇った者の名を、調べさせております》
——
> 《見つかり次第、送ります》
——
俺は、その書状を、胸に抱えた。
——この男は、俺が何も言わなくても、調べ始めていた。
四年前、俺が「兵の出身地を書け」と言った理由を、この人は聞いた。
「兵が家に帰るとき、道が分かる」と、俺は答えた。
そして、この人は言った。
「同じ帳が、二つの目的に使える。これを、良い制度と申します」と。
——覚えていたのだ。
◆
二か月後、名前が届いた。
竹簡に、一行だけ書かれていた。
巴郡の出。
楊氏。
阿七。
二十三歳。
兄が二人。母が存命。
——龐統が、自分で村まで人を出して、調べた。
◆
俺は、木簡を出した。
《名のない者》
一行目、阿仙。
二行目、阿六。
排水路の二十人。糜芳。王阿三。厨房の老女。医官。練兵場の四十二人。
——七十人を超えていた。
俺は、その一番下に書いた。
七歳の字である。
まだ、歪んでいる。
楊阿七 二十三
そして、その下に、一行足した。
《士元どのを、守った》
◆
最後に、俺は死亡年表を開いた。
二〇九——母。丸。
二一二——張松。丸。(四角を、書き換えた)
二一四——龐統。四角。
——四角のままだ。
俺は、その四角を、長いこと見ていた。
書き換えなくて、いい。
——二年前、俺はこの記号を発明した。
丸は、死ぬ年の印。
四角は、まだ決まっていない印。
そして去年、俺は書き直した。
「四角は、保証ではない。俺がやれることをやった、という印にすぎない」と。
——今日、それが変わった。
俺は、筆を取った。
そして、四角の横に、一行書いた。
《四角の、まま、終わった》
——初めてである。
七年で、初めて、四角が四角のまま終わった。
そして、その代わりに、二十三歳の男が一人、死んだ。
名前は、楊阿七という。
——俺は、その名を、声に出して読んだ。
誰にも、聞こえない声で。
——甘夫人のときと、同じように。
——孫夫人のときと、同じように。
◆
その夜、俺は新しい木簡を一枚おろした。
そして、表題を書いた。
《戦死者名簿》
一行目に、楊阿七と書いた。
——あと、三千百四十一人分ある。
七歳の手では、一年かかっても終わらない。
それでも、俺は書き始めた。
```
【制度が成立しました】
戦死者記録簿
記載事項 姓名/出身/年齢/戦没地/戦没状況
記録責任 各隊の十人長
組織能力
人事制度 C → C+
兵の帰属意識 上昇
遺族対応 未評価 → D
備考
この制度に、軍事上の利点はありません。
```
——
また、それを言われた。
構わない。
俺は、もう慣れた。
次回 第38話「成功は新しい危機を連れてくる」




