第36話 軍神と、五歳児の食卓
関羽が、俺に学問を教えると言い出した。
教材は、一つだけだった。
——春秋左氏伝である。
◆
建安十八年の冬。
諸葛亮、張飛、趙雲が西へ発って、ひと月が過ぎた。
荊州に残ったのは、関羽と、俺である。
正確には、関羽は江陵にいて、俺は公安にいる。
——馬で二日ほどの距離だ。
だから、毎日会うわけではない。
月に、三度か四度。
関羽が、公安へ来る。
——一人では、来ない。
必ず、二人を連れてくる。
◆
一人は、関平。
関羽の子である。
——俺の、従兄にあたる。
歳は、二十をいくつか過ぎたところ。
背が高く、姿勢がよく、そして——父より、ずっと丁寧だった。
「若君。お加減はいかがですか」
「げんき」
「それは、何よりです」
——挨拶が、できる。
この一族に、挨拶ができる人がいた。
```
【関平】
統率 78/武力 84/知略 66/魅力 81
父への忠誠 100
父への進言 9
```
——父への進言、九。
この人も、言わない。
……いや。
——言えないのだ。
天下の関羽が父では、誰も進言できない。
そして、いちばん近くにいる人間が、いちばん言えない。
◆
もう一人は、周倉といった。
——大柄で、髭が濃く、そして声が大きい。
張飛に少し似ている。
ただし、酒は飲まない。
「若君! お背が伸びられましたな!」
「のびてない」
「伸びております!」
「……のびてない」
「伸びております!」
——押し切られた。
この人は、関羽の下で二十年、旗と刀を持って歩いてきた男である。
そして、字が読めない。
```
【周倉】
識字 なし
関羽への信頼 100
```
——信頼、百。
この人は、関羽が間違えたことがあるとは、思っていない。
◆
最初、俺はそれを「視察」だと思っていた。
違った。
三度目に来たとき、この人は竹簡を抱えていた。
「若君」
「叔父上」
「学ばれよ」
——それだけ言って、竹簡を置いた。
「なに、これ」
「春秋左氏伝」
「……」
「読める字は、あるか」
俺は、覗き込んだ。
——半分も読めない。
五歳の字の知識では、無理である。
「よめない」
「では、私が読む」
そして、この人は座った。
そのまま、読み始めた。
◆
——上手かった。
恐ろしく、上手かった。
竹簡を見ていないのである。
指で追ってはいる。だが、目は俺を見ている。
——暗誦している。
```
【関羽】
春秋左氏伝 暗誦率 97%
```
九十七パーセント。
——一冊、ほぼ全部、頭に入っている。
この時代、竹簡は重い。持ち歩けない。
だから、覚える。
そして、この人は覚えた。
——漢の将軍で、これができる人間が、何人いるのだろう。
◆
ただし、教え方は、壊滅的だった。
「隠公元年。鄭伯、段に鄢に克つ」
「……」
「分かるか」
「わからない」
「どこがだ」
「ぜんぶ」
関羽は、少し考えた。
そして、こう言った。
「……もう一度読む」
——同じ速度で、同じ文を読んだ。
分かるわけがない。
この人は、「分からない」の中身を聞かない。
——分からないなら、もう一度読めば分かると思っている。
前世で、俺は同じ上司を見た。
説明が分からないと言うと、同じ資料をもう一度めくる人。
三回目で、部下は「分かりました」と言う。
分かっていない。
◆
それでも、俺は聞き続けた。
理由は、二つある。
一つ。この人と話す口実が要る。
二つ。——この本が、この人の中身だからだ。
関羽の判断は、いつも一貫している。
部下の弱さは許す。自分の弱さは許さない。
敵には強い。味方には報告しない。
そして、退かない。
——どこから来ているのか。
答えは、たぶん、この竹簡の中にある。
◆
学問の後は、食事だった。
これが、また、地獄だった。
関羽は、食事中に喋らない。
一言も、である。
俺も喋らない。喋る話題がない。
——五歳と、五十過ぎの男が、無言で粥を食っている。
侍女が、気の毒そうな顔で見ている。
十日目に、俺は耐えられなくなって、聞いた。
「叔父上」
「うむ」
「おいしい?」
関羽は、椀を見た。
そして、真面目に答えた。
「塩が足りぬ」
「……」
「だが、兵は同じものを食っておる。ゆえに、よい」
——それで会話が終わった。
この人には、雑談という概念がない。
◆
俺は、方針を変えた。
雑談ができないなら、質問すればいい。
この人は、聞かれたことには必ず答える。
——正直に、である。
「叔父上」
「うむ」
「ひげ、いたくない?」
——関羽の動きが、止まった。
「痛い?」
「ながい」
「うむ」
「からまらない?」
関羽は、しばらく黙った。
そして、非常に真剣な顔で答えた。
「絡まる」
「……」
「ゆえに、袋に入れておる」
——袋。
曹操にもらったという、あれか。
演義の話だと思っていた。
「みせて」
「ならぬ」
「なんで」
「寝所でしか、外さぬ」
——
厳しい。
この人の髭は、機密扱いらしい。
◆
それから、俺は毎回、一つだけ質問することにした。
「叔父上。ゆめ、みる?」
「見ぬ」
「……」
「眠ればすぐ朝だ」
「叔父上。こわいもの、ある?」
「ない」
「……」
「ある者は、将にならぬ」
「叔父上。すきなたべもの」
「塩の効いたもの」
——これは、意外と答えが早かった。
そして、毎回「塩」の話をしている。
この人は、たぶん、塩が好きだ。
——三か月かけて分かったことが、それだった。
◆
転機は、建安十九年の春に来た。
◆
その日、関羽は荀息の話をしていた。
晋の家老である。
主君に「あなたの子を守れ」と頼まれ、誓った。
主君が死ぬ。
その子が、殺される。
荀息は、逃げなかった。
次の子を立てて、また誓った。
その子も、殺された。
——そして荀息は、自ら死んだ。
「なぜ、死んだと思う」
関羽が、俺に聞いた。
——珍しい。
この人が、俺に問いを投げた。
俺は、答えた。
「やくそく、まもれなかったから」
「そうだ」
関羽は、深く頷いた。
そして、こう言った。
「荀息は、こう申した」
彼は、暗誦した。
「吾、言を食まず」
——
我が言葉を、食わない。
言ったことを、飲み込まない。
約束したことを、なかったことにしない。
◆
「若君」
「うん」
「私は、この一節が最も好きだ」
——
俺は、そこで、この人の全部が見えた気がした。
```
【関羽】
春秋左氏伝 最も重視する一節
「吾、言を食まず」
固有特性【義の一字】の起源
当該一節
```
——起源が、表示された。
初めて見る項目だった。
◆
「叔父上」
「うむ」
俺は、聞いた。
「しななきゃ、だめ?」
関羽が、俺を見た。
「なんだと」
「じゅんそく。しななきゃ、だめだった?」
「……」
「いきてたら、だめ?」
関羽は、しばらく答えなかった。
そして、言った。
「言を食んだ者が、生きてどうする」
「……」
「生きて、何を言う」
——
俺は、そこで気付いた。
この人が恐れているのは、死ではない。
——「言ったことを守れなかった自分が、生きていること」である。
だから、退けない。
「荊州を守る」と言った以上、荊州を捨てて生き延びることは、この人にとって死より重い。
そして——それを、正しいと思っている。
なぜなら、春秋にそう書いてあるからだ。
◆
俺は、その日から、竹簡を自分で読み始めた。
五歳の字の知識では、無理である。
だから、馬良に頼んだ。
「季常」
「若君? どうなさいました」
「しゅんじゅう、よみたい」
馬良が、目を丸くした。
「五つで、でございますか」
「うん」
「……雲長さまが、教えておられるのでは」
「叔父上は、すきなとこしか、よまない」
——馬良が、吹き出した。
「……失礼いたしました」
「いい」
「では、どこをお読みになりたいので」
俺は、答えた。
「まけたひとの、はなし」
◆
——探すのに、二か月かかった。
馬良は、真面目な男である。
「負けた者の話」という無茶な注文に、真剣に取り組んだ。
そして、一つ持ってきた。
「若君。これは、いかがでしょう」
「なに」
「曹沫という将の話にございます」
——
知らない名だった。
前世でも、聞いた覚えがない。
俺の三国志の知識は、三国志の範囲でしかない。
◆
馬良が、読んでくれた。
魯の国に、曹沫という将がいた。
斉と戦い、負けた。
もう一度戦い、負けた。
もう一度戦い、また負けた。
——三度、負けた。
「……三度?」
「はい」
「くびに、ならない?」
馬良は、少し笑った。
「なりませんでした」
「なんで」
「荘公——魯の君主が、そのまま将として使い続けたのです」
——
三連敗した将を、更迭しなかった。
前世なら、一回目で異動である。
二回目で降格。
三回目で、退職勧奨だ。
◆
「そして、柯という地で、魯と斉が盟を結ぶことになりました」
馬良は、続けた。
「壇の上で、両国の君主が誓います。魯は、負けた分の土地を斉へ差し出すことになっておりました」
「うん」
「そこへ——曹沫が、駆け上がりました」
「え」
「匕首を持って、斉の桓公に迫ったのでございます」
——
俺は、口を開けた。
「そして、こう申しました」
馬良は、読み上げた。
「斉は強く、魯は弱い。されど、大国が小国を侵すに、程がある」
「……」
「桓公は、恐れて、奪った土地をすべて返すと約束いたしました」
「うん」
「曹沫は、匕首を捨て、壇を降り、北を向いて臣下の列に戻りました」
「……」
「顔色ひとつ、変えずに」
◆
俺は、その話を、何度も反芻した。
——三度、負けた。
それでも、生き延びた。
更迭されなかった。
そして、十数年後、一度で全部取り返した。
——もし、この人が一度目の敗戦で死んでいたら。
土地は、戻らなかった。
◆
次に関羽が公安へ来た日、俺は竹簡を用意していた。
「叔父上」
「うむ」
「きょうは、おれが、よむ」
関羽が、少し驚いた顔をした。
「若君が?」
「うん」
「読めるのか」
「よんでもらった」
——正直に言った。
この人には、嘘をつかないほうがいい。
俺は、たどたどしく、曹沫の話を読んだ。
五歳の音読である。
時間がかかった。
関羽は、黙って聞いていた。
◆
読み終わって、俺は聞いた。
「叔父上」
「うむ」
「このはなし、しってた?」
関羽は、答えなかった。
しばらくして、こう言った。
「……知っておる」
「すき?」
「……」
「すき?」
関羽は、髭に手をやった。
この人が困ったときの癖である。
そして、言った。
「覚えておらなんだ」
——
「うむ。読んだことはある。だが——覚えておらなんだ」
——暗誦率、九十七パーセントの男が、である。
忘れたのではない。
入っていなかったのだ。
この人の頭は、「約束を守って死んだ人」の話は、一度で覚える。
「三度負けて生き延びた人」の話は、通り過ぎる。
——同じ本の、同じ巻に、両方書いてある。
◆
「叔父上」
「うむ」
「そうかいは、はじ?」
「……」
「さんかい、まけた」
「……うむ」
「はじ?」
関羽は、長いこと黙っていた。
灯火の芯が、鳴った。
そして、この人は言った。
「……最後に、取り返した」
「うん」
「ならば、恥ではない」
「とりかえす、まえは?」
——関羽の動きが、止まった。
「取り返す前は、恥だったか」
「うん」
「十ねん、はじだった?」
「……」
「それでも、いきてた」
——
この人は、答えなかった。
そして、その夜、初めて——食事のとき、口を開いた。
「若君」
「うん」
「この粥は、塩が足りぬ」
「うん」
「……」
「だが、悪くはない」
——
```
【関羽 字・雲長】
【自らの敗北を想定しない】
効果に、わずかな変化が生じました。
弱みの開示 4 → 6
撤退の可否検討 0 → 3
```
——三。
ゼロから、三。
四か月かかった。
◆
その頃、益州からの報せは、悪くなる一方だった。
雒城が、落ちない。
攻囲、一年。
```
【雒城】
攻囲 継続中
経過 十二か月
攻城側損耗 大
兵の疲労 高
```
そして。
```
【龐統 字・士元】
現在地 雒城 攻囲陣
前線視察頻度 増加(継続)
防具着用率 71% → 64%
落鳳坡死亡危険度 39% → 44%
```
——四十四。
上がっている。
防具着用率が、下がっている。
——暑いのだろう。
あるいは、面倒になったのだろう。
あの男は、そういう人間だ。
俺は、その夜、書状を書いた。
五歳の字である。
半分は読めない。
> 《かぶと》
それだけ書いて、送った。
十日後、返事が来た。
> 《うるさい》
——
そして、その下に、一行あった。
> 《かぶっておる》
```
【龐統】
防具着用率 64% → 71%
落鳳坡死亡危険度 44% → 41%
```
——三、戻した。
四十一。
——だが、二年前は三十三だった。
下げた分を、時間が押し戻していく。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
《今、いる人》
関羽 字・雲長
その下に、俺は一行書き足した。
《曹沫、覚えてなかった》
そして、その下に。
《同じ本に、書いてある》
——この人は、悪い人ではない。
学がないわけでもない。
——一冊の本を、九割七分暗誦している。
そして、その一冊の中から、死ぬ話だけを覚えた。
生き延びる話は、通り過ぎた。
——人は、読みたいものしか読まない。
同じ本を読んでも、同じものは読んでいない。
俺は、筆を置いた。
——五年ある。
あと五年で、この人に、生き延びる話を覚えさせる。
次回 第37話「死ぬはずだった男」




