第35話 留守番は、軍神と五歳児
益州の戦が、止まった。
負けたのではない。
——一つの城が、落ちないのである。
◆
建安十八年。
俺は、五つになっていた。
短い文なら、普通に話せる。字も、半分以上は書ける。
そして、この一年で、俺の仕事は「待つこと」になった。
荊州にいて、益州からの報せを待つ。
——それだけである。
◆
戦況は、順調に始まった。
去年の冬、父は涪城を取った。
綿竹も落ちた。
劉璋の将が、次々に降った。
——ここまでは、速かった。
そして、雒城で止まった。
◆
雒城は、成都の北の入口である。
ここを抜ければ、成都まで平地が続く。
逆に言えば、ここが最後の壁だ。
劉璋も、それを知っている。
——だから、全力で守っている。
守将は、劉循。
劉璋の、長男である。
```
【雒城】
攻囲 継続中
経過 八か月
陥落見込み 不明
攻城側損耗 増加
```
八か月。
——長い。
前世で言えば、四半期を三回、同じ案件で塞がれているようなものだ。
兵は疲れる。糧は減る。
そして——
指揮官が、前へ出るようになる。
◆
俺は、視界を確認した。
```
【龐統 字・士元】
現在地 雒城 攻囲陣
前線視察頻度 増加
防具着用率 71%
危険作戦選好 中
落鳳坡死亡危険度 33% → 39%
```
——上がった。
六、上がった。
理由は、書いてある。
《前線視察頻度 増加》
——城が落ちないからだ。
この男は、机の上で分からないことがあると、自分の目で見に行く。
去年、本人がそう言った。
> 「私は、危ないところへ行きます。行かねば、分からぬからです」
> 「遠くから見て分かることなど、たかが知れております」
——それが、この人を殺す。
◆
建安十八年の冬、益州から援軍要請が来た。
父の書状である。
読み上げたのは、諸葛亮だった。
「雒城の攻囲、長引く」
「……」
「兵と、将を望む」
それだけだった。
——短い。
父の書状は、いつも長い。
民の様子を書く。兵の名前を書く。天気のことまで書く。
——それが、三行になっている。
関羽が、低く言った。
「兄者は、余裕がない」
——この人は、こういうことに関しては、絶対に間違えない。
◆
評定が開かれた。
議題は、一つ。
誰が西へ行くか。
俺は、趙雲の隣に座っていた。
——嫌な予感がした。
理由は、簡単である。
この城にいる将は、四人しかいない。
諸葛亮。関羽。張飛。趙雲。
そして、荊州は空にできない。
◆
諸葛亮が、口を開いた。
「私が、参ります」
——即答だった。
張飛が、身を乗り出す。
「俺も行く!」
「翼徳どのには、巴の方面を」
「どこでもよい! 戦があるならどこでも行く!」
——分かりやすい人である。
「子龍どのは」
諸葛亮が、趙雲を見た。
趙雲は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「……若君のおそばを離れることになります」
——
広間が、静かになった。
◆
俺は、そこで理解した。
——三人、行く。
残るのは、関羽一人である。
そして、俺。
俺は、二年前の評定を思い出した。
あのとき、俺は言った。
> 「ひとりは、だめ」
> 「まもれる」
> 「まもれるから、ひとりに、なる」
そして、代案がなかった。
——今度は、代案どころではない。
選択肢が、消えた。
◆
「せんせい」
俺は、諸葛亮の袖を引いた。
「はい」
「みんな、いくの」
「はい」
「うんちょう、ひとり?」
諸葛亮の羽扇が、止まった。
「……雲長どのお一人ではございません。荊州には、多くの将と兵がおります」
「でも」
「はい」
「きめるひとは、ひとり」
——広間が、また静かになった。
諸葛亮は、答えなかった。
代わりに、関羽が言った。
「若君」
「うん」
「一人で、十分でござる」
——
この人は、嘘をついていない。
心の底から、そう思っている。
そして、それが正しいから、誰も反論できない。
◆
俺は、必死に考えた。
——何か、置いていけるものはないか。
制度でも、人でも、仕組みでもいい。
関羽を一人にしないための、何か。
俺は、思いついたことを、全部言った。
「ほうこく」
「七日に一度、送っておる」
「すうじ」
「書いておる」
「ふえたら、すぐ」
「約束した」
——全部、既にやっている。
去年、俺がやったことだ。
そして、それでは足りないことも、分かっている。
なぜなら——
俺は、竹簡を思い出した。
《六、部下からの進言》
——なし。
十週続けて、なし。
そして今も、なし。
一年半で、一度も、部下から進言がない。
◆
「うんちょう」
「はい」
「ひとつ、おねがい」
「なんでしょう」
俺は、言った。
「ひとを、おいて」
「人?」
「うん」
「どのような」
俺は、必死に言葉を選んだ。
「あなたに、はんたい、するひと」
——広間が、凍った。
関羽の眉が、動いた。
「……反対する者を、置けと」
「うん」
「なぜでございます」
「あなたは、ただしい」
「……」
「だから、みんな、はんたいしない」
「……」
「でも、まちがえることも、ある」
——関羽は、答えなかった。
◆
長い沈黙のあと、この人は言った。
「若君」
「うん」
「私に反対する者は、荊州におります」
「だれ」
関羽は、少し考えた。
そして、言った。
「……多くおる」
「なまえは」
「……」
——出てこなかった。
この人は、名前を挙げられなかった。
「反対する者は多くいる」と言いながら、一人も名前が出ない。
——それが、答えだった。
```
【関羽】
荊州孤立危険度 9% → 14%
```
——五、上がった。
この会話だけで。
◆
諸葛亮が、静かに言った。
「雲長どの」
「うむ」
「馬良と、潘濬を、置いて参ります」
——
潘濬。
荊州の治中従事である。
——劉表の代からいる男だ。
背が低く、痩せていて、あまり喋らない。
代わりに、全部書く。
俺が去年、戦死者名簿を作らせたとき、荊州側で実際に手を動かしたのが、この人だった。
三千百四十二人分の欄を、一人で設計した。
「承明どの」
俺が呼ぶと、この人は少し驚いた顔をした。
「……字を、ご存じで」
「うん」
「……」
潘濬は、それ以上何も言わなかった。
代わりに、深く頭を下げた。
```
【潘濬 字・承明】
政務 89/文書 94/記録 97/自己主張 24
固有特性
【全部書く】
命じられなくても、経緯を記録する。
【喋らない】
意見を口頭で述べることが、極めて少ない。
ただし、書かれたものには全て残っている。
備考
この人物の書いたものを読む者が、現在おりません。
```
——読む者が、いない。
俺は、その一行を、長いこと見ていた。
◆
「季常と、承明を置く理由は」
俺が聞くと、諸葛亮は答えた。
「一人は、申し上げる者」
「はい」
「一人は、書き残す者でございます」
「……」
「どちらか片方では、足りませぬ」
——
俺は、顔を上げた。
白眉の男である。
断る力、十七。
頼まれると断れない。
上位者への献身。
——最悪の人選である。
関羽に反対できるわけがない。
だが。
諸葛亮は、こう続けた。
「季常には、雲長どのへの進言を、月に一度、必ず行うよう命じます」
「命じる?」
「はい」
「内容にかかわらず、でございます」
——
俺は、そこで理解した。
この男は、断る力十七を、命令で補おうとしている。
「進言せよ」と命じられていれば、断れない性格が、逆に働く。
——上位者への献身が、進言の義務に向く。
「なるほど」
俺は、思わず声に出した。
諸葛亮が、俺を見た。
「若君は、お分かりになりますか」
「うん」
「では、この策の弱点も」
——
俺は、少し考えた。
そして、言った。
「なかみが、うすくなる」
諸葛亮は、深く頷いた。
「そのとおりでございます」
——月に一度、必ず進言せよ。
そう命じれば、進言は届く。
だが、中身が「異常なし」になる。
関羽の報告と、同じである。
形式だけが残って、内容が空になる。
——それでも、ゼロよりはいい。
```
【関羽】
荊州孤立危険度 14% → 12%
```
——二、下がった。
◆
出発は、年が明けてすぐと決まった。
◆
張飛との別れ。
俺は、木簡を持っていった。
《殴られた者》
一年半で、四十二人になっている。
俺は、それを張飛の前に置いた。
「よくとく」
「なんだ」
「これ」
張飛は、覗き込んだ。
そして、しばらく黙った。
この人は、字が読める。
下手だが、読める。
「……名か」
「うん」
「誰の」
俺は、答えた。
「あんたが、なぐったひと」
——張飛が、動きを止めた。
長い沈黙があった。
やがて、この人は言った。
「……四十二か」
「うん」
「多いな」
「うん」
「……」
張飛は、木簡を返した。
そして、こう言った。
「西で、増やさぬ」
「やくそく?」
「やくそくだ」
```
【張飛】
暗殺危険度 7% → 7%
```
——動かなかった。
当たり前だ。
約束は、まだ守られていない。
守ってから、動く。
◆
諸葛亮との別れ。
俺は、袖を掴んだ。
去年から、何度もやっている手である。
「せんせい」
「はい」
「ねろ」
「……行軍中でございます」
「ねろ」
「若君」
「ねろ!」
諸葛亮は、困った顔をした。
そして、羽扇を膝に置いた。
「……若君。一つ、お約束いたします」
「うん」
「若君が西へ来られるまで、私は倒れませぬ」
——
俺は、その言い方に、引っかかった。
「たおれない、じゃなくて」
「はい?」
「ねる、って、いって」
諸葛亮は、少し笑った。
そして、答えなかった。
```
【諸葛亮】
休養意思 2
```
——二。
四年間、一度も動いていない。
行動は、四回変えさせた。
数値は、一度も動いていない。
◆
そして——趙雲。
この人は、最後に来た。
俺の部屋の前で、膝をついた。
「若君」
「……しりゅう」
「明朝、発ちます」
「うん」
——五年である。
長坂坡から、五年。
この人は、俺のそばを離れたことがない。
俺が夜歩きをするときも、練兵場へ行くときも、船に乗せられたときも。
——いつも、少し離れたところにいた。
「若君」
「うん」
「お一人になられます」
「……うん」
「雲長どのは、江陵におられます。この公安には、若君を守る者が」
「いる」
俺は、言った。
「へいたい、いる」
「……はい」
「だいじょうぶ」
——嘘である。
大丈夫では、ない。
そして俺は、この言葉を、母から習った。
この人は、大丈夫でない日に「大丈夫です」と言い続けた。
——俺も、同じことを言っている。
◆
趙雲は、しばらく俺を見ていた。
そして、言った。
「若君。一つ、お願いがございます」
「うん」
「私に、命じてください」
「え」
「五年前、長坂坡で、若君は私に命じられました」
——覚えている。
一音だった。
「な」と、言った。
死ぬな、と言いたかった。
「あのとき、私は承知いたしました」
「うん」
「もう一度、命じてください」
——
俺は、この人の顔を見上げた。
傷が増えている。
五年前より、少しだけ老けた。
それでも、この人は、まだ三十代だ。
——二二九年。
あと十六年。
俺は、言った。
「しぬな」
「……はっ」
「それと」
俺は、続けた。
「ひとりで、いかないで」
趙雲が、目を見開いた。
「……は?」
「たすけて、って、いって」
——五年前、俺は言えなかった。
この人は、単騎で敵陣へ戻った。
残存体力十八パーセントで。
誰にも助けを求めずに。
——それを、格好いいと思っていた。
今は、思わない。
趙雲は、長いこと黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
```
【趙雲】
固有特性【最後まで残る者】
組織崩壊時、最も危険な場所へ自発的に向かう。
新規状態
【助けを求めることを命じられた者】
効果:単独行動を選択する確率が低下します。
```
——
新しい状態が、生えた。
五年かかった。
◆
翌朝、三人が発った。
諸葛亮。張飛。趙雲。
そして、兵一万。
俺は、城門で見送った。
去年の冬、父を見送った場所と、同じである。
あのとき、俺は「最初の別れは笑顔で始まった」と書いた。
今回は——
誰も、笑っていなかった。
◆
関羽が、俺の隣に立っていた。
この人は、江陵から来ていた。
見送りのためである。
列が見えなくなるまで、俺たちは黙って立っていた。
やがて、関羽が言った。
「若君」
「うん」
「寒うござる」
「うん」
「城へ、お戻りを」
「うん」
——それだけだった。
この人は、慰めない。
「寂しいですか」とも、「すぐ戻ります」とも言わない。
寒い、と言っただけだ。
——そして、俺の手を引いた。
大きくて、硬い手だった。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
——三年前、諸葛亮に「一日十字」と言って、二十字にされた。
三年で、二万である。
……
——半分は、忘れた。
それでも、一万は残った。
木簡の字が、仮名から漢字に変わったのは、去年の春からだ。
……
——書けるようになると、書きたいことが増える。
そして、書きたいことが増えると、書けない字が、また増える。
俺は、新しい行を作った。
《今、いる人》
関羽 字・雲長
——一人だけである。
荊州の実質的な主で、俺の後見人で、そして、六年後に死ぬ人。
この城には、今、この人と、俺しかいない。
……正確には、兵も官吏も何千人といる。
だが、俺が話せる相手は、一人だけだ。
俺は、その下に一行書いた。
《六年、ある》
——六年。
二一九年まで、六年。
軍師も、猛将も、いない。
父も、いない。
——今の俺は、五歳で、一人で、軍神と留守番をしている。
そして、この六年で、この人を変えなければならない。
俺は、灯火を消した。
——たぶん、これが、最後の機会だ。
次回 第36話「軍神と、五歳児の食卓」




