第34話 救えなかった二人目
その年、俺は二つの報せを受け取った。
一つは、江東から。
もう一つは、益州から。
——どちらも、俺が止められなかったものだった。
◆
建安十七年。
俺は、四つから五つになった。
そして、城から百一人が消えた。
孫夫人と、帯剣した侍女百人である。
◆
出立の朝は、雨だった。
冬の雨は、冷たい。
荷は、前の月のうちに運び終えていた。
あの日、長江の上で引き返した船が、そのまま岸に繋がれていた。
そして今度は、俺を乗せずに、出ていく。
俺は、趙雲に抱かれて、それを見ていた。
孫夫人は、輿に乗る前に、一度だけ振り返った。
そして、何も言わなかった。
去年の冬、この人が来た日と、同じである。
あの日も、この人は名乗らなかった。
——だが、今の俺は、名前を知っている。
口には出さない。
約束したからだ。
俺は、心の中でだけ、その名を呼んだ。
——それで、十分だった。
◆
侍女たちが、列を作って続いていく。
一人。二人。五人。十人。
——去年、この人数を数えたときは、恐怖だった。
今は、違う。
百人が、一人ずつ、いなくなっていく。
それだけの光景である。
そして、この城の三分の一の音が、消える。
◆
列の一番後ろに、阿仙がいた。
一年前、俺が名前を聞いた侍女である。
俺は、趙雲の腕から降ろしてもらった。
そして、走った。
五歳になったので、五歩は転ばずに走れる。
六歩目で転んだ。
「若君!」
阿仙が、駆け寄って抱き起こした。
この人も、上手くなった。
◆
「あせん」
「……はい」
「いくの」
「はい」
「うん」
俺は、それ以上、言葉が出なかった。
止める理由が、ない。
この人は侍女である。主が帰るなら、帰る。
当たり前だ。
阿仙は、しばらく黙っていた。
そして、小さな声で聞いた。
「若君」
「うん」
「私の名を、まだ持っておられますか」
——
俺は、帯から木簡を抜いた。
五歳の帯には、まだ木簡が挟まらない。
歩くたびに落ちる。
それでも、毎日持ち歩いている。
《名のない者》
一行目に、阿仙とある。
四歳の字である。
歪んでいる。
そして、その下に、五十人以上の名前が続いている。
阿六。排水路の二十人。糜芳。王阿三。
練兵場で殴られた兵たち。
厨房の老女。
薬を煎じた医官。
——去年から、増え続けている。
阿仙は、その一行目を、長いこと見ていた。
そして、泣いた。
◆
「……申し訳ございません」
「いい」
「はしたなく」
「いい」
阿仙は、袖で目を拭った。
そして、言った。
「若君」
「うん」
「私は、呉へ帰ります」
「うん」
「帰れば、また侍女でございます」
「うん」
「名など、誰も呼びませぬ」
——
「……ですが」
阿仙は、木簡を見た。
「私は、名を呼ばれた者でございます」
彼女は、深く頭を下げた。
「それは、誰にも取れませぬ」
```
【阿仙】
劉禅への信頼 71 → 100
```
——百。
この物語で、初めて見る数字だった。
——趙雲の忠義でさえ、劉備に対して百である。
俺に対しては、まだ違う。
一年間、俺がこの人にしたことは、名前を呼んだことだけだ。
◆
阿仙は、列へ戻っていった。
雨の中を、歩いていった。
振り返らなかった。
俺は、その背中を見送った。
```
【阿仙】
離脱 確定
再来訪確率 0%
備考
この人物は、あなたの名を、生涯覚えています。
```
——
役に立たない備考である。
国家経営には、何一つ寄与しない。
俺は、それを読んで、しばらく動けなかった。
◆
城は、静かになった。
去年の暮れ、父が発ったときも静かになった。
今度は、その半分の音が、また減った。
張飛が、廊下でぼやいた。
「城が広くなったな」
「ひろくなってない」
「そうか?」
「ひとが、へった」
張飛は、少し考えた。
そして、こう言った。
「……同じことではないか」
——
同じである。
この人は、時々、こういうことを言う。
◆
諸葛亮は、何も言わなかった。
ただ、その日から、評定に一つ、議題が増えた。
《呉との連絡経路の再構築について》
「奥方さまが去られたことで、江東との非公式な経路が、失われました」
——非公式な経路。
そんなものが、あったのか。
「あったのですか」
糜竺が尋ねる。
「ございました」
諸葛亮は、静かに答えた。
「侍女百人のうち、少なくとも十数名は、江東と文をやり取りしておりました」
「それは、危険では」
「危険でした。同時に、有用でもございました」
「……」
「呉が何を考えているかを知る、最も速い経路でございました」
——
俺は、そこで気付いた。
この男は、知っていた。
知っていて、放置していた。
そして今、それを失った。
```
【荊州】
呉に関する情報取得速度 低下
```
——去年、俺は思った。
帯剣した侍女百人は、壁である、と。
壁でもあり、窓でもあったのだ。
そして、壁を煙たがっているうちに、窓ごと閉まった。
◆
それから、半年が過ぎた。
建安十七年の冬。
益州から、急報が来た。
◆
伝令が、泥だらけで転がり込んできた。
——馬を三頭潰したという。
「葭萌関より、報せにございます」
「申せ」
諸葛亮が言った。
伝令は、荒い息のまま、こう言った。
「主公と劉璋どのが、決裂いたしました」
——広間が、静まり返った。
「経緯を」
「張松どのが、露見いたしました」
——
俺の身体が、固まった。
◆
「露見、とは」
「張松どのが、我が主公と通じていたことが、劉璋どのに知れました」
「誰が」
「……」
伝令は、言いにくそうにした。
そして、言った。
「兄君でございます」
——
張粛。
広漢の太守。
張松の、兄。
「弟の書状を見つけ、己に累が及ぶことを恐れて、劉璋どのへ差し出したとのこと」
◆
「張松どのは」
諸葛亮が、静かに尋ねた。
伝令は、床に額をつけた。
そして、言った。
「処刑されました」
「……」
「一族もろとも、でございます」
——広間が、動かなかった。
俺は、その場に座り込んだ。
転んだのではない。
脚に、力が入らなかった。
◆
——去年の冬、俺はこの人に言った。
「だれにも、いわないで」
「ぜんぶ」
そして、家族のことを聞いた。
「かぞく、いる?」
「妻と、子が二人。あとは——兄が、一人」
そのとき、俺は言った。
「あにうえに、いわないで」
「ぜったい」
——そして、あの人は笑った。
「承知いたしました」と。
社交辞令だと、俺は思った。
この人は、たぶん言う、と。
兄弟なのだから、と。
——そのとおりに、なった。
◆
俺は、視界を確認した。
去年の記録が、まだ残っている。
```
【張松 字・子喬】
兄への情報開示確率 71% → 58%
```
——五十八パーセント。
俺が、下げた数字である。
七十一から、五十八へ。
十三、下げた。
——下げた。
下げて、起きた。
……
——五十八パーセントとは、そういう意味だ。
十回のうち、六回は起きる。
下げても、起きる。
確率を下げるというのは、起きないということではない。
——起きたときに、「やれることはやった」と言えるようになる、というだけである。
そして、その言葉は、死んだ人には何の意味もない。
◆
諸葛亮が、俺を見ていた。
「若君」
「……」
「立てますか」
「……」
俺は、答えられなかった。
趙雲が、抱き上げた。
「若君。お部屋へ」
「やだ」
「しかし」
「やだ」
俺は、趙雲の袍を掴んだ。
——ここにいたい。
この話を、最後まで聞きたい。
逃げたら、二度と聞けない気がした。
◆
伝令は、続けた。
「劉璋どのは、直ちに関を封じ、我が軍を撃つよう命じられました」
「主公は」
「涪城を取られました」
「……早いな」
「龐統どのの策にございます」
——龐統。
俺は、顔を上げた。
「しげんは」
「は?」
「しげんは、ぶじ?」
伝令は、少し困った顔をした。
「……は。ご無事でございます」
「かぶと」
「は?」
「かぶと、かぶってた?」
伝令は、完全に混乱した顔をした。
そして、答えた。
「……はい。妙に重そうな兜を、かぶっておられました」
——
俺は、そこで、少しだけ息ができた。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
死亡年表である。
二〇九——母。丸。
二一二——張松。四角。
俺は、その四角を、長いこと見ていた。
——去年、俺はこの記号を発明した。
丸は、死ぬ年の印。
四角は、まだ何も決まっていない印。
「まだ決まっていない」というのは、「救える」という意味だと、俺は思っていた。
——違った。
四角は、保証ではない。
「俺が、やれることをやった」という印にすぎない。
そして、やれることをやっても、人は死ぬ。
◆
俺は、筆を取った。
そして、その四角の上から、丸を描いた。
線が、震えた。
何度も、なぞった。
四角の角が、丸の中に消えていった。
——書き換えるのに、四角を描いたときの三倍の時間がかかった。
◆
俺は、木簡をめくった。
二一四——龐統。四角。
——三十三パーセント。
去年、七十一から下げた。
斥候を二倍にした。別働隊を先行させた。鎧を着せた。兜も着せた。
——三十三。
三回に一回は、起きる。
張松は、五十八だった。
そして、起きた。
俺は、その四角を見つめた。
——足りない。
あと二年ある。
三十三を、いくつまで下げれば、「起きない」と言えるのか。
——答えは、知っている。
ゼロにしない限り、起きうる。
そして、ゼロにはできない。
人は、いつか死ぬからだ。
◆
俺は、もう一枚の木簡を出した。
《救えなかった者》
一行目、甘夫人。
二行目、孫夫人。(名前の欄は、空白)
俺は、三行目に書いた。
張松 字・子喬
——名前も、字も、両方書いた。
この人は、史書に載る。
「益州を売った男」として、載る。
だが、俺の簿には、別のことを書いておく。
俺は、その下に一行足した。
《ちずじゃなくて、このひとが、ほしかった》
——去年、俺が言った言葉である。
この人は、それを聞いて、泣きそうな顔をした。
「四つの子に、生まれて初めて、正しく値踏みされました」と言った。
——一年しか、なかった。
一年前に会って、一年後に死んだ。
その一年で、俺がしたことは、値踏みを一回、正しくやっただけだ。
◆
俺は、木簡を閉じた。
そして、気付いた。
この一年で、俺は三人を失った。
母は、二年前だ。
この一年で失ったのは——
孫夫人。
阿仙。
そして、張松。
——一人は、生きたまま去った。
一人は、名前だけ持って去った。
一人は、死んだ。
そして俺は、三人とも、止められなかった。
能力値が見える。
未来を知っている。
制度も作った。趙雲を危機評価役に置いた。報告制度も直した。名簿も整えた。
——五歳の実績としては、異常なほど良い。
そして、人は、三人減った。
◆
灯火を消す前、俺は窓の外を見た。
諸葛亮の書斎の明かりが、点いている。
——今夜は、行かない。
行っても、袖を掴んで座り込むだけの力が、今日はなかった。
俺は、寝床に入った。
そして、暗闇の中で、一度だけ、声に出した。
孫夫人の、名前を。
誰にも聞こえない声で。
——覚えている。
まだ、覚えている。
次回 第35話「劉璋との決裂」




