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転生したら劉禅だったので、諸葛亮に有給休暇を取らせます~MBA持ちの阿斗、関羽の孤立・張飛のパワハラ・孔明の過労死を組織改革で止める~  作者: 東雲 諒杏
第三部 蜀漢役員会は今日も大炎上

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34/72

第33話 截江——長江の上の人事交渉

船に乗せられた時点で、俺は状況を理解していた。


四つである。歩ける。走れる。短い文なら話せる。


そして——自分の値段を、知っていた。



    ◆



前の夜、阿仙(あせん)が知らせに来た。


呉から船が五艘。明朝、出る。


同行予定者の欄に、俺の名が浮かんでいた。


俺は、木簡を落として、そのまま部屋を飛び出した。


三歩で転んだ。


——趙雲(ちょううん)が、廊下にいた。


この人は、いつもいる。


「若君? このような刻限に」


「しりゅう」


「はい」


俺は、必死に言葉を並べた。


「ふね、くる」


「船?」


「ごそう」


「……呉からでございますか」


「うん」


「どこから、それを」


——ここで、俺は詰まった。


阿仙の名を出せば、あの子が疑われる。


呉の侍女が、蜀の世子へ内通した。


それは、百人の侍女全員の立場を悪くする。


俺は、答えなかった。


代わりに、こう言った。


「きいて」


「誰にでございましょう」


「みなみの、きし」


——場所だけ、言った。



    ◆



趙雲は、しばらく俺を見ていた。


——この人は、俺のやることを止めない。


そして、根拠を要求しない。


「承知しました」


彼は、すぐに立ち上がった。


「若君。ご心配なく」


「うん」


「……ただ、一つ」


趙雲は、俺を見た。


「明朝、奥方さまがお呼びになったら、行かれますか」


——


俺は、答えられなかった。


行きたくない。


行くべきではない。


——だが、行かなければ、あの人は一人で船に乗る。


俺は、言った。


「いく」


趙雲の眉が、動いた。


「若君」


「いく」


「……なぜでございます」


俺は、答えた。


「いかないと、さよなら、いえない」



    ◆



翌朝。


孫夫人が、俺を呼びに来た。


自分で、である。


侍女を使わなかった。


「阿斗」


「おかあさま」


——この呼び方を、俺は去年から使っている。


「母上」ではない。


「おかあさま」である。


四歳の口が、そう呼んだ。


それだけの理由だ。


そして、この人は、一度も訂正しなかった。


「川を、見に行きませんか」


「かわ」


「船が、来ています」


——嘘は、ついていない。


この人は、本当に、嘘をつかない。



    ◆



船は、五艘あった。


呉の旗が上がっている。


俺は、抱かれて甲板に乗せられた。


侍女たちが、次々に乗り込んでくる。


荷が、多い。


——旅の荷ではない。


引っ越しの荷である。


俺は、視界を確認した。


```

【孫夫人】


出立 確定

帰還意思 なし


同行予定者

 侍女 百名

 劉禅

```


——


やはり、俺は数に入っている。



    ◆



船が、岸を離れた。


櫂が、水を打つ音。


帆が、風を受けて張る音。


——長江は、思ったより広かった。


岸が、みるみる遠くなる。


水の色が、茶色から鈍い緑に変わっていく。


冬の川風は、生臭くて、そして冷たかった。



    ◆



俺は、船室で膝の上に乗せられていた。


そして、計算を始めた。


——呉が俺を欲しがる理由は、一つ。


人質だ。


いや、人質という言葉は生ぬるい。


俺は、荊州返還交渉における、担保(たんぽ)である。


父は、先月、益州へ発った。


荊州の守りは、薄い。


孫権にとって、これ以上ない機会だ。


嫡子を押さえれば、荊州を無血で戻せる可能性がある。


少なくとも、交渉の卓で、圧倒的に有利に立てる。


俺は、自分の値段を計算した。


——荊州五郡の、およそ三分の一。


四歳にして、自分に値札を貼るのは、あまり気分のよい作業ではなかった。



    ◆



だが。


俺は、孫夫人の画面を、もう一度見た。


```

【孫夫人】


呉への帰属 92

劉備への感情 混合

阿斗への愛情 71

政治的利用意思 31


孤独 88

```


——政治的利用意思、三十一。


低い。


低すぎる。


この人は、俺を人質にしようとしていない。


——そして、孤独、八十八。



    ◆



「阿斗」


孫夫人が、俺の髪を撫でた。


丁寧に、慣れた手つきで。


「江東は、よいところですよ」


「かえりたい」


「あちらにも、あなたの家族がおります」


——違う。


俺は、この人の顔を見上げた。


——あなたは、俺を人質にしようとしていない。


あなたは、自分の居場所がここにないから、俺を連れていこうとしている。


「おかあさま」


「はい」


「おかあさまも、かえりたい?」


孫夫人の手が、止まった。


「……」


「ほんとに?」


長い沈黙があった。


やがて、この人は言った。


「母が、病だと聞きました」


「うん」


「兄からの書状に、そうありました」


「……」


「本当かどうかは、分かりません」


——


この人は、嘘をつかない。


自分が騙されている可能性まで、正直に言う。


「それでも、帰る理由が要るのです」


「……」


「理由がなければ、逃げたことになりますから」



    ◆



俺は、そこで理解した。


——この人は、逃げている。


そして、逃げていることを認めたくない。


だから、母の病という理由が要る。


そして、俺という「連れ」が要る。


——一人で逃げるのは、負けだからだ。


誰かを連れて帰れば、「迎えに来た」ことになる。


前世で、俺は同じ人を何人も見た。


会社を辞めるとき、必ず部下を一人連れていこうとする人。


理由は、いつも「あいつのため」である。


——本当は、一人で辞めるのが怖い。



    ◆



甲板から、太鼓の音が聞こえた。


——上流から。


俺は、膝から滑り降りて、船室を出た。


侍女が止めようとしたが、孫夫人が手で制した。


——この人は、止めなかった。


それが、答えだった。



    ◆



甲板に出ると、風が強かった。


俺は、欄干にしがみついた。


上流から、船が来る。


一艘。


速い。


櫂の入り方が、揃っている。


訓練された兵が漕いでいる。


舳先に立つ、白い影。


「しりゅう!」


俺は、叫んだ。


四歳の声は、川風に半分持っていかれた。



    ◆



趙雲の船が、寄せてくる。


「船を、止められよ!」


——声が、届いた。


孫夫人の船の兵が、槍を構えた。


孫夫人が、甲板へ出てきた。


風で、髪が乱れている。


それでも、姿勢は崩れなかった。


「趙将軍。何のご用でしょう」


「奥方さまのご帰国は、主公も存じております」


趙雲の声は、いつもどおり静かだった。


怒鳴らない。


この人は、命を懸ける場面ほど、静かになる。


「されど、若君は蜀の嫡子。呉へお連れになる理由が、ございません」


「私は、母を見舞うのです。この子を連れてはならぬと、誰が決めました」


「主公です」


「主公は、益州におられます」


「ゆえに、私が代わって申し上げております」


——正論だ。


だが、法的には弱い。


劉備本人の命令書がない以上、趙雲は越権行為をしている。


——そして俺は、知っている。


この人は、それを分かった上でやっている。


```

【趙雲】


現在の行動 命令系統外

処罰予測 中〜高

実行意思 100

```


——処罰予測、中から高。


この男は、また、自分を差し出そうとしている。



    ◆



「しりゅう」


俺は、欄干から身を乗り出した。


「しりゅう!」


侍女が、俺を後ろから抱えた。


そのとき——下流から、もう一艘。


——


「阿斗ォォォォォ!」


張飛(ちょうひ)だった。


船が横づけになる前から、この男は跳んだ。


物理的に。


甲板が、揺れた。


呉の兵が、三人ほど尻餅をついた。


翼徳(よくとく)どの」


趙雲が、眉を寄せた。


「船が、揺れます」


「揺らしておるのだ!」


「兵が落ちます」


「落ちればよい!」


「若君も落ちます」


張飛が、真顔になった。


「……それは、困る」


——この人は、こういう人だ。



    ◆



甲板の上で、三者が向き合った。


孫夫人。趙雲。張飛。


そして俺は、侍女の腕の中から見ていた。


「妹御を止める気は、ござらぬ」


張飛が言った。


意外にも、静かな声だった。


「呉へ帰られるがよい。兄君のもとへ帰るは、道理でござろう」


「では、なぜ止めるのです」


「阿斗は、蜀の子だ」


「この子は、私の子でもあります」


——張飛が、言葉に詰まった。


俺は、驚いた。


この人が、口論で詰まるのを、初めて見た。



    ◆



孫夫人は、続けた。


「私は二年、この地におりました」


声は、震えていない。


この人は、泣くために言っているのではない。


「誰も、私に本心を語りませんでした」


「……」


「家臣は私を疑い、侍女は私を見張り、夫は私を政略として扱った」


「……」


「この子だけです。私を、母と呼んだのは」


——甲板が、静まり返った。


長江の水音だけが、聞こえていた。



    ◆



やがて——趙雲が、静かに頭を下げた。


「……申し訳ございません」


孫夫人が、目を見開いた。


「なぜ、あなたが謝るのです」


「奥方さまを孤立させたのは、我らでございます」


趙雲は、顔を上げなかった。


「呉の姫としてお迎えし、家の者として扱わなかった。それは、我らの落ち度でございます」


——


俺は、息を呑んだ。


この人は、いま何をした。


趙雲は、孫夫人の主張を否定していない。


認めた上で、それでも阿斗は渡せないと言おうとしている。


——前世の交渉でも、これが一番難しかった。


相手の主張を認めれば、こちらが不利になる。


だから普通は認めない。争点をずらす。責任を分散する。


この男は、まっすぐ認めた。


孫夫人の指が、わずかに緩んだ。



    ◆



俺は、そのわずかな隙をついて、侍女の腕から抜け出した。


四歳の身体で、大人三人の脚の間を走った。


そして、孫夫人の袖を掴んだ。


「阿斗」


「おかあさま」


俺は、見上げた。


——言いたいことは、山ほどあった。


あなたは呉の姫でも、荊州の人質でもない。


この家の人間として、ここにいていい。


誰もそう言わなかったのは、この組織が、あなたという人の職掌を定義しなかったからだ。


あなたは政略結婚の道具ではなく、呉との窓口という、この国で最も重要な役目に就くべき人だった。


——俺はそれを、二年間、言わなかった。


四歳の口からは、それしか出なかった。


「ここにも、いて」


——孫夫人の目が、大きく見開かれた。


「……阿斗」


「ここにも、いて」


俺は、もう一度言った。


孫夫人は、俺を抱き上げた。


強く。


息ができないほど、強く。


頬に、温かいものが落ちた。



    ◆



長い時間が過ぎた。


やがて、孫夫人は俺を趙雲へ渡した。


「趙将軍」


「はっ」


「この子を、頼みます」


「命に代えましても」


「そういうことを、あなたは本当にする」


孫夫人が、初めて笑った。


「だから、この家は嫌いです」


——褒め言葉である。


たぶん、この人が言える、最大の褒め言葉である。



    ◆



俺は、趙雲の腕の中から、最後に一つだけ聞いた。


「おかあさま」


「はい」


「なまえ」


——孫夫人の動きが、止まった。


「……名?」


「うん」


俺は、必死に言った。


「きいてない」


「……」


「にねん、きいてない」


孫夫人は、長いこと俺を見ていた。


風が、彼女の髪を乱していた。


そして——この人は、屈んだ。


俺の耳元に、口を寄せた。


そして、名を言った。


——一度だけ。


趙雲にも、張飛にも、百人の侍女にも聞こえない声で。


俺は、目を見開いた。


「……」


「阿斗」


「うん」


「書いてはなりません」


「なんで」


孫夫人は、言った。


「書けば、私はこの家の者になります」


「……」


「そうなれば、呉へ帰れなくなります」


——去年と、同じ理屈だ。


この人は、一年前から、何も変えていない。


「……」


「ですから」


孫夫人は、俺の頬に触れた。


「覚えていて、ください」


——


俺は、頷いた。


何度も、頷いた。



    ◆



船が、離れていく。


俺は、趙雲の腕の中から、それを見ていた。


```

【孫夫人】


離脱 確定

呉への帰還 確定

再来訪確率 0%


阿斗への愛情 71 → 88

孤独 88 → 88

```


——孤独は、動かなかった。


俺が二年かけて言った四つの音は、この人の孤独を、一ミリも減らせなかった。



    ◆



「若君」


趙雲が言った。


「よくぞ、ご無事で」


「しりゅう」


「はい」


「たすけた?」


俺は、聞いた。


——俺は、この人を助けたのか。


趙雲は、少し考えてから、正直に答えた。


「いいえ」


「……」


「されど」


彼は、続けた。


「あの方は、若君のお言葉を覚えて、帰られました」


——それは、助けたことになるのか。


俺には、分からなかった。



    ◆



岸に戻ると、諸葛亮(しょかつりょう)が待っていた。


羽扇を、握りしめていた。


「子龍どの」


「はっ」


「主公のご許可なく、兵を動かされましたな」


「……はっ」


「処分は、免れませぬ」


「承知しております」


——趙雲は、頭を下げた。


俺は、諸葛亮の袖を掴んだ。


「せんせい」


「はい」


「しりゅうは、わるくない」


「存じております」


「じゃあ」


「それでも、規則でございます」


諸葛亮は、静かに言った。


「一人を救うために国の定めを曲げれば、次に誰かを救うとき、誰も従いませぬ」


——


その言葉を、俺は覚えておくことにした。


——八年後、俺自身が、この言葉を投げつけられる。


だが、このときの俺は、まだ知らない。



    ◆



結局、趙雲の処分は「留営司馬(りゅうえいしば)として内事を掌る」という、加増だった。


罰ではない。


むしろ、権限が増えた。


「なんで」


俺が聞くと、諸葛亮は答えた。


「主公に、報せました」


「なんて」


「事実を、そのまま」


「うん」


「主公からは、一行だけ返って参りました」


「なんて」


諸葛亮は、竹簡を見せた。


そこには、こう書いてあった。


> 《子龍に、詫びよ。私が悪い》


——


四百里の彼方から、である。


俺は、その一行を見つめた。


約束管理二十二。財務管理三十一。乳幼児安全意識四。


——だが、この人は、間違えたら謝る。


そして、その速度が、異常に速い。



    ◆



その夜、俺は木簡を出した。


《家の者》


一行目の、空白。


——俺は、そこに筆を近づけて、止めた。


書けば、この人はこの家の者になる。


そして、呉へ帰れなくなる。


——もう、帰ってしまった。


書いても、何も変わらない。


……いや。


変わる。


約束が、変わる。


俺は、筆を置いた。


空白は、空白のままにした。


そして、その下に、一行だけ書いた。


《おぼえている》


——四歳の記憶が、六十年もつのかは分からない。


だが、俺は覚えておく。


あの人が、この世界で唯一、俺にだけ渡したものだ。


史書には、載らない。


この木簡にも、載らない。


——載っていないものを、俺は一つ、持っている。



    ◆



死亡年表を開いた。


二〇九——母。丸。


二一二——張松(ちょうしょう)。四角。


二一四——龐統(ほうとう)。四角。


二一九——関羽(かんう)。丸。


二二〇——法正(ほうせい)。丸。


二二一。二二三。二二八。二二九。二三四。


俺は、その脇に、新しい行を作った。


《救えなかった者》


一行目に、甘夫人と書いた。


二行目に——


手が、止まった。


孫夫人は、死んでいない。


生きている。健康だ。


呉で、兄と母のそばで暮らすだろう。


それでも、俺はこの人を失った。


——救うというのは、死なせないことだけではない。


俺は、二行目に書いた。


《孫夫人》


そして、名前の欄は、空けたままにした。



次回 第34話「救えなかった二人目」


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