第33話 截江——長江の上の人事交渉
船に乗せられた時点で、俺は状況を理解していた。
四つである。歩ける。走れる。短い文なら話せる。
そして——自分の値段を、知っていた。
◆
前の夜、阿仙が知らせに来た。
呉から船が五艘。明朝、出る。
同行予定者の欄に、俺の名が浮かんでいた。
俺は、木簡を落として、そのまま部屋を飛び出した。
三歩で転んだ。
——趙雲が、廊下にいた。
この人は、いつもいる。
「若君? このような刻限に」
「しりゅう」
「はい」
俺は、必死に言葉を並べた。
「ふね、くる」
「船?」
「ごそう」
「……呉からでございますか」
「うん」
「どこから、それを」
——ここで、俺は詰まった。
阿仙の名を出せば、あの子が疑われる。
呉の侍女が、蜀の世子へ内通した。
それは、百人の侍女全員の立場を悪くする。
俺は、答えなかった。
代わりに、こう言った。
「きいて」
「誰にでございましょう」
「みなみの、きし」
——場所だけ、言った。
◆
趙雲は、しばらく俺を見ていた。
——この人は、俺のやることを止めない。
そして、根拠を要求しない。
「承知しました」
彼は、すぐに立ち上がった。
「若君。ご心配なく」
「うん」
「……ただ、一つ」
趙雲は、俺を見た。
「明朝、奥方さまがお呼びになったら、行かれますか」
——
俺は、答えられなかった。
行きたくない。
行くべきではない。
——だが、行かなければ、あの人は一人で船に乗る。
俺は、言った。
「いく」
趙雲の眉が、動いた。
「若君」
「いく」
「……なぜでございます」
俺は、答えた。
「いかないと、さよなら、いえない」
◆
翌朝。
孫夫人が、俺を呼びに来た。
自分で、である。
侍女を使わなかった。
「阿斗」
「おかあさま」
——この呼び方を、俺は去年から使っている。
「母上」ではない。
「おかあさま」である。
四歳の口が、そう呼んだ。
それだけの理由だ。
そして、この人は、一度も訂正しなかった。
「川を、見に行きませんか」
「かわ」
「船が、来ています」
——嘘は、ついていない。
この人は、本当に、嘘をつかない。
◆
船は、五艘あった。
呉の旗が上がっている。
俺は、抱かれて甲板に乗せられた。
侍女たちが、次々に乗り込んでくる。
荷が、多い。
——旅の荷ではない。
引っ越しの荷である。
俺は、視界を確認した。
```
【孫夫人】
出立 確定
帰還意思 なし
同行予定者
侍女 百名
劉禅
```
——
やはり、俺は数に入っている。
◆
船が、岸を離れた。
櫂が、水を打つ音。
帆が、風を受けて張る音。
——長江は、思ったより広かった。
岸が、みるみる遠くなる。
水の色が、茶色から鈍い緑に変わっていく。
冬の川風は、生臭くて、そして冷たかった。
◆
俺は、船室で膝の上に乗せられていた。
そして、計算を始めた。
——呉が俺を欲しがる理由は、一つ。
人質だ。
いや、人質という言葉は生ぬるい。
俺は、荊州返還交渉における、担保である。
父は、先月、益州へ発った。
荊州の守りは、薄い。
孫権にとって、これ以上ない機会だ。
嫡子を押さえれば、荊州を無血で戻せる可能性がある。
少なくとも、交渉の卓で、圧倒的に有利に立てる。
俺は、自分の値段を計算した。
——荊州五郡の、およそ三分の一。
四歳にして、自分に値札を貼るのは、あまり気分のよい作業ではなかった。
◆
だが。
俺は、孫夫人の画面を、もう一度見た。
```
【孫夫人】
呉への帰属 92
劉備への感情 混合
阿斗への愛情 71
政治的利用意思 31
孤独 88
```
——政治的利用意思、三十一。
低い。
低すぎる。
この人は、俺を人質にしようとしていない。
——そして、孤独、八十八。
◆
「阿斗」
孫夫人が、俺の髪を撫でた。
丁寧に、慣れた手つきで。
「江東は、よいところですよ」
「かえりたい」
「あちらにも、あなたの家族がおります」
——違う。
俺は、この人の顔を見上げた。
——あなたは、俺を人質にしようとしていない。
あなたは、自分の居場所がここにないから、俺を連れていこうとしている。
「おかあさま」
「はい」
「おかあさまも、かえりたい?」
孫夫人の手が、止まった。
「……」
「ほんとに?」
長い沈黙があった。
やがて、この人は言った。
「母が、病だと聞きました」
「うん」
「兄からの書状に、そうありました」
「……」
「本当かどうかは、分かりません」
——
この人は、嘘をつかない。
自分が騙されている可能性まで、正直に言う。
「それでも、帰る理由が要るのです」
「……」
「理由がなければ、逃げたことになりますから」
◆
俺は、そこで理解した。
——この人は、逃げている。
そして、逃げていることを認めたくない。
だから、母の病という理由が要る。
そして、俺という「連れ」が要る。
——一人で逃げるのは、負けだからだ。
誰かを連れて帰れば、「迎えに来た」ことになる。
前世で、俺は同じ人を何人も見た。
会社を辞めるとき、必ず部下を一人連れていこうとする人。
理由は、いつも「あいつのため」である。
——本当は、一人で辞めるのが怖い。
◆
甲板から、太鼓の音が聞こえた。
——上流から。
俺は、膝から滑り降りて、船室を出た。
侍女が止めようとしたが、孫夫人が手で制した。
——この人は、止めなかった。
それが、答えだった。
◆
甲板に出ると、風が強かった。
俺は、欄干にしがみついた。
上流から、船が来る。
一艘。
速い。
櫂の入り方が、揃っている。
訓練された兵が漕いでいる。
舳先に立つ、白い影。
「しりゅう!」
俺は、叫んだ。
四歳の声は、川風に半分持っていかれた。
◆
趙雲の船が、寄せてくる。
「船を、止められよ!」
——声が、届いた。
孫夫人の船の兵が、槍を構えた。
孫夫人が、甲板へ出てきた。
風で、髪が乱れている。
それでも、姿勢は崩れなかった。
「趙将軍。何のご用でしょう」
「奥方さまのご帰国は、主公も存じております」
趙雲の声は、いつもどおり静かだった。
怒鳴らない。
この人は、命を懸ける場面ほど、静かになる。
「されど、若君は蜀の嫡子。呉へお連れになる理由が、ございません」
「私は、母を見舞うのです。この子を連れてはならぬと、誰が決めました」
「主公です」
「主公は、益州におられます」
「ゆえに、私が代わって申し上げております」
——正論だ。
だが、法的には弱い。
劉備本人の命令書がない以上、趙雲は越権行為をしている。
——そして俺は、知っている。
この人は、それを分かった上でやっている。
```
【趙雲】
現在の行動 命令系統外
処罰予測 中〜高
実行意思 100
```
——処罰予測、中から高。
この男は、また、自分を差し出そうとしている。
◆
「しりゅう」
俺は、欄干から身を乗り出した。
「しりゅう!」
侍女が、俺を後ろから抱えた。
そのとき——下流から、もう一艘。
——
「阿斗ォォォォォ!」
張飛だった。
船が横づけになる前から、この男は跳んだ。
物理的に。
甲板が、揺れた。
呉の兵が、三人ほど尻餅をついた。
「翼徳どの」
趙雲が、眉を寄せた。
「船が、揺れます」
「揺らしておるのだ!」
「兵が落ちます」
「落ちればよい!」
「若君も落ちます」
張飛が、真顔になった。
「……それは、困る」
——この人は、こういう人だ。
◆
甲板の上で、三者が向き合った。
孫夫人。趙雲。張飛。
そして俺は、侍女の腕の中から見ていた。
「妹御を止める気は、ござらぬ」
張飛が言った。
意外にも、静かな声だった。
「呉へ帰られるがよい。兄君のもとへ帰るは、道理でござろう」
「では、なぜ止めるのです」
「阿斗は、蜀の子だ」
「この子は、私の子でもあります」
——張飛が、言葉に詰まった。
俺は、驚いた。
この人が、口論で詰まるのを、初めて見た。
◆
孫夫人は、続けた。
「私は二年、この地におりました」
声は、震えていない。
この人は、泣くために言っているのではない。
「誰も、私に本心を語りませんでした」
「……」
「家臣は私を疑い、侍女は私を見張り、夫は私を政略として扱った」
「……」
「この子だけです。私を、母と呼んだのは」
——甲板が、静まり返った。
長江の水音だけが、聞こえていた。
◆
やがて——趙雲が、静かに頭を下げた。
「……申し訳ございません」
孫夫人が、目を見開いた。
「なぜ、あなたが謝るのです」
「奥方さまを孤立させたのは、我らでございます」
趙雲は、顔を上げなかった。
「呉の姫としてお迎えし、家の者として扱わなかった。それは、我らの落ち度でございます」
——
俺は、息を呑んだ。
この人は、いま何をした。
趙雲は、孫夫人の主張を否定していない。
認めた上で、それでも阿斗は渡せないと言おうとしている。
——前世の交渉でも、これが一番難しかった。
相手の主張を認めれば、こちらが不利になる。
だから普通は認めない。争点をずらす。責任を分散する。
この男は、まっすぐ認めた。
孫夫人の指が、わずかに緩んだ。
◆
俺は、そのわずかな隙をついて、侍女の腕から抜け出した。
四歳の身体で、大人三人の脚の間を走った。
そして、孫夫人の袖を掴んだ。
「阿斗」
「おかあさま」
俺は、見上げた。
——言いたいことは、山ほどあった。
あなたは呉の姫でも、荊州の人質でもない。
この家の人間として、ここにいていい。
誰もそう言わなかったのは、この組織が、あなたという人の職掌を定義しなかったからだ。
あなたは政略結婚の道具ではなく、呉との窓口という、この国で最も重要な役目に就くべき人だった。
——俺はそれを、二年間、言わなかった。
四歳の口からは、それしか出なかった。
「ここにも、いて」
——孫夫人の目が、大きく見開かれた。
「……阿斗」
「ここにも、いて」
俺は、もう一度言った。
孫夫人は、俺を抱き上げた。
強く。
息ができないほど、強く。
頬に、温かいものが落ちた。
◆
長い時間が過ぎた。
やがて、孫夫人は俺を趙雲へ渡した。
「趙将軍」
「はっ」
「この子を、頼みます」
「命に代えましても」
「そういうことを、あなたは本当にする」
孫夫人が、初めて笑った。
「だから、この家は嫌いです」
——褒め言葉である。
たぶん、この人が言える、最大の褒め言葉である。
◆
俺は、趙雲の腕の中から、最後に一つだけ聞いた。
「おかあさま」
「はい」
「なまえ」
——孫夫人の動きが、止まった。
「……名?」
「うん」
俺は、必死に言った。
「きいてない」
「……」
「にねん、きいてない」
孫夫人は、長いこと俺を見ていた。
風が、彼女の髪を乱していた。
そして——この人は、屈んだ。
俺の耳元に、口を寄せた。
そして、名を言った。
——一度だけ。
趙雲にも、張飛にも、百人の侍女にも聞こえない声で。
俺は、目を見開いた。
「……」
「阿斗」
「うん」
「書いてはなりません」
「なんで」
孫夫人は、言った。
「書けば、私はこの家の者になります」
「……」
「そうなれば、呉へ帰れなくなります」
——去年と、同じ理屈だ。
この人は、一年前から、何も変えていない。
「……」
「ですから」
孫夫人は、俺の頬に触れた。
「覚えていて、ください」
——
俺は、頷いた。
何度も、頷いた。
◆
船が、離れていく。
俺は、趙雲の腕の中から、それを見ていた。
```
【孫夫人】
離脱 確定
呉への帰還 確定
再来訪確率 0%
阿斗への愛情 71 → 88
孤独 88 → 88
```
——孤独は、動かなかった。
俺が二年かけて言った四つの音は、この人の孤独を、一ミリも減らせなかった。
◆
「若君」
趙雲が言った。
「よくぞ、ご無事で」
「しりゅう」
「はい」
「たすけた?」
俺は、聞いた。
——俺は、この人を助けたのか。
趙雲は、少し考えてから、正直に答えた。
「いいえ」
「……」
「されど」
彼は、続けた。
「あの方は、若君のお言葉を覚えて、帰られました」
——それは、助けたことになるのか。
俺には、分からなかった。
◆
岸に戻ると、諸葛亮が待っていた。
羽扇を、握りしめていた。
「子龍どの」
「はっ」
「主公のご許可なく、兵を動かされましたな」
「……はっ」
「処分は、免れませぬ」
「承知しております」
——趙雲は、頭を下げた。
俺は、諸葛亮の袖を掴んだ。
「せんせい」
「はい」
「しりゅうは、わるくない」
「存じております」
「じゃあ」
「それでも、規則でございます」
諸葛亮は、静かに言った。
「一人を救うために国の定めを曲げれば、次に誰かを救うとき、誰も従いませぬ」
——
その言葉を、俺は覚えておくことにした。
——八年後、俺自身が、この言葉を投げつけられる。
だが、このときの俺は、まだ知らない。
◆
結局、趙雲の処分は「留営司馬として内事を掌る」という、加増だった。
罰ではない。
むしろ、権限が増えた。
「なんで」
俺が聞くと、諸葛亮は答えた。
「主公に、報せました」
「なんて」
「事実を、そのまま」
「うん」
「主公からは、一行だけ返って参りました」
「なんて」
諸葛亮は、竹簡を見せた。
そこには、こう書いてあった。
> 《子龍に、詫びよ。私が悪い》
——
四百里の彼方から、である。
俺は、その一行を見つめた。
約束管理二十二。財務管理三十一。乳幼児安全意識四。
——だが、この人は、間違えたら謝る。
そして、その速度が、異常に速い。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
《家の者》
一行目の、空白。
——俺は、そこに筆を近づけて、止めた。
書けば、この人はこの家の者になる。
そして、呉へ帰れなくなる。
——もう、帰ってしまった。
書いても、何も変わらない。
……いや。
変わる。
約束が、変わる。
俺は、筆を置いた。
空白は、空白のままにした。
そして、その下に、一行だけ書いた。
《おぼえている》
——四歳の記憶が、六十年もつのかは分からない。
だが、俺は覚えておく。
あの人が、この世界で唯一、俺にだけ渡したものだ。
史書には、載らない。
この木簡にも、載らない。
——載っていないものを、俺は一つ、持っている。
◆
死亡年表を開いた。
二〇九——母。丸。
二一二——張松。四角。
二一四——龐統。四角。
二一九——関羽。丸。
二二〇——法正。丸。
二二一。二二三。二二八。二二九。二三四。
俺は、その脇に、新しい行を作った。
《救えなかった者》
一行目に、甘夫人と書いた。
二行目に——
手が、止まった。
孫夫人は、死んでいない。
生きている。健康だ。
呉で、兄と母のそばで暮らすだろう。
それでも、俺はこの人を失った。
——救うというのは、死なせないことだけではない。
俺は、二行目に書いた。
《孫夫人》
そして、名前の欄は、空けたままにした。
次回 第34話「救えなかった二人目」




