第32話 父のいない城
父が出発してから、城が静かになった。
兵の数は、減っていない。
評定も、毎日ある。
——それなのに、音が減った。
◆
最初に気付いたのは、笑い声だった。
劉備がいた頃、この城には、一日に何度も笑い声が響いていた。
父が笑うからである。
あの人は、大した話でもないのに笑う。
兵の冗談に笑う。張飛の失敗に笑う。糜竺の心配性に笑う。
そして、周りがつられて笑う。
——それが、なくなった。
廊下を歩く音が、やけに響くようになった。
同じ人数がいるのに、城が広くなった気がした。
◆
建安十六年の暮れ。
俺は四つで、荊州に残っていた。
残ったのは、諸葛亮、関羽、張飛、趙雲。
——豪華である。
天下に名を知られた将が三人と、天下三分を描いた男。
これだけ揃っていて、城が静かになった。
◆
理由は、評定に出てすぐ分かった。
「では、江夏の兵糧、二千斛を江陵へ回します」
諸葛亮が言う。
「異論のある方は」
——沈黙。
「では、そのように」
次。
「船の修繕、三十隻を今月中に」
「異論は」
——沈黙。
「では、そのように」
——速い。
恐ろしく、速い。
父がいた頃、この評定は倍の時間がかかっていた。
理由は、簡単である。
父が、全員に意見を聞いていたからだ。
そして、聞いたあと、必ずこう言っていた。
「そのとおりだ」
◆
俺は、あれが嫌いだった。
馬良が困っていたのを、覚えている。
三人が矛盾したことを言って、父が全員に「そのとおりだ」と答えて、記録が書けなくなった。
非効率である。
意思決定が遅れる。
責任の所在が曖昧になる。
——前世の俺なら、真っ先に潰す悪習である。
そして今、それがなくなった。
評定は、半分の時間で終わる。
決定は、明確である。
責任も、はっきりしている。
——
なのに、なぜ、こんなに息苦しいのか。
◆
俺は、評定の後、糜竺を見た。
```
【糜竺】
発言回数(月間) 14 → 3
```
——十一、減った。
孫乾も見た。
```
【孫乾】
発言回数(月間) 9 → 1
```
——
誰も、意見を言わなくなった。
理由は、分かる。
諸葛亮が正しいからである。
この男の案は、たいてい正しい。
反対しても、論破される。
論破されるのが分かっている会議で、人は発言しない。
——父の「そのとおりだ」は、正しさを与えていたのではない。
発言する理由を、与えていたのだ。
言えば、認められる。
中身が採用されなくても、「そのとおりだ」と言われる。
——だから、次も言う。
あの人は、非効率だった。
そして、あの非効率が、この城の声を作っていた。
◆
俺は、諸葛亮の袖を引いた。
「せんせい」
「はい」
「はやい」
「評定が、でございますか」
「うん」
「効率がよいのは、悪いことではございません」
「でも」
俺は、必死に言葉を探した。
「だれも、しゃべらない」
諸葛亮の羽扇が、止まった。
「……」
「まえは、しゃべってた」
「主公がおられた頃は」
「うん」
諸葛亮は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「主公は、無駄な問いを多くなさいました」
「うん」
「私は、それを短くいたしました」
「うん」
「——短くしたのは、私です」
彼は、羽扇を膝に置いた。
「若君。一つ、お尋ねしてよろしいか」
「うん」
「その無駄は、何のためにあったとお思いですか」
——聞かれるとは、思わなかった。
俺は、答えた。
「つぎ、いうため」
諸葛亮は、長いこと動かなかった。
そして、静かに言った。
「……承知しました」
翌日から、評定に一つ、項目が増えた。
《異論なき案件についても、各人一言を求む》
——形式である。
形式だが、ないよりはいい。
```
【糜竺】発言回数 3 → 7
【孫乾】発言回数 1 → 4
```
——半分は、戻った。
◆
張飛は、暇を持て余していた。
戦がない。
父もいない。
この人は、この二つがないと、何をしていいか分からないらしい。
結果、練兵場にいる時間が増えた。
そして——
俺は、木簡を開いた。
《殴られた者》
去年の秋に作った簿である。
一行目に王阿三。
その下に、名前が増えていた。
——十一月、四人。
十二月、七人。
```
【張飛】
暗殺危険度 5% → 7%
```
——二、上がった。
父がいた頃は、月に一人か二人だった。
この人は、父に見られていると、少し我慢する。
父がいないと、我慢しない。
——三十年、そうやって生きてきたのだろう。
◆
俺は、練兵場へ通うようになった。
張飛が殴りそうになったら、間に入る。
四歳の身体は、それだけで有効である。
この人は、俺を殴らない。
そして、俺が足元にいると、腕を振れない。
「阿斗! どけ!」
「やだ」
「今日は、こやつが悪い!」
「さんかい、たった?」
「……は?」
俺は、倒れている兵を指した。
「なんかい、たった」
張飛が、動きを止めた。
去年の秋、俺が使った手である。
「……二度だ」
「にかい、たった」
張飛は、しばらく黙った。
そして、兵に言った。
「……二度、立ったな」
「は、はい」
「明日は、三度立て」
そして、背を向けた。
```
【兵】
恐怖の対象 張飛将軍 91 → 79
```
——
この人は、覚えている。
去年、一度教えただけの型を、覚えている。
そして、自分では思いつかない。
だが、思い出させれば、できる。
——四千日ある、と俺は書いた。
今日で、四百日ほど過ぎた。
◆
関羽は、江陵にいる。
七日に一度、竹簡が届く。
数字が並んでいる。
魏軍の旗の数。呉の使者の往来。糧の日数。病者の数。修繕の箇所。進言した者の名。
——ちゃんと、書いてある。
約束は、守られている。
だが、俺は一つだけ、気になる欄があった。
《六、部下からの進言》
そこには、毎回こう書かれている。
——なし。
七日に一度。
十週続けて、なし。
——糜芳がいる。
内部不満七十一の男が、あそこにいる。
そして、進言はゼロ。
俺は、竹簡を握りしめた。
制度は、動いている。
書式も、変えた。
——だが、書く欄があっても、書けないものがある。
◆
益州からは、月に一度、報せが来た。
父は、葭萌関にいる。
張魯に備えて、北の関を守っている。
戦っていない。
——予定どおりである。
去年決めた方針は、こうだった。
張魯を防ぐ。劉璋の統治を見る。益州の人材と関係を作る。
そして、条件書に書いた事態が起きるまで、動かない。
父は、それを守っている。
兵は、益州の民から食料を買っている。奪っていない。
——珍しいことである。
この時代、軍が食料を買うのは、珍しい。
```
【益州の民】
劉備軍への評価 中立 → やや好意的
```
——一年後、これが効く。
成都を囲んだとき、民が城門を開ける理由になる。
……たぶん。
◆
龐統からも、書状が来た。
俺宛てである。
四歳に、書状を送ってくる大人がいる。
内容は、こうだった。
> 《兜は重い。首が痛い。三十日で外す》
——
俺は、即座に返事を書いた。
四歳の字である。半分は読めない。
> 《はずすな》
十日後、返事が来た。
> 《外さぬ。ただし恨む》
——恨まれた。
構わない。
```
【龐統】
防具着用率 71% → 71%
落鳳坡死亡危険度 33%
```
——維持している。
三十三パーセントのままだ。
下がってはいない。
だが、上がってもいない。
◆
そして、孫夫人である。
俺は、この人の数字を、毎日見ていた。
```
【孫夫人】
孤独 79 → 83 → 86 → 88
```
——上がり続けている。
理由は、明白だった。
父が、いない。
夫がいない城で、この人は「呉の姫」以外の何者でもなくなった。
女官たちは、以前より遠慮する。
兵は、目を合わせない。
そして——
関羽が、江陵にいる。
張飛は、練兵場にいる。
諸葛亮は、評定と書斎にいる。
——誰も、この人に会いに行かない。
趙雲だけが、時々、警備の報告をしに行っていた。
それが、この人が荊州の人間と話す、唯一の機会だった。
◆
俺は、通うことにした。
毎日ではない。
三日に一度、庭で会う。
理由は、簡単である。
それ以上行くと、また誰かが「呉の姫が世子と親しくしている」と言い出すからだ。
——去年、そうなった。
弓を、取り上げられた。
孫夫人は、俺が来ると、少しだけ表情を緩めた。
「阿斗」
「うん」
「また、来たのですか」
「うん」
「暇なのですね」
「ひまじゃない」
「では、なぜ」
俺は、答えた。
「あいたいから」
孫夫人は、少し黙った。
そして、目を逸らした。
「……そのような言葉を、覚えてはなりません」
「なんで」
「人を、縛ります」
```
【孫夫人】
孤独 88 → 84
```
——四、下がった。
三日に一度で、四。
そして次の三日で、また上がる。
——追いつかない。
俺一人では、追いつかない。
◆
ある日、俺は諸葛亮に相談した。
「せんせい」
「はい」
「おかあさま」
「奥方さまが、いかがなさいました」
「さびしい」
諸葛亮の羽扇が、止まった。
「……」
「しごと、あげて」
「仕事、でございますか」
「うん」
俺は、続けた。
「なんでもいい」
諸葛亮は、しばらく考えていた。
そして——難しい顔をした。
「若君」
「うん」
「それは、できかねます」
「なんで」
「奥方さまに公の務めをお預けすれば、呉の御方が荊州の政に関わることになります」
「……」
「主公が不在の今、それを許せば、群臣が動揺いたします」
——正しい。
政治的に、完全に正しい。
そして、この判断が、あの人の孤独を八十八にしている。
俺は、諸葛亮を見上げた。
「せんせい」
「はい」
「それ、ただしい?」
諸葛亮は、俺の目を見た。
そして、はっきりと言った。
「正しゅうございます」
「……」
「そして、正しさでは、あの方は救えませぬ」
——
この男は、分かっている。
分かっていて、正しい判断をしている。
それが、いちばん、たちが悪い。
◆
その夜。
俺の部屋に、阿仙が来た。
去年の秋、書状のことを教えてくれた、若い侍女である。
顔が、白かった。
「若君」
「あせん」
「……夜分に、失礼いたします」
「なに」
阿仙は、周囲を見た。
そして、俺の耳元に顔を寄せた。
——今度は、本当に小さな声だった。
「呉から、船が参りました」
——
俺は、身を起こした。
「ふね」
「はい」
「なんそう」
「……五艘、と伺っております」
「どこ」
「城の南、江の岸に」
「いつ」
阿仙は、俯いた。
そして、言った。
「明日の朝、出るそうです」
◆
俺は、視界を開いた。
```
【孫夫人】
孤独 88
新規状態
呉への帰還準備 完了
出立予定 明朝
同行予定者
侍女 百名
——
```
——そこで、表示が止まった。
同行予定者の欄が、まだ続いている。
次の行が、じわりと浮かび上がった。
```
劉禅
```
——
俺は、木簡を落とした。
次回 第33話「截江——長江の上の人事交渉」




