第31話 最初の別れは、笑顔で始まった
出発の朝は、よく晴れていた。
旗が風を受けて、気持ちよく鳴っていた。
誰もが、笑っていた。
——この中の何人かと、二度と会えないことを、俺だけが知っていた。
◆
建安十六年の冬。
益州へ向かう者と、荊州へ残る者が決まった。
西へ行く者。
劉備。龐統。黄忠。魏延。
そして、張松、法正、孟達。
荊州に残る者。
諸葛亮。関羽。張飛。趙雲。
——妥当な配置である。
前線には、速く動ける将と、戦略を作る人間を置く。
後方には、統治と兵站を回せる人間を置く。
そして俺は、当然のように、荊州へ残ることになった。
四歳を、遠征に連れていく理由がない。
◆
——だが、俺は納得していなかった。
俺は、劉備の衣を掴んだ。
「いく」
「阿斗は残る」
「いく」
「旅は危険だ」
「ちちうえ、なげる」
——広間が、爆発した。
「もう投げぬ!」
劉備が、慌てて否定する。
張飛が笑い転げた。
「兄者! 阿斗は、また投げられぬよう見張るつもりだ!」
「一度しか投げておらぬ!」
——一度でも、多い。
三年経っても、この話は終わらない。
この軍では、長坂坡の阿斗投擲事件が、完全に共通認識になっている。
◆
龐統が、俺の前へしゃがんだ。
「若君。益州は、私にお任せください」
——この軍で、最も信用できない言葉である。
「しなない?」
「善処します」
「やくそく」
「最善を尽くします」
——また、逃げた。
俺は、龐統の能力画面を開いた。
```
【龐統 字・士元】
死亡危険度 橙
主要要因
・危険作戦への選好
・前線視察の頻度
・護衛軽視
・自分の判断への過信
・落鳳坡周辺の地形
```
——
初めて、地名が表示された。
落鳳坡。
雛鳳が、落ちる場所。
◆
俺は、張松から得た地図を広げた。
雒城の周辺。
複数の山道が、細い線で書き込まれている。
——史実や演義の詳細は、曖昧だ。
どの道で、いつ、どのように死ぬのか。
完全には、覚えていない。
「落鳳坡」という三文字と、「流れ矢」という言葉。
俺が持っているのは、それだけだ。
俺は、地名を頼りに、赤い地点を探した。
——雒城の北。狭い谷道。
俺は、そこを指した。
「ここ」
龐統が、覗き込む。
「この道が、どうしました」
「いかない」
「なぜ」
「だめ」
——説明できない。
「狭い道ですが、雒城へ向かうには使う可能性があります」
「だめ」
「理由がなければ、軍を動かせません」
——正論である。
未来を知っているとは、言えない。
夢で見たと言えば、信じるだろうか。
◆
俺は、諸葛亮を見た。
諸葛亮は、俺の表情を観察していた。
「士元どの」
「何でしょう」
「若君が、これほど強く止めることは、珍しゅうございます」
龐統が、俺を見る。
「確かに」
「理由を説明できずとも、危険を感じておられる可能性がございます」
「四つの子の勘で、進軍路を変えるのですか」
諸葛亮は、静かに言った。
「長坂坡の前にも、若君は『子龍が来る』と申されたそうです」
——
この男は、俺の秘密へ近づきすぎている。
龐統の目が、細くなった。
「若君には、何かが見えると?」
——俺は、黙った。
能力値が見える。危険度が見える。未来の断片が見える。
すべてを話せば、俺は神のように扱われるか、妖として恐れられる。
どちらも、望まない。
◆
「士元どの」
趙雲が、口を開いた。
「道を完全に避ける必要は、ございません」
「では?」
「事前に斥候を増やし、別の退路を確認する。若君のご懸念を、危機管理として扱えばよろしいでしょう」
——さすが、危機管理百。
信じるか、信じないかの二択ではない。
低い確率の危険として、備える。
——これが、去年この人を危機評価役に置いた効果である。
「根拠のない懸念」を、「確率の低い危険」に翻訳できる人間が、一人いる。
それだけで、組織はまったく違うものになる。
龐統は、地図を見た。
そして、即座に決めた。
「斥候を二倍。通過前に高地を確認。別働隊を先行させる」
```
【龐統】
落鳳坡死亡危険度 48% → 41%
```
——七、下がった。
◆
俺は、さらに言った。
「よろい」
「鎧を着ろと?」
「うん」
龐統は、自分の軽装を見た。
「軍師が重い鎧を着ては、移動が遅くなります」
「きる」
「若君」
「きる!」
龐統は、大きなため息をついた。
「……承知しました」
「かぶと」
「兜も?」
「うん」
「視界が狭くなります」
「かぶと」
「……」
「かぶと!」
「……承知しました」
```
【龐統】
防具着用率 18% → 71%
落鳳坡死亡危険度 41% → 33%
```
——三十三パーセント。
去年、七十一だった。
一年で、三十八下がった。
——だが、ゼロではない。
三人に一人は、死ぬ。
◆
俺は、龐統の袖を掴んだ。
「しげん」
「はい」
「しかく」
「四角?」
「しかくの、まま」
龐統は、意味が分からないという顔をした。
当然である。
丸と四角の話は、俺の木簡の中の話だ。
だが、この男は聞き返さなかった。
代わりに、こう言った。
「……承知しました」
「わかった?」
「分かりませぬ」
龐統は、笑った。
「ですが、覚えておきます」
◆
次に、俺は関羽のところへ行った。
この人は、荊州に残る。
そして、来年から実質的に荊州の主となる。
俺は、視界を確認した。
```
【関羽】
荊州孤立危険度 11%
増加要因
・劉備軍主力の西進
・呉との領土問題
・関羽の外交姿勢
・報告の質
```
——十一パーセント。
去年、報告制度を作って、二十三から下げた。
だが、これから上がる。
主力が西へ行けば、荊州は薄くなる。
◆
「うんちょう」
「はい、若君」
「ほうこく」
関羽の眉が、わずかに動いた。
「先月、様式を改めたばかりでございます」
「うん」
「数を書けと」
「うん」
「書いております」
——書いている。
確かに、書いている。
七日ごとに、数字が並んだ竹簡が届く。
——だが。
俺は、必死に言葉を探した。
「ふえたら」
「増えたら?」
「すうじが、ふえたら」
「はい」
「すぐ、いって」
——七日、待つな。
数字が急に動いたら、その日に送れ。
前世で言えば、異常値報告である。
定例報告は、定例のものしか拾えない。
関羽は、しばらく黙った。
そして、頷いた。
「……承知した」
```
【関羽】
荊州孤立危険度 11% → 9%
関羽の機嫌 31 → 27
```
——また、下がった。
この人の機嫌は、俺の改革の回数と、正確に反比例している。
将来、ゼロにならないか、本気で心配である。
◆
そして——俺は、孫夫人のところへ行った。
この人は、荊州に残る。
劉備が、去る。
去年、俺は数字を見た。
```
【孫夫人】
孤独 71
```
あれから、動いていない。
——だが、これから動く。
夫が去れば、この人は、この城でただ一人の呉の人間になる。
帯剣した侍女百人と一緒に。
誰も口をきかない城の中で。
◆
劉備が、孫夫人へ別れの挨拶をした。
「留守を、頼む」
「……はい」
「阿斗のことも」
「はい」
——それだけだった。
三十秒も、なかった。
この人は、誰にでも三十秒は完璧に振る舞える。
そして、三十秒しか、なかった。
俺は、視界を確認した。
```
【孫夫人】
孤独 71 → 79
```
——八、上がった。
三十秒で。
◆
劉備が去ったあと、俺は孫夫人の袖を引いた。
「あの」
「……阿斗」
「ゆみ」
孫夫人が、俺を見た。
「弓は、やめました」
「うん」
「もう、教えません」
「しってる」
俺は、続けた。
「でも、ここにいて」
——去年と、同じ言葉である。
あのとき、この人は「その空きは埋めずにおいてください」と言った。
呉へ帰れなくなるから、と。
孫夫人は、しばらく俺を見ていた。
そして、初めて——俺の頭に、手を置いた。
「……阿斗」
「うん」
「あなたは、優しい」
「うん」
「それが、いちばん、困ります」
```
【孫夫人】
孤独 79 → 79
阿斗への感情 愛情 58 → 71
```
——孤独は、動かなかった。
愛情だけが、上がった。
——これは、悪い兆候である。
この人は、俺を好きになりながら、孤独なままだ。
そして、孤独な人間が、愛着のある対象を見つけたとき——
——連れていこうとする。
俺は、そこで背筋が冷たくなった。
◆
最後に、俺は張松のところへ行った。
この人は、劉備と一緒に益州へ戻る。
そして、益州で、内側から手引きをする。
——来年、露見して、死ぬ。
「しけいどの」
「若君」
張松は、膝を折った。
この男は、そういう礼儀だけは完璧に守る。
「本日は、お見送りを」
「うん」
俺は、言葉を選んだ。
「だれにも、いわないで」
「何を、でございましょう」
「ぜんぶ」
張松は、笑った。
「ご心配には及びません。私は、口が固うございます」
——嘘だ。
```
【張松】
自己顕示 87
情報漏洩危険度 62%
```
六十二パーセント。
父の一言で、八十一から下がった。
それでも、六十二だ。
「しけいどの」
「はい」
俺は、聞いた。
「かぞく、いる?」
張松は、少し意外そうな顔をした。
「家族、でございますか」
「うん」
「妻と、子が二人」
「うん」
「あとは——」
そこで、こう言った。
「兄が、一人」
——
俺の身体が、固まった。
◆
兄。
——張粛。
広漢の太守。
そして。
——弟が劉備と通じていることを知り、
自分に累が及ぶことを恐れて、
劉璋へ密告する男である。
それが来年。
張松は、一族もろとも処刑される。
——密告するのは、外の敵ではない。
同じ血の、兄だ。
◆
「若君?」
張松が、俺を見ていた。
「いかがなさいました」
俺は、何も言えなかった。
「兄に気をつけろ」とは、言えない。
言えば、根拠を聞かれる。
根拠は、ない。
そして——
そして、この人は、たぶん信じない。
兄なのだ。
俺は、必死に言葉を探した。
そして、こう言った。
「あにうえに、いわないで」
——張松の動きが、止まった。
「……なぜ、兄のことを」
「いわないで」
「若君」
「ぜったい」
張松は、しばらく黙っていた。
そして、少し笑った。
「……承知いたしました」
——社交辞令である。
この人は、たぶん言う。
兄弟なのだから。
そして、一族が死ぬ。
```
【張松】
兄への情報開示確率 71% → 58%
```
——十三、下がった。
十三では、足りない。
——それでも、下がった。
◆
出発の刻が来た。
兵が整列する。旗が風に鳴る。
劉備が、西へ向かう将たちを見回した。
「我らは、張魯を防ぐために行く」
龐統が、小さく笑う。
兜をかぶっている。
動きにくそうにしている。
——いい気味だ。
法正は、何も言わない。
張松は、益州の方角を見つめている。
孟達は、部下の装備を確認している。
——この四人のうち、三人が、この先十年以内に死ぬ。
張松は、来年。
法正は、九年後。
孟達は、十七年後。
そして龐統は——
三十三パーセント。
◆
「民を苦しめる略奪は、許さぬ」
劉備が、続けた。
「益州の者を、敵と決めつけるな。劉璋どのとの信義を、こちらから先に破るな」
そして、懐から竹簡を出した。
——先月、全員で作った、あの条件書である。
《劉璋を排すべき条件》
入る前に書いた。
後から言い訳ができないように。
「これに書かれた事態が起きぬ限り、我らは動かぬ」
劉備は、竹簡を掲げた。
「書いたのは、私だけではない。孔明も、士元も、子龍も書いた」
「……」
「破るときは、全員で破る。私一人では、破らぬ」
——
俺は、その言葉を聞いて、少しだけ安心した。
この人は、約束管理二十二である。
一人で決めた約束は、守らない。
——だから、四人で書かせた。
四人で書いた約束は、一人では破れない。
◆
劉備が、最後に俺のところへ来た。
そして、抱き上げた。
今度は、投げなかった。
「阿斗」
「ちちうえ」
「父は、行ってくる」
「うん」
「留守を、頼む」
「よっつだよ」
「知っておる」
劉備は、笑った。
「それでも、頼む」
◆
そして、この人は、笑うのをやめた。
「阿斗」
「うん」
「一つ、約束せよ」
「なに」
劉備は、俺の目を見た。
——珍しく、笑っていなかった。
「戦場へ、出るな」
——
「うん」
「返事が早い」
「でる、つもり、ない」
「四つは、そう言う」
父は、俺の頭に手を置いた。
「十四になったら、出たくなる」
「……」
「二十になったら、出ねばならぬと思う」
「……」
「そのときのために、今、約束せよ」
——
俺は、そこで、この人が何を言っているのかを理解した。
——この人は、二十年、それをやってきた。
徐州でも、小沛でも、長坂坡でも。
先頭に立って、逃げ遅れた。
そして、そのたびに、誰かが死んだ。
「やくそくします」
「声に出せ」
「せんじょうへ、でません」
「もう一度」
「せんじょうへ、でません」
劉備は、頷いた。
そして、趙雲を見た。
「子龍」
「はっ」
「阿斗が破ったら、縛れ」
「……はっ」
「私の命令だ」
——
趙雲が、頭を下げた。
そして、少しだけ、困った顔をした。
——この人は、俺のやることを止めない。
止めないが、必ず隣にいる。
そして今日、初めて、止める理由をもらった。
◆
劉備は、俺を趙雲へ渡した。
「子龍」
「はっ」
「阿斗を、頼む」
「命に代えましても」
「……代えるな」
劉備は、少し困った顔をした。
「両方、生きて待っておれ」
「……はっ」
◆
軍が、動き出した。
旗が遠ざかっていく。
誰もが、笑っていた。
張飛が、大声で見送っていた。
関羽が、腕を組んで立っていた。
諸葛亮が、羽扇を止めて見ていた。
孫夫人は、来なかった。
俺は、趙雲の腕の中から、その列を見ていた。
——最初の別れである。
そして、この別れは、笑顔で始まった。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
死亡年表。
二〇九——母。丸。
二一二——張松。四角。
二一四——龐統。四角。
二一九——関羽。丸。
二二〇——法正。丸。
二二一。二二三。二二八——孟達。四角。
二二九。二三四。
——四角が、三つ。
丸が、三つ。
俺は、その木簡を長いこと見ていた。
そして、余白に一行書いた。
《まだ、だれも、しんでいない》
——今日の時点では、本当である。
転生してから四年。
母以外、誰も死んでいない。
——来年、その記録が破られる。
そして俺は、その一人を、見送ってしまった。
笑顔で。
次回 第32話「父のいない城」




