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転生したら劉禅だったので、諸葛亮に有給休暇を取らせます~MBAホルダーの阿斗、関羽の孤立・張飛のパワハラ・孔明の過労死を組織改革で止める~  作者: 東雲 諒杏
第二部 英雄だらけの人事評価会議

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第31話 最初の別れは、笑顔で始まった


【建安十六年 冬|荊州・公安】


出発の朝は、よく晴れていた。


旗が風を受けて、気持ちよく鳴っていた。


誰もが、笑っていた。


この中の何人かと、二度と会えないことを、俺だけが知っていた。


    ◆


建安(けんあん)十六年の冬。益州(えきしゅう)へ向かう者と、荊州(けいしゅう)へ残る者が決まった。


西へ行く者。劉備(りゅうび)龐統(ほうとう)黄忠(こうちゅう)魏延(ぎえん)。そして、張松(ちょうしょう)法正(ほうせい)孟達(もうたつ)


荊州に残る者。諸葛亮(しょかつりょう)関羽(かんう)張飛(ちょうひ)趙雲(ちょううん)


妥当な配置である。前線には、速く動ける将と、戦略を作る人間を置く。後方には、統治と兵站を回せる人間を置く。そして俺は、当然のように、荊州へ残ることになった。四歳を、遠征に連れていく理由がない。


そこで、一つだけ気になった。西へ行く七人のうち、四人が益州人である。そして、こちらの人間は三人だ。龐統。黄忠。魏延。四対三である。


俺は、馬良(ばりょう)に聞いた。


「きじょう」


「はい」


「にしへ、いく、へいは」


「二万でございます」


「えきしゅうの、へいは」


馬良は、答えた。


「四千でございます」


五分の一。そして、道を知っているのは、その四千のほうである。


だが、俺は納得していなかった。別のことで、である。


俺は、劉備の衣を掴んだ。


「いく」


「阿斗は残る」


「いく」


「旅は危険だ」


「ちちうえ、なげる」


広間が、爆発した。


「もう投げぬ」


劉備が、慌てて否定する。張飛が笑い転げた。


「兄者。阿斗は、また投げられぬよう見張るつもりだ」


「一度しか投げておらぬ」


一度でも、多い。三年経っても、この話は終わらない。この軍では、長坂坡(ちょうはんは)の阿斗投擲事件が、完全に共通認識になっている。


龐統が、俺の前へしゃがんだ。


「若君。益州は、私にお任せください」


この軍で、最も信用できない言葉である。


「しなない」


「善処します」


「やくそく」


「最善を尽くします」


また、逃げた。俺は、龐統の能力画面を開いた。


【龐統 字・士元】


死亡危険度 橙


主要要因

 ・危険作戦への選好

 ・前線視察の頻度

 ・護衛軽視

 ・自分の判断への過信

 ・落鳳坡周辺の地形


初めて、地名が表示された。


落鳳坡。雛鳳が、落ちる場所。


俺は、その五行を、二度読んだ。上の四つは、この人の性分である。そして、五つ目だけが、地形だ。


四つは、変えにくい。そして、一つは、避けられる。


俺は、張松から得た地図を広げた。雒城(らくじょう)の周辺。複数の山道が、細い線で書き込まれている。


史実や、後の物語の細部は、曖昧だ。どの道で、いつ、どのように死ぬのか。完全には、覚えていない。「落鳳坡」という三文字と、「流れ矢」という言葉。俺が持っているのは、それだけだ。


俺は、地名を頼りに、赤い地点を探した。雒城の北。狭い谷道。俺は、そこを指した。


「ここ」


龐統が、覗き込む。


「この道が、どうしました」


「いかない」


「なぜ」


「だめ」


説明できない。


「狭い道ですが、雒城へ向かうには使う可能性があります」


「だめ」


「理由がなければ、軍を動かせません」


正論である。未来を知っているとは、言えない。夢で見たと言えば、信じるだろうか。


俺は、諸葛亮を見た。諸葛亮は、俺の表情を観察していた。


「士元どの」


「何でしょう」


「若君が、これほど強く止めることは、珍しゅうございます」


龐統が、俺を見る。


「確かに」


「理由を説明できずとも、危険を感じておられる可能性がございます」


「四つの子の勘で、進軍路を変えるのですか」


諸葛亮は、静かに言った。


「長坂坡の前にも、若君は『子龍が来る』と申されたそうです」


この男は、俺の秘密へ近づきすぎている。龐統の目が、細くなった。


「若君には、何かが見えると」


俺は、黙った。能力値が見える。危険度が見える。未来の断片が見える。すべてを話せば、俺は神のように扱われるか、妖として恐れられる。どちらも、望まない。


「士元どの」


趙雲が、口を開いた。


「道を完全に避ける必要は、ございません」


「では」


「事前に斥候を増やし、別の退路を確認する」


「若君のご懸念を、危機管理として扱えばよろしいでしょう」


さすが、危機管理百。信じるか、信じないかの二択ではない。低い確率の危険として、備える。


これが、去年この人を危機評価役に置いた効果である。「根拠のない懸念」を、「確率の低い危険」に翻訳できる人間が、一人いる。それだけで、組織はまったく違うものになる。


龐統は、地図を見た。そして、即座に決めた。


「斥候を二倍。通過前に高地を確認。別働隊を先行させる」


《【龐統】落鳳坡死亡危険度 48% → 41%》


七、下がった。


そこで、一つ気付いた。この人は、俺の言うことを聞いたのではない。趙雲の言い換えを、聞いた。同じ内容である。そして、言い方が違うだけで、通った。


去年、俺は龐統に「ゆびさす、はやい」と言った。時間の話にすれば、この人は動く。今日は、確率の話にした。そして、動いたのは、趙雲の口からだった。


俺は、さらに言った。


「よろい」


「鎧を着ろと」


「うん」


龐統は、自分の軽装を見た。


「軍師が重い鎧を着ては、移動が遅くなります」


「きる」


「若君」


「きる」


龐統は、大きなため息をついた。


「……承知しました」


「かぶと」


「兜も」


「うん」


「視界が狭くなります」


「かぶと」


「……」


「かぶと」


「……承知しました」


《【龐統】防具着用率 18% → 71%》


《落鳳坡死亡危険度 41% → 33%》


三十三パーセント。去年、七十一だった。一年で、三十八下がった。


だが、ゼロではない。三人に一人は、死ぬ。


そこで、一つ考えた。七十一を三十三にした手は、四つある。四角を描く条件を、俺は「手が三つ以上あること」と決めた。決めたのは、去年である。


そして、関羽には、手が一つしかない。


俺は、龐統の袖を掴んだ。


「しげん」


「はい」


「しかく」


「四角」


「しかくの、まま」


龐統は、意味が分からないという顔をした。当然である。丸と四角の話は、俺の木簡の中の話だ。


だが、この男は聞き返さなかった。代わりに、こう言った。


「……承知しました」


「わかった」


「分かりませぬ」


龐統は、笑った。


「ですが、覚えておきます」


そして、こう付け足した。


「若君」


「うん」


「分からぬまま覚えることが、いちばん長持ちいたします」


「なんで」


「——」


「分かったと思えば、そこで考えるのをやめますゆえ」


    ◆


次に、俺は関羽のところへ行った。この人は、荊州に残る。そして、来年から実質的に荊州の主となる。


俺は、視界を確認した。


【関羽】


荊州孤立危険度 11%


増加要因

 ・劉備軍主力の西進

 ・呉との領土問題

 ・関羽の外交姿勢

 ・報告の質


十一パーセント。去年、報告制度を作って、二十三から下げた。だが、これから上がる。主力が西へ行けば、荊州は薄くなる。


「うんちょう」


「はい、若君」


「ほうこく」


関羽の眉が、わずかに動いた。


「先月、様式を改めたばかりでございます」


「うん」


「数を書けと」


「うん」


「書いております」


書いている。確かに、書いている。七日ごとに、数字が並んだ竹簡が届く。


だが。


俺は、必死に言葉を探した。


「ふえたら」


「増えたら」


「すうじが、ふえたら」


「はい」


「すぐ、いって」


七日、待つな。数字が急に動いたら、その日に送れ。前世で言えば、異常値の報告である。定例の報告は、定例のものしか拾えない。


関羽は、しばらく黙った。そして、聞いた。


「どれほど増えれば、急ぐのか」


俺は、詰まった。数字が、言えない。そして、この人は、こう言った。


「若君。『急に』では、書けぬ」


「……」


「私が『急だ』と思わねば、送らぬことになる」


俺は、動きを止めた。そのとおりである。去年の《異常なし》と、同じ形だ。判断が、この人の中にある。


前世で、俺が読み返した敗戦の記録にも、同じことが書いてあった。負けた軍には、退く基準がなかった。「情勢を見て、機を失せず」——そう書いてある。誰も、数を書かなかった。だから、退く判断は、いつも現場の将の胸三寸になった。


そして、現場の将は、いちばん苦しいときに判断させられる。苦しいときに人が選ぶのは、たいてい「もう少し頑張る」である。


基準は、余裕のあるうちに、数で書いておくしかない。


俺は、必死に考えた。そして、こう言った。


「にばい」


「二倍」


「うん」


「前の七日と比べて、でございますか」


「うん」


関羽は、少し考えた。そして、頷いた。


「……それなら、書ける」


そして、こう付け足した。


「数であれば、私が思わずとも、送れる」


「うん」


「——」


「そなたは、私を信じておらぬな」


俺は、答えた。


「しんじてる」


「では、なぜ数で決める」


俺は、答えた。


「うんちょうが、いそがしい、とき」


「……」


「かんがえなくて、すむ」


関羽は、しばらく黙っていた。そして、こう言った。


「……よかろう」


《【関羽】荊州孤立危険度 11% → 9%》


《関羽の機嫌 31 → 27》


また、下がった。この人の機嫌は、俺の改革の回数と、正確に反比例している。将来、ゼロにならないか、本気で心配である。


そして、俺はそこで一つ書き留めることにした。


《二倍》


九年後、この数字は一度も使われない。理由は、単純である。


二倍になった日には、既に、送る余裕がない。


    ◆


そして——俺は、孫夫人のところへ行った。この人は、荊州に残る。劉備が、去る。


去年、俺は数字を見た。


《【孫夫人】孤独 71》


あれから、動いていない。だが、これから動く。夫が去れば、この人は、この城でただ一人の呉の人間になる。帯剣した侍女百人と一緒に。誰も口をきかない城の中で。


劉備が、孫夫人へ別れの挨拶をした。


「留守を、頼む」


「……はい」


「阿斗のことも」


「はい」


それだけだった。三十秒も、なかった。この人は、誰にでも三十秒は完璧に振る舞える。


そして、三十秒しか、なかった。


俺は、視界を確認した。


《【孫夫人】孤独 71 → 79》


八、上がった。三十秒で。


そこで、一つ数えた。去年の弓のとき、この人は十日で十三下がった。そして、一日で二十二上がった。今日は、三十秒で八である。上がるほうは、速い。


そして、もう一つ気付いた。父は、悪いことを何もしていない。「留守を頼む」と言った。「阿斗のことも」と言った。正しい言葉である。そして、三十秒だった。


時間の短さは、言葉より速く伝わる。


劉備が去ったあと、俺は孫夫人の袖を引いた。


「あの」


「……阿斗」


「ゆみ」


孫夫人が、俺を見た。


「弓は、やめました」


「うん」


「もう、教えません」


「しってる」


俺は、続けた。


「でも、ここにいて」


去年と、同じ言葉である。あのとき、この人は「その空きは埋めずにおいてください」と言った。呉へ帰れなくなるから、と。


孫夫人は、しばらく俺を見ていた。そして、初めて——俺の頭に、手を置いた。


「……阿斗」


「うん」


「あなたは、優しい」


「うん」


「それが、いちばん、困ります」


《【孫夫人】孤独 79 → 79》


《阿斗への感情 愛情 58 → 71》


孤独は、動かなかった。愛情だけが、上がった。


これは、悪い兆候である。この人は、俺を好きになりながら、孤独なままだ。そして、孤独な人間が、愛着のある対象を見つけたとき——


連れていこうとする。


俺は、背筋が冷たくなった。


そして、俺はそこで一つ聞いた。


「あの」


「はい」


「や」


「……矢」


「まだ、ある」


孫夫人の動きが、止まった。そして、しばらくして、答えた。


「……ございます」


「なんで」


この人は、答えなかった。そして、こう言った。


「阿斗」


「うん」


「それは、聞かないでください」


俺は、頷いた。そして、聞かなかった。


    ◆


最後に、俺は張松のところへ行った。この人は、劉備と一緒に益州へ戻る。そして、益州で、内側から手引きをする。


来年、露見して、死ぬ。


「しけいどの」


「若君」


張松は、膝を折った。この男は、そういう礼儀だけは完璧に守る。


「本日は、お見送りを」


「うん」


俺は、言葉を選んだ。


「だれにも、いわないで」


「何を、でございましょう」


「ぜんぶ」


張松は、笑った。


「ご心配には及びません。私は、口が固うございます」


嘘だ。


《【張松】自己顕示 87》


《情報漏洩危険度 62%》


六十二パーセント。父の一言で、八十一から下がった。それでも、六十二だ。


「しけいどの」


「はい」


俺は、聞いた。


「かぞく、いる」


張松は、少し意外そうな顔をした。


「家族、でございますか」


「うん」


「妻と、子が二人」


「うん」


「あとは——」


そこで、こう言った。


「兄が、一人」


俺の身体が、固まった。


兄。張粛。広漢の太守。そして。


弟が劉備と通じていることを知り、自分に累が及ぶことを恐れて、劉璋(りゅうしょう)へ密告する男である。それが、来年。張松は、一族もろとも処刑される。


密告するのは、外の敵ではない。同じ血の、兄だ。


「若君」


張松が、俺を見ていた。


「いかがなさいました」


俺は、何も言えなかった。「兄に気をつけろ」とは、言えない。言えば、根拠を聞かれる。根拠は、ない。そして——


そして、この人は、たぶん信じない。兄なのだ。


俺は、必死に言葉を探した。そして、こう言った。


「あにうえに、いわないで」


張松の動きが、止まった。


「……なぜ、兄のことを」


「いわないで」


「若君」


「ぜったい」


張松は、しばらく黙っていた。そして、少し笑った。


「……承知いたしました」


社交辞令である。この人は、たぶん言う。兄弟なのだから。そして、一族が死ぬ。


《【張松】兄への情報開示確率 71% → 58%》


十三、下がった。十三では、足りない。それでも、下がった。


俺は、もう一つ聞いた。


「しけいどの」


「はい」


「あにうえ、なんかい」


張松が、俺を見た。


「何が、でございましょう」


「いった。りゅうしょうさまに」


「——」


「はりゅうが、あぶない、って」


張松は、少し黙った。そして、答えた。


「兄は、申しておりませぬ」


「いちども」


「一度も」


俺は、頷いた。そして、心の中で、こう思った。


この人は、十一度言った。そして、兄は、一度も言っていない。同じ家に生まれて、片方だけが数えていた。


そして、数えなかったほうが、太守である。


    ◆


出発の刻が来た。兵が整列する。旗が風に鳴る。


劉備が、西へ向かう将たちを見回した。


「我らは、張魯を防ぐために行く」


龐統が、小さく笑う。兜をかぶっている。動きにくそうにしている。いい気味だ。


法正は、何も言わない。張松は、益州の方角を見つめている。孟達は、部下の装備を確認している。


この四人のうち、三人が、この先十年以内に死ぬ。


張松は、来年。法正は、九年後。孟達は、十七年後。そして龐統は——三十三パーセント。


「民を苦しめる略奪は、許さぬ」


劉備が、続けた。


「益州の者を、敵と決めつけるな」


「劉璋どのとの信義を、こちらから先に破るな」


そして、懐から竹簡を出した。先月、全員で作った、あの条件書である。


《劉璋を排すべき条件》


入る前に書いた。後から言い訳ができないように。


「これに書かれた事態が起きぬ限り、我らは動かぬ」


劉備は、竹簡を掲げた。


「書いたのは、私だけではない。孔明も、士元も、子龍も書いた」


「……」


「破るときは、全員で破る。私一人では、破らぬ」


俺は、その言葉を聞いて、少しだけ安心した。この人は、約束管理二十二である。一人で決めた約束は、守らない。だから、四人で書かせた。四人で書いた約束は、一人では破れない。


そこで、一つ気付いた。四人のうち、二人が西へ行く。劉備と、龐統。そして、二人が残る。諸葛亮と、趙雲。


破ろうとしたとき、止める側は千三百里の向こうにいる。


俺は、馬良に一つ頼んだ。


「きじょう」


「はい」


「じょうけんを」


「はい」


「にぶ、かいて」


「二部、でございますか」


「うん」


「一部は、主公がお持ちでございますが」


俺は、答えた。


「もういちぶ、ここ」


馬良は、しばらく考えた。そして、こう言った。


「……なるほど。持って行かれた分が、書き換えられても」


「うん」


「こちらの分と、比べられます」


そして、この人は、二部作った。


四十四年後、俺は写しを十四部にする。そして、そのときの俺は、今日のことを覚えている。


    ◆


劉備が、最後に俺のところへ来た。そして、抱き上げた。


今度は、投げなかった。


「阿斗」


「ちちうえ」


「父は、行ってくる」


「うん」


「留守を、頼む」


「よっつだよ」


「知っておる」


劉備は、笑った。


「それでも、頼む」


そして、この人は、笑うのをやめた。


「阿斗」


「うん」


「一つ、約束せよ」


「なに」


劉備は、俺の目を見た。珍しく、笑っていなかった。


「戦場へ、出るな」


「うん」


「返事が早い」


「でる、つもり、ない」


「四つは、そう言う」


父は、俺の頭に手を置いた。


「十四になったら、出たくなる」


「……」


「二十になったら、出ねばならぬと思う」


「……」


「そのときのために、今、約束せよ」


俺は、そこで、この人が何を言っているのかを理解した。この人は、二十年、それをやってきた。徐州でも、小沛でも、長坂坡でも。先頭に立って、逃げ遅れた。


そして、そのたびに、誰かが死んだ。


「やくそくします」


「声に出せ」


「せんじょうへ、でません」


「もう一度」


「せんじょうへ、でません」


劉備は、頷いた。そして、趙雲を見た。


「子龍」


「はっ」


「阿斗が破ったら、縛れ」


「……はっ」


「私の命令だ」


趙雲が、頭を下げた。そして、少しだけ、困った顔をした。


この人は、俺のやることを止めない。止めないが、必ず隣にいる。そして今日、初めて、止める理由をもらった。


俺は、一つだけ聞いた。


「ちちうえ」


「うむ」


「ちちうえは」


「うむ」


「やくそく、する」


劉備の動きが、止まった。


「……何をだ」


「せんじょうへ、でない」


長い沈黙があった。そして、この人は、答えた。


「……できぬ」


「なんで」


「私が出ねば、兵が動かぬ」


俺は、こう言った。


「じゃあ、かいて」


「書く」


「うん」


「——」


「『でた』って」


劉備は、意味が分からないという顔をした。そして、俺は、こう続けた。


「なんかい、でたか」


「……数えよと」


「うん」


劉備は、しばらく黙っていた。そして、こう聞いた。


「阿斗。なぜ、数える」


俺は、答えた。


「かえって、きたら」


「うむ」


「——」


「かず、きく」


父は、少し笑った。そして、こう言った。


「……阿斗。それは、叱られる約束だな」


「うん」


「帰ってから、叱られるのか」


「うん」


そして、この人は、頷いた。


「よかろう」


四十七年後、俺は同じことを別の人にさせる。《丞相の休んだ日》という簿である。


そして、そのときの俺は、今日の言い方を覚えている。


劉備は、俺を趙雲へ渡した。


「子龍」


「はっ」


「阿斗を、頼む」


「命に代えましても」


「……代えるな」


劉備は、少し困った顔をした。


「両方、生きて待っておれ」


「……はっ」


    ◆


軍が、動き出した。旗が遠ざかっていく。


誰もが、笑っていた。


張飛が、大声で見送っていた。関羽が、腕を組んで立っていた。諸葛亮が、羽扇を止めて見ていた。


孫夫人は、来なかった。


俺は、趙雲の腕の中から、その列を見ていた。


最初の別れである。そして、この別れは、笑顔で始まった。


その夜、俺は木簡(もくかん)を出した。


死亡年表。


二〇九——母。丸。


二一二——張松。四角。


二一四——龐統。四角。


二一九——関羽。丸。


二二〇——法正。丸。


二二一。二二三。二二八——孟達。四角。


二二九。二三四。


四角が、三つ。丸が、三つ。


俺は、その木簡を長いこと見ていた。そして、余白に一行書いた。


《まだ、だれも、しんでいない》


今日の時点では、本当である。転生してから、四年。母以外、誰も死んでいない。


来年、その記録が破られる。そして俺は、その一人を、見送ってしまった。


笑顔で。


俺は、その下に、もう一行足した。


《みおくった、ひ》


そして、日付を書いた。四歳の字である。半分が、仮名だった。


五十年後、俺は同じ形の簿を持つことになる。《渡したもの》である。そして、そこには、死んだ日ではなく、渡した日を書く。


今日は、まだ、渡していない。


見送っただけである。



〈あとがき〉


西へ行くのは二万。益州の兵は四千。「五分の一。そして、道を知っているのは、その四千のほうである」。


死亡要因の五行——「上の四つは、この人の性分である。そして、五つ目だけが、地形だ。四つは、変えにくい。そして、一つは、避けられる」。


龐統が聞いたのは、主人公の言葉ではなく趙雲の言い換えでした。「同じ内容である。そして、言い方が違うだけで、通った」。


「分からぬまま覚えることが、いちばん長持ちいたします」「なんで」「分かったと思えば、そこで考えるのをやめますゆえ」。


「『急に』では、書けぬ。私が『急だ』と思わねば、送らぬことになる」——《異常なし》と同じ形です。負けた軍には、退く基準がありませんでした。「苦しいときに人が選ぶのは、たいてい『もう少し頑張る』である」。


そこで「にばい」と決めました。「うんちょうが、いそがしい、とき、かんがえなくて、すむ」。そして「九年後、この数字は一度も使われない。二倍になった日には、既に、送る余裕がない」。


別れは三十秒。「時間の短さは、言葉より速く伝わる」。


「や」「まだ、ある」「なんで」「それは、聞かないでください」。


「あにうえ、なんかい」「兄は、申しておりませぬ」「いちども」「一度も」——同じ家に生まれて、片方だけが数えていました。そして、数えなかったほうが太守です。


条件書を二部作らせました。「持って行かれた分が、書き換えられても、こちらの分と、比べられます」——四十四年後、写しは十四部になります。


「ちちうえは、やくそく、する」「……できぬ」「じゃあ、かいて」「『でた』って」「なんかい、でたか」——四十七年後の《丞相の休んだ日》の、言い方の手本です。


《劉禅文庫 再読『失敗の本質』——負けた軍には、退く基準がなかった。基準を現場の胸三寸に委ねた組織は、いちばん苦しい日に、いちばん遅れる》


——次回、第二部の最終話。父のいない城で、四歳が留守を預かります。そして、一艘の船が出ます。


次回 第32話「父のいない城」


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― 新着の感想 ―
しかし、機嫌なんて日々変動するものが下がったら下がったままのヒゲ殿……ひょっとしてシステムメッセージさんが機嫌と解釈してるだけで機嫌ではないのかもしれない。
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