第30話 劉備は国を奪えるのか
父が、一人で地図を見ていた。
灯火も、増やさずに。
——この人が一人でいるところを、俺は初めて見た。
◆
建安十六年の春。
張松、法正、孟達——三人の益州人が、公安に揃った。
彼らは、援軍要請の使者である。
建前としては。
実際には、新しい主君を探しに来た人間たちである。
去年、俺たちは決めた。
工作は行わない。招かれるまで待つ。
そして、招かれた。
——予定どおりである。
予定どおりすぎて、俺は気持ちが悪かった。
◆
その夜、俺は眠れずに廊下を歩いていた。
四歳の身体は、昼寝をすると夜に眠れない。
転生してから、この問題だけは解決していない。
趙雲は少し離れてついてくる。
この人は、俺が夜歩きをしても止めない。
止めないが、必ずいる。
そして、俺は評定の間の扉が半分開いているのを見つけた。
中に、明かりがあった。
◆
劉備が、地図の前に座っていた。
益州の地図である。
張松が持ってきた、あの地図だ。
成都。梓潼。涪城。葭萌関。雒城。
山道の一本まで書き込まれた、あの地図。
父は、それを見ていた。
触ってはいなかった。
——手を、膝の上に置いたままだった。
◆
「阿斗か」
俺が扉を押すと、父は振り返らずに言った。
「眠れぬのか」
「ちちうえも」
「私は、少し考え事をしていた」
俺は、地図の前へ座った。
正確には、座ろうとして転んだ。
父が、拾い上げた。
この人も、上手くなった。
「阿斗」
「うん」
劉備は、益州を指でなぞった。
「この地が、欲しいか」
俺は、答えた。
「いる」
「欲しい、ではなく」
「いる」
「なぜだ」
「くに」
——荊州だけでは、曹操と孫権に挟まれる。
益州がなければ、長期的な国家基盤を作れない。
山に囲まれ、守りやすく、農の実りがある。
——これは、欲しい土地ではない。
必要な土地である。
◆
劉備は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「劉璋どのの国だ」
「うん」
「父が奪ってもよいと、思うか」
——答えられなかった。
未来では、そうなる。
この人は益州へ入り、劉璋と対立し、成都を囲み、降伏させる。
その歴史がなければ、蜀漢は成立しない。
——だが、未来がそうだから正しい、というわけではない。
そして、現実の劉璋は、悪魔ではない。
無能な暴君でもない。
決断力が弱く、国を守る能力に疑問がある。
それでも、民を虐殺しているわけではない。
同族である劉備へ、助けを求めている。
その招待を利用して、国を奪う。
——これは、正義なのか。
◆
劉備は、笑わなかった。
「私は長く、漢室のため、民のためと言って戦ってきた」
炎の灯りが、横顔を照らす。
目の下の皺が、深くなっていた。
「だが」
父は、続けた。
「領地が欲しくないと言えば、嘘になる」
——初めて聞く、この人の本音だった。
「私は、自分の国が欲しい」
父は、地図を見つめた。
「誰かに追われるたび、民を連れて逃げるのではない」
「……」
「雲長や翼徳、子龍たちが、安心して帰れる場所が欲しい」
——
俺は、そこで気付いた。
この人が欲しいのは、領地ではない。
帰る場所である。
二十年以上、この人は帰る場所を持たなかった。
徐州を失い、小沛を失い、汝南を失い、新野を捨てた。
そのたびに、誰かが死んだ。
——長坂坡で、俺は見た。
走っていた姿勢のまま、前へ倒れた男。
膝が地面に当たる音。
あれを、この人は二十年、見てきた。
◆
「しかし」
劉備は、自分の手を見た。
「そのために同族を欺けば——私は、曹操と何が違う」
——広間が、静かになった。
俺は、父を見た。
曹操は、目的のために必要な手段を取る。
法正も龐統も、効率を優先する。
劉備は、迷う。
迷うから、遅い。機会を逃す。
——しかし、迷うからこそ、人がついてくる。
俺は、地図の上へ手を置いた。
「うばう、だめ」
劉備が、頷く。
「そうだな」
「でも」
俺は、劉璋の名が書かれた場所を指した。
「まもれない、なら」
——守れないなら、変える必要がある。
それは、益州の民のためである。
……たぶん。
◆
劉備は、そこで、俺を見た。
そして、この夜で最も難しい問いを、投げた。
「誰が決める」
「え」
「劉璋どのが国を守れないと、誰が判断する」
——俺は、黙った。
劉備自身が決めれば、自分に都合のよい判定になる。
張松や法正は、既に劉璋を見限っている。
——だが、彼らも個人的な不満を抱えている。
益州の民全員が、劉備を望んでいるわけではない。
「守れないから、変える」
この理屈は、どんな侵略にも使える。
曹操も、同じことを言っている。
「漢室は乱れている。ゆえに、私が支える」と。
——構造が、まったく同じである。
◆
「みる」
俺は、やっと言葉を出した。
「見る?」
「えきしゅう、いって、みる」
「入って、確かめるのか」
「うん」
劉璋の統治。民の暮らし。官吏の能力。豪族の不満。張魯の脅威。
本当に国が崩れようとしているのか。
先に結論を決めず、現地で確認する。
——前世で言えば、実地調査である。
買収を決めてから調べるのではない。
調べてから、決める。
……はずなのだが。
現実には、決めてから調べる会社のほうが、圧倒的に多い。
そして、調査結果は、必ず「買うべきだ」という結論になる。
◆
「約束を破る前に、劉璋どのへ改革を求める」
——声がした。
振り返ると、諸葛亮が羽扇を持って立っていた。
いつから聞いていた。
「眠っていたのでは」
劉備が言う。
「書状を整理しておりました」
——やはり働いている。
俺は、諸葛亮を睨んだ。
「ねろ」
「今は、その話ではありません」
——逃げた。
◆
諸葛亮は、地図の前へ座った。
「主公。益州へ入った後、まず張魯を防ぎます。その間に、劉璋どのの統治能力を確認する」
「うむ」
「必要なら、人事、徴税、軍備の改革を提案いたします」
「劉璋どのが受け入れれば」
「協力関係を続けます」
「拒めば」
諸葛亮が、少し黙った。
「民と国を守る方法を、改めて考えます」
——曖昧な答えである。
だが、最初から奪取を決めるよりは、よい。
◆
そこへ、龐統が入ってきた。
酒を持っている。
深夜である。
「随分と、回りくどい」
——聞いていたらしい。
「劉璋が改革を受け入れると、お思いですか」
「機会を与えるべきです」
諸葛亮が答える。
「その間に、警戒されます」
「客として招かれた者が、最初から主人を倒すよりは、よい」
「戦略に善悪を持ち込めば、兵が死にます」
「善悪を失った国は、勝っても長く続きません」
——また、龍と鳳凰が衝突した。
劉備が、頭を抱えた。
俺は、二人の状態を見た。
```
【諸葛亮】
長期信頼重視 100
短期の機会損失への懸念 58
【龐統】
短期決着重視 97
評判悪化への懸念 31
```
——どちらも、必要である。
龐統の速度。諸葛亮の信頼。
一方だけでは、危険だ。
◆
そのとき——四人目が、口を開いた。
「主公。一つ、お尋ねしてよろしいか」
趙雲である。
俺の後ろに立っていた。
いつものように、少し離れて。
「なんだ、子龍」
趙雲は、感情のない声で聞いた。
「劉璋どのを倒した場合。益州の民は、我らをどう見ますか」
——広間が、静まり返った。
龐統が、答えた。
「善政を布けば、忘れます」
「どれほどで」
「三年、あるいは五年」
「その三年から五年の間に、豪族が挙兵した場合は」
「鎮圧いたします」
「その鎮圧の記憶は、何年残りますか」
——龐統が、黙った。
諸葛亮が、羽扇を止めた。
「……子龍どの」
「はい」
「それは、答えのない問いです」
「存じております」
趙雲は、静かに言った。
「答えのない問いを申し上げるのが、私の役目でございます」
——
俺は、そこで思った。
去年、この人を危機評価役に置いた。
理由は「失敗したらどうなるかを言う人が要る」だった。
——想定より、ずっと有効に機能している。
◆
劉備が、長く黙っていた。
そして、また同じことを言った。
「誰が決めるのだ」
——俺は、そこで思いついた。
答えは、「誰が」ではない。
俺は、地図を叩いた。
「かく」
「書く?」
「うん」
「何を書く」
俺は、必死に言葉を並べた。
四歳の口には、これが限界だ。
「どうなったら、うばう」
「……」
「さきに、かく」
——劉備の動きが、止まった。
◆
——言いたかったのは、こうだ。
「劉璋が国を守れなくなったら」という条件は、後から解釈できる。
入ってから、都合よく「守れていない」と判定できる。
だから、入る前に書く。
何が起きたら、我々は劉璋を倒すのか。
具体的に、数えられる形で。
そして、それを紙に残す。
——後から、言い訳ができないように。
前世で、俺は同じことを何度もやった。
買収の可否を判定する基準は、必ず調査の前に確定させる。
なぜなら、調査した後に基準を決めると、必ず「買える基準」になるからだ。
人間は、都合よく判定する生き物である。
——だから、判定する前の自分に、判定基準を書かせる。
◆
諸葛亮が、静かに言った。
「……主公。若君の仰せは、こうかと存じます」
「言うてみよ」
「益州へ入る前に、劉璋どのを排すべき条件を、明文にせよと」
「明文に」
「はい。そして、その条件に該当しない限り、我々は動かぬ」
龐統が、口を挟んだ。
「その条件を、誰が書きます」
「全員でございます」
諸葛亮は、答えた。
「主公。士元どの。私。そして——子龍どのの、失敗想定を添えて」
趙雲が、頭を下げた。
「承知しました」
◆
劉備は、長く地図を見ていた。
やがて、言った。
「益州へ行く」
龐統が、笑う。
諸葛亮は、静かに待つ。
「張魯を防ぐ。劉璋どのと協力する。そして、自分の目で益州を見る」
劉備の声が、強くなった。
「最初から国を奪うとは、決めぬ」
龐統が口を開こうとする。
劉備は、手を上げて止めた。
「だが」
父は、地図の成都へ手を置いた。
「劉璋どのが民を守れず、益州の者たちが新たな主を求めるなら」
「……」
「その責任からは、逃げぬ」
——完全な正義ではない。
完全な悪でもない。
状況によっては、劉璋を倒すことを認める決断だ。
しかし、この人は、自分の野心も責任も、隠さなかった。
```
【益州進出基本方針が決定しました】
第一目的 張魯への防衛
第二目的 益州統治状況の確認
第三目的 現地人材との関係構築
条件付き目的 統治権の移行
※発動条件を、事前に明文化すること
禁止事項
初期段階での劉璋拘束
無差別な略奪
益州人材の一斉排除
新設 事前条件明文化
起草 諸葛亮・龐統
失敗想定 趙雲
承認 劉備
歴史変動率 4.2% → 5.1%
```
——未来が、また少し遠ざかる。
◆
そのとき、趙雲が言った。
「主公。もう、三更を過ぎております」
劉備が、驚いて外を見た。
「もうそんなにか」
「はい。皆さま、お休みください」
——そして、諸葛亮を見た。
「孔明どのも」
「私は、もう少しだけ」
「お休みください」
「しかし、条件の草案を」
「明朝で、間に合います」
——諸葛亮は、動かなかった。
```
【諸葛亮】
休養意思 2 → 2
```
——効かない。
趙雲では、効かない。
——母なら、効いた。
あの人が三度言えば、この人は筆を置いた。
趙雲は、三度言っても効かない。
理由は、分からない。
趙雲のほうが、この人と付き合いは長いはずだ。
◆
俺は、立ち上がった。
そして、諸葛亮の袖を掴んだ。
「ねろ」
「若君」
「ねろ」
「あと一刻で」
俺は、袖を掴んだまま、その場に座り込んだ。
——去年と、同じ手である。
この人が寝るまで、動かない。
諸葛亮は、長いこと俺を見下ろしていた。
そして、深い息を吐いた。
「……若君には、敵いませぬ」
彼は、羽扇を閉じた。
```
【諸葛亮】
実際の行動 休養へ移行
備考 劉禅による停止 通算四回目
```
——四回目。
去年から数えて、四回。
一年で、四回。
——足りない。
母は、毎晩やっていた。
◆
廊下へ出ると、趙雲が待っていた。
「若君」
「しりゅう」
「……なぜ、若君の仰せは効くのでしょうか」
——この人も、気にしていたらしい。
俺は、少し考えた。
そして、答えた。
「しりゅうは、たのんでる」
「頼んでおります」
「おれは、たのんでない」
「では、何を」
俺は、言った。
「すわってる」
趙雲が、目を丸くした。
そして——笑った。
「……なるほど」
——理屈ではない。
趙雲は「お休みください」と言う。
それは、諸葛亮が断れる形である。
俺は、何も頼んでいない。
ただ、袖を掴んで座り込む。
断る先が、存在しない。
——母も、そうだった。
あの人は「休んでください」としか言わなかった。
理由も、根拠も、説得も、何もなかった。
同じ言葉を、同じ調子で、三度。
——あれは、頼んでいなかったのだ。
ただ、そこにいただけだ。
◆
その夜、俺は木簡に一行書き足した。
《たのむと、ことわられる》
そして、その下に。
《すわると、ことわれない》
——四つの子が書くことではない。
だが、これは、二十五年後に効く。
そのときまで、忘れないように書いておく。
次回 第31話「最初の別れは、笑顔で始まった」




