第29話 孟達は二人の主君を持てない
三人目の益州人が、来た。
この物語で、俺が最後まで救えなかった男である。
——だが、このときの俺は、まだ知らない。
◆
張松、法正に続いて紹介されたのは、孟達という男だった。
字を、子敬という。
法正の副将として、兵二千を率いて荊州まで劉備を迎えに来た。
法正も、同じく二千。
合わせて四千の兵が、我々を迎えに来ている。
——援軍を求める側が、四千の兵を出して迎えに来る。
手厚い。
手厚すぎる。
前世で、こういう歓待をしてくる相手は、たいてい何か抱えている。
◆
孟達は、これまでの二人とは違った。
堂々とした体格である。
武人らしい肩幅。日に焼けた顔。
礼儀も、きちんとしている。
声も落ち着いていて、聞き取りやすい。
——第一印象だけなら、三人の中で最もまともだった。
俺は、期待しながら能力画面を開いた。
```
【孟達 字・子敬】
統率 85
武力 81
知略 79
政務 68
魅力 82
現場指揮 88
地方人脈 94
交渉 83
危機察知 91
忠誠安定 43
自己保全 97
固有特性
【空気を読む】
権力関係の変化を、早期に察知する。
【生き残る将】
組織崩壊時、離脱経路を確保する。
【評価に敏感】
功績を軽視されると、忠誠が急速に低下する。
【二君の間】
複数勢力との関係を維持するが、双方から疑われやすい。
総合評価 A
重大危険
離反/二重交渉/上司との関係悪化/救援遅延
将来離反危険度 68%
抑制要因 法正(同郷・唯一の理解者)
```
——まともでは、なかった。
忠誠安定、四十三。
自己保全、九十七。
そして、いちばん下の一行。
将来離反危険度、六十八パーセント。
◆
俺は、その数字を見つめた。
——知っている。
この男は、いずれ蜀を離れる。
魏へ行き、そして戻ろうとして、司馬懿に討たれる。
裏切り者として、名が残る。
——だが。
この能力画面を見ると、単純な悪人ではない。
危機察知、九十一。
自分が切り捨てられる兆候を、早く感じる。
評価されない組織から、離れる。
危険が迫れば、生き残ろうとする。
——現代企業なら、転職回数の多い、優秀な管理職である。
そして、そういう人ほど、たいてい前の会社で正しかった。
◆
もう一つ、俺は気になる行を見つけた。
抑制要因——法正。
同郷・唯一の理解者。
——昨夜、法正が言っていた。
> 「同郷の孟達と二人、益州へ流れました」
建安の初め、飢饉から逃げた二人。
十五年、益州で不遇だった二人。
——同じ場所から逃げて、同じ場所で埋もれた。
そして今、二人揃って、新しい主君を迎えに来ている。
俺は、法正を見た。
法正は、孟達の隣に立っている。
何も言わない。
だが、目の端で、常にこの男を見ている。
◆
孟達が、劉備へ礼をした。
「張魯討伐の際は、私も兵を率いて劉皇叔をお迎えいたします」
劉備は、丁寧に応じた。
「頼りにしている」
——そこで、俺は口を開いた。
俺は、孟達の袖を引いた。
そして、聞いた。
「うらぎる?」
——広間が、凍った。
◆
孟達の顔が、引きつる。
張松が、額を押さえた。
法正は、面白そうに見ている。
張飛が、大声で笑った。
「阿斗! 初対面で何を聞いておる!」
——重要な質問である。
四歳でなければ、絶対に聞けない。
そして、四歳のうちに聞いておかなければならない。
孟達は、無理に笑った。
「……なぜ、私が裏切ると?」
「しんぱい」
「ご心配には及びません」
——出た。
この軍の共通言語である。
「私は劉璋さまの命を受け、劉皇叔に協力いたします」
——言い方が、気になる。
劉備へ忠誠を誓ったのではない。
劉璋の命令として、協力するだけである。
◆
「りゅうしょう、だめなら?」
俺が聞くと、孟達の目が揺れた。
「何が、駄目なのでしょう」
「まもれない」
——益州を守れない。
張魯に負ける。曹操へ降伏する。
孟達は、少し考えた。
そして、答えた。
「そのときは、益州の民を守れる方へ従います」
「だれ」
「その時点で、判断します」
——非常に、正直である。
忠義を美しく語らない。
この男は、自分が生き残ることと、自分の部下や土地を守ることを優先する。
——関羽とは、正反対だ。
関羽は、不利でも退かない。
孟達は、危険を感じれば退く。
どちらが正しいとは、一概に言えない。
◆
「二人の主君から、異なる命令を受けた場合は」
諸葛亮が、尋ねた。
孟達は、少し黙る。
「より実行可能なほうを選びます」
「正統性ではなく?」
「実行できない命令に従い、兵を死なせることが、忠義でしょうか」
法正が、笑った。
「子敬らしい答えだ」
張飛は、不満そうだった。
「主君のためなら、死ぬのが武将であろう」
孟達は、張飛を見た。
そして、静かに言った。
「将が死ぬのは、勝手です」
——空気が、変わった。
「しかし——将が忠義を示すために、部下まで死なせる必要が、ありますか」
——
張飛の顔から、笑みが消えた。
◆
俺は、その言葉を、頭の中で反芻していた。
——この言葉は、いつか、この場の全員に突き刺さる。
関羽に。
麦城で、退かなかった人に。
張飛に。
復讐のために兵を急かして、部下に殺される人に。
姜維に。
まだ会っていない、北伐を止められない男に。
そして——諸葛亮に。
五丈原まで行く人に。
——最後に、俺に。
前世で、部下に「無理するな」と言いながら、誰よりも遅くまで働いていた男に。
孟達は、この軍で唯一、「死なない」ことを正面から主張した。
そして、この軍で唯一、裏切り者として名が残る。
◆
「子敬どの」
——趙雲である。
危機評価役の、二度目の発言だった。
「一つ、お尋ねしたい」
「はい」
「あなたが去られた場合、その土地と兵は、どうなりますか」
——広間が、静かになった。
孟達は、しばらく黙った。
そして、正直に答えた。
「……私に付いてくる者は、付いてまいります」
「どれほど」
「地方の兵は、土地に付きます。私は、地方の者と繋がっております」
```
【孟達】地方人脈 94
```
「つまり」
趙雲は、感情のない声で言った。
「あなたが去れば、土地ごと動く」
「……そうなりましょうな」
——今度は、聞き流されなかった。
諸葛亮の羽扇が、止まった。
法正の目が、細くなった。
そして劉備が、初めて真剣な顔をした。
——趙雲を置いてよかった。
去年の俺の判断が、今日、初めて役に立った。
◆
「子敬」
俺は、呼んだ。
「はい」
「にげる、とき」
孟達が、警戒した。
「にげる、まえに」
俺は、周囲を指した。
「いって」
——黙って離反するな。
危険を感じたなら、報告する。
不満があるなら、伝える。
救援が来ないなら、待てる期限を示す。
孟達は、苦笑した。
「申し上げても、聞いていただけなければ?」
「もういちど」
「それでも、聞かれなければ?」
「みんなに」
——上司一人に握り潰されるなら、別の経路を使う。
「それでも?」
俺は、答えた。
「にげる」
——孟達が、目を見開いた。
張飛も、驚いた。
「逃げることを認めるのか」
「しぬより」
——状況による。
無断離反は認められない。
だが、組織が部下の命を守らず、意見も聞かず、撤退も許さないなら——その組織にも、責任がある。
◆
孟達は、長く俺を見ていた。
「若君は、不思議な方です」
「へん?」
「はい」
——即答された。
「ですが」
孟達は、少し笑った。
「仕えてみたいと、思わせる」
```
孟達から劉禅への評価
危険な質問をする幼児 → 交渉可能な将来の主君
信頼度 7 → 29
将来離反危険度 68% → 54%
```
——五十四。
まだ、高い。
一度の会話で、人間の本質は変わらない。
◆
俺は、木簡を取った。
そして、覚えたばかりの字を書いた。
《離》
その下に、《報》
孟達が、覗き込む。
「……離反の報告、ですか」
「ちがう」
——離反する前の、報告。
「やめたい、って、いう」
この時代に退職届があるかは知らない。
だが、突然敵国へ移るよりは、よい。
法正が、笑い出した。
「敵へ裏切る前に、主君へ相談せよと?」
「うん」
「相談して、許可を得てから裏切るのですか」
「ちがう!」
——全員が、笑った。
孟達も、笑った。
少しだけ、空気が和らいだ。
◆
劉備が、孟達へ言った。
「子敬。私に不満があるときは、阿斗へ伝えよ」
——なぜ四歳が内部通報窓口になるのだ。
「父上」
「阿斗なら、私にも遠慮なく言うだろう」
——否定できない。
「あるいは、子龍でもよい」
趙雲が、頭を下げる。
「承知しました」
こうして、孟達専用の相談経路が作られた。
国家制度としては、小さすぎる。
しかし、将来の離反を防ぐ、最初の一歩である。
```
【非公式相談経路が成立しました】
対象 孟達
相談先 劉禅/趙雲
離反前報告確率 12% → 46%
```
——四十六パーセント。
半分にも、届かない。
孟達を信じて終わりではない。
——孟達が裏切らなくてよい組織を、作る必要がある。
◆
その夜。
張飛が、俺のところへ来た。
酒臭い。
この人は、いつも酒臭い。
「阿斗」
「よくとく」
「裏切りそうな者を、なぜ使う」
俺は、この人を見上げた。
——張飛の将来の死因は、部下からの裏切りである。
「みんな、うらぎる?」
「俺は裏切らぬ」
「うんちょうも?」
「当然だ」
「しりゅうも?」
「当たり前だ」
「ぶかは?」
——張飛の顔が、止まった。
「部下も、俺に従う」
```
【張飛】
将来危険
部下の恐怖 上昇
報復感情 蓄積
暗殺危険度 4% → 5%
```
——一、上がった。
先月から、一。
「こわいと」
俺は、言った。
「にげる」
「俺の部下は、臆病ではない」
「こわい、ずっと」
——恐怖だけで結ばれた関係は、強く見えて、脆い。
張飛は、不満そうに黙った。
今はまだ、理解できないだろう。
それでも、この会話を覚えていてほしかった。
——裏切りは、裏切った瞬間に始まるのではない。
不満を言えなくなった瞬間に、始まる。
◆
俺が部屋へ戻ろうとすると、廊下に人影があった。
法正だった。
「若君」
「こうちょくどの」
「本日は、ありがとうございました」
「なにが」
法正は、少し笑った。
「子敬に、逃げ道を作ってくださった」
「……」
「あの男は、逃げ道がないと、逃げます」
——矛盾しているようで、していない。
逃げていいと言われた人間は、逃げない。
逃げるなと言われた人間は、黙って逃げる。
前世で、俺は同じことを知っていた。
退職を絶対に認めない会社ほど、無断欠勤で消える社員が多い。
「こうちょくどの」
「はい」
「しけいどのと、なかいい?」
法正は、月を見上げた。
「……十五年、同じ飯を食いました」
「うん」
「同じ郷から逃げて、同じ州で、同じように埋もれました」
「うん」
「ただ、我々は、違う道を選びました」
「ちがう?」
法正は、答えた。
「私は、書き換えることにしました」
「うん」
「あれは、書かれる場所を、変えることにしました」
——
俺は、そこで理解した。
同じ飢饉から逃げた二人。
片方は、間違った記録を訂正するために、残って戦うことを選んだ。
もう片方は、記録そのものを諦めて、場所を変えることを選んだ。
——どちらも、正しい。
そして、どちらも、地獄である。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
死亡年表。
二〇九——母。
二一九——関羽。丸。
二二〇——法正。丸。
二二一。二二三。二二九。二三四。
俺は、二二八の行を、新しく作った。
そして、書いた。
孟達。
——十七年後。
この男は、魏で、司馬懿に討たれる。
戻ろうとして、間に合わずに死ぬ。
俺は、記号を描こうとした。
丸か、四角か。
——今日、俺は経路を作った。
離反前報告確率、十二から四十六。
趙雲も、聞いた。
法正もいる。抑制要因として、この画面に載っている。
——だから、四角だ。
俺は、四角を描いた。
そして、その横に、小さく書き足した。
《ほうせい、しんだら?》
——
俺は、その七文字を、長いこと見ていた。
抑制要因、法正。
その法正が、二二〇年に死ぬ。
孟達が魏へ去るのは——
俺は、木簡をめくった。
二二〇年の行に、法正と書いてある。
同じ年だ。
——同じ年に、法正が死んで、孟達が逃げる。
偶然では、ない。
俺は、筆を置いた。
手が、震えていた。
九年後。
この二人を、同時に失う。
次回 第30話「劉備は国を奪えるのか」




