第28話 法正に「誰を許せないか」と聞いてみた
その男は、この軍の全員を褒めた。
一人残らず、である。
そして全員が、少しずつ気味悪くなった。
◆
張松に続いて紹介されたのは、法正という男だった。
字を孝直という。
歳は三十半ばだろうか。
——礼儀正しい。
如才ない。
そして、笑顔が絶えない。
龐統の粗雑さも、張松の刺々しさもない。
この三人の中で、最もまともに見えた。
——去年、俺は孟達についても同じことを思うことになる。
この軍に来る益州人は、全員「最初はまともに見える」のかもしれない。
◆
法正は、広間の全員に挨拶して回った。
関羽には——
「雲長どのの白馬の一戦、益州にまで聞こえております」
関羽の眉が、わずかに緩んだ。
張飛には——
「長坂の橋、あの一喝で曹操の大軍が退いたと」
張飛が、胸を張った。
「そうであろう!」
趙雲には——
「単騎で敵陣を二度、と伺いました」
趙雲が、困った顔をした。
「……務めでございます」
諸葛亮には——
「天下三分。あの構想を隆中で語られたと聞き、震えました」
諸葛亮の羽扇が、一瞬止まった。
そして龐統には——
「士元どのは、変わっておられませんな」
「褒めていないな」
「事実を申しました」
——この男、龐統にだけ本音を出した。
つまり、他は全部、演技である。
◆
俺は、その男を見つめた。
```
【法正 字・孝直】
統率 68
武力 43
知略 98
政務 85
魅力 77
戦略構想 99
敵情分析 100
機を見る力 100
交渉 88
非情な決断 97
自制 21
私怨 100
固有特性
【一飯の恩、睚眥の怨】
受けた恩は必ず返す。
睨まれた程度の恨みも、必ず返す。
【機を逃さぬ】
好機を発見し、即座に賭ける。躊躇しない。
【勝てる形しか作らない】
勝算のない戦を、決して勧めない。
【十五年の不遇】
長く才を認められなかったため、
自らの価値を証明する機会に、極めて強く反応する。
【誤って記された者】
過去に事実と異なる評を受け、訂正されなかった。
総合評価 S
重大組織リスク
私的報復/独断専行/同僚の粛清
```
——私怨、百。
自制、二十一。
そして最後の一つ。
【誤って記された者】
——これは、何だ。
◆
その夜、俺は庭で法正を見つけた。
一人で、月を見ていた。
さっきまでの笑顔が、なかった。
——こちらが、本体だ。
俺は、そちらへ歩いた。
三歩で転んだ。
法正が、拾い上げた。
この軍に来る人は、全員、俺を拾うのが上手くなる。
「若君。夜は冷えます」
「うん」
「お部屋へお戻りになったほうが」
「こうちょくどの」
「はい」
俺は、その顔を見上げた。
そして、聞いた。
「だれが、ゆるせない?」
——法正の動きが、完全に止まった。
◆
長い沈黙があった。
庭の虫の音が、やけに大きく聞こえた。
やがて、法正は俺を下ろした。
そして、しゃがんで、目線を合わせた。
「……もう一度、仰せいただけますか」
「だれが、ゆるせない?」
「なぜ、そのようなことを」
「わらってた」
「笑っておりました」
「ずっと」
「はい」
「ずっと、わらう、ひとは」
俺は、必死に言葉を並べた。
四歳の口には、これが限界だ。
「なにか、がまんしてる」
——法正の目が、細くなった。
◆
前世で、俺は同じ人を三人見た。
会議で誰の意見も否定しない人。
全員を褒める人。
そして、飲み会で一言も自分の話をしない人。
三人とも、辞めるときに、上司を刺すような置き土産を残していった。
——賛成しかしない人間は、賛成していない。
発言していないだけである。
◆
法正は、しばらく黙っていた。
そして、月を見上げた。
「若君。私の郷を、ご存じですか」
「しらない」
「扶風の郿県でございます。長安の西」
「とおい?」
「遠うございます」
彼は、続けた。
「祖父を法真と申しました。学者でしてな。朝廷から幾度も招かれましたが、一度も出仕しませんでした」
「なんで」
「出仕すれば、汚れると考えたのでしょう」
法正は、少し笑った。
さっきまでの笑顔とは、まったく違う笑い方だった。
「立派な祖父でございます。郷では、聖人のように語られております」
「……」
「そして、孫の私は、飢饉から逃げて益州へ参りました」
◆
「建安の初め、天下が飢えました。郷では、人が人を食いました」
——四歳の子に話す内容ではない。
だが、この人は話し始めた。
十五年、誰にも話していなかったのだろう。
「同郷の孟達と二人、益州へ流れました。劉璋どのに仕え——新都の県令に、なりました」
「けんれい」
「一つの県を治める役でございます」
「えらい?」
「……若い頃なら、そうでしょうな」
法正は、自分の手を見た。
「私は、三十を過ぎておりました」
◆
俺は、視界を確認した。
```
【法正】
益州での在任期間 十五年
最高到達官職 軍議校尉
```
——十五年。
その間の、最高職が「軍議校尉」。
軍議に参加する資格を持つ、中級の武官である。
知略九十八、敵情分析百の男が、十五年、そこにいた。
前世で言えば——
入社十五年で、まだ課長にもなっていない。
しかも、社内で一番賢い。
◆
「なんで」
俺は、聞いた。
「なんで、あがらない」
法正の口元が、歪んだ。
「……素行が悪い、と」
「そこう」
「行いが、よくないと」
「ほんと?」
——法正の動きが、止まった。
そして、初めて——声に、感情が乗った。
「存じません」
「え」
「誰が言い出したのか、存じません」
彼は、続けた。
「同じ扶風から流れてきた者が、何人かおりました。私は、彼らと親しくありませんでした。ただ、それだけです」
「……」
「それだけで、『法正は行いが悪い』という話が、州の中を回りました」
「ちがうって、いった?」
「申しました」
「きいてくれた?」
法正は、答えなかった。
代わりに、こう言った。
「若君。一度、簿に書かれたものは、消えませぬ」
◆
——俺は、その一言で、全部が分かった。
```
固有特性【誤って記された者】
過去に事実と異なる評を受け、訂正されなかった。
```
この人は、復讐したいのではない。
——訂正したいのだ。
「法正は行いが悪い」と、誰かが書いた。
事実ではない。
訂正されなかった。
十五年、その一行に負け続けた。
だから、この人は、自分で訂正して回っている。
恩を受ければ、必ず返す。「あの男は義を知る」と書かせるために。
睨まれれば、必ず返す。「あの男に手を出すな」と書かせるために。
——【一飯の恩、睚眥の怨】。
あれは、性格ではない。
十五年かけて作られた、記録の書き換え作業である。
◆
俺は、震えていた。
寒さではない。
——去年、俺は母の名前を探した。
簿には「甘氏」の二文字しかなかった。
誰も、諱を知らなかった。
記録されなかった人。
——そして、この人は。
間違って、記録された人だ。
どちらが、きついのか。
俺には、分からなかった。
◆
「こうちょくどの」
「はい」
俺は、帯から木簡を抜いた。
四歳の帯に木簡を挟むと、歩くたびに落ちる。
だが、俺は毎日それを持ち歩いている。
《名のない者》
阿仙。阿六。排水路の二十人。糜芳。王阿三。
法正が、それを見た。
「……これは」
「なまえ」
「はい」
「しょに、ない、ひと」
「簿に、載らぬ者ですか」
「うん」
「なぜ、書いておられます」
俺は、答えた。
「かかの、なまえが、なかった」
法正が、俺を見た。
「……甘夫人の」
「うん」
「記録に」
「なかった」
——長い沈黙があった。
◆
やがて、法正が言った。
「若君」
「うん」
「それは、書いても、誰も読みませぬ」
「うん」
「国の役には、立ちませぬ」
「うん」
「……それでも、書かれるのですか」
俺は、頷いた。
そして、木簡をめくった。
新しい面である。
そこには、まだ何も書かれていない。
俺は、筆を出した。
四歳の手で、震える字を書いた。
《ほうせい あざな こうちょく》
《ぎょうい、わるくない》
法正が、その字を見た。
——動かなかった。
「若君」
「うん」
「……それは、何でございますか」
俺は、答えた。
「かきなおした」
◆
法正は、動かなかった。
長いこと、その歪んだ四つの字を見ていた。
やがて、彼は言った。
「……若君」
「うん」
「その簿は、州の記録ではございません」
「うん」
「誰の目にも、触れませぬ」
「うん」
「私の郷にも、益州にも、何一つ届きませぬ」
「うん」
「……」
法正は、そこで言葉を切った。
そして、しばらく黙ってから——両手を床についた。
庭の土の上に、である。
「若君」
「なに」
「十五年、誰も、書き直してはくださいませんでした」
```
【法正 字・孝直】
劉禅への評価 主君の幼子 → 記録すべき人物
劉禅への忠誠 3 → 61
固有特性【誤って記された者】
効果に変化が生じました。
私怨 100 → 91
```
——九。
九、下がった。
◆
俺は、そこで思い出した。
この人は、危険なのだ。
私怨九十一。自制二十一。
九下がったところで、何も安全になっていない。
俺は、法正の袖を引いた。
「こうちょくどの」
「はい」
「ころすの、だめ」
法正は、顔を上げた。
そして、少し考えてから、尋ねた。
「なるほど。……では、流罪は」
「だめ」
「財を奪うのは」
「だめ」
「官を辞めさせるのは」
「……だめ」
「では」
法正は、真面目な顔で聞いた。
「噂を流して、その者が自ら職を辞するように仕向けるのは」
「だめ」
「若君」
法正は、心底不思議そうな顔をした。
「それは、誰も傷ついておりませんが」
——傷ついている。
全力で、傷ついている。
俺は、頭を抱えた。
この人には、倫理を教える前に、定義から教える必要がある。
◆
「……阿斗?」
背後から、声がした。
劉備だった。
いつからいたのか、分からない。
「父上」
「こんな夜更けに、庭で何をしておる」
「はなしてた」
「孝直どのと?」
「うん」
劉備は、法正を見た。
法正は、立ち上がって礼をした。
「若君の御相手を、いたしておりました」
「そうか」
劉備は、少し笑った。
「阿斗は、初対面の相手に妙なことを聞く。困らせたであろう」
「いえ」
法正は、答えた。
「十五年ぶりに、まともな話をいたしました」
◆
劉備が去ったあと、法正が俺に言った。
「若君」
「うん」
「一つ、申し上げてよろしいか」
「うん」
「私は、あなた様を使います」
——俺は、顔を上げた。
「つかう」
「はい」
「なんで」
法正は、はっきりと言った。
「あなた様は、私を正しく記される。ならば、私は、あなた様に記されるに値する働きをいたします」
「……」
「それは、忠義ではございません」
法正は、笑った。
今度は、本物の笑い方だった。
「取引でございます」
```
【法正】
劉禅との関係 取引関係が成立しました
備考
この人物は、あなたの評価によって行動を変えます。
あなたが一度でも彼を誤って評すれば、
この関係は即座に反転します。
```
——
俺は、その最後の三行を、二度読んだ。
——恐ろしい。
この人は、忠誠を誓わなかった。
契約を結んだ。
そして、契約は、破棄できる。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
《ほうせい あざな こうちょく》
《ぎょうい、わるくない》
俺は、その下に、もう一行書き足した。
《ただし、あぶない》
——両方、本当だ。
書き直すことと、危険であることは、両立する。
そして、死亡年表を開いた。
二〇九——母。二一九。二二一。二二三。二二九。二三四。
俺は、二二〇の行を、新しく作った。
そこに書いた。
法正。
四十五。
——九年後。
この人は、病で死ぬ。
戦場でもなく、暗殺でもなく、ただ病んで死ぬ。
しかも、死んだ翌年に、父が夷陵へ向かう。
——後に、諸葛亮は言うだろう。
「孝直がおれば、主上を東へ行かせはしなかった」と。
俺は、記号を描こうとして——手を止めた。
丸か。四角か。
病である。
戦なら、退路を作れる。暗殺なら、犯人を先に押さえられる。
——病は、どうやって変える。
俺は、長いこと迷って、そして。
丸を描いた。
——二つ目の丸だ。
雲長と、孝直。
四角は、士元と子喬。
二対二である。
俺は、まだ何も勝っていない。
次回 第29話「孟達は二人の主君を持てない」




