第25話 張飛という爆弾
音が、二つ聞こえた。
一つは、肉を打つ音。
もう一つは、人が地面に落ちる音である。
◆
建安十五年の秋。
俺は三つで、公安の城の中を、ほぼ自由に歩き回れるようになっていた。
正確には——歩き回っても、誰も止めなくなった。
趙雲が必ず後ろにいるからである。
その日、俺は練兵場の脇を通っていた。
そして、それを見た。
◆
兵が一人、地面に転がっていた。
若い。二十歳そこそこだろう。
口の端が切れて、土が付いている。
その前に、張飛が立っていた。
「もう一度やれ」
低い声だった。
普段の、地鳴りのような大声ではない。
——低いほうが、怖い。
兵は、震えながら立ち上がった。
槍を構える。
手が、震えている。
「構えが甘い」
張飛が、槍の柄で兵の脛を打った。
兵が、また倒れた。
「立て」
「……はい」
「立てと言っておる」
◆
俺は、走った。
三歳の脚である。
十歩で、二度転んだ。
「若君!」
趙雲が慌てて追ってくる。
俺は、張飛と兵の間に立った。
正確には、張飛の足元にしがみついた。
「阿斗?」
張飛が、驚いた顔で見下ろす。
「やめて」
「何をだ」
「なぐるの」
張飛の顔が、変わった。
◆
「これは訓練だ」
「なぐってる」
「殴らねば覚えぬ」
「なぐらないで」
張飛は、しばらく俺を見下ろしていた。
そして、槍を地面へ突き立てた。
土が、鈍い音を立てた。
「阿斗」
「うん」
「戦場では、優しさが人を殺す」
——俺は、言葉に詰まった。
◆
「こやつの構えは甘い」
張飛は、倒れている兵を指した。
「このまま戦へ出れば、三日で死ぬ」
「……」
「俺が今、槍で脛を打った。痛かろう。だが折れてはおらぬ」
——確かに、加減している。
この人は、力を制御している。
それが余計に、事の性質を悪くしている。
「戦場では、魏の兵が同じところを斬る。そのときは、脚が飛ぶ」
張飛は、俺を見た。
「今、打たれるのと、戦場で斬られるのと、どちらがよい」
——正しい。
この人の言っていることは、正しい。
前世で、俺は同じ論理を何度も聞いた。
「今、厳しく言わないと、客先で恥をかく」
「甘やかすのは、その人のためにならない」
そして、その論理の下で、何人も潰れていくのを見た。
正しさは、免罪符にならない。
だが、間違ってもいない。
——だから、厄介なのだ。
◆
俺は、倒れている兵を見た。
「なまえ」
兵が、驚いて顔を上げた。
「え」
「なまえ、なに」
「……王阿三と、申します」
「おうあさん」
「はい」
「おぼえた」
兵は、口を開けたまま固まった。
俺は、視界を確認した。
```
【王阿三 歩兵】
武力 31
統率 9
現在の状態
打撲(脛・口内)
疲労 77
恐怖 88
恐怖の対象
敵 41
張飛将軍 93
```
——
俺は、その二行を、二度読んだ。
敵への恐怖、四十一。
将軍への恐怖、九十三。
——逆転している。
◆
俺は、張飛を見上げた。
「よくとく」
「なんだ」
「このひと、なにが、こわい」
「決まっておろう。敵だ」
「ちがう」
「なに?」
俺は、張飛を指した。
「あんた」
——練兵場が、静かになった。
張飛の顔から、表情が消えた。
「……俺が、怖いと」
「うん」
「それでよい」
「え」
「将が怖くなければ、兵は動かぬ」
——
俺は、そこで理解した。
この人は、恐怖で人を動かすことを、悪いことだと思っていない。
手段として、正しいと思っている。
——そして、短期的には、正しいのだ。
◆
俺は、視界を開いた。
去年見たときとは、少し違う項目が出ていた。
```
【張飛 字・益徳】
統率 92
武力 99
知略 70
政務 29
魅力 83
現場判断 96
突破力 100
士気高揚 91
部下育成 42
感情制御 8
飲酒耐性 97
固有特性
【一喝】
大声によって、敵味方双方へ強い心理的影響を与える。
【愛情表現不能】
対象を大切に思うほど、強い言葉と態度を用いる。
【酔中人事】
飲酒中、重要な任命や処分を決定する可能性がある。
【恐怖による統率】
短期の練度向上に極めて有効。
長期的に、部下の恐怖対象が「敵」から「自身」へ移行する。
組織上の危険
部下への暴力/感情的処分/暗殺危険
暗殺危険度 4%
主要因 直属兵の恐怖蓄積
備考 現時点では低い数値です。
```
——四パーセント。
低い。
低いから、誰も気にしない。
そして、この数字は、殴るたびに上がる。
◆
俺は、練兵場の反対側を見た。
趙雲が、別の隊を教えていた。
——比べてみよう。
俺は、そちらへ歩いた。
趙雲は、兵の後ろへ回り、その腕を持って構えを直していた。
「ここが下がっております」
「はっ」
「もう一度」
兵が、槍を突く。
「よい」
「はっ」
「今のを、覚えておかれよ」
——それだけだった。
殴らない。怒鳴らない。
そして、兵は動いている。
俺は、その兵の状態を見た。
```
【兵】
恐怖の対象
敵 63
趙雲将軍 11
```
——正しい向きである。
◆
俺は、張飛のところへ戻った。
そして、趙雲を指した。
「あれ」
張飛が、そちらを見る。
「子龍がどうした」
「なぐってない」
「うむ」
「うごいてる」
張飛は、しばらく黙った。
そして、言った。
「……子龍のようには、できぬ」
「なんで」
「あれは、生まれつきだ」
——違う。
生まれつきではない。
やり方の問題だ。
だが、三歳の口では、それを証明できない。
——ならば、やらせてみるしかない。
◆
「よくとく」
「なんだ」
「やって」
「何をだ」
「どならないで、おしえる」
張飛の顔が、引きつった。
「……できるわけがなかろう」
「やって」
「阿斗」
「やって!」
——三歳の最終兵器である。
大声と、繰り返し。
この人が使ってきた手法を、そのまま返した。
張飛は、頭を掻きむしった。
「……一度だけだ」
「うん」
「一度だけだぞ」
◆
結果は、この物語で最も恐ろしい光景の一つとなった。
張飛は、王阿三の前に立った。
深く息を吸った。
そして——声を、極限まで抑えた。
「……貴様」
すでに駄目である。
張飛は、慌てて言い直した。
「……貴様、ではなく」
「は、はい」
「……あなた様は」
兵の顔が、恐怖で歪んだ。
「……この構えを」
張飛の額に、血管が浮いている。
我慢している。
全力で、我慢している。
「……再考されては、いかがでしょうか」
——最後だけ、声が裏返った。
王阿三は、気絶しかけた。
趙雲が、口元を押さえて背を向けた。
あの人が、笑いを堪えている。
初めて見た。
◆
「若君!」
張飛が振り返った。
「駄目だ! こやつが、もっと怖がっておる!」
——事実である。
俺は、視界を確認した。
```
【王阿三】
恐怖の対象
敵 41
張飛将軍 93 → 97
```
上がった。
四、上がった。
「なぜだ! 俺は殴っておらぬ! 怒鳴ってもおらぬ!」
——そこだ。
俺は、そこでようやく理解した。
問題は、手でも、声でもない。
◆
前世で、俺は同じ失敗を見たことがある。
パワーハラスメント研修を受けた部長が、翌週から一切怒鳴らなくなった。
代わりに、無言で書類を突き返すようになった。
部下の恐怖は、増した。
——手段を取り上げても、目的が変わっていなければ、別の手段が出るだけだ。
この人の目的は、「兵を怖がらせて動かす」ことである。
殴るのは、手段にすぎない。
手段を封じても、目的が残る限り、恐怖は伝わる。
◆
「よくとく」
「なんだ」
俺は、必死に三語を並べた。
「こわがらせて、うごかす」
「そうだ」
「それが、だめ」
張飛が、眉を寄せた。
「では、どうやって動かす」
——そこである。
この人は、他の方法を知らないのだ。
知らないから、殴る。
「暴力を振るう人間」ではなく、「暴力しか教わらなかった人間」である。
俺は、王阿三を指した。
「ほめて」
「褒める?」
「うん」
「何をだ」
——そこで、俺も詰まった。
この兵は、構えが甘い。三日で死ぬ。
褒めるところが、ない。
俺は、必死に考えた。
そして、王阿三に聞いた。
「なんかい、たった」
「え」
「なんかい、たった」
王阿三は、混乱した顔をした。
そして、答えた。
「……三度、でしょうか」
「うん」
俺は、張飛を見上げた。
そして、言った。
「さんかい、たった」
◆
——張飛が、動きを止めた。
俺は、続けた。
「なぐられて」
「うむ」
「たった」
「……」
「にげてない」
——練兵場が、静かになった。
張飛は、王阿三を見た。
長い、長い沈黙があった。
そして、この人は——口を開いた。
「……王」
「は、はい!」
「逃げなかったな」
王阿三が、目を見開いた。
「……は」
「三度、立った」
「……はい」
「それは、覚えておけ」
そして、張飛は背を向けて歩き出した。
```
【王阿三】
恐怖の対象
張飛将軍 97 → 84
新規項目
張飛将軍への畏敬 0 → 22
```
——十三、下がった。
一言で。
◆
俺は、去っていく張飛を追いかけた。
例によって、転んだ。
張飛が、拾い上げた。
この軍の人間は、全員、俺を拾うのが上手い。
「よくとく」
「なんだ」
「なんで、なぐる」
張飛は、答えなかった。
俺は、もう一度聞いた。
「なぐった、ひと、しんだ?」
「……死なぬ」
「じゃあ」
俺は、続けた。
「なぐらない、ひとは」
——張飛の動きが、完全に止まった。
腕の中で、この人の身体が硬くなるのが分かった。
「……」
「どうなった」
「……知らぬ」
——嘘だ。
この人は、知っている。
俺は、それ以上聞かなかった。
三歳の口では、これ以上踏み込めない。
——十一年後に、聞く。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
《名のない者》の簿である。
阿仙。阿六。排水路の二十人。糜芳。
その下に、書き足した。
王阿三。
そして、少し考えて——新しい木簡を、一枚出した。
そこに、こう書いた。
《殴られた者》
一行目に、王阿三の名を書く。
三歳の手では、字が半分しか書けない。
書けない分は、○を描いておいた。
——この簿が、いつか役に立つとは思っていない。
兵は、これからも殴られる。
一人や二人ではない。
十一年で、何人になるのか、想像もつかない。
——十一年後、俺はこの簿を、開くことになる。
そして、そこに書かれた名前の中に、二つの名を見つける。
范彊。
張達。
だが、このときの俺は、まだ知らない。
◆
灯火を消す前、俺は視界を確認した。
```
【張飛 字・益徳】
暗殺危険度 4% → 4%
```
——動かなかった。
一言褒めただけでは、動かない。
当たり前だ。
十一年分の恐怖が、これから積み上がる。
一日の一言では、消えない。
俺は、木簡へもう一行書いた。
《毎日、一つ》
——一日に一つでいい。
この人に、殴らずに人を動かす方法を、一つずつ教える。
十一年ある。
四千日ある。
四千回やれば、何か変わるかもしれない。
——変わらないかもしれない。
それでも、やる。
俺は、灯火を消した。
暗闇の中で、遠くから張飛の声が聞こえた。
酒を飲んで、笑っている声だった。
明日も、あの人は誰かを殴る。
——明日も、俺は止めに行く。
次回 第26話「二年目の孤独」




