第24話 軍神は会議に出ない
七日後、江陵から最初の報告書が届いた。
四文字だった。
——荊州、異常なし。
◆
事の起こりは、七日前である。
益州行きの準備として、軍中の連絡制度を整えることになった。
劉備が西へ発てば、荊州は関羽が守る。
距離が離れれば、情報が要る。
当たり前の話だ。
——当たり前ではなかった。
◆
龐統が、制度を設計した。
「七日に一度、江陵より公安へ報告を送っていただきます」
竹簡に、六つの項目が書かれている。
一、魏軍の動き。
二、呉との交渉。
三、糧の残量。
四、兵の疲労と病。
五、城と船の修繕。
六、部下との意見の相違。
「以上、六項目。異常の有無にかかわらず、必ず記していただきます」
諸葛亮が頷いた。
「妥当かと」
——妥当である。
極めて、妥当である。
前世で言えば、週次の定例報告だ。
新入社員でも書く。
◆
関羽は、竹簡を一瞥した。
そして、言った。
「監視か」
——広間の空気が、固まった。
「違います」
龐統が答える。
「連絡でございます」
「同じであろう」
「違います」
「どう違う」
——先月と、同じやりとりである。
あのときは、諸葛亮が答えられなかった。
今度は、龐統が答えた。
「監視は、疑うために見ます。連絡は、助けるために聞きます」
「私に助けが要ると?」
「要らぬと分かるために、聞くのです」
——うまい。
さすが上司配慮四だけあって、言い回しに媚びが一切ない。
それが、この人には効く。
関羽は、しばらく黙った。
「……月に一度でよかろう」
——出た。
交渉である。
◆
俺は、趙雲に抱え上げてもらって、机の上に顔を出した。
「うんちょう」
「はい、若君」
「なのか」
「七日は、多い」
「なのか」
「十日でどうだ」
「なのか」
「……若君。同じ言葉しか申されておらぬ」
——それが交渉である。
三歳の語彙で勝つには、繰り返すしかない。
関羽は、腕を組んだ。
そして、意外にも笑った。
「翼徳と同じことをなさる」
「うん」
「認められますか」
「うん」
関羽は、深く息を吐いた。
「……七日、承知した」
```
【定期報告制度】
頻度 七日に一度 (合意)
```
——一つ目は、通った。
◆
問題は、二つ目だった。
関羽は、六番目の項目を指した。
「これは、削れ」
六、部下との意見の相違。
「なぜでございましょう」
龐統が尋ねる。
「内部の弱みを、外へ示すことになる」
「外ではございません。主公でございます」
「同じことだ」
——同じではない。
だが、この人の中では同じなのだ。
俺は、必死に言葉を探した。
「かくす」
関羽が、俺を見る。
「隠す?」
「かくす、もっと、よわい」
——隠したほうが、弱い。
問題は、隠しても消えない。
報告だけが消える。
去年、夏口で倉庫番が鼠害を隠した。
あのとき、この人自身が言ったのだ。
「ならば、報告した者を罰せぬと決めればよい」と。
俺は、それを思い出させたかった。
「うんちょう」
「はい」
「ねずみ」
「……は?」
「ねずみ、いった」
関羽が、眉を寄せた。
「若君。何のお話か」
——通じない。
三歳の語彙では、去年の出来事を指し示せない。
諸葛亮が、助け舟を出した。
「昨年、倉庫の損耗を隠した者がおりました。あのとき、雲長どのが『報告した者を罰するな』と申されました」
「うむ。覚えておる」
「若君は、同じことを雲長どのご自身にも適用してほしいと仰せです」
関羽は、しばらく黙った。
そして、言った。
「あれは、下の者の話だ」
——ああ。
俺は、そこで理解した。
この人は、弱さを許す。
部下の弱さを、である。
自分の弱さは、許さない。
それは、優しさと自罰が同じ根から生えている、ということだ。
◆
交渉の末、六番目の項目は残った。
ただし——表現を変えた。
六、部下との意見の相違
↓
六、部下からの進言
「進言なら、書ける」
関羽は、そう言った。
「弱みではない。下の者が意見を申したという記録だ」
——言い換えただけである。
中身は同じだ。
だが、この人にとっては、まったく違う。
前世で、俺も同じことをした。
「クレーム報告」を「お客様の声」に変えたら、報告数が四倍になった。
中身は同じである。
人は、言葉に対して報告する。
```
【定期報告制度が成立しました】
頻度 七日に一度
項目 六
経路 江陵 → 公安
関羽の孤立危険度 23% → 17%
関羽の機嫌 68 → 43
```
——機嫌が、二十五下がった。
改革をするたびに、この人の機嫌が下がる。
将来、ゼロにならないか心配である。
◆
そして、七日後。
最初の報告書が届いた。
運んできたのは、糜芳だった。
糜竺の弟である。
兄と違って、体格がいい。だが、目つきに落ち着きがない。
「江陵より、参りました」
糜芳は、竹簡を差し出した。
劉備が受け取り、開いた。
そして、動きが止まった。
「……」
「主公?」
龐統が尋ねる。
劉備は、竹簡を差し出した。
そこには、四文字しか書かれていなかった。
荊州、異常なし。
◆
張飛が、大声で笑った。
「雲長らしいわ!」
糜竺も、笑った。
「まあ、異常がないのは何よりでございます」
劉備も、苦笑した。
「まあ、簡潔でよい」
——俺だけが、笑えなかった。
背中が、冷たくなっていた。
◆
前世で、俺が最も恐れた報告書がある。
空欄である。
再生案件に入って、最初に見る資料が三つあった。
在庫。人員名簿。そして、事故報告書。
そして、事故報告がゼロの工場を、俺は二度見た。
二度とも、事故は起きていた。
報告が、なかっただけである。
——情報がないことは、良い知らせではない。
情報がない、という情報である。
◆
俺は、竹簡を掴んだ。
三歳の手には、大きすぎた。
「あと」
「阿斗?」
「ろくつ」
俺は、指を六本立てようとして、うまくいかなかった。
代わりに、竹簡を叩いた。
「むっつ、かく」
龐統が、理解した。
「六項目を、それぞれ記していただく約束でした」
「うん」
「これは、一行でございますな」
「うん」
「若君は、約束が守られていないと仰せです」
——正確には、違う。
約束は、守られている。
六つの項目に、すべて「異常なし」と答えたのだ。
だから、まとめて四文字になった。
——形式上は、正しい。
◆
「若君」
龐統が、俺の前へしゃがんだ。
「一つ、お尋ねしてよろしいか」
「うん」
「この報告は、嘘だとお思いですか」
俺は、少し考えた。
そして、首を横に振った。
「うそ、じゃない」
「では」
俺は、答えた。
「いじょうの、いみが、ちがう」
——龐統の目が、細くなった。
「……異常の、意味が」
「うん」
——言いたかったのは、こうだ。
この人は、隠していない。
この人にとって、本当に異常はないのだ。
呉が船を集めていても、それは日常である。
部下と揉めても、それは日常である。
兵が三十人逃げても、それは日常である。
——「異常」の基準が、俺たちと違う。
この人が「異常あり」と書く日が来るとしたら。
それは——
◆
俺は、そこで手が震えた。
それは、既に手遅れになった日である。
弱みの開示、三。
この人が「異常がある」と認める閾値は、常人の何倍も高い。
普通の指揮官なら「危うい」と書く状況で、この人は書かない。
「まだ、なんとかなる」からだ。
そして——本当になんとかしてしまう。
九年間、なんとかし続ける。
なんとかならなくなった、その一回で、終わる。
◆
龐統は、俺の顔を見て、何かに気付いたようだった。
そして、劉備へ向き直った。
「主公。一つ、申し上げたい」
「なんだ」
「報告に何も書かれていないとき、考えられることは二つでございます」
龐統は、指を二本立てた。
「一つ。本当に何もない。」
「もう一つは」
「書く者が、それを異常と思っていない」
——広間が、静かになった。
諸葛亮の羽扇が、止まった。
「……士元どの」
「はい」
「それは、雲長どのを疑うことになりませぬか」
「疑っておりません」
龐統は、あっさりと言った。
「物差しが違うと申しているだけです」
「では、どうせよと」
「簡単でございます」
龐統は、竹簡を掲げた。
「『異常なし』と書けぬようにすればよい」
◆
次の月から、報告の様式が変わった。
「異常の有無」を書く欄を、廃止した。
代わりに、数字を書く欄を作った。
一、魏軍の動き → 確認された旗の数/最後に見た日
二、呉との交渉 → 往来した使者の数/内容の要旨
三、糧の残量 → 日数
四、兵の疲労と病 → 病者の人数/死者の人数
五、城と船の修繕 → 着工した箇所/完了した箇所
六、部下からの進言 → 進言した者の名/件数
——「異常なし」と書けない。
数字は、書くしかない。
そして、数字は嘘をつかないが、書き手の基準にも左右されない。
「これなら、雲長どのの物差しが違っても、こちらで判断できます」
龐統は、そう言った。
```
【報告様式を改訂しました】
定性報告 → 定量報告
関羽の孤立危険度 17% → 11%
関羽の機嫌 43 → 31
```
——また、下がった。
十二。
この人の機嫌は、俺の改革の回数と、正確に反比例している。
◆
糜芳が、帰り支度をしていた。
俺は、そこへ行った。
三歩で転んだ。糜芳が慌てて抱き起こす。
「わ、若君! お怪我は」
「ない」
「よかった……」
——この人は、優しい。
そして、少し、怯えている。
俺は、糜芳の顔を見上げた。
「びほう」
「はい」
「こまってる?」
——糜芳の動きが、止まった。
「……いえ」
「うそ」
「若君」
「うそ」
糜芳は、周りを見た。
誰も見ていないことを確かめてから、小さな声で言った。
「……私は、雲長さまの下で、うまくやれておりません」
「なんで」
「……申し上げると、兄に迷惑がかかります」
——ああ。
この人は、糜竺の弟だ。
兄は、劉備の古参中の古参である。徐州で全財産を投げ出し、妹を劉備に嫁がせた男だ。
その弟が、「関羽とうまくいかない」とは言えない。
言えば、兄の顔を潰す。
俺は、言った。
「いって、いい」
「いえ」
「おれに、いって」
糜芳は、俺を見た。
三つの子供に、何が言えるという顔だった。
当然である。
それでも、彼は少しだけ笑った。
「……ありがとうございます」
そして、行ってしまった。
```
【糜芳】
劉禅への信頼 4 → 19
内部不満 71
表明経路 なし
```
——表明経路、なし。
制度は作った。
報告書の様式も直した。
だが、この人が「困っている」と書く欄は、どこにもない。
六番目の項目は、「部下からの進言」である。
——進言する相手は、関羽なのだ。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
まず、《名のない者》の簿を開いた。
阿仙。阿六。排水路の二十人。
その下に、書き足す。
糜芳。
——名のある人だ。
将軍である。太守にもなる。
それでも、書いた。
この人の名前は、誰の目にも入っていない。
◆
次に、新しい木簡を出した。
そして、四文字だけ書いた。
《荊州、異常なし》
その下に。
《第一報》
——一枚目である。
俺は、その文字を長いこと見ていた。
これから、七日に一度、届く。
一年で、五十二枚。
九年で、四百六十八枚。
——四百六十八枚の「異常なし」を、俺は読むことになる。
そして、そのうちの一枚が、いつか変わる。
変わったときには、もう遅い。
俺は、筆を置いた。
それでは、間に合わない。
——だから、俺は、届かない報告を読む方法を、探さなければならない。
次回 第25話「張飛という爆弾」




