第26話 二年目の孤独
その日、孫夫人が弓を引いた。
的の中心を、三度続けて射抜いた。
誰も、拍手をしなかった。
◆
建安十五年の冬。
孫夫人が、この城へ来て一年が過ぎていた。
俺は三つで、そろそろ四つになる。
そして、あの人の頭上に——去年はなかった項目が、表示されるようになっていた。
```
【孫夫人】
孤独 62
```
——去年は、「—」だった。
空欄だった。
一年で、六十二になった。
◆
誰も、この人を虐めてはいない。
それが、この一年で分かったことである。
劉備は丁寧に接する。
関羽は礼を欠かさない。
張飛は……近づかない。
あの人は、あの人なりに気を遣っている。
侍女たちも、粗略には扱わない。
——では、なぜ六十二なのか。
俺は、一年かけて観察した。
そして、理由が分かった。
◆
理由その一。誰も、本音を言わない。
孫夫人が評定の話を尋ねると、皆こう答える。
「大したことではございません」
「奥方さまがお気になさることでは」
——嘘ではない。
だが、情報がない。
この人は、孫権の妹である。
言ったことが、呉へ流れるかもしれない。
誰も、それを口には出さない。
出さないまま、全員が同じ行動を取る。
——これが、一番きつい。
明確に「お前は敵だ」と言われれば、戦える。
「大したことではございません」には、戦えない。
◆
理由その二。護衛が、壁になっている。
帯剣した侍女、百人。
この人を守るために来た。
そして、誰もこの人に近づけなくなった。
城の女官が、孫夫人へ用があっても、まず侍女に話す。
侍女が取り次ぐ。
返事も、侍女が持ってくる。
——一年で、直接口をきいた荊州の者は、片手で足りる。
前世で、俺は同じ構造を見た。
秘書を三人置いた社長は、二年で社内の情報が入らなくなる。
守るために置いたものが、遮断する。
◆
理由その三。仕事が、ない。
母が死んだあと、この城の家政は宙に浮いていた。
普通なら、新しい奥方が引き継ぐ。
——引き継がなかった。
誰も、「奥方さまにお願いしましょう」と言い出さなかった。
古参の女官たちが、そのまま回している。
孫夫人も、「やらせろ」とは言わない。
——両方が、遠慮している。
そして一年が経った。
俺は、この構造にも覚えがある。
買収先の役員を「顧問」という肩書で残して、何も担当させなかった会社。
半年で、その人は出社しなくなった。
◆
理由その四。
——俺である。
去年、俺は木簡に《同盟条項》と書いて、削って、《家の者》と書き直した。
書いただけだ。
あれから一年、俺は何をしたか。
……何も、していない。
三つの子が忙しいわけがない。
龐統の評価。関羽の報告制度。張飛の練兵場。
全部、俺が自分で首を突っ込んだことだ。
そして、この人のところへは、行かなかった。
——理由は、分かっている。
どう呼べばいいか、まだ決められていないからだ。
◆
その日の午後、俺は的場の脇を通った。
そして、見た。
孫夫人が、弓を構えていた。
——姿勢が、違う。
肩が落ちていない。腰が据わっている。
弦を引く速さが、兵とは違う。
放った。
中心。
もう一本。
中心。
三本目。
中心。
```
【孫夫人】
弓馬 84
```
——八十四。
趙雲の武力九十七には及ばない。
だが、この城の兵の大半より、確実に上である。
俺は、思わず手を叩いた。
三歳の手なので、大した音は出ない。
それでも、この的場で、拍手をしたのは俺だけだった。
◆
孫夫人が、振り返った。
「……阿斗」
「じょうず」
「見ておりましたか」
「うん」
「拍手など、しなくてよいのです」
「なんで」
孫夫人は、弓を下ろした。
「女が弓を引くのは、この地では珍しいそうです」
——そうか。
江東では珍しくない。
孫家は、代々そういう家だ。
この人にとっては、当たり前のことである。
それが、ここでは「珍しい」と言われる。
——珍しい、というのは、褒め言葉ではない。
◆
「あと」
「はい」
「おしえて」
孫夫人が、目を見開いた。
「弓を?」
「うん」
「あなたは三つです」
「みっつ」
「引けません」
「ひける」
俺は、必死に主張した。
引けない。
確実に、引けない。
だが、この人に何かを頼みたかった。
一年、何も頼まなかったからだ。
◆
孫夫人は、しばらく俺を見ていた。
そして——初めて、この人が笑った。
「……小さな弓を、作らせましょう」
「うん」
「ただし」
「うん」
「当たらなくても、泣かぬこと」
「うん」
「約束です」
「やくそく」
```
【孫夫人】
阿斗への感情 愛情 41 → 58
孤独 62 → 55
```
——七、下がった。
弓を教えると言っただけで。
◆
それから十日ほど、俺は弓を習った。
孫夫人が作らせた弓は、俺の背丈の半分ほどの、玩具のような代物だった。
それでも、引けなかった。
三歳の腕力では、弦がびくともしない。
「阿斗」
「うん」
「腕で引いてはなりません」
孫夫人が、後ろから俺の肩に手を置いた。
「ここです」
背中の、肩甲骨のあたりを押される。
「腕は、支えるだけ。引くのは、背です」
——理にかなっている。
現代の弓道でも、同じことを言う。
この人は、感覚ではなく、理屈で教える。
◆
俺は、五日目に、初めて矢を飛ばした。
三歩、飛んだ。
的の足元に落ちた。
「……とんだ」
「飛びました」
「みじかい」
「三つですから」
孫夫人は、そう言って——少しだけ、笑った。
そして、地面に落ちた矢を拾いに行った。
自分で、である。
侍女が慌てて駆け寄ったが、この人は手で制した。
——
俺は、その背中を見ていた。
```
【孫夫人】
孤独 55 → 49
```
四十九。
十三、下がった。
十日で。
◆
そして、十一日目に、それは起きた。
◆
糜竺が、劉備へ進言した。
俺は、たまたま評定の隅にいて、それを聞いた。
「主公。恐れながら、一つ」
「なんだ」
「……奥方さまが、若君に弓を教えておられます」
劉備が、顔を上げた。
「うむ。聞いておる」
「よろしいのでしょうか」
——空気が、変わった。
糜竺は、悪い人ではない。
むしろ、この軍で最も誠実な男の一人である。
だからこそ、言った。
「奥方さまは、江東の御方でございます」
「うむ」
「若君は、主公のただ一人の御子でございます」
「うむ」
「その若君に、江東の御方が武を教えておられる」
糜竺は、言葉を選んでいた。
「……古参の者の中には、案じる声がございます」
「案じる、とは」
「万が一、ということでございます」
——万が一。
便利な言葉である。
何も具体的に言っていない。
そして、全員に同じことを想像させる。
◆
劉備は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「……気をつけよ、と伝えておこう」
——それだけだった。
「やめさせよ」とは言わなかった。
「案ずるな」とも言わなかった。
この人は、誰の顔も潰さない。
糜竺の顔も、孫夫人の顔も。
——だから、何も決まらない。
そして、「気をつけよ」という言葉だけが、伝わっていく。
◆
翌日、的場へ行くと、弓が片づけられていた。
「あと」
孫夫人が、俺を見た。
「本日から、弓はやめます」
「なんで」
「飽きました」
「うそ」
孫夫人は、答えなかった。
俺は、必死に言葉を並べた。
「びじく?」
孫夫人の眉が、動いた。
「……お聞きになりましたか」
「うん」
「では、話が早い」
この人は、そこで初めて——はっきりと、俺の目を見た。
「阿斗」
「うん」
「私が教えると、あなたが疑われます」
「……」
「あなたが疑われれば、いずれ嫡子の座に響きます」
「そんな」
「響くのです」
孫夫人は、静かに言った。
「私は、そういう家で育ちました」
```
【孫夫人】
孤独 49 → 71
```
——二十二、上がった。
十日かけて下げた分が、一日で消えて、さらに上がった。
◆
俺は、その数字を睨んでいた。
——誰も、この人を虐めていない。
糜竺は、俺を守ろうとした。
父は、誰の顔も潰さなかった。
侍女たちは、この人を守っている。
女官たちは、遠慮している。
——全員、善意である。
そして、一年で六十二、十一日で七十一。
善意だけで、人は孤立する。
前世で、俺はこう書いたことがある。
《組織の不作為は、悪意より速く人を壊す》
報告書の、隅のほうに書いた一行だった。
誰も読まなかったと思う。
◆
俺は、懐から木簡を出した。
三歳の懐に木簡は入らないので、正確には帯に挟んでいた。
そして、孫夫人の前で広げた。
そこには、こう書いてある。
《家の者》
一行目に——空白がある。
孫夫人が、それを見た。
「……これは」
「なまえ」
「名?」
「うん」
俺は、空白を指した。
「あなたの、なまえ」
孫夫人は、その空白を、長いこと見ていた。
「なぜ、空けてあるのです」
「きいてない」
「聞いておられません?」
「うん」
「では、なぜ書こうと」
俺は、答えた。
「かかの、なまえ、なかった」
——孫夫人の顔が、変わった。
「……甘夫人の」
「うん」
「記録に、なかったのですか」
「うん」
「……」
「かんし、だけ」
甘氏。
二文字だけだった。
誰も、諱を知らなかった。
◆
長い沈黙があった。
風が、的場の砂を運んでいく。
やがて、孫夫人が言った。
「阿斗」
「うん」
「その空きは、埋めずにおいてください」
——俺は、顔を上げた。
「なんで」
孫夫人は、俺の目を見て言った。
「埋めれば、私はこの家の者になります」
「うん」
「そうなれば——呉へ、帰れなくなります」
——
俺は、動けなかった。
この人は。
——既に、決めている。
輿入れから一年で。
いつか、帰ると決めている。
そして、そのときのために、名前を渡さないでいる。
◆
俺は、木簡を握りしめた。
「……かえるの」
「いつか」
「いや」
「阿斗」
「いや」
孫夫人は、膝を折って、俺と目線を合わせた。
そして、初めて——俺の頭を撫でた。
「あなたは、優しい子です」
「……」
「それは、この乱世では、損をします」
「いい」
「いいえ」
孫夫人は、静かに言った。
「あなたが損をすると、多くの人が困ります」
「……」
「あなたは、いずれ主になる方です」
そして、立ち上がった。
「弓は、もうやめましょう」
——去っていった。
百人の侍女が、足音を立てずに続いた。
◆
俺は、的場に一人で残った。
正確には、趙雲がいた。
この人は、いつも少し離れたところにいる。
「若君」
「しりゅう」
「はい」
「おれが、わるい?」
趙雲は、しばらく黙った。
そして、言った。
「……いいえ」
「じゃあ、だれ」
「誰でもございません」
——それが、一番きつい答えだった。
「若君。この城には、悪い者がおりませぬ」
「うん」
「ゆえに、誰も直せませぬ」
◆
その夜、俺の部屋に、誰かが来た。
阿仙だった。
去年、俺が名前を聞いた、一番若い侍女である。
「若君。夜分に、失礼いたします」
「あせん」
「……覚えておられるのですか」
「うん」
阿仙は、少し驚いた顔をした。
そして、小さな声で言った。
「あの……お伝えしたいことが」
「なに」
「奥方さまが、本日、江東へ書状を出されました」
——俺は、身を起こした。
「どこへ」
「兄君——孫権さまへ、と」
「なんて」
「存じません」
阿仙は、俯いた。
「ただ、書き終えたあと、長いこと、火を見ておられました」
「……」
「燃やそうか、迷っておられたのだと思います」
「だして?」
「はい。……出されました」
```
【阿仙】
劉禅への信頼 44 → 71
```
——七十一。
一年前、俺が名前を聞いただけの侍女である。
あれから、何もしていない。
ただ、会うたびに名前で呼んだ。
それだけだ。
◆
「あせん」
「はい」
「ありがとう」
阿仙は、深く頭を下げて、出ていった。
◆
俺は、木簡を出した。
《家の者》
一行目の、空白。
——埋めない。
あの人が、そう言ったからだ。
だが、俺はその横に、一行だけ書き足した。
《呉へ、書状》
そして、その下に。
《いつか、帰る》
——分かっている。
歴史では、この人は帰る。
そして、二度と戻らない。
それは、俺が生まれる前から決まっているようなものだ。
だが。
俺は、木簡の空白を、指でなぞった。
——名前は、まだ聞いていない。
帰る前に、一度でいい。
一度でいいから、この人の名を、呼びたい。
```
【孫夫人】
孤独 71
```
——動かない。
俺には、まだ何もできない。
あと、一年ある。
次回 第27話「張松は地図を売りに来たのではない」




