第20話 三か月の仕事を半日で終わらせる男
【建安十五年|荊州・公安】
龐統へ最初に与えられた正式な仕事は、兵士名簿の整理だった。
任命から、三日目。その男は、机に突っ伏して眠っていた。
そして、その日の夕方、俺は、探している名前が三つの国のどこにもないことを知る。
◆
完全な、人事の誤りである。
いや、名簿そのものは重要だ。死者。負傷者。逃亡者。所属部隊。出身地。家族。正確に把握しなければ、兵力も配給量も分からない。だが、仕事の中身の九割は、記録を確認し、重複を消し、書式を揃える作業である。そして龐統の固有特性には、はっきりこう書かれている。
【退屈すると働かない】
誰が任命した。父である。
「まずは小さな仕事で、人柄を見るべきだと、古参の者が申してな」
劉備は、そう説明した。
試用の考え方自体は、悪くない。だが、排水工事で実務能力は既に確認している。四時間で三つの問題を同時に解決した男に、書式統一を三か月やらせる理由がない。
前世で、俺は同じ光景を何度も見た。途中入社の即戦力に、まず「全部署の仕事の流れを書き起こす」課題を与える会社。半年後、その人は辞めている。そして、辞めた後で、会社はこう言う。
「あの人は、うちに合わなかった」
合わせなかったのは、こちらである。
俺が名簿管理所へ行くと、龐統は机に突っ伏していた。周囲には、竹簡が山積みである。任命から、三日。作業は、ほとんど進んでいない。
古参官吏の陳紀が、呆れた顔で立っていた。
「若君。ご覧ください」
「うん」
「天下の才と申しても、この程度でございます」
俺は、龐統の状態を見た。
【龐統】
退屈度 100
仕事意欲 1
能力発揮率 7%
現在の思考
なぜ人は、同じ名を何度も書く必要があるのか。
予想どおりである。そして、龐統を責めるだけでは解決しない。本人にも、問題はある。仕事を選り好みし、必要な定型業務を放置するのは、組織人として失格だ。だが、能力に合わない仕事を任せた側にも、責任がある。
俺は、龐統の髪を引いた。
「痛い」
龐統が顔を上げる。頬に、竹簡の跡が付いていた。
「若君。人の髪を引くものではありません」
「ねる、だめ」
「眠っておりません」
「ついてる」
俺は、自分の頬を指した。龐統は、自分の頬を触った。
「……考えておりました」
嘘をつけ。
「なに、かんがえた」
「人はなぜ、同じことを何度も書くのか」
やはり、そこか。
龐統は、竹簡を一本持ち上げた。
「同じ兵の名が、配給名簿、部隊名簿、武器貸与簿、負傷者名簿に、それぞれ別に書かれております」
「ひつよう」
「必要だから、問題なのです」
龐統は、起き上がった。
「一人の記載を変えるたび、四つの名簿を書き換えねばならない」
「どれか一つを忘れれば——」
彼は、竹簡を投げるように置いた。
「死んだ兵に米を配り、生きている兵を死者として扱うことになります」
正しい。記録が、分散している。同じことを複数の場所へ重ねて書くから、必ず食い違いが起きる。
前世で、俺が最初に手を付ける仕事が、これだった。顧客の台帳が、営業と経理と物流で三つある会社。三つとも、少しずつ違う。そして誰も、どれが正しいか知らない。
そこで、一つ思い出した。二年前、俺は「こ」と言った。斛である。単位を、揃えた。そして、揃えたのは、糜竺の帳だけだった。去年、倉庫の帳も揃えた。そして、名簿は、揃えていない。
一つずつ、二年かけている。そして、この人は、三日で全部見つけた。
◆
「どうする」
俺が尋ねた。龐統の目に、少しだけ光が戻った。
《退屈度 100 → 73》
《仕事意欲 1 → 24》
「一人につき、一つの基本記録を作ります」
彼は、新しい竹簡を取り出した。
「名。年。出身。所属。家族。身体の特徴。これを一つにまとめ、固有の印を付ける」
一人に、一つの台帳である。
「配給、武器、負傷の記録には、名をすべて書かず、その印だけを記す」
「まちがい、へる」
「同名の者を取り違えにくくなります」
「なくしたら」
「基本記録を失えば、一大事です。ゆえに——複製を、別の場所へ保管します」
控えまで、考えている。
俺はそこで、一つ聞いた。
「なんぶ」
「は」
「ふくせい、なんぶ」
龐統は、少し考えた。そして、答えた。
「二部で、足りましょう」
「ふえる?」
「増やせば、書き換えの手間も増えます」
「なくなったら」
この人は、答えた。
「二つとも失うことは、ございますまい」
俺は、頷いた。そして、頷きながら、一つだけ引っかかった。
二つとも失うことがある。火である。そして、水である。だが、俺は言わなかった。三歳の口では、そこまで説明できない。
三十九年後、俺は写しを十四部にする。そして、その十のうち十が、消える。そのとき、俺は今日のことを思い出す。
「さらに」
龐統は立ち上がった。
「部隊ごとではなく、十人単位で確認責任者を置く」
「月に一度、本人と記録を照合する」
「できる」
「半日で、仕組みを作ります」
陳紀が、鼻で笑った。
「名簿は、三か月かけても整理できておりません」
龐統は、振り向きもせずに答えた。
「三か月かけた方法が、間違っているのです」
上司配慮、四。もう少し、言い方がある。
陳紀の顔が、赤くなった。
「では、お一人でなさればよい」
「一人ではできません」
即答である。陳紀が、勝ち誇った顔をした。
「やはり、口だけか」
「読み書きできる者が二十人。各部隊の事情を知る古参兵が十人。照合する書記が五人。必要です」
そして、龐統は陳紀を指した。
「あなたにも、働いていただきます」
「……私が」
「三か月も作業をされたなら、どこに誤りがあるかを最もよくご存じでしょう」
陳紀が、言葉に詰まった。俺は、その顔を見ていた。
失敗した人間だからこそ、改善に必要な知識を持っている。去年、父は同じことをした。鼠害を隠した倉庫番を処刑せず、損耗の確認役にした。失敗を知る者だからこそ、次は防げる。
そこで、一つ気付いた。父は、それを情でやった。この人は、それを計算でやっている。結果は、同じである。そして、続くのは、たぶん、計算のほうだ。
◆
そのとき、外が騒がしくなった。
「主公。呉より書状が」
呉。俺は、身を起こした。孫乾が、竹簡を抱えて走ってくる。劉備が受け取り、封を解いた。そして、しばらく黙った。
「……どうされました」
諸葛亮が尋ねる。劉備は、竹簡を差し出した。
「読め」
諸葛亮が読み上げた。
「魯粛より、劉皇叔へ」
心臓が、跳ねた。
文面は、短かった。
《龐士元は、百里の才に非ず》
《治中・別駕の任に処せしめば、始めて当にその驥足を展ぶべきのみ》
百里の才では、ない。一県を治めるような器ではない。州の中枢に置いて、初めてその足が伸びる。
去年、俺が聞いたのと、同じ言葉だった。去年の秋、あの人は庭で湯を飲みながら、なんでもないことのように言った。
「あれは、百里を治める才ではございません」
そして今、同じことを書状で送ってきた。
室内が、静かになった。関羽が、低く言った。
「呉の重臣が、我らの人事に口を出してきたのか」
「越権である」
張飛が唸る。
「無礼だ」
越権である。無礼である。そして、完全に正しい。
俺は、竹簡を見つめていた。顔が、熱い。
去年、俺はこの人を「採ってはいけない」と判断した。外にいるからこそ価値がある、と。その判断は、間違っていなかった。
だが。その人が今、俺たちの人事の誤りを、外から指摘してきた。
悔しい。非常に、悔しい。なぜ俺が、先に言わなかった。
俺は、三日前から気付いていた。気付いていて、言わなかった。「父が決めたことだから」「古参の顔を潰すから」——そう思って、黙っていた。魯粛は、他国の君主に対して、黙らなかった。
そこで、もう一つ気付いた。この書状は、俺が三日前に言えば、要らなかった。そして、俺が言わなかったから、来た。つまり、外から言われるというのは、こういうことである。
中の誰かが、言わなかった。
十年後、俺は同じ形を、もう一度見る。荊州である。そして、そのときは、外からも、誰も言ってくれない。
劉備が、竹簡を置いた。
「……子敬どのは、なぜこれを書いた」
諸葛亮が、静かに答えた。
「惜しいと、思われたのでしょう」
「敵国の人材をか」
「はい」
諸葛亮は、羽扇を止めた。
「あの方は、周瑜どのが亡くなられたあと、士元どのを呉へ留めることもできました」
「しかし、呉には士元どのの席がなかった」
「……」
「ゆえに、送り出された」
「そして、送り出した先で、また同じ扱いを受けていることを、知られた」
恥ずかしい。俺は、床を見つめていた。
劉備が、龐統を見た。
「士元。……すまぬ」
「なぜ、謝られます」
「名簿の任を、お前に与えた」
龐統は、竹簡の山を見た。そして、意外なことを言った。
「この任は、無駄ではありませんでした」
「なに」
「この三日で、御軍の兵籍がどれほど壊れているかが分かりました」
彼は、笑った。
「腹は立ちましたが、収穫でございます」
そこで、一つ気付いた。この人は、三日、寝ていたのではない。退屈度百のまま、見ていた。そして、七パーセントの発揮率で、三十七件を見つけた。
百のときに、この人は何をするのだろう。俺は、それが少し怖くなった。
◆
人員が集められた。龐統は、最初に仕事を細かく分けた。
・書記は、基本記録を作る
・古参兵は、本人確認をする
・部隊責任者は、生死と所属を確認する
・陳紀は、全体の誤りを点検する
・龐統自身は、判断が必要な記録だけを見る
自分ですべてを処理しない。諸葛亮とは、正反対である。
【龐統】
権限委譲 92
九十二。諸葛亮の三と、分け合ってほしい。
前世で、半導体の会社を率いた男が遺した管理職の教科書があった。中心は、一行である。
《管理者の成果とは、自分の成果ではない。自分が影響を与えた組織の成果である》
その人は、時間の使い方を「テコ作用」で測れ、とも言った。同じ一時間でも、二十人の仕事の質を上げる一時間と、自分で一人分を片づける一時間では、効き方が二十倍違う。
諸葛亮は、自分で一人分を、誰よりも速く片づける。
龐統は、二十人に配る。そして、配ったきり、見に行かない。
テコは、支点だけあっても動かない。押す手も要る。この国には、両方が別々の人間の中にある。
ただし。
《説明能力 29》
《部下満足度 34》
説明が、極端に短い。
「そこは違う」
「何が違うのでしょう」
「前の記録を見れば分かる」
「どの記録です」
「正しい記録だ」
部下には、厳しい。俺は、龐統の袖を引いた。
「しげん」
「はい」
「それ、わからない」
「何がです」
「『ただしいきろく』」
龐統が、口を開けた。
「……どれ、と申せばよろしいか」
「ゆびさす」
「指を」
「うん」
龐統は、しばらく黙った。そして、竹簡の山から一本抜いて、書記の前に置いた。
「これだ」
《説明能力 29 → 33》
《部下満足度 34 → 41》
四、上がった。指を差しただけで。
俺はそこで、一つ思った。この人は、説明ができないのではない。昨日、水を流して見せた。そして、二十人に伝わった。できる。やらないだけである。
理由は、たぶん、こうだ。説明すると、時間がかかる。そして、この人は、時間がいちばん惜しい。だから、俺は、時間の話でやることにした。
「しげん」
「はい」
「ゆびさす、はやい」
龐統は、少し黙った。そして、こう言った。
「……三度、聞き返されるより、でございますな」
「うん」
「なるほど」
この人は、理由がないことをしない。そして、理由があれば、すぐする。
◆
昼を過ぎる頃、新しい名簿の形が完成した。夕方には、所属不明だった兵の大半が整理された。
そして、数字が出た。
【兵籍整理結果】
死者として登録されていた生存者 二十三名
生存者として配給を受けていた死者 四十一名
二部隊へ重複登録 十八名
所在不明 百七名
所在不明、百七。
俺は、その数字を見つめた。百七人。この軍にいたはずの人間が、今どこにいるか、誰も知らない。死んだのか。逃げたのか。別の部隊にいるのか。故郷へ帰ったのか。
誰も、記録しなかった。
関羽は、自分の生まれた年を知らなかった。母の諱は、簿に載っていなかった。そして、百七人。
俺は、その竹簡を握りしめた。そして、もう一つ、探した。
「しげん」
「はい」
「ひとり、さがして」
「どなたを」
俺は、答えた。
「蘇路」
龐統は、新しい名簿をめくった。そして、しばらくして、言った。
「……おりませぬ」
「いない」
「はい」
「しんだ」
「いいえ」
龐統は、竹簡を閉じた。
「そもそも、載っておりませぬ」
「なんで」
「その者は、我が軍の兵でございますか」
「……ちがう」
「では、曹操の兵で」
「……もとは、劉表の」
龐統は、頷いた。
「では、どこにも載りませぬ」
「……」
「劉表どのの簿は、劉琮どのが曹操へ渡しました」
「はい」
「曹操の簿には、赤壁で降った者は載っておりませぬ」
「はい」
「そして、我らの簿にも、まだ載っておりませぬ」
「三つの国のどこにも、その者はおりませぬ」
俺は、その場に座り込んだ。
一年半前である。俺は、二歳だった。字が、書けなかった。線を六百本引こうとして、木簡を真っ黒にした。
そして今、名簿はできた。七千人分、できた。一人につき一つの記録。固有の印。十人単位の確認責任者。完璧である。
そして、蘇路は、そこにいない。
制度は、既にいる人を数える。制度ができる前にいた人は、数えない。
俺は、そのことを、今日まで考えたことがなかった。
「若君」
龐統が、俺を見ていた。
「……いかがなさいました」
「ひゃくなな」
「はい」
「さがす」
龐統は、少し驚いた顔をした。
「探す、と申されますか」
「うん」
「所在不明の者を、でございますか」
「うん」
「若君。兵は逃げるものです」
龐統は、静かに言った。
「多くは脱走でしょう。追えば、罰さねばなりません」
「ちがう」
俺は、首を振った。
「しんだか、しらべる」
罰するためではない。死んだのかどうかを、確かめる。死んだなら、名を残す。生きているなら、それでいい。
龐統は、長いこと俺を見ていた。そして、言った。
「……それは、国の利にはなりませぬ」
「うん」
「兵は増えません。銭も生みません」
「うん」
「それでも、なさいますか」
「する」
龐統は、ふ、と息を吐いた。そして、書記へ命じた。
「所在不明者について、最後に確認された日付と場所を記せ。別簿を立てる」
「はっ」
「名は、必ず書け」
そして、この人は、俺へ向き直った。
「若君」
「うん」
「一つ、申し上げます」
「うん」
「この簿は、埋まりませぬ」
「……」
「そして、埋まらぬ簿は、たいてい、二年で捨てられます」
俺は、答えた。
「すてない」
「なぜ」
「おれが、みる」
龐統は、少し笑った。そして、こう言った。
「では、若君が見なくなった日に、捨てられますな」
◆
そして、その日の最後に——思いがけないものが出てきた。
【潜在人材を発見しました】
元船大工 七名
鍛冶職人 十一名
読み書き可能者 三十四名
計算技能保有者 九名
荊州北部方言通訳 十六名
薬草知識保有者 四名
牛馬の扱いに長けた者 二十二名
これは、大きい。兵は、戦うだけの存在ではない。一人ひとりが、異なる経験と技術を持っている。これまでは、それを記録していなかった。「兵」という一文字で、全員を同じ箱に入れていた。
俺は、その表示を見ながら、木簡のことを考えていた。
去年から、俺は名前を書き続けている。阿仙。阿六。排水路を掘った二十人。役に立たないと思っていた。数値上の利点は、ない、と表示された。
違った。名前を書いたら、船大工が七人出てきた。この軍は、七人の船大工を持っていながら、それを知らずに船を買っていた。
俺はそこで、一つ聞いた。
「しげん」
「はい」
「ふねだいく、なんで、わかった」
龐統は、答えた。
「聞いたからでございます」
「……」
「名を聞き、次に、何ができるかを聞きました」
「ふたつ」
「二つでございます」
俺は、一つしか聞いていなかった。そして、この人は、二つ聞いた。
四十八年後、俺は三つ聞くことになる。そのときの俺は、まだ、それを知らない。
劉備が、完成した記録を見て驚いた。
「本当に、半日で」
「すべてが終わったわけではありません」
龐統は言った。
「仕組みを作っただけです。維持する者が要ります」
視線が、陳紀へ向いた。陳紀は、複雑な顔をした。
「……私に、任せると」
「あなたは、細かな誤りを見つけることに長けておられる」
陳紀が、驚いた。これまで龐統は、この男を否定し続けていた。
「改革は好まれぬようですが、仕組みが決まった後の運用には向いている」
俺は、陳紀の画面を見た。
【陳紀】
定型業務 89
誤記発見 91
改革意思 12
制度維持 94
推奨職務 記録監査責任者
適材適所である。この男は、欠点だけを見られてきた。龐統は、使いどころを見ていた。
「お引き受けいただけますか」
陳紀は、龐統を見た。長い沈黙のあと、頭を下げた。
「……承知いたしました」
そこで、俺は一つ見た。
《改革意思 12》
変わっていない。そして、この人は、今日、変わった。
数字が動かなくても、置き場所が変われば、人は変わる。昨日、この人は、人の粗を探していた。今日から、記録の粗を探す。同じ能力を、別の場所へ向けただけである。
【人事記録制度が成立しました】
兵力把握精度 上昇
重複配給 減少
潜在人材発見率 上昇
組織能力
人事制度 D → C
【龐統】
部下満足度 41 → 51
組織適応 9 → 11
組織適応、十一。関羽の十二まで、あと一である。
◆
「若君。これでよろしいですか」
龐統が言った。
「よくできました」
俺が褒めると、龐統は渋い顔をした。
「……子供に褒められるというのは、妙な気分です」
「つぎ」
「もう次の仕事ですか」
「うん」
「少し休ませていただきたい」
え。俺は、思わず動きを止めた。
【龐統】
休養意思 88
八十八。諸葛亮の、二。分けてやってくれ。心の底から、分けてやってほしい。
「やすんで、いい」
「ありがたい」
龐統は、酒甕を指差した。
「働いた後の酒は、認められますかな」
張飛が、即座に立ち上がった。
「士元。ようやく分かり合える男が来た」
不安である。知略百と武力九十九が、酒で結び付く。危険な未来しか見えない。
その夜、俺は木簡を出した。
《勘定 その八 名のない者》
阿仙。阿六。そして、二十人。
俺は、その下に、新しい行を作った。
《勘定 その九 所在不明 百七》
名前は、まだ分からない。だが、別簿はできた。いつか、埋まる。
そして、俺はそこで、自分の字を見た。三歳の字である。歪んでいる。そして——半分が、仮名だった。漢字が、書けない。
七千人のうち、読み書きできるのが三十四人。そして、その三十四人の中に、俺は入っていない。
俺は、諸葛亮のところへ行った。
「せんせい」
「はい」
「字を、教えてください」
羽扇が、止まった。
「……先月から、教えております」
「もっと」
「もっと、でございますか」
「一日、十字」
諸葛亮は、少し黙った。そして、聞いた。
「若君。なぜ、急がれます」
俺は、答えた。
「書けないと、書けません」
「……」
「名前も」
諸葛亮は、しばらく俺を見ていた。そして、羽扇を膝に置いた。
「……一日、十字」
「はい」
「三年で、一万でございます」
「はい」
「多すぎます」
「やります」
この人は、少し笑った。
「では、二十字にいたしましょう」
「え」
「若君は、私が申した数より多くやろうとなさいます」
「……」
「ゆえに、先に多く申します」
権限委譲三の男である。そして、人の使い方は知っている。
そこで、一つ思った。二年前、俺は趙雲に同じことをした。十日と言って、七日を取った。今日は、逆をやられた。十と言って、二十にされた。
この人は、俺がそれをやったことを、知らない。そして、同じ手を使っている。
◆
そして、俺はもう一枚の木簡を出した。
《勘定 その六 採ってはいけない人材》
一行目に、魯粛と書いてある。俺は、その横に、一行足した。
《ただし、この人は外から仕事をする》
あの人は、こちらへ来ない。それでも、こちらの人事を直した。それを、何と呼べばいいのか、俺はまだ知らない。三歳の語彙にも、前世の言葉にも、当てはまるものがなかった。
五十四年後、俺はそれに名を付ける。
《外部資産》
最初の表示に、そう書いてあった。そして、俺は、その意味を、五十四年かけて理解する。
〈あとがき〉
「あの人は、うちに合わなかった」——合わせなかったのは、こちらです。
「二つとも失うことは、ございますまい」——火と、水があります。三十九年後、十四部のうち十が消えます。「そのとき、俺は今日のことを思い出す」。
「父は、それを情でやった。この人は、それを計算でやっている。——結果は、同じである。そして、続くのは、たぶん、計算のほうだ」。
「この書状は、俺が三日前に言えば、要らなかった」——外から言われるのは、中の誰かが言わなかったからです。十年後、荊州では、外からも誰も言ってくれません。
七パーセントの発揮率で、三十七件を見つけました。「百のときに、この人は何をするのだろう」。
「ゆびさす、はやい」「……三度、聞き返されるより、でございますな」——時間の話にすれば、この人は動きます。
「この簿は、埋まりませぬ。そして、埋まらぬ簿は、たいてい、二年で捨てられます」「すてない」「なぜ」「おれが、みる」「では、若君が見なくなった日に、捨てられますな」。
「名を聞き、次に、何ができるかを聞きました」——主人公は一つしか聞いていませんでした。四十八年後、三つ聞くことになります。
改革意思十二は、変わりませんでした。「数字が動かなくても、置き場所が変われば、人は変わる」。
十と言って二十にされました。二年前、趙雲に同じ手を使ったことを、この人は知りません。
《劉禅文庫 蔵書その十九『HIGH OUTPUT MANAGEMENT』——管理者の成果は、自分の成果ではなく、影響を与えた組織の成果である。テコの支点と、押す手が、この国では別々の人間の中にある》
——次回、矢が一本、机に置かれます。その一本をめぐって、知略百が二人、半刻にわたって睨み合います。
次回 第21話「龍と鳳凰は同じ籠に入らない」




