第1話 産声は乱世に消えた
【建安十二年|荊州・新野】
生後七日で、俺は人生二度目の人事評価を受けた。
一度目の評価者は社長で、結果は「部長代理」だった。
二度目の評価者は父で、結果はこの話の最後に出る。
◆
死んだときのことを、覚えている。深夜二時四十七分、会議室の隣の、自席の床である。引き継ぎ資料は、一枚も作っていなかった。
◆
黒瀬直人、三十八。経営企画部、十七年目。役職は部長代理——この「代理」の二文字を、十一年外せなかった。仕事は、子会社と買収先の再建である。十七年で二十六社を見た。そのうち九社が創業者一人で回っていて、九社とも同じ形で壊れた。創業者が倒れる。決裁が止まる。止まったまま三か月が過ぎ、誰も何も決められなくなる。俺はその報告書を、二十六回書いた。
二十七社目が、自分の会社だった。
倒れる直前、俺は部下の質問を三つ持ち帰っていた。三つとも、俺しか答えられなかった。理由は簡単で、俺しか知らなかったからだ。教えなかった。教える時間がなかったのではない。教えると遅くなる、自分でやったほうが速い——十四年、そう思っていた。床に倒れて天井を見上げたとき、初めて別のことを思った。
明日、誰が答えるのだろう。
そして、最後に思ったのは、家族のことでも、悔しさでもなかった。
(この資料、俺が死んだら誰も読まないな)
三十七ページ、五度目の資料である。実に、俺らしい死に方だった。
◆
そこで、声がした。男とも女ともつかない、丁寧な声である。
——黒瀬直人さま
——お疲れさまでした
俺は、答えた。
——まだ、終わっていない。
——終わっております
——資料が、ない。
——存じております
声は、続けた。
——一つ、伺ってよろしいですか
——なんだ
——あなたは、英雄に依存しない組織を作れますか
三十八年で、いちばん短い返事をした。
——当たり前だ。
——では
視界が、暗くなった。
◆
転生して最初に学んだことがある。赤ん坊は、驚くほど何もできない。首が据わらない。歩けない。話せない。自分で食えない。排泄の管理すらできない。前世で何百億円規模の買収案件を担当していた俺が、今では布一枚の交換さえ他人に依存している。これほど恐ろしい権限集中はない。
そこで一つ気付いた。依存されているのは俺ではなく、俺が依存しているのだ。十四年、逆の側にいた。
前世で、俺は困難な状況の切り抜け方について、四百頁の本を読み通したことがある。そこに書いてあった結論は、こうだった。
《困難な問題に、答えを教えてくれる公式はない》
……四百頁である。公式がないことを、四百頁かけて学んだ。MBAとは、だいたいそういうものである。ただ、いちばん大事な一行は覚えている。
《とにかく、あきらめないこと》
分かった。あきらめない。まずは、おむつからだ。
しかも、俺が生まれたのは後漢末期である。衛生環境は最悪、乳幼児死亡率は高く、抗生物質もワクチンもない。発熱ひとつで死ぬ。つまり俺の最初の経営目標は、蜀漢再建ではなかった。一歳まで生き延びることである。
「阿斗さま。お腹が空きましたか」
侍女が俺の顔を覗き込んだ。違う。今、俺は劉備軍の人員構成を整理している。
「眠いのですか」
違う。劉表が死んだあと荊州がどうなるかを考えている。
「おむつでしょうか」
それは、少し正しい。
俺は屈辱に耐えながら天井を見上げた。梁に煤が溜まっていて、この家の掃除の頻度が分かる。清掃基準の策定が必要である。
◆
転生して数日、俺は自分の状況を整理していた。母は甘夫人。父は劉備、字は玄徳。出生地は荊州、西暦はおそらく二〇七年。諸葛亮が劉備のもとへ出仕する、まさにその年である。赤壁の戦いは来年。つまり俺は、三国志が最も大きく動き出す直前に転生したことになる。介入する時間は、ある。
ただし、問題も多い。第一に、俺は赤ん坊である。第二に、歴史の細部をすべて知っているわけではない。第三に、この時代の言葉を話せる保証がない。第四に、そもそも本当に歴史どおり進むのか分からない。第五に——
「玄徳さまが、お見えになりました」
室内の空気が変わった。侍女たちが一斉に頭を下げ、板張りの床を踏む足音が近づいてくる。
俺の父、劉備——字を玄徳という。三国志において最も評価の分かれる英雄の一人である。仁徳の君主、漢王朝の末裔。関羽、張飛、趙雲、諸葛亮らを従えた人材登用の天才。その一方で、何度も本拠地を失い、各地を転々とした流浪の将でもある。経営者として見れば、ビジョンと採用能力は超一流、財務基盤と事業継続性には重大な問題がある。
扉が、開いた。
◆
一人の男が入ってきた。思ったより、大きい。長い腕、穏やかな顔、大きな耳。目の下に、濃い疲労が沈んでいる。それでも、この男が室内へ入っただけで場の空気が明るくなった。侍女たちが自然に笑顔になり、甘夫人の表情も和らいだ。
これが、劉備か。
確かに、人を惹きつける。理屈では説明できない。声を聞く前から、この人のために何かしてやりたいと思わせる何かがある。前世で、俺は二人だけ、こういう人を見た。二人とも、会社を潰した。
◆
劉備は甘夫人のそばへ膝をつき、俺を覗き込んだ。
「この子が、私の息子か」
声は、驚くほど柔らかかった。俺が父の顔を見つめた、その瞬間だった。視界の中央に、半透明の文字が浮かんだ。
《人物鑑定を開始します》
なんだ、と思う間に、文字が形を変えていく。
【劉備 字・玄徳】
統率 91
武力 74
知略 77
政務 68
魅力 100
交渉 97
人材登用 100
危機脱出 96
財務管理 31
約束管理 22
固有特性
【仁徳の旗】
初対面の人物から好意を得やすい。
苦境にある者の忠誠を獲得しやすい。
【流浪の創業者】
本拠地を失うたびに、有力な人材と物語を獲得する。
【人情経営】
長年仕えた人物の処分を決断できない。
【その場で約束】
相手を喜ばせるため、
実行可能性を確認せず約束することがある。
総合評価 S
組織上の危険
創業者依存/資金不足/後継者育成未着手
◆
俺は文字を凝視した。見間違いではない。何度瞬きしても消えない。まるで三国志のゲーム画面ではないか。しかも武力や知力だけでなく、財務管理や約束管理まで出ている。
魅力、百。人材登用、百。財務管理、三十一。約束管理、二十二。
なるほど。父上が領地を何度も失う理由が、一目で分かった。営業力だけで仕事を取ってきて、収支計画と納期管理が壊滅しているタイプである。前世で三社見た。三社とも、潰れた。
そこで、前世の書斎で、いちばん頁が黄ばんでいた一冊を思い出した。人を動かすための原則が並んでいる本である。相手に心から関心を寄せる。名前を覚える。聞き手にまわる。重要感を与える。誠実な評価を惜しまない。
この数日、俺は劉備を観察して確信した。
この人は、その原則を、全部やっている。読まずに、である。
千八百年後に世界中の経営者が金を払って学ぶ内容を、この人は素でやっている。つまり劉備とは、あの本の完全実装体に、財務機能を載せ忘れた存在である。
書きたい。この人の伝記を書いて、副題を付けたい。
——人は動かせる。ただし、金は動かせない。
いちばん下の一行を、もう一度読む。
《後継者育成未着手》
俺は、生まれて七日である。既に「未着手」と書かれている。たぶん、これは俺のことだ。そしてこの一行は、六十四年後まで消えない——そのときの俺は、まだそれを知らない。
「ほう」
劉備が笑った。
「私の顔を、ずっと見ておる」
甘夫人も微笑んだ。
「父上だと分かるのでしょう」
違う。財務管理三十一の経営者を、どう補佐すべきか考えているのだ。
◆
劉備が俺を抱き上げた。抱き方が、危なっかしい。首を支えてくれ。俺はまだ新生児で、頭部が全体重の四分の一を占めている。
「よい目をしておる」と劉備が言った。「私を、見定めているようだ」
鋭い。魅力だけの人ではないらしい。知略七十七は、伊達ではない。俺は赤ん坊らしく笑おうとしたが、顔の筋肉をうまく動かせない。不敵な笑みのつもりが、おそらく便秘に苦しんでいる顔になった。甘夫人が心配そうに覗き込む。
「どこか苦しいのではありませんか」
違う。息子が父親の人事評価をしているだけである。
◆
劉備は、俺の小さな手へ指を差し出した。反射的に、握った。太く、傷だらけの指だった。剣を握り、馬の手綱を握り、数え切れない敗走を生き延びてきた手である。爪の間に、まだ泥が残っていた。
この人は、やがて蜀漢を建国する。だが関羽の死に怒り、呉へ攻め込み、夷陵で大敗し、白帝城で死ぬ。俺が十六の頃だ。目の前で笑っている男の死亡年を、俺は知っている。
胸の奥が、わずかに痛んだ。まだ「父」だとは思っていない。歴史上の人物を見ている感覚のほうが強い。それでも、俺の指を握る手は温かかった。
◆
劉備が顔を近づける。
「阿斗」
その声には、計算も政治もなかった。ただ、息子が生まれたことを喜ぶ父親の声だった。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
俺は、答えられなかった。未来を知っているとも、あなたは十六年後に死ぬとも、俺があなたの国を救うとも言えない。口から出たのは、情けない泣き声だけだった。
「おぎゃあ」
「おお、元気だ」
劉備が笑い、周囲も笑った。俺だけが、笑えなかった。視界の端に、新しい表示が現れたからだ。
【重要人物との関係が成立しました】
劉備
現在の関係 君主候補の父
信頼度 12
親愛度 35
期待値 71
予測される重大対立
国家の利益と、家族の情
なんだ、この不吉な表示は。予測される重大対立。赤ん坊に見せる情報ではない。もっと希望のあるチュートリアルはないのか。
俺はこの一行を、十六年後に白帝城で思い出すことになる。そのとき、対立は起きなかった。父が、先に折れたからだ。
◆
俺が困惑している間にも、劉備は周囲へ命じていた。
「今日は祝いだ。皆にも酒と肉を振る舞おう」
侍女たちが歓声を上げた。視界の隅で、表示が一行だけ変わった。
《財務状況 悪化》
生まれたその日から赤字を増やすな、父上。
俺はそこで、一つ数えた。酒と肉である。兵は二千ほどいると聞いた。一人当たりの原価を、俺は知らない。だが、これが月に何度あるかは、たぶん重要である。生後七日で、俺は最初の管理項目を決めた。
《勘定 その一 宴の回数》
数え始めたものは、いつか必ず、誰かに引き継ぐことになる。そのとき俺は、まだそれを知らない。
その夜。甘夫人が俺を抱いて、外の風を見せてくれた。新野の空には月がかかっていた。冬の入口の風が、まだ生乾きの産着を撫でていく。遠くで、酒に酔った兵たちの歌が聞こえた。母が、小さく笑った。
「阿斗。この乱世に生まれてきて、怖くはありませんか」
怖い。滅茶苦茶に怖い。あと五十五年で、この国は滅ぶ。それを、俺が終わらせる。
◆
母は俺の額に、そっと唇を押し当てた。
「大丈夫です」
大丈夫では、ない。母上、あなたは今、何も知らないでそう言っている。だが不思議なことに、その二文字を聞いた瞬間、俺の身体から少しだけ力が抜けた。前世で、俺にそう言ってくれた人間は、一人もいなかったからだ。
正確には、いなかったのではない。言われる場所に、いなかった。十四年、俺は「大丈夫か」と聞く側だった。二十六社で二十六回そう聞いて、一度も、聞かれなかった。
《勘定 その二 「大丈夫です」の回数 現在一》
俺の蜀漢再建は、想像していたよりも遥かに前途多難であった。俺はまだ、この「大丈夫です」をあと何十回聞くことになるのかを知らない。数えることになるのも、知らない。六十四年後、自分でその言葉を言うことも。
〈あとがき〉
お読みいただきありがとうございます。
「魅力100/財務管理31/約束管理22」——劉備という人を、この三つの数字で表してみました。長所と欠点は、たいてい同じ根から生えています。世界中の経営者が学ぶ「人を動かす原則」を素でやる人が、帳簿だけは付けられない。それが、この物語の父です。
《勘定》が二つ、《文庫》が一冊、増えました。この二つの棚は、百五十話かけて埋まっていきます。
《劉禅文庫 蔵書その一『人を動かす』——著者不明。ただし父上が、全文を体現している》
——次回、主人公が趙雲と張飛を鑑定します。倫理性百の男と、暗殺危険七の男。そして主人公は、この国が滅んだ本当の理由に気づきます。人材不足では、ありません。
続きが気になりましたら、ブックマークと★評価をいただけると励みになります。ここまでが導入部で、第4話から長坂坡が始まります。
次回 第2話「父は魅力百の無計画CEOだった」




