第1話 産声は乱世に消えた
転生して最初に学んだことがある。
赤ん坊は、驚くほど何もできない。
首が据わらない。歩けない。話せない。自分で食えない。排泄の管理すらできない。
前世で何百億円規模の買収案件を担当していた俺が、今では布一枚の交換さえ他人に依存している。
これほど恐ろしい権限集中はない。
◆
しかも、俺が生まれたのは後漢末期である。
衛生環境は最悪。乳幼児死亡率は高い。抗生物質もワクチンもない。発熱ひとつで死ぬ。
つまり、俺の最初の経営目標は、蜀漢再建ではなかった。
一歳まで生き延びることである。
「阿斗さま。お腹が空きましたか?」
侍女が俺の顔を覗き込んだ。
違う。今、俺は劉備軍の人員構成を整理している。
「眠いのですか?」
違う。劉表が死んだあと荊州がどうなるかを考えている。
「おむつでしょうか?」
……それは、少し正しい。
俺は屈辱に耐えながら天井を見上げた。梁に煤が溜まっている。この家の掃除の頻度が分かる。清掃基準の策定が必要である。
◆
転生して数日。俺は自分の状況を整理していた。
母は甘夫人。父は劉備玄徳。出生地は荊州。西暦は、おそらく二〇七年。
諸葛亮が劉備のもとへ出仕する、まさにその年である。
赤壁の戦いは、来年。
つまり俺は、三国志が最も大きく動き出す直前に転生したことになる。
介入する時間はある。
ただし、問題も多い。
第一に、俺は赤ん坊である。
第二に、歴史の細部をすべて知っているわけではない。
第三に、この時代の言葉を話せる保証がない。
第四に、そもそも本当に歴史どおり進むのか分からない。
第五に――。
「玄徳さまが、お見えになりました」
室内の空気が変わった。
侍女たちが一斉に頭を下げる。板張りの床を踏む足音が近づいてくる。
俺の父。
劉備玄徳。
三国志において、最も評価の分かれる英雄の一人である。
仁徳の君主。漢王朝の末裔。関羽、張飛、趙雲、諸葛亮らを従えた人材登用の天才。
その一方で、何度も本拠地を失い、各地を転々とした流浪の将でもある。
経営者として見れば、ビジョンと採用能力は超一流。財務基盤と事業継続性には重大な問題がある。
扉が開いた。
◆
一人の男が入ってきた。
思ったより大きい。長い腕。穏やかな顔。大きな耳。目の下には濃い疲労が沈んでいる。
それでも、この男が室内へ入っただけで、場の空気が明るくなった。
侍女たちが、自然に笑顔になる。甘夫人の表情も和らいだ。
——これが劉備か。
確かに、人を惹きつける。理屈では説明できない。声を聞く前から、この人のために何かしてやりたいと思わせる何かがある。
劉備は甘夫人のそばへ膝をつき、俺を覗き込んだ。
「この子が、私の息子か」
声は、驚くほど柔らかかった。
俺は父の顔を見つめた。
その瞬間だった。
視界の中央に、半透明の文字が浮かんだ。
――人物鑑定を開始します。
なんだ?
文字が形を変えていく。
【劉備 字・玄徳】
統率 91
武力 74
知略 77
政務 68
魅力 100
交渉 97
人材登用 100
危機脱出 96
財務管理 31
約束管理 22
固有特性
【仁徳の旗】
初対面の人物から好意を得やすい。苦境にある者の忠誠を獲得しやすい。
【流浪の創業者】
本拠地を失うたびに、有力な人材と物語を獲得する。
【人情経営】
長年仕えた人物の処分を決断できない。
【その場で約束】
相手を喜ばせるため、実行可能性を確認せず約束することがある。
総合評価 S
組織上の危険
創業者依存/資金不足/後継者育成未着手
俺は文字を凝視した。
見間違いではない。何度瞬きしても消えない。
これは——まるで三国志のゲーム画面ではないか。
しかも武力や知力だけではない。財務管理や約束管理まで出ている。
魅力、百。
人材登用、百。
財務管理、三十一。
約束管理、二十二。
なるほど。
父上が領地を何度も失う理由が、一目で分かった。
営業力だけで仕事を取ってきて、収支計画と納期管理が壊滅しているタイプである。
前世で三社見た。三社とも潰れた。
「ほう」
劉備が笑った。
「私の顔を、ずっと見ておる」
甘夫人も微笑んだ。
「父上だと分かるのでしょう」
違う。
財務管理三十一の経営者を、どう補佐すべきか考えているのだ。
◆
劉備が俺を抱き上げた。
抱き方が危なっかしい。
首を支えてくれ。俺はまだ新生児だ。頭部が全体重の四分の一を占めている。
「よい目をしておる」
劉備が言った。
「私を、見定めているようだ」
——鋭い。
魅力だけの人ではないらしい。知略七十七は伊達ではない。
俺は赤ん坊らしく笑おうとした。
だが、顔の筋肉をうまく動かせない。おそらく、不敵な笑みのつもりが、便秘に苦しんでいる顔になった。
甘夫人が心配そうに覗き込む。
「どこか苦しいのではありませんか?」
違う。
息子が父親の人事評価をしているだけである。
◆
劉備は、俺の小さな手へ指を差し出した。
反射的に握った。
太く、傷だらけの指だった。剣を握り、馬の手綱を握り、数え切れない敗走を生き延びてきた手である。爪の間に、まだ泥が残っていた。
——この人は、やがて蜀漢を建国する。
だが、関羽の死に怒り、呉へ攻め込み、夷陵で大敗する。
そして白帝城で死ぬ。
俺が十六の頃だ。
目の前で笑っている男の死亡年を、俺は知っている。
胸の奥が、わずかに痛んだ。
まだ「父」だとは思っていない。歴史上の人物を見ている感覚のほうが強い。
それでも、俺の指を握る手は、温かかった。
劉備が顔を近づける。
「阿斗」
その声には、計算も政治もなかった。
ただ、息子が生まれたことを喜ぶ父親の声だった。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
俺は、答えられなかった。
未来を知っているとも言えない。あなたは十六年後に死ぬとも言えない。俺があなたの国を救うとも言えない。
口から出たのは、情けない泣き声だけだった。
「おぎゃあ!」
「おお、元気だ」
劉備が笑った。周囲も笑った。
俺だけが、笑えなかった。
視界の端に、新しい表示が現れたからだ。
【重要人物との関係が成立しました】
劉備
現在の関係 君主候補の父
信頼度 12
親愛度 35
期待値 71
予測される重大対立
国家の利益と、家族の情
——なんだ、この不吉な表示は。
予測される重大対立?
赤ん坊に見せる情報ではない。
もっと希望のあるチュートリアルはないのか。
◆
俺が困惑している間にも、劉備は周囲へ命じていた。
「今日は祝いだ。皆にも酒と肉を振る舞おう」
侍女たちが歓声を上げた。
視界の隅で、表示が一行だけ変わった。
財務状況 悪化
生まれたその日から赤字を増やすな、父上。
◆
その夜。
甘夫人が俺を抱いて、外の風を見せてくれた。
新野の空には、月がかかっていた。冬の入口の風が、まだ生乾きの産着を撫でていく。遠くで、酒に酔った兵たちの歌が聞こえた。
母が、小さく笑った。
「阿斗。この乱世に生まれてきて、怖くはありませんか」
——怖い。
滅茶苦茶に、怖い。
あと五十五年で、この国は滅ぶ。それを俺が終わらせる。
母は俺の額に、そっと唇を押し当てた。
そして言った。
「大丈夫です」
——大丈夫では、ない。
母上。あなたは今、何も知らないでそう言っている。
だが不思議なことに、その二文字を聞いた瞬間、俺の身体から少しだけ力が抜けた。
前世で、俺にそう言ってくれた人間は、一人もいなかったからだ。
俺の蜀漢再建は、想像していたよりも遥かに前途多難であった。
そして俺はまだ、この「大丈夫です」を、あと何十回聞くことになるのかを、知らない。
お読みいただきありがとうございます。
「魅力100/財務管理31/約束管理22」——劉備という人を、この三つの数字で表してみました。長所と欠点は、たいてい同じ根から生えています。
次回、主人公が趙雲と張飛を鑑定します。そして、この国が滅んだ本当の理由に気づきます。
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次回 第2話「父は魅力百の無計画CEOだった」




