★ プロローグ その男、劉禅にだけはなりたくなかった ★
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プロローグ その男、劉禅にだけはなりたくなかった
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俺は、劉禅が嫌いだった。
三国志に登場する人物の中で、誰よりも嫌いだった。
理由は簡単だ。あの男は、俺が世界で一番尊敬する人間を、殺したようなものだからである。
◆
中学二年の夏、友人に押し付けられた『三国志演義』を、俺は三日で読み切った。
眠る時間が惜しかった。飯を食う手が止まった。母親に「電気を消せ」と怒鳴られながら、布団の中に懐中電灯を持ち込んだ。
曹操の合理性に痺れた。関羽の忠義に憧れた。趙雲が長坂坡で単騎、敵陣を突き抜ける場面では、声を出して立ち上がった。
そして何より、諸葛亮孔明という男に心を奪われた。
天下三分の計。赤壁。南征。北伐。そして五丈原。
国のために働き続け、最後は陣中で倒れる。
十四歳の俺にとって、諸葛亮は理想の戦略家であり、経営者であり、プロフェッショナルだった。
その諸葛亮が、命を懸けて支えた君主が劉禅である。
暗愚。凡庸。無能。
宦官を重用し、政治を顧みず、最後には魏へ降伏した蜀漢最後の皇帝。
蜀が滅んだあと、魏の宴席で「故郷が恋しくはないか」と問われ、劉禅は笑顔でこう答えたと伝わっている。
——此間、楽しくして蜀を思わず。
ここは楽しいので、蜀のことは思い出しません。
その一行を読んだ瞬間、俺は本を閉じて叫んだ。
「お前にだけは、なりたくない!」
◆
あれから二十四年が過ぎた。
俺は、劉禅のようにならないためだけに生きてきたと言っていい。
勉強した。働いた。努力した。
東都大学を出て、アメリカへ渡った。ボストン・ビジネス・スクールでMBAを取った。外資系の戦略コンサルティング会社に入り、潰れかけの企業を立て直す仕事をした。そのあとプライベート・エクイティファンドへ移り、中国事業の責任者になった。
人の倍は成果を出した。誰よりも早く出社し、最後まで残った。
部下が作った資料は、全部自分で確認し直した。議事録も読んだ。財務モデルも組み直した。契約書の文言も自分で削った。
任せるより、自分でやった方が速い。正確だ。失敗も少ない。
——少なくとも、俺はそう思っていた。
◆
その夜も、フロアに残っているのは俺一人だった。
時計は午前二時四十七分。空調はとうに止まっていて、部屋の空気は乾いた紙の匂いがした。机の上には、買収先企業の再建計画書が積まれている。
人員削減。不採算部門の売却。物流網の再編。経営陣の交代。三か年の収益改善計画。
完璧な計画だった。
資料の最終頁には、こう書かれている。
《特定の個人に依存しない、持続可能な経営体制を構築する》
俺はその一行を見て、乾いた笑いを漏らした。
会社を属人化から救おうとしている人間が、誰にも仕事を任せず、深夜二時に一人で働いている。
笑えない冗談だった。
胸の奥で、小さく何かが引き攣れた。
胃だと思った。コーヒーを飲みすぎたのだろう。俺は画面へ目を戻した。
もう一行だけ直そう。あと一枚だけ確認しよう。あと十分だけ働こう。
そう思った瞬間、胸の中で何かが破裂した。
息ができなかった。指先が痺れた。椅子から滑り落ち、床へ倒れた。
視界の端で、ノートパソコンの画面が白く光っている。開いたままのスライドに、こう書いてあった。
《最大の経営リスクは、代替不能な責任者の突然の離脱である》
——まったく、そのとおりだった。
意識が落ちていく最後の数秒に、俺が考えたのは、家族のことでも、仕事のことでもなかった。
なぜか、諸葛亮のことだった。
五丈原で倒れたあの男も、こんな気分だったのだろうか。
自分が休めば国が止まると思い込み、全部を抱えた。そして自分が倒れたことで、本当に国を止めてしまった。
——同じだ。
俺とあいつは、同じ死に方をした。
◆
暗闇の底で、声が聞こえた。
――あなたは、英雄に依存しない組織を作れますか。
誰の声かは分からなかった。俺は心の中で答えた。
当たり前だ。もう一度機会があるなら、今度は失敗しない。
優秀な人材を見つける。適切な役割を与える。権限を分散する。後継者を育てる。誰か一人が倒れても、組織が動き続ける仕組みを作る。
――では、最も困難な組織をお任せしましょう。
待て。最も困難な組織とはなんだ。
業績不振企業か。粉飾決算をした会社か。創業者一族が支配する同族企業か。
――人材は一流。
――理念も一流。
――知名度も一流。
――それでも、五十五年後に滅亡します。
嫌な予感がした。非常に、嫌な予感だった。
――あなたの役割は、後継者です。
暗闇の向こうから、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
いや、違う。
泣いているのは、俺だった。
◆
誰かが俺の身体を抱き上げた。
温かい腕。薬草の匂い。乾いた麻布が頬に触れる感触。
女の声がした。
「おお、元気な若君にございます」
別の誰かが答えた。
「玄徳さまに、すぐお知らせを」
——玄徳。
その二文字を聞いた瞬間、俺の全身から血の気が引いた。
女性が俺を胸元へ抱き寄せる。涙を浮かべながら、愛おしそうに囁いた。
「阿斗……。私の、阿斗……」
待て。
阿斗。
阿斗というのは、まさか。
いや。そんなはずはない。
俺は劉禅が嫌いだった。劉禅にだけはなりたくないと思って、三十八年を生きてきた。
それなのに。
俺は声にならない声で絶叫した。
違う。人選を間違えている。
後継者なら曹丕でも孫登でもいいだろう。せめて劉備本人にしてくれ。何が悲しくて二代目をやらされるんだ。
よりによって、なぜ。
なぜ俺が――。
「おぎゃあああああああ!」
三国志最大の倒産案件。
蜀漢株式会社、無能な二代目。
後世に暗君と呼ばれる男。
劉禅の人生が、始まった。
はじめまして。ご覧いただきありがとうございます。
この物語は、戦場で無双する話ではありません。関羽を孤立させず、張飛に部下を殴らせず、諸葛亮に有給休暇を取らせる話です。
主人公は歴史を知っています。だから、目の前で笑っている英雄たちが、いつ、どのように死ぬかも知っています。
——次回、赤ん坊の主人公が、父・劉備の「能力」を見てしまいます。
面白そうだと思っていただけましたら、ブックマークと評価をいただけると、続きを書く力になります。
次回 第1話「産声は乱世に消えた」




