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転生したら劉禅だったので、諸葛亮に有給休暇を取らせます~MBAホルダーの阿斗、関羽の孤立・張飛のパワハラ・孔明の過労死を組織改革で止める~  作者: 東雲 諒杏
第二部 英雄だらけの人事評価会議

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18/82

第17話 喪が明ける前に、新しい母が来た

母が死んで、七月が過ぎた。


その年の冬、父が、新しい妻を迎えた。


——七月である。



    ◆



その七月のあいだに、劉備(りゅうび)軍は公安(こうあん)に城を築き、荊州牧(けいしゅうぼく)の実を固めた。


前世で言うなら、創業十五年目にして、ようやく賃貸から自社ビルへ移った段階である。


壁はまだ新しく、木の匂いがした。


俺は、その匂いが好きになれなかった。


母は、この城を見ていない。



    ◆



冬になった。


長江から吹き上げてくる風が、城の廊下を端から端まで抜けていく。


二歳の身体には、その風が正面から当たった。


侍女が俺に綿入れを着せたがったが、俺は自分で袖を通したがって、いつも半刻ほど揉めた。


——自分でできることを、一つずつ増やしておきたかった。


誰かに頼らなければ生きられない状態が、俺は怖かった。


母が死んだあの朝から、ずっと怖かった。



    ◆



その日、諸葛亮(しょかつりょう)が珍しく、評定の前に俺のところへ来た。


「若君」


「せんせい」


「本日、江東より輿が参ります」


俺は顔を上げた。


「なに」


「主公が、妻をお迎えになります」


——知っている。


孫権(そんけん)の妹だ。政略結婚だ。


歴史の教科書に、一行だけ載っている。


「劉備、孫夫人を娶り、孫劉同盟強化さる」


それだけの記述だ。


だが俺は、その一行の日付を覚えていなかった。


まさか、母が死んだ、その年だとは思っていなかった。



    ◆



「せんせい」


「はい」


「かか、しんだ」


諸葛亮の羽扇が、止まった。


「……七月前に」


「うん」


俺は、二歳の語彙で、精一杯の抗議をした。


「はやい」


諸葛亮は、答えなかった。


しばらく、俺の顔を見ていた。


——この男は、こういうとき嘘をつかない。


慰めもしない。


それが、この日は少しだけ、ありがたかった。


「早うございます」


諸葛亮は言った。


「早うございますが——これは、婚姻ではありません」


「ちがう?」


「条項でございます」


    ◆


——条項。


俺は、目を見開いた。


前世で、何度も見た言葉だ。


合弁契約書、第何条第何項。


両社の関係を安定させるための、人と人の関係を装った規定。


「孫権どのは、荊州を返せと申しております。我らは返せません」


諸葛亮は、淡々と続けた。


「返さぬまま同盟を続けるには、断りにくい何かが要ります」


「それが」


「妹君でございます」


「……」


「そして、我らの側から見れば——」


諸葛亮は、羽扇を膝に置いた。


「返さぬ言い訳でございます」


俺は、言葉が出なかった。



    ◆



「若君」


「うん」


「お怒りになって、よろしい」


——え。


「亡き奥方さまのことを、主公が忘れたわけではございません」


諸葛亮は、俺をまっすぐ見た。


「ただ、国を担う者は、悲しむための時間を、自分で決められません」


「せんせいも?」


「私もです」


「かなしい?」


諸葛亮は、少し黙った。


そして、言った。


「……私は、悲しむのが下手でございます」


そして立ち上がった。


「ゆえに、働きます」


——出た。


この男の、後に自分を殺すことになる論理が、この日、はっきりと形になった。


俺は袖を掴んだ。


「せんせい」


「はい」


「それ、だめ」


「何がでございましょう」


「かなしい、から、はたらく」


俺は、必死に言葉を並べた。


「だめ」


諸葛亮は、答えなかった。


——止められない。


木簡には、こう書いてある。


《孔明を止められる者》


《〇》


七月前に、一が、ゼロになった。


そして俺は、二歳である。



    ◆



輿は、昼過ぎに着いた。


孫夫人は、輿から降りなかった。


正確には——降りる前に、まず侍女が降りた。


一人。


二人。


五人。


十人。


数が、止まらない。


俺は趙雲(ちょううん)の腕の中から数えていた。


三十を過ぎたあたりで、周囲の家臣たちがざわつき始めた。


五十。


七十。


百。


——全員、剣を帯びていた。



    ◆



「……子龍」


俺は小声で呼んだ。


「はい」


「あれ、なに」


「侍女でございます」


「けん、もってる」


「……侍女でございます」


趙雲の声が、少しだけ硬かった。


俺は、視界を確認した。


```

【護衛戦力評価】


孫夫人随行侍女 百名

武装率 100%

推定戦闘能力 精鋭歩兵一個中隊相当

指揮系統 孫夫人直属


備考

 当城内に、これを制圧できる部隊は現在ありません

```


——社長室に、社長より強い私設軍隊が入ってきた。


前世のPEファンドで、被買収企業の創業家が独自の警備会社を抱えていた案件を思い出した。


あのときは、半年かけて解体した。


今回は、解体できない。同盟条項だからだ。



    ◆



張飛(ちょうひ)が唸った。


「兄者。あれは嫁ではない。軍だ」


関羽(かんう)が髭を撫でる。


「呉の姫君であれば、供の者が多いのも道理であろう」


「百人が全員、剣を持っておるのがか」


「……道理ではないな」


——また認めた。


この人は、事実に対してだけは、異様に誠実である。


劉備(りゅうび)だけが、いつもどおりの笑顔で輿の前に立っていた。


魅力百。


この人は、状況がどれほど異常でも、最初の三十秒だけは完璧に振る舞える。



    ◆



輿の(とばり)が開いた。


孫夫人が降りた。


背が高かった。


俺の見上げる角度からは、ほとんど塔のように見えた。


衣は華やかだが、動きに一切の無駄がない。歩幅が揃っている。足音が立たない。


——武人の歩き方だった。


そして、笑っていなかった。


劉備が拱手(きょうしゅ)する。


「よくぞ、参られた」


「孫氏の女にございます」


——名乗らなかった。


家の名だけを、名乗った。


俺は、息を呑んだ。


それが、答えだった。


この人は、劉備の妻として来たのではない。


孫権の妹として来た。そう宣言している。



    ◆



俺は、視界を開いた。


```

【孫夫人】


統率 71

武力 68

知略 73

政務 44

魅力 88


弓馬    84

決断    91

呉への帰属 92

劉備への感情 未形成

政略認識  100


孤独 —

```


——孤独が、まだ表示されていない。


この時点では、この人はまだ孤独ではない。


俺は、その空欄をじっと見た。


孤独は、ここで作られる。


これから二年かけて、この城の全員が、この人を孤独にする。



    ◆



その夜、俺は正式に紹介された。


「これが、私の子だ」


劉備が俺を前へ出した。


孫夫人が、俺を見下ろした。


長い間、何も言わなかった。


俺も、何も言わなかった。


二歳の礼儀作法など、誰も期待していない。


やがて、孫夫人が口を開いた。


「母君は」


——室内の空気が、止まった。


誰も答えなかった。


答えられなかった。


劉備が言いかけた。


「……七月前に」


俺は、先に言った。


「しんだ」


はっきりと言った。


二歳の口で、これ以上ないほど明瞭に。


孫夫人の眉が、わずかに動いた。


「そう」


——それだけだった。


慰めなかった。


憐れまなかった。


「まあ、お可哀想に」と、言わなかった。


——この人は、嘘をつかない。


俺は、この瞬間、この人を少しだけ信用した。



    ◆



孫夫人は膝を折り、俺と目線を合わせた。


「名は」


「あと」


「阿斗」


「うん」


「私を、何と呼びますか」


——難しい質問だ。


「母上」と呼べば、俺は死んだ母を裏切る。


呼ばなければ、この人はこの家で、最初から居場所を失う。


二歳の脳では処理できない。


三十八歳の脳でも、処理できない。


俺は、正直に答えることにした。


「わからない」


孫夫人が、初めて目を見開いた。


「分からない?」


「うん」


「なぜ」


「かか、しんだ、ばっかり」


俺は、言葉を継いだ。


二語文が限界の口で、必死に。


「でも、あなた、わるくない」


孫夫人が、動きを止めた。


「だから、わからない」


——長い沈黙があった。


背後で、張飛が何か言いかけて、関羽に肘で止められる音がした。



    ◆



孫夫人は、ゆっくりと立ち上がった。


「……賢い子ですね」


そして、劉備を見た。


「劉皇叔」


「はい」


「この子には、嘘をつかぬことです」


「心得ております」


「いいえ」


孫夫人は、静かに言った。


「あなたは、つきます」


そして、去っていった。


百人の侍女が、足音を立てずに続いた。



    ◆



俺は、そのうちの一人を、追いかけた。


正確には、追いかけようとして転んだ。


一番後ろにいた侍女が、驚いて足を止めた。


「……若君?」


若い女だった。二十歳そこそこだろう。剣の下げ方が、まだぎこちない。


俺は、床から見上げて言った。


「なまえ」


「は?」


「なまえ、なに」


侍女は、完全に固まった。


——俺は、七月前に決めたのだ。


能力画面に表示されない人間の名前を、書き留める。


侍女の名。医官の名。厨房で粥を炊く老女の名。


もう二度と、「削減対象二百四十名」とは書かない。


侍女は、周りを見た。


誰も見ていないことを確かめてから、小さな声で答えた。


「……阿仙(あせん)と申します」


「あせん」


「はい」


「おぼえた」


侍女は、しばらく俺を見つめていた。


そして、深く頭を下げて、走っていった。


```

【阿仙】

劉禅への警戒 61 → 44

```


——下がった。


名前を聞いただけで。


俺は、まだ知らない。


二年後、この城から一艘の船が出る夜、俺に最初に知らせるのが誰なのかを。



    ◆



その夜、俺は木簡を出した。


死亡年表。


二〇九——母。


その下に、二一九、二二一、二二三、二二九、二三四。


俺は、脇に新しい行を作った。


そして、書いた。


《同盟条項》


一行目に、孫夫人と書こうとして——


手が、止まった。


    ◆


——これでいいのか。


俺は今、この人を「条項」として記録しようとしている。


諸葛亮の言葉を、そのまま使った。


正しい。分類として、完全に正しい。


だが。


——母の名を書いた木簡と、同じ木の裏に書いている。


俺は、七月前に決めたはずだった。


《この年表に、名のない者も書く》


人を数字にしないと決めた。


それなのに俺は、生きて目の前にいる人間を、たった今、契約条項として登録しようとした。



    ◆



俺は、筆を置いた。


そして、書いた三文字を、削り取った。


竹の表面が、白く毛羽立った。


汚い削り跡になった。


その上に、書き直した。


《家の者》


——一人。


まだ、誰もそう呼んでいない。


だから、俺が先に書いておく。



    ◆



そこで、俺はもう一つのことに気付いた。


——名前が、分からない。


俺は「孫夫人」としか書けない。


あの人は、名乗らなかった。


「孫氏の女にございます」


それだけだった。


——母と、同じだ。


宗族の簿に「甘氏」の二文字しか書かれていなかった、あの人と。


俺は、この家に来た二人目の女の名前も、また、知らない。


——記録しようと決めた翌年に、記録できない人間が来た。


俺は、木簡の《家の者》の下に、空白を残した。


いつか、聞く。


そのときに、書く。



    ◆



視界に、小さな表示が出た。


```

【孫夫人】

劉禅からの認識 同盟条項 → 家の者

孤独 —

```


孤独は、まだ表示されない。


俺は、この表示が最後まで出ないことを願った。


——二年後、それは九十六になる。


だが、そんなことは、このときの俺は知らない。



    ◆



灯火を消す前、俺は窓の外を見た。


書斎の明かりが、まだ点いていた。


七月前と、同じだ。


母がいた頃は、あの明かりが消える夜があった。


今は、消えない。


俺は木簡を胸に抱えて、その光を見ていた。



    ◆



——整理しよう。


前世の癖である。混乱したときは、必ず現状を並べる。


転生から、二年と半年。


達成したこと。


・長坂坡を生き延びた

趙雲(ちょううん)の休養を七日、勝ち取った

・穀物の計量単位を統一した

・敗因を記録する制度を作った

諸葛亮(しょかつりょう)に「一人で働くな」と言った

魯粛(ろしゅく)を採らないと決めた


——悪くない。


二歳児の実績としては、異常なほど良い。


失ったもの。


・母


一つだけだ。


たった、一つだけである。


——それで、俺の何もかもが足りなくなった。



    ◆



俺は、五人の名前が書かれた木簡を、指でなぞった。


劉備(りゅうび) 二二三


関羽(かんう) 二一九


張飛(ちょうひ) 二二一


趙雲(ちょううん) 二二九


諸葛亮(しょかつりょう) 二三四


——この五人を、俺は救うつもりでいる。


未来を知っている。能力値が見える。前世の経験もある。


それだけ揃えて、俺は、目の前で咳をしていた人を、一人も救えなかった。


俺は、木簡を裏返した。


そこには、真っ黒に塗り潰された面がある。


赤壁(せきへき)の降兵、六百人分の線を引こうとして、途中で腕が疲れて、墨だらけになった木簡だ。


——俺は、まだ何一つ救っていない。


帳簿の単位を揃えた。制度を一つ作った。


人は、一人も救っていない。


俺は、その黒い面に、指で線を引いた。


墨はもう乾いていて、何も書けなかった。


それでも、引いた。


「……かか」


返事はない。


当たり前だ。


「まだ、やる」


俺は、暗闇に向かって言った。


「ぜんぶ、やる」


——次に誰かが咳をしたら、その日のうちに医者を呼ぶ。


「明日でいい」とは、二度と言わない。



    ◆



翌朝。


俺は、諸葛亮の書斎の前に立っていた。


扉は閉まっている。


明かりは、まだ点いていた。


——一晩中だ。


俺は、扉を叩いた。


二歳の手では、大した音は出ない。


それでも、叩き続けた。


やがて、扉が開いた。


諸葛亮が立っていた。


目の下に、初めて影があった。


「……若君。このように早くから、どうなさいました」


俺は、この男を見上げた。


そして、言った。


「ねろ」


諸葛亮の動きが、止まった。


「……」


「いま」


「若君。書状が」


「ねろ」


「あと三通で」


「ねろ」


——動かない。


数値も、行動も、この男は動かない。


母なら、三度で足りた。


俺は、まだ、あの人のようには言えない。


だが。


——二十五年ある。


あと二十五年で、俺はこの人に「休め」と言える人間になる。


俺は、諸葛亮の袖を掴んだ。


「こうめい」


「はい」


「おれが、いう」


「……何を、でございましょう」


俺は、答えなかった。


代わりに、袖を掴んだまま、その場に座り込んだ。


動かない。


この人が寝るまで、動かない。


諸葛亮は、長いこと俺を見下ろしていた。


そして——深い、深い息を吐いた。


「……参りましたな」


彼は、筆を置いた。


```

【諸葛亮】

休養意思 2 → 2

実際の行動 休養へ移行


備考

 劉禅による停止 初回成功

```


——初回。


七月ぶりに、あの明かりが消えた。



第一部 完


次回 第18話「雛鳳、面接官を面接する」


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