第16話 大丈夫です、と母は言った
母が咳をした日のことを、俺はよく覚えている。
軽い咳だった。誰も気にしないような、乾いた咳だ。
俺も、気にしなかった。
◆
宴の三日後だった。
朝、俺は木簡に線を引いていた。二歳になって、筆の持ち方が少しだけ様になってきた頃だ。相変わらず字は歪んでいたが、少なくとも自分では読めた。
長江から吹き上げてくる風が、まだ冷たかった。板の隙間から入ってくる。
甘夫人が入ってきた。手に湯の椀を持っている。
「阿斗。何を書いているのです」
「かず」
俺は答えた。二語文が限界だ。三つ以上並べると、途中で音が崩れる。
母は隣に座り、木簡を覗き込んだ。
そこには、年号と、丸と、線が並んでいた。
二一九。丸。
二二一。丸。
二二三。丸。
二二九。丸。
二三四。丸。
丸は、人が死ぬ年である。
母には読めない。二歳児の書いた歪んだ線に、誰が未来を読むだろう。
「たくさん書きましたね」
そう言って、母は咳をした。
一度だけだった。
◆
俺は、視界を確認した。
癖である。
人が咳をしたら見る。転んだら見る。顔色が悪かったら見る。
```
【甘夫人】
体調 軽度不良
生命危険度 黄
```
——黄。
赤では、ない。
俺は、そこで確認をやめた。
三日前の夜、俺は五人の名前を木簡に書いた。
十年で関羽。十二年で張飛。十四年で父。
時間は、限られている。
だから俺は、こう考えた。
——明日でいい。
明日、医者を呼ぼう。明日、もっとちゃんと話そう。
そして、木簡に戻った。
◆
二日後、母は起き上がらなくなった。
医官が呼ばれた。
この時代の医療にできることは、驚くほど少ない。
脈を診る。舌を見る。湯を出す。薬草を煎じる。
それだけだ。
「風の邪でございましょう」
医官はそう言った。
俺は視界を睨みつけた。
```
【甘夫人】
生命危険度 黄
```
——まだ黄だ。
黄なら、大丈夫だ。
数字が、そう言っている。
◆
前世でも、同じだった。
俺の健康診断の数値は、毎年ぎりぎり基準内だった。
産業医は「様子を見ましょう」と言った。だから俺は様子を見た。
三年間、様子を見続けた。
そして深夜のオフィスで、床に倒れた。
——数字は、いつも、俺に「まだ大丈夫だ」と言ってきた。
◆
張飛が、見舞いに来た。
酒を持ってきていた。
「義姉上! これを飲めば熱など——」
「翼徳どの」
趙雲が静かに止めた。
「病人に酒は」
「では何を持ってくればよい!」
「湯を」
「湯など、どこにでもある!」
——この人は、どうしていいか分からないのだ。
敵が来れば斬れる。城が落ちれば取り返せる。
だが、病には何もできない。
だから、酒を持ってきた。それしか思いつかなかったからだ。
張飛は、その後も毎日来た。
二日目は、蜜柑を持ってきた。
三日目は、なぜか鹿の角を持ってきた。
「薬になると聞いた!」
「翼徳どの」
「なる! 俺の郷ではなる!」
母は、それを見て笑った。
咳をしながら、笑った。
◆
諸葛亮は、来なかった。
代わりに、馬良が毎日、薬草の目録を持ってきた。
「孔明さまが、荊南の郡から取り寄せられました」
「こうめいは?」
「……お忙しく」
馬良は言葉を濁した。
俺は、視界を見た。
```
【諸葛亮】
睡眠時間 直近三日 二刻
```
——二刻。
四時間である。
この人は、来ないのではない。
薬を探して、三郡へ書状を出し続けている。
そして、それを誰にも言わない。
◆
四日目の夜。
俺は寝台へよじ登った。
二歳の脚では、寝台の縁が高い。三度失敗して、四度目で乗れた。
母の手が、俺の頭に触れた。
熱かった。
「阿斗は、賢い子ですね」
「かか」
「父上は、あなたを誇りに思っています」
——違う。
今、そういう話をしないでほしい。
そういう話をするのは、終わりが近い人間だけだ。
「かか」
「はい」
「くすり」
俺は必死に言った。
薬を飲め、と言いたかった。もっといい医者を呼べ、と言いたかった。
あんたは俺の年表に載っていないんだから、頼むから起き上がってくれ、と言いたかった。
二歳の口からは、三音しか出ない。
「飲みましたよ」
母は笑った。
「大丈夫です」
◆
——六回目までは、数えていた。
新野を捨てて逃げるとき。
長坂坡で足を折ったとき。
曹操の騎兵が三十歩先まで来ていたとき。
この人は一度も、大丈夫でない日に「大丈夫でない」と言わなかった。
「かか」
「はい」
「だいじょうぶ?」
母は、少し驚いた顔をした。
それから、いつものように笑った。
「大丈夫です」
——七回目。
そして、最後だった。
◆
俺は、母の手を握った。
握っていれば、数値が動くと思っていた。
趙雲のときは、動いたのだ。
生存意思が、六十一から六十四に上がった。三だけ。それでも、動いた。
だから握った。ずっと握っていた。
```
【甘夫人】
生命危険度 黄
```
動かない。
「かか」
返事はない。
「しぬ、な」
長坂坡で趙雲に言ったのと、同じ言葉だ。
あのときは一音しか出なかった。今は二語出る。
俺は一年かけて、一語分だけ成長した。
「しぬ、な」
俺は繰り返した。
「しぬ、な」
母の指が、わずかに動いた気がした。
気のせいだったかもしれない。
◆
真夜中、扉が開いた。
諸葛亮だった。
竹簡を抱えている。手が墨で汚れていた。
「孔明さま」
母が、目を開けた。
「……お休みくださいませ」
諸葛亮の動きが、止まった。
「奥方さま」
「もう、遅うございます」
母の声は、いつもと同じだった。
大きくもならない。強くもならない。
ただ、同じ調子で、同じ言葉を言った。
「お休みください」
諸葛亮は、竹簡を胸に抱えたまま、しばらく立っていた。
そして、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
——出ていった。
俺は、それを見ていた。
```
【諸葛亮】
休養意思 2 → 2
実際の行動 休養へ移行
```
数値は、動いていない。
だが、行動が変わった。
——この家で、あの人を止められるのは、母上だけだ。
◆
明け方。
俺は誰かに揺すられて目を覚ました。
趙雲だった。
俺を抱き上げて、部屋の外へ運ぼうとしていた。
「若君。しばらく、別の間で」
——嫌だ。
俺は暴れた。二歳の全力で暴れた。
趙雲の腕は、それでもびくともしなかった。
「若君」
「かか!」
「……はい」
趙雲は、俺を下ろした。
俺は寝台へ駆け戻った。
そして、見た。
◆
```
【甘夫人】
```
——それだけだった。
その下に、何もなかった。
生命危険度も。疲労も。恐怖も。劉禅保護意思百も。
何も、表示されなかった。
◆
俺は瞬きをした。
何度もした。
表示が壊れたのだと思った。
この視界は、俺が望んでもいないのに、人を数字にしてきた。
母の足が折れたときも、恐怖八十七と表示した。
やめてくれと思った。数字にするなと思った。
今、その数字が消えている。
俺が望んだとおりに。
「あ」
声が出た。
「あ、あ」
言葉にならなかった。
二歳の口が、というより——俺の中の三十八歳が、何一つ言葉を持っていなかった。
◆
——数字は、赤ではなかった。
——だから俺は、明日でいいと思った。
——明日、医者を呼ぼうと思った。明日、もっと話そうと思った。
前世で、俺は同じ言い方をしていた。
あと一行だけ修正しよう。
あと一枚だけ確認しよう。
あと十分だけ働こう。
——俺は、また同じ言い方で、人を失った。
◆
一刻後、劉備が来た。
父は寝台の前に立ち、長いあいだ、何も言わなかった。
この人は乱世を三十年生きてきた。妻を失うのは、これが初めてではない。
徐州でも、小沛でも、家族を置いて逃げた。取り戻せなかった。
それでも劉備は、泣かなかった。
魅力百の男は、部屋に人がいる前では泣かない。
それが、仕事だからだ。
代わりに、俺を抱き上げた。
「阿斗」
俺は答えなかった。
「母上は」
その先を、父は言えなかった。
俺は、父の胸に額を押し付けた。
麻の衣が、汗と煙の匂いがした。
そして、初めて父の胸で泣いた。
長坂坡で投げられたときも、泣かなかった。
この人には泣き顔を見せないと決めていた。三十八歳の男には、そういう意地がある。
その意地が、この日、全部どうでもよくなった。
劉備の腕に、力がこもった。
「……すまぬ」
何に対する謝罪なのか、父は言わなかった。
◆
葬儀は、簡素だった。
流浪の軍である。立派なものは用意できない。
それでも、兵たちが集まった。
長坂坡を一緒に逃げた者たちだ。
「奥方さまには、粥を分けていただきました」
「わしの子に、薬をくださった」
「名を、覚えていてくださいました」
——名を。
俺は、そこで顔を上げた。
◆
その夜、俺は馬良のところへ行った。
「きじょう」
「若君。このような時に、どうなさいました」
「かか」
「……はい」
「なまえ」
馬良が、首を傾げた。
「お名前、でございますか」
「うん。かく」
馬良は、宗族の簿を開いた。
そして——手が止まった。
「……若君」
「なに」
「記されておりません」
◆
俺は、竹簡を覗き込んだ。
そこには、二文字しかなかった。
甘氏。
「これ、だけ?」
「はい」
「なまえは?」
馬良は、困った顔をした。
「奥方さまの諱は……私は、存じ上げません」
——
俺は、侍女に聞いた。
知らなかった。
乳母に聞いた。
「奥方さま、としか」
糜竺に聞いた。
「……申し訳ございません」
誰も、知らなかった。
◆
甘夫人には、名前があった。
当たり前だ。人間なのだから。
だが、誰も呼ばなかった。
夫は「夫人」と呼んだ。侍女は「奥方さま」と呼んだ。兵は「奥方さま」と呼んだ。
息子は、「かか」としか言えなかった。
——生涯、誰にも名前を呼ばれなかった。
俺は、竹簡を握りしめた。
この人が、記録のどこにも残らない。
関羽は、自分の生まれた年を知らなかった。記す者がいなかったからだ。
降兵の男の名も、俺は書き取れなかった。
そして今度は、母だ。
——俺は、この人の名前を知らないまま、この人を失うところだった。
◆
俺は、父のところへ走った。
三歩で転んだ。趙雲が抱き上げた。
劉備は、一人で座っていた。
灯火もつけていなかった。
「阿斗か」
「とと」
「どうした」
「かか」
「……ああ」
「なまえ」
劉備の動きが、止まった。
「名?」
「かか、なまえ」
長い、長い沈黙があった。
暗闇の中で、父の呼吸だけが聞こえた。
そして——劉備は、言った。
母の名を、一度だけ。
小さな声だった。
俺以外には、聞こえなかったと思う。
——二十年、この人はその名を呼ばなかった。
呼べなかったのではない。
呼ばなかったのだ。
主君が妻の名を呼ぶのは、この時代、あまりに私的すぎた。
俺は、それを聞いた。
そして、頷いた。
「とと」
「なんだ」
「かく」
「書く?」
「なまえ、かく」
劉備は、しばらく黙っていた。
そして、初めて——声を殺して泣いた。
◆
翌朝、諸葛亮が俺を呼んだ。
この男は、母が死んでから一度も慰めの言葉を口にしていない。
代わりに、竹簡を一本、俺の前に置いた。
「若君。文字を教えます」
——こんな日に。
「今日は……」
「今日が、よいのです」
諸葛亮は、羽扇を膝に置いた。
珍しく、動かしていなかった。
「悲しみは、忘れることでは癒えません」
彼は、筆を取った。
「名を残すことで、少しだけ、形が変わります」
そして、竹簡に書いた。
甘。
その隣に、俺が昨夜、父から聞いた字を書いた。
「……主公から、伺いました」
「うん」
「若君。書けますか」
書けるわけがない。二歳だ。
俺は筆を握った。
握り方が分からず、拳全体で掴んだ。
諸葛亮が、手を添えた。
冷たい手だった。
この男の手は、いつも冷たい。
俺たちは、二人で一文字を書いた。
線は歪んでいた。滲んでいた。竹の繊維に沿って墨が広がって、字とも呼べない形になった。
それでも、そこには名前があった。
「上出来です」
諸葛亮が言った。
俺は、初めてこの男の前で泣いた。
◆
```
【固有特性を獲得しました】
劉禅【名を記す者】
効果:能力値が表示されない人物との、関係構築が可能になる
備考:この特性に、数値上の利点はありません
```
——数値上の利点は、ない。
いい。
俺は木簡を出した。
第十四話で、真っ黒に塗り潰してしまった木簡だ。
六百本の線を引こうとして、途中で腕が疲れた、あの木簡。
その裏に、俺は書いた。
《この年表に、名のない者も書く》
そして、表に戻る。
死亡年表。二一九、二二一、二二三、二二九、二三四。
俺はその一番上に、新しい行を足した。
二〇九。
そして、丸を描いた。
線が歪んだ。手が震えていたからだ。
◆
——俺の計画に、母の名は入っていなかった。
三日前、俺は五人の名前を書いた。そして「母上は年表にないから安全だ」と考えて、安心して眠った。
優先順位は、五人にある。母上のことは、後でいい。
そう考えた。
前世で、俺は企業再生の仕事をしていた。
人員削減の計画を、何十回も作った。
名前のある人間は、残した。名前のない人間は、数字にした。
「削減対象二百四十名」と書いた。
二百四十人の顔を、俺は一人も知らない。
俺は木簡を胸に抱えて、声を殺して泣いた。
◆
その日から、俺はやり方を一つ変えた。
能力画面に表示されない人間の名前を、木簡に書き留める。
侍女の名。医官の名。厨房で粥を炊く老女の名。
長坂坡で麦をこぼした荷車の主の名。
千人書いたところで、国家経営には何の役にも立たない。
だが俺は、もう二度と、「削減対象二百四十名」と書きたくなかった。
◆
その夜、俺は寝床で、もう一つのことに気付いた。
——止める者が、いなくなった。
諸葛亮の書斎の明かりが、また点いている。
俺が全力でぶら下がっても、休養意思は一ミリも動かなかった。
母が三度言えば、あの人は筆を置いた。
その母が、いない。
俺は、木簡の余白へ書いた。
《孔明を止められる者》
その下に、《今のところ、一人》とある。
俺は、その「一」に、線を引いて消した。
そして、〇と書いた。
——ゼロ。
あの人を止められる人間は、この国に、一人もいなくなった。
そして俺がその役目を継ぐまでに、二十五年かかる。
◆
灯火を消す前、俺は窓の外を見た。
書斎の明かりが、まだ点いていた。
俺は、そこへ向かって、小さな声で言った。
「……こうめい」
届くはずがない。
それでも言った。
「ねろ」
明かりは、消えなかった。
次回 第17話「喪が明ける前に、新しい母が来た」




