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転生したら劉禅だったので、諸葛亮に有給休暇を取らせます~MBA持ちの阿斗、関羽の孤立・張飛のパワハラ・孔明の過労死を組織改革で止める~  作者: 東雲 諒杏
第一部 赤子CEO、長坂坡に放り出される

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17/72

第16話 大丈夫です、と母は言った

母が咳をした日のことを、俺はよく覚えている。


軽い咳だった。誰も気にしないような、乾いた咳だ。


俺も、気にしなかった。



    ◆



宴の三日後だった。


朝、俺は木簡に線を引いていた。二歳になって、筆の持ち方が少しだけ様になってきた頃だ。相変わらず字は歪んでいたが、少なくとも自分では読めた。


長江から吹き上げてくる風が、まだ冷たかった。板の隙間から入ってくる。


(かん)夫人が入ってきた。手に湯の椀を持っている。


「阿斗。何を書いているのです」


「かず」


俺は答えた。二語文が限界だ。三つ以上並べると、途中で音が崩れる。


母は隣に座り、木簡を覗き込んだ。


そこには、年号と、丸と、線が並んでいた。


 二一九。丸。

 二二一。丸。

 二二三。丸。

 二二九。丸。

 二三四。丸。


丸は、人が死ぬ年である。


母には読めない。二歳児の書いた歪んだ線に、誰が未来を読むだろう。


「たくさん書きましたね」


そう言って、母は咳をした。


一度だけだった。



    ◆



俺は、視界を確認した。


癖である。


人が咳をしたら見る。転んだら見る。顔色が悪かったら見る。


```

【甘夫人】

体調 軽度不良

生命危険度 黄

```


——黄。


赤では、ない。


俺は、そこで確認をやめた。


三日前の夜、俺は五人の名前を木簡に書いた。


十年で関羽。十二年で張飛。十四年で父。


時間は、限られている。


だから俺は、こう考えた。


——明日でいい。


明日、医者を呼ぼう。明日、もっとちゃんと話そう。


そして、木簡に戻った。



    ◆



二日後、母は起き上がらなくなった。


医官が呼ばれた。


この時代の医療にできることは、驚くほど少ない。


脈を診る。舌を見る。湯を出す。薬草を煎じる。


それだけだ。


「風の邪でございましょう」


医官はそう言った。


俺は視界を睨みつけた。


```

【甘夫人】

生命危険度 黄

```


——まだ黄だ。


黄なら、大丈夫だ。


数字が、そう言っている。



    ◆



前世でも、同じだった。


俺の健康診断の数値は、毎年ぎりぎり基準内だった。


産業医は「様子を見ましょう」と言った。だから俺は様子を見た。


三年間、様子を見続けた。


そして深夜のオフィスで、床に倒れた。


——数字は、いつも、俺に「まだ大丈夫だ」と言ってきた。



    ◆



張飛(ちょうひ)が、見舞いに来た。


酒を持ってきていた。


「義姉上! これを飲めば熱など——」


「翼徳どの」


趙雲(ちょううん)が静かに止めた。


「病人に酒は」


「では何を持ってくればよい!」


「湯を」


「湯など、どこにでもある!」


——この人は、どうしていいか分からないのだ。


敵が来れば斬れる。城が落ちれば取り返せる。


だが、病には何もできない。


だから、酒を持ってきた。それしか思いつかなかったからだ。


張飛は、その後も毎日来た。


二日目は、蜜柑を持ってきた。


三日目は、なぜか鹿の角を持ってきた。


「薬になると聞いた!」


「翼徳どの」


「なる! 俺の郷ではなる!」


母は、それを見て笑った。


咳をしながら、笑った。



    ◆



諸葛亮(しょかつりょう)は、来なかった。


代わりに、馬良(ばりょう)が毎日、薬草の目録を持ってきた。


「孔明さまが、荊南の郡から取り寄せられました」


「こうめいは?」


「……お忙しく」


馬良は言葉を濁した。


俺は、視界を見た。


```

【諸葛亮】

睡眠時間 直近三日 二刻

```


——二刻。


四時間である。


この人は、来ないのではない。


薬を探して、三郡へ書状を出し続けている。


そして、それを誰にも言わない。



    ◆



四日目の夜。


俺は寝台へよじ登った。


二歳の脚では、寝台の縁が高い。三度失敗して、四度目で乗れた。


母の手が、俺の頭に触れた。


熱かった。


「阿斗は、賢い子ですね」


「かか」


「父上は、あなたを誇りに思っています」


——違う。


今、そういう話をしないでほしい。


そういう話をするのは、終わりが近い人間だけだ。


「かか」


「はい」


「くすり」


俺は必死に言った。


薬を飲め、と言いたかった。もっといい医者を呼べ、と言いたかった。


あんたは俺の年表に載っていないんだから、頼むから起き上がってくれ、と言いたかった。


二歳の口からは、三音しか出ない。


「飲みましたよ」


母は笑った。


「大丈夫です」



    ◆



——六回目までは、数えていた。


新野を捨てて逃げるとき。


長坂坡で足を折ったとき。


曹操(そうそう)の騎兵が三十歩先まで来ていたとき。


この人は一度も、大丈夫でない日に「大丈夫でない」と言わなかった。


「かか」


「はい」


「だいじょうぶ?」


母は、少し驚いた顔をした。


それから、いつものように笑った。


「大丈夫です」


——七回目。


そして、最後だった。



    ◆



俺は、母の手を握った。


握っていれば、数値が動くと思っていた。


趙雲(ちょううん)のときは、動いたのだ。


生存意思が、六十一から六十四に上がった。三だけ。それでも、動いた。


だから握った。ずっと握っていた。


```

【甘夫人】

生命危険度 黄

```


動かない。


「かか」


返事はない。


「しぬ、な」


長坂坡で趙雲に言ったのと、同じ言葉だ。


あのときは一音しか出なかった。今は二語出る。


俺は一年かけて、一語分だけ成長した。


「しぬ、な」


俺は繰り返した。


「しぬ、な」


母の指が、わずかに動いた気がした。


気のせいだったかもしれない。



    ◆



真夜中、扉が開いた。


諸葛亮だった。


竹簡を抱えている。手が墨で汚れていた。


「孔明さま」


母が、目を開けた。


「……お休みくださいませ」


諸葛亮の動きが、止まった。


「奥方さま」


「もう、遅うございます」


母の声は、いつもと同じだった。


大きくもならない。強くもならない。


ただ、同じ調子で、同じ言葉を言った。


「お休みください」


諸葛亮は、竹簡を胸に抱えたまま、しばらく立っていた。


そして、深く頭を下げた。


「……承知いたしました」


——出ていった。


俺は、それを見ていた。


```

【諸葛亮】

休養意思 2 → 2

実際の行動 休養へ移行

```


数値は、動いていない。


だが、行動が変わった。


——この家で、あの人を止められるのは、母上だけだ。



    ◆



明け方。


俺は誰かに揺すられて目を覚ました。


趙雲だった。


俺を抱き上げて、部屋の外へ運ぼうとしていた。


「若君。しばらく、別の間で」


——嫌だ。


俺は暴れた。二歳の全力で暴れた。


趙雲の腕は、それでもびくともしなかった。


「若君」


「かか!」


「……はい」


趙雲は、俺を下ろした。


俺は寝台へ駆け戻った。


そして、見た。



    ◆



```

【甘夫人】

```


——それだけだった。


その下に、何もなかった。


生命危険度も。疲労も。恐怖も。劉禅保護意思百も。


何も、表示されなかった。



    ◆



俺は瞬きをした。


何度もした。


表示が壊れたのだと思った。


この視界は、俺が望んでもいないのに、人を数字にしてきた。


母の足が折れたときも、恐怖八十七と表示した。


やめてくれと思った。数字にするなと思った。


今、その数字が消えている。


俺が望んだとおりに。


「あ」


声が出た。


「あ、あ」


言葉にならなかった。


二歳の口が、というより——俺の中の三十八歳が、何一つ言葉を持っていなかった。



    ◆



——数字は、赤ではなかった。


——だから俺は、明日でいいと思った。


——明日、医者を呼ぼうと思った。明日、もっと話そうと思った。


前世で、俺は同じ言い方をしていた。


あと一行だけ修正しよう。


あと一枚だけ確認しよう。


あと十分だけ働こう。


——俺は、また同じ言い方で、人を失った。



    ◆



一刻後、劉備(りゅうび)が来た。


父は寝台の前に立ち、長いあいだ、何も言わなかった。


この人は乱世を三十年生きてきた。妻を失うのは、これが初めてではない。


徐州(じょしゅう)でも、小沛(しょうはい)でも、家族を置いて逃げた。取り戻せなかった。


それでも劉備は、泣かなかった。


魅力百の男は、部屋に人がいる前では泣かない。


それが、仕事だからだ。


代わりに、俺を抱き上げた。


「阿斗」


俺は答えなかった。


「母上は」


その先を、父は言えなかった。


俺は、父の胸に額を押し付けた。


麻の衣が、汗と煙の匂いがした。


そして、初めて父の胸で泣いた。


長坂坡で投げられたときも、泣かなかった。


この人には泣き顔を見せないと決めていた。三十八歳の男には、そういう意地がある。


その意地が、この日、全部どうでもよくなった。


劉備の腕に、力がこもった。


「……すまぬ」


何に対する謝罪なのか、父は言わなかった。



    ◆



葬儀は、簡素だった。


流浪の軍である。立派なものは用意できない。


それでも、兵たちが集まった。


長坂坡を一緒に逃げた者たちだ。


「奥方さまには、粥を分けていただきました」


「わしの子に、薬をくださった」


「名を、覚えていてくださいました」


——名を。


俺は、そこで顔を上げた。



    ◆



その夜、俺は馬良のところへ行った。


「きじょう」


「若君。このような時に、どうなさいました」


「かか」


「……はい」


「なまえ」


馬良が、首を傾げた。


「お名前、でございますか」


「うん。かく」


馬良は、宗族の簿を開いた。


そして——手が止まった。


「……若君」


「なに」


「記されておりません」


    ◆


俺は、竹簡を覗き込んだ。


そこには、二文字しかなかった。


甘氏。


「これ、だけ?」


「はい」


「なまえは?」


馬良は、困った顔をした。


「奥方さまの(いみな)は……私は、存じ上げません」


——


俺は、侍女に聞いた。


知らなかった。


乳母に聞いた。


「奥方さま、としか」


糜竺に聞いた。


「……申し訳ございません」


誰も、知らなかった。



    ◆



甘夫人には、名前があった。


当たり前だ。人間なのだから。


だが、誰も呼ばなかった。


夫は「夫人」と呼んだ。侍女は「奥方さま」と呼んだ。兵は「奥方さま」と呼んだ。


息子は、「かか」としか言えなかった。


——生涯、誰にも名前を呼ばれなかった。


俺は、竹簡を握りしめた。


この人が、記録のどこにも残らない。


関羽(かんう)は、自分の生まれた年を知らなかった。記す者がいなかったからだ。


降兵の男の名も、俺は書き取れなかった。


そして今度は、母だ。


——俺は、この人の名前を知らないまま、この人を失うところだった。



    ◆



俺は、父のところへ走った。


三歩で転んだ。趙雲が抱き上げた。


劉備は、一人で座っていた。


灯火もつけていなかった。


「阿斗か」


「とと」


「どうした」


「かか」


「……ああ」


「なまえ」


劉備の動きが、止まった。


「名?」


「かか、なまえ」


長い、長い沈黙があった。


暗闇の中で、父の呼吸だけが聞こえた。


そして——劉備は、言った。


母の名を、一度だけ。


小さな声だった。


俺以外には、聞こえなかったと思う。


——二十年、この人はその名を呼ばなかった。


呼べなかったのではない。


呼ばなかったのだ。


主君が妻の名を呼ぶのは、この時代、あまりに私的すぎた。


俺は、それを聞いた。


そして、頷いた。


「とと」


「なんだ」


「かく」


「書く?」


「なまえ、かく」


劉備は、しばらく黙っていた。


そして、初めて——声を殺して泣いた。



    ◆



翌朝、諸葛亮が俺を呼んだ。


この男は、母が死んでから一度も慰めの言葉を口にしていない。


代わりに、竹簡を一本、俺の前に置いた。


「若君。文字を教えます」


——こんな日に。


「今日は……」


「今日が、よいのです」


諸葛亮は、羽扇を膝に置いた。


珍しく、動かしていなかった。


「悲しみは、忘れることでは癒えません」


彼は、筆を取った。


「名を残すことで、少しだけ、形が変わります」


そして、竹簡に書いた。


甘。


その隣に、俺が昨夜、父から聞いた字を書いた。


「……主公から、伺いました」


「うん」


「若君。書けますか」


書けるわけがない。二歳だ。


俺は筆を握った。


握り方が分からず、拳全体で掴んだ。


諸葛亮が、手を添えた。


冷たい手だった。


この男の手は、いつも冷たい。


俺たちは、二人で一文字を書いた。


線は歪んでいた。滲んでいた。竹の繊維に沿って墨が広がって、字とも呼べない形になった。


それでも、そこには名前があった。


「上出来です」


諸葛亮が言った。


俺は、初めてこの男の前で泣いた。



    ◆



```

【固有特性を獲得しました】


劉禅【名を記す者】


 効果:能力値が表示されない人物との、関係構築が可能になる

 備考:この特性に、数値上の利点はありません

```


——数値上の利点は、ない。


いい。


俺は木簡を出した。


第十四話で、真っ黒に塗り潰してしまった木簡だ。


六百本の線を引こうとして、途中で腕が疲れた、あの木簡。


その裏に、俺は書いた。


《この年表に、名のない者も書く》


そして、表に戻る。


死亡年表。二一九、二二一、二二三、二二九、二三四。


俺はその一番上に、新しい行を足した。


二〇九。


そして、丸を描いた。


線が歪んだ。手が震えていたからだ。



    ◆



——俺の計画に、母の名は入っていなかった。


三日前、俺は五人の名前を書いた。そして「母上は年表にないから安全だ」と考えて、安心して眠った。


優先順位は、五人にある。母上のことは、後でいい。


そう考えた。


前世で、俺は企業再生の仕事をしていた。


人員削減の計画を、何十回も作った。


名前のある人間は、残した。名前のない人間は、数字にした。


「削減対象二百四十名」と書いた。


二百四十人の顔を、俺は一人も知らない。


俺は木簡を胸に抱えて、声を殺して泣いた。



    ◆



その日から、俺はやり方を一つ変えた。


能力画面に表示されない人間の名前を、木簡に書き留める。


侍女の名。医官の名。厨房で粥を炊く老女の名。


長坂坡で麦をこぼした荷車の主の名。


千人書いたところで、国家経営には何の役にも立たない。


だが俺は、もう二度と、「削減対象二百四十名」と書きたくなかった。



    ◆



その夜、俺は寝床で、もう一つのことに気付いた。


——止める者が、いなくなった。


諸葛亮の書斎の明かりが、また点いている。


俺が全力でぶら下がっても、休養意思は一ミリも動かなかった。


母が三度言えば、あの人は筆を置いた。


その母が、いない。


俺は、木簡の余白へ書いた。


《孔明を止められる者》


その下に、《今のところ、一人》とある。


俺は、その「一」に、線を引いて消した。


そして、〇と書いた。


——ゼロ。


あの人を止められる人間は、この国に、一人もいなくなった。


そして俺がその役目を継ぐまでに、二十五年かかる。



    ◆



灯火を消す前、俺は窓の外を見た。


書斎の明かりが、まだ点いていた。


俺は、そこへ向かって、小さな声で言った。


「……こうめい」


届くはずがない。


それでも言った。


「ねろ」


明かりは、消えなかった。



次回 第17話「喪が明ける前に、新しい母が来た」



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― 新着の感想 ―
 阿斗くん何で劉備パパに言って、孔明の一人で抱え込む仕事のやり方を止めさせないんだろう?(部下を育てるのも上司の仕事ですよ)  いくら子供だって黙って見てるだけじゃ運命は変えられないぞ。孔明だってさす…
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