第15話 五人の死亡予定者
その夜、俺は生まれて初めて、五人が同時に笑っているところを見た。
劉備。関羽。張飛。趙雲。諸葛亮。
——五人とも、死ぬ年を知っている。
◆
建安十四年。
劉備が、荊州牧に推された。
正式な任命ではない。劉琦が病で世を去り、荊州に残った者たちが劉備を推した、という形である。
だが実質的には、創業以来はじめて、この男が「州」という単位の責任者になったということだ。
会社で言えば、無店舗の個人商店が、四つの支店を持つ企業になった。
祝わない理由がない。
◆
公安の広間に、明かりが灯された。
普段は薄暗い部屋が、この日だけは眩しかった。灯火を惜しまず並べたからだ。
炙った肉の匂いがした。魚を焼く煙。酒を温める甕。
長坂坡から一年と少し。
この人たちが、腹いっぱい食える夜は、久しぶりだった。
俺は甘夫人の膝の上にいた。
二歳の身体は、まだ人の輪の中では危険である。誰かの足に踏まれるからだ。実際、先月張飛に一度踏まれた。
◆
「主公! 荊州牧、おめでとうございます!」
張飛が杯を掲げた。
「まだ正式ではない」
劉備が苦笑する。
「同じことだ!」
「同じではない」
関羽が静かに言った。
「朝廷の任ではない。推されただけだ」
「雲長は堅い!」
「堅いのではない。事実を言っている」
——この人は、いつもそうだ。
自分に都合のいい話でも、事実でなければ認めない。
だからこそ、都合の悪い事実も、絶対に認めない。
十年後、それが荊州を失わせる。
◆
「まあ、飲め」
劉備が皆に杯を配った。
糜竺が横で青ざめている。
「主公。酒はもう——」
「今夜だけだ」
「先月もそう仰せでした」
```
【劉備】
財務管理 31
```
数字は正直である。
諸葛亮が羽扇で口元を隠しながら言った。
「糜竺どの。本日の分は、私が別に手当てしております」
「まことですか」
「はい。三日前から、少しずつ」
——三日前から。
この男は、宴の準備まで一人でやっている。
権限委譲、三。
俺は膝の上で、静かに拳を握った。
◆
酒が回り始めた頃、話題が変な方向へ転がった。
きっかけは、馬良だった。
「主公。恐れながら、記録のことでお尋ねしたく」
「うむ」
「宗族と将の生年を、簿に記しておきたく存じます」
——そうだ。
この時代の記録は、驚くほど雑である。
戸籍はある。だが軍中の将の生年など、誰も体系的に残していない。
馬良は真面目な男だ。荊州牧になったのだから、記録を整えようと考えたのだろう。
そして、その真面目さが、この夜を地獄に変えた。
◆
「主公は、おいくつになられました」
「四十九だ」
——四十九。
俺の頭の中で、勝手に計算が始まった。
二二三年。白帝城。
あと、十四年。
そのとき、この人は六十三。
そして俺は、十六だ。
「まだまだお若い」
張飛が笑う。
「阿斗が元服する頃も、兄者は矍鑠としておられよう」
——していない。
あなたも、そこにいない。
◆
「では、雲長どのは」
馬良が筆を構えた。
関羽は、杯を置いた。
そして、あっさりと言った。
「知らぬ」
馬良の筆が止まった。
「……は?」
「知らぬ」
「ご自身の、お歳を?」
「うむ」
——え。
俺は思わず身を起こした。
甘夫人が「どうしました」と言って、抱き直す。
張飛が大声で笑った。
「雲長は昔からそうだ! 歳を聞かれると必ず『知らぬ』と言う!」
「知らぬのだから、仕方あるまい」
「では適当に言え!」
「嘘は書かせぬ」
——この人らしい。
だが、俺は笑えなかった。
「なぜ、ご存じないので」
馬良が、遠慮がちに尋ねた。
関羽は、しばらく杯を見ていた。
そして、言った。
「郷を出るとき、記す者がおらなんだ」
◆
広間が、少し静かになった。
「河東の解県を出たのは、若い頃だ。人を殺して逃げた」
関羽は、淡々と続けた。
「親も、族も、あの土地に残した。戻ってはおらぬ」
「では、どなたかご存じの方が」
「おらぬ」
関羽は、杯を干した。
「知っておった者は、皆、死んだ」
——俺は、母の衣を握った。
この人は、自分がいつ生まれたのかを知らない。
天下に名を知られた、漢の寿亭侯になる男が。
誰も、記録しなかった。
第十四話で、俺は降兵の名を書き取れなかった。
——同じだ。
記録されない人間は、英雄でも記録されない。
◆
「まあ、五十は超えておろう」
張飛が言った。
「なぜ分かる」
「兄者と会うたとき、既に髭が立派だった」
「それは根拠になるのか」
「なる!」
ならない。
馬良が困った顔で筆を止めている。
「では、五十余と記します」
「よい」
関羽は頷いた。
——五十余。
二一九年。荊州。麦城。
あと、十年。
そのとき俺は、十二だ。
十二歳。
——十二の子供に、何ができる。
俺は、必死に考えた。
十二なら、字は書ける。読める。話せる。書状も出せる。
だが、命令はできない。
十二の子の言うことなど、この人は絶対に聞かない。
◆
「翼徳どのは」
「四十四だ!」
張飛が即答した。
「先月、四十五になったのではないか」
関羽が言う。
「四十四だ!」
「誕生の日は——」
「四十四だ!」
広間が笑いに包まれた。
——二二一年。閬中。
あと、十二年。
そのとき俺は、十四。
そして張飛は、部下に殺される。
俺は目の前の男を見た。
顔を真っ赤にして、歳を四十四だと言い張っている。
酒臭い。声が大きい。人の話を聞かない。
この人が、十二年後、寝首をかかれる。
◆
「子龍どのは」
趙雲は静かに答えた。
「三十を、少し」
「少し、とは」
「……数えておりませんでした」
——この人もか。
だが関羽とは理由が違う。
趙雲は、自分のことに関心がないだけだ。
```
【趙雲】
自己主張 21
```
「では、三十余と」
「お手数をおかけします」
——二二九年。
あと、二十年。
このとき俺は、二十二。
趙雲は、戦場では死なない。病で死ぬ。老いて死ぬ。
——この五人の中で、それが一番まともな死に方である。
そして俺は、それを「まともだ」と思っている自分に、少し吐き気がした。
◆
「孔明どのは」
「二十八にございます」
——二十八。
俺は、そこで完全に凍りついた。
若い。
若すぎる。
俺の前世の年齢より、十歳も下だ。
会社で言えば、入社六年目である。
その男が、いま国家の三郡の税務と、外交と、兵站と、軍議を、一人で回している。
「若いのう!」
張飛が笑う。
「孔明、嫁はおるのか」
「おります」
「では子は」
「まだにございます」
「作れ!」
セクハラである。
現代なら人事に通報される。
だが諸葛亮は、穏やかに笑っただけだった。
「そのうちに」
——そのうち。
俺は、その三文字を、頭の中で転がした。
そして、思い出そうとした。
——この人に、子はいたか。
……
思い出せなかった。
諸葛瞻という名を、知っている気はする。
だが、いつ生まれたのかは、覚えていない。
——覚えていないということは、たぶん、遅い。
早くに生まれた子なら、事績が長く残る。
長く残っていれば、俺は覚えている。
——覚えていないのだから、遅いのだ。
俺は、そこで、酒の匂いの中で、一つだけ確かなことに気付いた。
——この人は今、二十八である。
そして、まだ子がいない。
……
前世で、俺は同じ人を何人も見た。
「そのうちに」と言い続けた人たちである。
家を買うのも、旅に行くのも、子を持つのも、親に会いに行くのも。
みんな、「そのうちに」と言っていた。
——そして、その人たちの多くは、そのうちを、迎えなかった。
俺自身が、そうだった。
「そのうち、親と飯でも食う」
三十八年、そう思っていた。
——そして、深夜二時四十七分に、床へ倒れた。
二三四年。五丈原。
あと、二十五年。
そのとき、この人は五十三。
そして俺は、二十七だ。
——二十五年ある。
長い。
「そのうちに」を、二十五回言える長さだ。
◆
俺は、指を折り始めた。
二歳の手では、十までしか数えられない。
だが、頭の中では別のものを数えていた。
十二。関羽。
十四。張飛。
十六。父。
二十二。趙雲。
二十七。孔明。
——俺の人生は、既に予定が入っている。
十二歳で、憧れの人を失う。
十四歳で、可愛がってくれた人を失う。
十六歳で、父を失う。
二十二歳で、命を救ってくれた人を失う。
二十七歳で、先生を失う。
そして三十歳を過ぎた頃には、この広間で笑っている全員が、いなくなっている。
◆
俺は、広間を見回した。
張飛が、また歳のことで関羽と揉めている。
「四十四だと言っておろう!」
「では、なぜ去年も四十四だった」
「そんなことは知らぬ!」
趙雲が、こぼれた酒を静かに拭いている。誰も頼んでいないのに。
糜竺が、まだ帳簿の心配をしている。
馬良が、真面目に竹簡へ筆を走らせている。
諸葛亮が、羽扇で口元を隠して笑っている。
そして父が——全員に酒を注いで回っている。
魅力百の男が、州牧に推された夜に、自分で酒を注いでいる。
誰も、それを不思議に思っていない。
この人は、そういう人だからだ。
◆
「阿斗」
劉備が俺の前へ来た。
「今日は、飲まぬのか」
「のまない」
「二つだからな」
「うん」
劉備は俺の頭を撫でた。
「阿斗。父は、荊州牧になった」
「うん」
「まだ、小さい国だ」
父は、灯火のほうを見た。
「だが、いつかお前に渡す。もっと大きくして、渡す」
——渡される。
十四年後に。
あなたが、白帝城で死ぬときに。
「とと」
「なんだ」
「……」
俺は、何も言えなかった。
言葉が出なかったのではない。
言ってはいけないと、分かっていた。
◆
その夜、俺は寝床で木簡を出した。
そして、五つの名前を書いた。
字は歪んでいる。二歳の手だ。誰も読めない。
それでいい。
劉備 二二三 十六
関羽 二一九 十二
張飛 二二一 十四
趙雲 二二九 二十二
諸葛亮 二三四 二十七
右の数字は、そのときの俺の歳である。
——五人。
五人の、死亡予定者。
俺は、その木簡を長いこと見ていた。
前世で、俺は再建計画を何十本も書いた。
期限を切り、担当を決め、進捗を管理した。
期限を守れなかったものは、一つもなかった。
——今度は、どうだ。
十年で、関羽。
十二年で、張飛。
十四年で、父。
守れる自信は、まったくなかった。
◆
扉が開いた。
「阿斗。まだ起きているのですか」
甘夫人だった。
俺は慌てて木簡を伏せた。
「うん」
「宴が騒がしくて、眠れませんか」
「ううん」
母は俺の隣に座った。
酒の匂いが少しした。今夜は、この人も飲んだのだろう。
「みんな、楽しそうでしたね」
「うん」
「父上が、あんなに嬉しそうなのは、久しぶりです」
——そうだろうな。
この人たちは、二十年以上、逃げ続けてきた。
徐州を失い、小沛を失い、汝南を失い、新野を捨てた。
やっと、逃げなくていい場所ができた。
「阿斗」
「うん」
「大きくなったら、皆を守ってあげてくださいね」
俺は、母の顔を見た。
「まもる」
「はい」
「ぜんぶ」
「まあ」
甘夫人は笑った。
「欲張りですね」
欲張りではない。
計画である。
◆
母は、俺を寝かしつけて出ていった。
灯火が消える。
暗闇の中で、俺は目を開けていた。
伏せた木簡に、五つの名前がある。
——五人。
この五人を、俺は救わなければならない。
そう思ったとき、ふと、あることに気付いた。
——母上の名は、ない。
俺は暗闇の中で、木簡へ手を伸ばした。
指でなぞる。
劉備。関羽。張飛。趙雲。諸葛亮。
五人。
甘夫人は、いない。
——当たり前だ。
俺は、この人の没年を覚えていない。
三国志を、何度も読んだ。関羽が死んだ年は、月まで覚えている。諸葛亮が死んだ日も知っている。
だが、甘夫人がいつ死んだかは、覚えていない。
なぜか。
理由は、簡単だった。
——史書に、大きく書かれていなかったからだ。
俺の頭の中の年表には、歴史に名を残した人間しか載っていない。
◆
俺は、木簡を胸に抱えて、目を閉じた。
——年表にない。
だから、大丈夫だ。
俺は、そう思った。
年表にないということは、近いうちに死なないということだ。
少なくとも、俺が気にしなければならない期限ではない。
優先順位は、五人にある。
十年で関羽。十二年で張飛。十四年で父。
時間は、限られている。
母上のことは、後でいい。
——俺は、確かにそう考えた。
そして、安心して眠った。
この判断を、俺は生涯、忘れない。
◆
広間からは、まだ笑い声が聞こえていた。
張飛の声。関羽の低い返事。趙雲の困ったような相槌。諸葛亮の静かな笑い。そして、父の大きな笑い声。
みんな、笑っていた。
だから俺だけは、笑えなかった。
——このとき俺は、まだ知らない。
この夜から数えて、母が笑う日は、あと何日も残っていなかった。
次回 第16話「大丈夫です、と母は言った」




