第14話 赤壁は火計だけで勝ったのではない
赤壁の戦記が、できあがった。
天下を二分した、あの大戦の記録である。
全部で、四行だった。
◆
「読み上げます」
馬良が竹簡を広げた。
白い眉が、灯火に照らされている。
「建安十三年冬。曹操、大軍を率いて江を下る。孫劉連合、これを赤壁に迎う。黄蓋、火を放ち、曹操の船を焼く。曹操、北へ退く」
——以上。
劉備が満足そうに頷いた。
「よい。簡潔でよい」
「恐れ入ります」
よくない。
俺は膝の上で、思わず身を乗り出した。
まったく、よくない。
◆
この記録には、勝った理由が一つも書かれていない。
いや、正確には一つだけ書いてある。
火計。
黄蓋が火を放った。曹操の船が燃えた。だから勝った。
——それは事実だ。
だが、それは最後の一押しである。
前世で、俺は倒産寸前の会社を何社も見てきた。
そして再生に成功したとき、経営陣は必ずこう総括する。
「あの新製品が当たったからだ」
違う。
新製品が当たる前に、在庫を圧縮し、不採算店を閉め、支払サイトを延ばし、銀行と組み直している。その地味な二年間があったから、新製品が当たったときに現金が回った。
だが記録に残るのは、新製品だけである。
そして次の危機のとき、彼らはまた新製品を作ろうとする。
◆
「若君。何か?」
馬良が俺を見た。
「よんぎょう」
「四行、でございますね」
「みじかい」
「はい。要点のみ記しましたので」
「たりない」
馬良が困った顔をした。
「では、何を書き足せばよろしいでしょう」
——そこである。
俺も、正確には知らない。
前世の俺が知っているのは、教科書と小説の赤壁だ。
火計。連環の計。東南の風。
全部、面白い部分だけである。
俺は、劉備の袖を引いた。
「とと」
「なんだ」
「なんで、かった?」
劉備は少し考えた。
そして、笑顔で答えた。
「皆が、よくやったからだ」
——それは記録ではない。感想である。
◆
ここから、地獄が始まった。
張飛が立ち上がった。
「兄者。あの戦、俺の一喝で敵が崩れたのだ。あれを書け」
馬良が筆を止める。
「翼徳どのは、赤壁本戦には——」
「烏林で追撃した!」
「はい。それは記録しております」
「ならば一喝も書け」
「……承知いたしました」
関羽が口を開いた。
「翼徳。あの戦は、水軍の戦であろう」
「陸でも戦った!」
「主たる戦果は呉のものだ」
——関羽が正確なことを言っている。
俺は少し驚いた。
この人は自尊心が高い。だが、戦の話になると異様に正直である。
自分の武功は誇張しない。他人の武功も削らない。
「では、雲長どのは」
馬良が尋ねる。
関羽は、あっさり答えた。
「書くほどのことはしておらぬ」
室内が、静かになった。
張飛が唸る。
「雲長、それはずるいぞ」
「なぜだ」
「格好よすぎる!」
——それはそう。
◆
「主公」
諸葛亮が言った。
「風向きのことは、いかがいたしましょう」
「うむ。孔明が読んだのであろう」
「読んだのは、呉の船頭にございます」
「そうであったか?」
「はい」
諸葛亮は淡々と続けた。
「あの季節、東南の風が吹くことは、江の漁師なら誰でも存じております。私はそれを、周瑜どのに確認しただけにございます」
——正直すぎる。
後世、この場面は「諸葛亮が天に祈って東南の風を呼んだ」という話になる。
当の本人が、いま「漁師なら誰でも知っている」と言っている。
俺は思わず、視界の数字を見た。
```
【諸葛亮】
自己顕示 9
```
——九。
張松という男が後に八十七で来ると知ったら、この人はどんな顔をするだろうか。
◆
「では、どう書けばよいのだ」
劉備が困り顔で言った。
そして——やってしまった。
「翼徳の一喝も書け。そのとおりだ」
「はっ」
「雲長の言うことも正しい。呉の功も書け。そのとおりだ」
「はっ」
「孔明の申すとおり、風は船頭が読んだと書け。そのとおりだ」
「……はっ」
馬良の筆が、止まった。
俺は、その顔を見ていた。
```
【馬良】
困惑 88
```
——当然である。
三人の主張は、互いに矛盾している。
張飛は「自分の功が大きい」と言い、関羽は「主たる戦果は呉」と言い、諸葛亮は「風は自分の功ではない」と言った。
そして劉備は、全員に「そのとおりだ」と答えた。
——これだ。
俺は理解した。
この人の魅力百は、ここから来ている。
誰の顔も潰さない。誰も否定しない。全員が「主公は自分を分かってくれている」と思う。
だから人が集まる。
そして、記録が矛盾する。
前世で、俺はこの手の社長を三人見た。
会議で全員の案を褒める。全員が「うちの案が通った」と思って帰る。
そして三週間後、三つの違うものが同時に作られている。
◆
俺は、机を叩いた。
二歳の手では、大した音は出なかった。
だが、全員が振り向いた。
「阿斗?」
俺は、外を指差した。
「なんだ、外か?」
「うん」
「散歩がしたいのか」
違う。
俺は、もう一度指した。城の南側。
そこには——曹操軍の降兵を収容している区画があった。
「まけた、ひと」
俺は言った。
室内が、静まり返った。
「……負けた者、でございますか」
馬良が首を傾げる。
俺は頷いた。
「きく」
——負けた側に、聞け。
なぜ負けたのかを、一番正確に知っているのは、負けた人間である。
◆
前世で、俺が最初に学んだことがそれだった。
再生案件に入ると、まず誰に話を聞くか。
経営陣ではない。
辞めた社員に聞く。
競合他社に聞く。
取引を切った銀行に聞く。
勝った側は、自分が何をしたかを語る。負けた側は、何が起きたかを語る。
後者のほうが、圧倒的に情報量が多い。
◆
「若君。捕らえた敵兵に、何を尋ねるのです」
諸葛亮が問うた。
「なんで、まけた」
諸葛亮の羽扇が、止まった。
長い沈黙があった。
そして、彼は静かに言った。
「……主公。若君の仰せのとおりにいたしましょう」
「敵兵の言など、当てになるか?」
張飛が言う。
諸葛亮は答えた。
「当てになりませぬ。ゆえに、大勢に聞きます」
——一人の証言は当てにならない。だから百人に聞く。
統計の考え方である。
この時代に、それを即座に言える人間がいる。
知略百は、伊達ではない。
◆
降兵の収容区は、湿っていた。
冬の川べりに近く、地面がぬかるんでいる。汗と、煮炊きの煙と、洗っていない布の匂いがした。
俺は趙雲に抱かれて、その中を通った。
兵たちは、俺を見ると慌てて頭を下げた。
——若い。
そして、痩せている。
俺が想像していた「曹操の精兵」とは、まったく違った。
「若君。あまり近づかれますな」
趙雲が言った。
「なんで」
「病が」
——病。
俺は、そこで初めて表示を見た。
```
【降兵集団 推定六百名】
現在の健康状態
健常 181
回復期 244
罹患中 175
主症状 下痢・発熱・脱水
発生時期 昨年十一月〜
```
——四百人以上が、病んでいる。
俺は、息を呑んだ。
◆
諸葛亮が、年長の兵に尋ねた。
「そなたら、いつ病んだ」
「……江に着いて、ひと月ほどで」
男は答えた。歳は四十ほど。歯が何本か抜けている。
「はじめは、腹を下す者が数人でした。それが、あっという間に」
「陣中でか」
「はい。厠が足りませなんだ」
——そこか。
俺は理解した。
急激に集まった大軍。仮設の陣。不十分な排泄設備。汚染された水。
古代の軍隊が壊れる、最も典型的な原因である。
前世でも、近代以前の戦争では、戦闘による死者より病死者のほうが多い。
「どれほど動けなくなった」
「……半分は、立てませなんだ」
諸葛亮の眉が、動いた。
「半分」
「船に乗れば、なお悪う。北の兵は、揺れに慣れておりませぬ。乗った者から吐きました」
「船を鎖で繋いだのは」
「揺れを止めるためです。皆、吐いて戦えぬゆえ」
——連環の計。
演義では、龐統が曹操を欺いて船を鎖で繋がせた、ということになっている。
現実は、こうだ。
兵が船酔いで戦えないから、揺れを止めたかった。
そして、繋いだ船は、燃え広がった。
◆
「そなたらは、どこの兵だ」
諸葛亮が尋ねた。
男は、少し口ごもった。
「……荊州にございます」
「荊州?」
「はい。劉表さまの兵でした。劉琮さまが降られたゆえ、そのまま曹公の兵に」
——そうだ。
俺は、思い出した。
曹操が「八十万」と称した軍勢。
その中の相当数は、三か月前まで劉表の兵だった荊州の水軍である。
つまり——
「そなたら、曹操の兵となって、何日で戦へ出た」
「……四十日ほどかと」
四十日。
俺は、頭の中で計算した。
前世で、企業買収の後には必ず統合作業がある。PMI——買収後統合。
四十日でできることは、ほとんどない。
名簿を作る。組織図を引く。給与制度を仮に揃える。それで終わりだ。
指揮系統の一体化、共通の訓練、相互の信頼——そんなものは、一年かかっても足りない。
曹操は、統合していない組織を、そのまま戦場へ持っていった。
◆
俺は、もう一つ聞きたかった。
「おじさん」
男が驚いて顔を上げた。
「は、はい」
「かちたかった?」
「……は?」
「かちたかった? あのいくさ」
長い沈黙があった。
男は、周りの兵たちをちらりと見た。
そして、小さな声で答えた。
「……どちらでも、ようございました」
「なんで」
「わしらは、劉表さまの兵でした。それが曹公の兵になり、今はここにおります」
男は、自分の手を見た。
「三月ごとに、主が変わりまする」
「……」
「勝っても負けても、また誰かの兵になるだけにございます」
——俺は、言葉を失った。
そして、聞いた。
「なまえ」
「は?」
「おじさんの、なまえ」
——男は、驚いた顔をした。
そして、少し笑った。
「……蘇路と、申します」
「それ」
「はい」
「おぼえた」
男は、口を開けたまま、俺を見ていた。
そして、なぜか、頭を下げた。
```
【降兵集団】
戦意 11
帰属意識 4
```
帰属意識、四。
——曹操軍の兵力は、二十数万あった。
だが、戦う気がある兵は、その半分もなかった。
◆
その夜、諸葛亮は竹簡を三本使って、数字を並べた。
「主公。整理いたします」
劉備が頷く。
「曹操の兵、八十万は誇称。実数は二十余万かと」
「そんなにも少ないのか」
「多うございます。しかし——」
諸葛亮は筆を進めた。
「うち、荊州の降兵が七、八万。従軍四十日。統率されておりませぬ」
「ふむ」
「加えて、疫。捕虜の申すところでは、動けぬ者が半数」
「半数……」
「北の兵は船に慣れず、鎖で繋いで揺れを止めた」
諸葛亮は筆を置いた。
「火は、最後の一撃にございました」
室内が、静かになった。
張飛が唸る。
「では、火がなくとも勝てたのか」
「いえ」
諸葛亮は首を振った。
「火がなければ、曹操はそのまま冬を越し、春に兵を入れ替えて再び来たでしょう」
「ならば火が決め手ではないか」
「決め手ではございます」
諸葛亮は、静かに言った。
「ですが、決め手とは、最後に置く石のことにございます」
「……」
「盤面が既に決まっていたゆえ、その一石で終わった。盤面が違えば、同じ石を置いても終わりませぬ」
◆
俺は、馬良を見た。
そして、竹簡を指差した。
「かく」
「これを、記録に?」
「うん」
「しかし若君。これは我らの功ではございません」
——そこだ。
俺は首を振った。
「こう、じゃない」
「では、何を?」
俺は、必死に二語を並べた。
「まけた、りゆう」
馬良が、目を見開いた。
「……曹操の、敗因を?」
「うん」
「なぜ、敵の敗因を我らが記録するのです」
俺は、言葉を探した。
言いたいのは、こうだ。
——勝った理由を書けば、次も同じことをしようとする。
——負けた理由を書けば、次に同じことをしないで済む。
そして何より。
——曹操が負けた理由は、いつか俺たちが負ける理由になる。
急に膨らんだ軍。統合されていない部隊。整っていない陣営。病。慣れない土地。
全部、俺たちにも起こる。
というより、俺は知っている。十年後、荊州で、まったく同じことが起きる。
二歳の口では、そこまで言えなかった。
俺は、一つだけ言った。
「つぎ、おれたち」
◆
諸葛亮の羽扇が、止まった。
彼は、長いこと俺を見ていた。
そして、静かに言った。
「……主公」
「なんだ」
「戦記とは別に、もう一つ、簿を作りとうございます」
「なんの簿だ」
諸葛亮は答えた。
「敗因の簿でございます」
◆
「勝った戦も、負けた戦も、なぜそうなったかだけを記します。手柄は書きませぬ。人の名も、責めるためには書きませぬ」
「なぜだ」
「書けば、隠されます」
諸葛亮は、はっきりと言った。
「誰の失敗かを記せば、次から誰も失敗を申し出ません。ゆえに、何が起きたかだけを記す」
——それだ。
それが、俺が言いたかったことの全部だ。
夏口で、倉庫番が鼠害を隠した。処罰を恐れたからだ。
あのとき、父は「報告した者を罰さない」と決めた。
それを、制度にする。
劉備は、しばらく考えた。
そして、頷いた。
「よかろう。季常、任せる」
馬良が頭を下げた。
「承知いたしました」
```
【制度が成立しました】
敗因記録簿(敗因簿)
記録対象 勝敗を問わず、全ての戦・事案
記録内容 経緯と原因のみ
記録禁止 個人の責任追及
組織能力
情報収集 B → B+
学習能力 未評価 → C
```
——学習能力。
新しい項目が、生えた。
組織は、学習する。
そして、学習しない組織は、同じ理由で二度死ぬ。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
そして、書こうとして——手が止まった。
蘇路の名を、書こうとした。
そして、書けなかった。
二歳の手では、その字が書けない。
「そ」も、「ろ」も、まだ習っていない。
俺は木簡に、意味のない線を一本引いた。
——一人。
三月ごとに主が変わり、どちらが勝ってもよいと言った、痩せた男。
蘇路。
その人が、この記録のどこにも残らない。
戦記にも、敗因簿にも、残らない。
俺は、線をもう一本引いた。
そして、もう一本。
六百本は、引けなかった。
途中で腕が疲れて、木簡が墨で真っ黒になっただけだった。
——いつか、書けるようになる。
そのときは、名前で書く。
俺はそう決めて、真っ黒になった木簡を、そっと箱の底へしまった。
次回 第15話「五人の死亡予定者」




