第13話 魯粛は採用できない
その男を見た瞬間、俺は本気で頭を抱えた。
能力が高すぎたからではない。
高すぎたのに、絶対に採用できない相手だったからである。
◆
建安十四年の秋、江東から使者が来た。
魯粛。字を子敬という。
赤壁のあと、周瑜が南郡を攻め、曹仁を追い出した。その隙に劉備は荊州南部の四郡を押さえている。
——きわめて、気まずい状況である。
呉から見れば、自分たちが血を流して曹操を追い払っている間に、同盟相手が横から土地を四つ持っていった格好だ。
企業で言えば、共同開発した製品の販路を、パートナー企業が黙って先に押さえたようなものである。
普通なら、訴訟である。
◆
俺は二歳になっていた。
会見の場には、当然のように連れていかれた。
理由は「阿斗を見せておけば場が和む」という、劉備の非常に雑な判断である。
外交交渉に幼児を同席させるな。
いや、待て。
——効くかもしれない。
前世でも、緊迫した交渉の席に、相手方のCEOが飼い犬を連れてきたことがあった。あのとき、会議室の空気は確実に緩んだ。
俺は今、飼い犬と同じ役割を担っている。
屈辱だが、有効である。
◆
魯粛が入ってきた。
背が高い。肩幅が広い。武人にも見えるが、手は書を扱う者のそれだった。
そして、笑っていた。
——四郡を取られた側の人間が、である。
俺が見つめると、視界に文字が浮かんだ。
```
【魯粛 字・子敬】
統率 77
武力 61
知略 94
政務 92
魅力 93
戦略構想 97
外交 99
交渉 96
資産 100
胆力 95
長期思考 98
私欲 11
固有特性
【指囷相贈】
価値を認めた相手へ、惜しみなく資産を投じる。見返りを求めない。
【天下二分】
自国の限界を正確に把握し、無理をしない生存戦略を描く。
【同盟維持者】
自国の短期利益より、同盟の存続を優先する。
※自国内で孤立しやすい。
【正直すぎる交渉】
嘘をつかず、相手の利益も明示して交渉する。
総合評価 S
備考
この人物は、あなたの勢力にとって最も重要な外部資産です。
```
——外部資産。
俺は、その四文字を二度読んだ。
◆
採用したい。
心の底から、採用したい。
外交九十九。交渉九十六。長期思考九十八。
そして私欲十一。
うちの組織に、この項目が二桁の人間が何人いると思っているんだ。
法正はまだ会っていないが、確実に八十を超える。張飛の感情制御は八だ。父の約束管理は二十二である。
前世の人材市場で言えば、この男は三社が争奪する候補者である。
しかも一つ、とんでもない特性がある。
【指囷相贈】。
——知っている。
まだ無名だった周瑜が兵糧を借りに来たとき、魯粛は米三千斛が入った倉を指差して、
「あれを、持っていけ」
と言った。
一つの倉を、丸ごとである。初対面に近い相手にだ。
現代の感覚で言えば、一度会っただけの起業家に、資産の半分を渡したようなものである。
普通なら「愚か」と言われる。
だが周瑜はそれを忘れず、後に孫権へ魯粛を推挙した。
この男は、人へ投資する。そして、その回収を自分の代で求めない。
◆
「劉皇叔。お久しゅうございます」
魯粛が礼をした。
劉備も応じる。
「子敬どの。此度は、遠路ご苦労であった」
「いえ。楽しい用件ではございませんが」
——いきなり切り込んできた。
【正直すぎる交渉】が発動している。
関羽の眉が動いた。
「楽しくない、とは」
「荊州南部四郡のことにございます」
魯粛は、まったく声を荒らげなかった。
「南郡を攻めましたのは、我が周瑜。一年をかけ、兵を失い、周瑜自身も矢を受けました」
事実である。
「その間に、劉皇叔は南の四郡をお取りになった」
それも事実である。
張飛が机を叩いた。
「文句があるのか!」
——机を割るな。今月三つ目だ。
魯粛は張飛を見て、にっこりと笑った。
「文句はございません」
「なに?」
「むしろ、ありがたく思っております」
室内が、静かになった。
◆
「……どういうことだ」
関羽が低く問う。
魯粛は、地図を広げた。
「北を、ご覧ください」
襄陽。樊城。その先に、広大な曹操の領域が描かれている。
「赤壁で勝ったとはいえ、曹操はまだ北を握っております。天下の三分の二を、あの一人が持っている」
魯粛は指を動かした。
「もし荊州のすべてを我が呉が持てば、曹操と直に接するのは、我らだけとなります」
——そうだ。
「そうなれば、江東は北の圧力を一手に受けます。長江の守りは厚うございますが、守りが厚いということは、攻められ続けるということでもある」
「ゆえに?」
「荊州には、我ら以外の誰かに立っていてほしいのです」
魯粛は、劉備をまっすぐ見た。
「劉皇叔。あなた様に、曹操と我らの間に立っていただきたい」
◆
俺は、思わず息を呑んだ。
——これが、魯粛か。
正直すぎる。手の内を全部見せている。
普通の交渉なら、こう言う。「四郡は返していただきたい。ただし特別に、一部の駐留はお認めしよう」。
そして相手に恩を売る。
この男は、そうしない。
「あなたに立ってほしい。理由は、我々が矢面に立ちたくないからだ」と、最初に言う。
前世で、俺はこの手法を一度だけ見た。
シンガポールの、七十歳の交渉役だった。彼はこちらの資料を見る前に、自社の弱点を全部並べた。「うちは資金がない。技術もない。あるのは販路だけだ。だから条件はそちらが決めてくれ」。
結果、彼は最良の条件を取っていった。
嘘をつかない人間の要求は、断りにくい。
```
【魯粛】外交 99
```
数字は、正しい。
◆
「では、四郡はどうなる」
劉備が尋ねた。
魯粛は、静かに言った。
「お貸しいたします」
その瞬間、室内の空気が変わった。
関羽が腕を組む。
張飛が眉を上げる。
そして——劉備の目が、わずかに泳いだ。
```
【劉備】
約束管理 22
```
——始まる。
「うむ。では、預かろう」
「お貸し、いたします」
「うむ。預かる」
「お借りいただく、ということでよろしいか」
「うむ。しかと預かった」
「劉皇叔」
「なんだ」
「借りる、と仰せいただけますか」
「……大切に、預かる」
——この人は、絶対に「借りる」と言わない。
「借りる」と言えば、返す義務が発生する。「預かる」なら、預かったままにできる。
約束管理二十二の本領である。
前世で、俺はこういう契約書を何十本も見た。「貸与」を「共同利用」と書き換えたがるクライアント。「返還期限」を「協議のうえ定める」にしたがるクライアント。
全部、返さない。
魯粛は、しばらく劉備を見つめていた。
そして、笑った。
「……承知いたしました」
「うむ」
「預かっていただきましょう」
折れた。
魯粛は、この時点で理解したのだ。
言葉をどう書こうと、劉備は返さない。
だが、それでも構わない。曹操の前に立ってさえくれれば。
——恐ろしい男である。
自分が損をすることを承知で、それより大きな利益を取りに来ている。
◆
会見が終わったあと、俺は魯粛のところへ走った。
正確には、走って、三歩で転んだ。
趙雲が抱き上げた。
「若君。どちらへ」
「しけい」
「魯粛どのですか」
「うん」
趙雲は少し迷ってから、俺を連れていってくれた。
この人は、俺のやることを止めない。
止めないが、必ず隣にいる。危機管理百とは、そういうものらしい。
◆
魯粛は、庭で茶——ではなく、湯を飲んでいた。
「おや。若君」
「しけい」
「私の字をご存じで」
「うん」
俺は、彼の前に座った。
正確には、座ろうとして尻もちをついた。
魯粛が笑った。
「よい座り方でございます」
慰めるな。
俺は、聞きたかったことを聞いた。
「なんで、たすける」
「たすける?」
「ちち、うえ」
魯粛は、湯の椀を置いた。
「助けてはおりません」
「うそ」
「……ほう」
彼は、面白そうに俺を見た。
「なぜ、嘘だとお思いか」
「そんが、してる」
——四郡を渡し、南郡まで貸そうとしている。
呉の側から見れば、明確な損である。
魯粛の眉が、上がった。
そして、こう言った。
「若君。今、いくつでいらっしゃる」
「ふたつ」
「二つ」
「うん」
魯粛は、天を仰いだ。
「……江東に帰って、この話をしても、誰も信じますまい」
◆
「若君。損得というものは、どこで区切るかで変わります」
魯粛は、地面に指で線を引いた。
「今年で区切れば、我らは四郡を失いました。損にございます」
線を伸ばす。
「十年で区切れば、我らは北の圧力を分け合う相手を得ました。得にございます」
さらに伸ばす。
「三十年で区切れば——」
そこで、彼は手を止めた。
「三十年先は、分かりませぬ」
「わからない?」
「はい。ゆえに私は、十年で区切って考えます」
——正しい。
前世で、俺が最も苦労したのが、これだった。
投資判断は、期間で結論が変わる。三年で見れば赤字の事業が、十年で見れば黒字になる。逆もある。
そして、多くの人間は「今年」で区切る。
今年の数字が悪ければ、十年後に化ける事業を潰す。
この男は、十年で区切っている。
しかも、その先は「分からない」と正直に言う。
——分からないと言える人間が、一番信用できる。
◆
俺は、決断した。
この人を、採用する。
俺は魯粛の袖を掴んだ。
「しけい」
「はい」
「うちに、こない?」
魯粛の動きが、完全に止まった。
背後で、趙雲が咳き込んだ。
「わ、若君。それは——」
「こないの?」
魯粛は、しばらく俺を見つめていた。
そして——声を上げて笑った。
腹を抱えて笑った。
「これは、これは」
彼は目尻を拭った。
「生涯で最も光栄な勧誘を、二つの子から受けました」
「くる?」
「参りません」
即答である。
「なんで」
魯粛は、笑いを収めた。
そして、真面目な顔で言った。
「若君。私が蜀へ参れば、その日に同盟は終わります」
◆
俺は、動きを止めた。
「江東で、劉皇叔と手を組むべしと申しておるのは、私一人でございます」
魯粛は、静かに続けた。
「周瑜は、荊州を取って蜀を攻めよと言う。他の重臣も同じ。孫権さまは、その間で揺れておられる」
「ひとり?」
「一人でございます」
——【同盟維持者】。
※自国内で孤立しやすい。
そういう意味か。
「ゆえに、私がここへ来れば、同盟を守る者が江東からいなくなります」
魯粛は、湯を飲んだ。
「私は、呉におらねば価値がないのです」
◆
俺は、雷に打たれたような気がした。
——そうだ。
取ってはいけない人材が、いる。
前世で、俺は逆をやった。
買収先の重要な取引先に、極めて優秀な担当者がいた。俺はその人物を引き抜いた。年俸を倍にして、こちらへ迎えた。
そして、その取引先との関係は、半年で切れた。
彼が価値を持っていたのは、あちら側にいたからだ。
こちらへ来た瞬間、彼はただの優秀な社員になった。そして、彼が繋いでいた関係は、丸ごと消えた。
——あのとき、俺は何を買ったつもりだったんだろう。
「しけい」
「はい」
「ごめん」
魯粛が、目を丸くした。
「なぜ、謝られます」
「とったら、こわれる」
——取ったら、壊れる。
魯粛は、長いこと黙っていた。
それから、深く息を吐いた。
「……若君」
「うん」
「あなた様は、恐ろしい方になられます」
```
魯粛から劉禅への評価
主君の幼児 → 記録すべき人物
興味度 4 → 71
```
◆
別れ際、魯粛が言った。
「劉皇叔の陣を、二日見せていただきました」
「どう?」
「人が、よろしい」
「うん」
「関羽どの、張飛どの、趙雲どの。あれほどの将が三人。文では諸葛亮どの。江東でも、これだけ揃えるのは難しゅうございます」
魯粛は、そこで少し首を傾げた。
「ただ——一つだけ、申し上げてよろしいか」
「うん」
「人を見る目はおありだ。だが、置き方をご存じない」
俺は、顔を上げた。
「置き方?」
「はい」
魯粛は、地面の線を指した。
「たとえば、諸葛亮どの。あの方に三郡の賦税を任せるのは、もったいのうございます」
「もったいない?」
「あれは、国の形を描く人でございましょう。帳簿を数える人ではない」
——その通りだ。
「同じことが、他にもございます」
魯粛は、なぜか少し楽しそうに言った。
「江東にも、置き場所を間違えられておる者がおります」
「だれ」
「周瑜の下に、龐統と申す者が」
——心臓が、止まりかけた。
「功曹をしております。事務は完璧にこなす。まったく向いておりませんが」
魯粛は苦笑した。
「あれは、百里を治める才ではございません。小さな器に大きな水を注げば、こぼれるだけにございます」
——覚えた。
俺はその言葉を、一字も違えずに覚えた。
百里の才ではない。
一年後、俺はこの言葉を、書状の形でもう一度読むことになる。
だがこのときの俺は、まだ知らない。
◆
魯粛が去ったあと、俺は木簡を出した。
そして、新しい行を作った。
《採ってはいけない人材》
一行目に、魯粛と書いた。
——生涯で初めて、採用しないと決めた優秀な人材である。
その下に、もう一行。
《置き場所を間違えている者》
龐統、と書いた。
書いてから、俺は少し考えて、《呉》と付け足した。
まだ、こちらにはいない。
だが——周瑜は、二一〇年に死ぬ。
その後、この男はどこへ行くのだろうか。
◆
俺は、その二行を見ながら、一つ、気になったことがあった。
——この人は、いつ死ぬのだろう。
……
思い出せなかった。
魯粛。
三国志を、何度も読んだ。
赤壁で主戦を説いた男。
周瑜の後を継いだ男。
——それなのに、没年を覚えていない。
……
——甘夫人のときと、同じである。
覚えていないということは、たぶん、大きく書かれていない。
大きく書かれていないということは、劇的に死んでいない。
——病だ。
たぶん、病である。
……
俺は、死亡年表を出した。
そして、書こうとして——手が止まった。
書く場所が、ない。
二一九。二二一。二二三。二二九。二三四。
——どこにも、当てはまらない。
俺は、筆を置いた。
そして、年表の余白に、一行だけ書いた。
《しけいどの いつか》
——それだけである。
年が、書けなかった。
◆
眠る前、俺はもう一つのことを思い出していた。
魯粛の字は、子敬である。
俺はその二文字を、木簡の隅に書いてみた。
子敬。
きれいな字だと思った。
——このとき俺は、まだ知らない。
五年後、まったく別の男が、この二文字を捨てさせられることを。
同じ字を持ちながら、魯粛は変えずに済み、その男は変えねばならなかった。
理由は、能力でも、功績でも、忠誠でもない。
片方が、外にいたからである。
次回 第14話「赤壁は火計だけで勝ったのではない」




