第12話 羽扇を手放せない男
諸葛亮が、仕事を人に渡した。
翌朝、その仕事は終わっていた。
渡された本人が、まだ手をつけていないのに。
◆
建安十四年。
劉備は荊州南部の四郡を平らげ、公安に城を築いた。
そして諸葛亮には、零陵・桂陽・長沙の三郡を督し、賦税を集めて軍需に充てる役目が与えられた。
——三つの郡の、徴税と会計と監督。
現代で言えば、三つの支社の経理・監査・人事を、一人の執行役員が兼務している状態である。
しかも本社機能(軍議・外交・兵站)もそのまま担当している。
前世の俺なら、この組織図を見た瞬間に赤を入れる。
《特定個人への業務集中。当該人物の離脱時、複数機能が同時停止》
そして俺は、その赤を入れた本人が、まったく同じ死に方をしたことを知っている。
◆
俺は二歳になっていた。
歩ける。走れる。二語まで話せる。
そして最近、諸葛亮の執務室へ勝手に入り込む技術を習得した。
方法は簡単である。
扉の前で泣く。
「阿斗さま。孔明さまはお忙しく」
「わーん」
「若君、お待ちください」
「わーん」
三十秒で通る。
赤ん坊は、組織内で最も強力な交渉手段を持っている。二歳になっても、その効力はまだ切れていなかった。
◆
その日、執務室には先客がいた。
背の高い、若い男である。
歳は二十代の半ばだろうか。姿勢が良く、袖の折り目まで整っている。書を扱う人間の手をしていた。
そして——眉が、白かった。
左右とも、根元から先まで、白い。
俺が見つめると、視界に文字が浮かんだ。
```
【馬良 字・季常】
統率 52
武力 31
知略 88
政務 93
魅力 86
文書処理 95
実務精度 91
交渉 84
調整 92
自己主張 34
断る力 17
固有特性
【白眉】
同族・同期の中で、最も優れていると評価される。
常に「兄弟の中で一番」であることを求められる。
【頼まれると断れない】
業務量が本人の限界を超えても引き受ける。
【上位者への献身】
尊敬する相手のためなら、自分の評価を後回しにする。
総合評価 A+
組織上の危険
過剰負荷/自己評価の低さ/代替不能化
```
——断る力、十七。
俺は天を仰いだ。
この組織は、人材を採用するときに何を基準にしているんだ。
権限委譲三の男の下に、断る力十七の男を配置した。
前世で言えば、仕事を抱え込む部長の下に、断れない課長を置いたようなものである。
結果は決まっている。
両方が倒れる。
◆
「若君。ご紹介いたします」
諸葛亮が言った。
「馬良。字を季常と申します。襄陽の出で、この度、従事として仕えることとなりました」
馬良が、床に手をついた。
「馬良にございます。以後、お見知りおきを」
「はくび」
俺は言った。
馬良の動きが、止まった。
「……若君は、いま何と」
しまった。
初対面で外見に言及した。龐統のときも同じ失敗をする気がする。
だが馬良は、笑った。
「よくご存じで。郷里では、こう申します」
彼は自分の眉を指した。
「馬氏の五常、白眉最も良し」
「ごじょう?」
「兄弟が五人おりまして、みな字に『常』の一字が入ります。その中で、私が最も良いと」
——知っている。
有名な故事だ。
しかし本人の口から聞くと、印象がまったく違った。
『最も良い』。
それは、褒め言葉であると同時に、逃げ場のない評価である。
```
【馬良】
兄弟間比較への疲労 71
```
——ほら見ろ。
この人は、生涯ずっと「一番でなければならない」と言われ続けてきたのだ。
◆
諸葛亮が、竹簡の束を馬良の前へ置いた。
「季常。零陵の賦税簿を、明朝までに整えてください」
「承知いたしました」
「戸数、耕作面積、昨年の収穫、今年の見込み。四つを突き合わせ、齟齬があれば印を」
「はい」
——妥当な指示である。
内容も明確だ。期限も切ってある。
さすが制度設計百。
俺は少し安心して、部屋の隅で木簡に落書きを始めた。
その夜、馬良は残って作業をした。
灯火が、遅くまで点いていた。
◆
翌朝。
俺がまた泣いて執務室へ侵入すると、諸葛亮が竹簡を巻き終えたところだった。
「おはようございます、若君」
「こうめい」
「はい」
「ねた?」
「休みました」
——嘘だ。
```
睡眠時間 直近一日 半刻
```
一時間である。
俺は机の上を見た。
零陵の賦税簿が、美しく整っていた。
——美しすぎる。
昨夜、馬良が書いていた字とは違う。
もっと細く、もっと均等で、一字たりとも傾いていない。
俺は諸葛亮を見上げた。
「これ」
「はい」
「きじょう?」
諸葛亮は、当たり前のように答えた。
「季常が仕上げたものを、私が確認し、整えました」
「なおした?」
「三十四箇所ほど」
三十四。
「まちがい?」
「いえ」
諸葛亮は、少し首を傾げた。
「誤りは、二つでした。残りの三十二は、書き方の統一でございます」
——出た。
俺の背筋が、冷たくなった。
【完全主義】——小さな誤りを放置できない。
誤字が二つ。あとは全部、この人の好みである。
◆
馬良が入ってきた。
「孔明さま。零陵の簿ですが——」
そこで、彼は机の上を見た。
言葉が、途切れた。
「……お直しくださったのですか」
「大したことはしておりません」
諸葛亮は微笑んだ。
「よくできておりました」
——それが、一番いけない。
俺は視界の数字を見ていた。
```
【馬良】
提案意欲 71 → 58
```
——十三、下がった。
馬良は、頭を下げた。
「ありがとうございます。次からは、書式を揃えます」
「お気になさらず」
「いえ。孔明さまのお手を煩わせました」
そして、彼は出ていった。
穏やかな、丁寧な会話だった。
誰も怒っていない。誰も傷つけていない。
そして、何かが確実に、壊れた。
◆
俺は、諸葛亮の袖を引いた。
「こうめい」
「はい」
「なんで、いわない」
諸葛亮の羽扇が、止まった。
「……何を、でございましょう」
「なおす、まえ」
俺は必死に言葉を選んだ。二歳の口では、二語しか続かない。
「いって、から」
——直す前に、本人に言え。
「ここが違う」「ここは書式を揃えてくれ」と、先に本人へ伝えろ。
黙って直すな。
諸葛亮は、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「申し上げれば、季常は傷つきます」
「うそ」
「若君?」
「もう、きずついた」
——部屋の空気が、変わった。
諸葛亮の表情から、あの穏やかな笑みが消えた。
◆
前世で、俺は同じことを何百回もやった。
部下の資料に赤を入れる時間より、自分で書き直す時間のほうが短い。だから書き直した。
そして「よくできていたよ」と言った。
嘘ではない。実際よくできていた。八割は。
だが、部下は分かる。
自分の書いた文章が、一行も残っていないことに。
そして次から、彼らは「叩き台」しか作らなくなる。
どうせ全部書き直されるなら、時間をかけるだけ無駄だからだ。
俺は、部下の手を抜かせるために、自分の睡眠時間を削っていた。
それに気付いたのは、死ぬ半年前だった。
気付いても、直せなかった。
——だから俺は、死んだ。
◆
「若君」
諸葛亮が言った。
「一つ、お尋ねしてよろしいですか」
「うん」
「なぜ、そこまでお分かりになるのです」
答えられない。
前世で同じことをして死にました、とは言えない。
俺は黙った。
諸葛亮は、それ以上追及しなかった。
代わりに、こう言った。
「……確かに、私は直しすぎるのかもしれません」
「うん」
「ですが、季常はまだ日が浅い。誤りが上へ届けば、あの者の評価が下がります」
「まもってる?」
「そう、お考えいただければ」
——それが一番厄介なのだ。
この男は、善意で組織を壊す。
悪意なら止められる。だが善意は止まらない。本人が正しいと思っているからだ。
俺は、別の角度から攻めることにした。
◆
俺は手を伸ばした。
諸葛亮の羽扇へ、である。
「若君?」
「かして」
諸葛亮は、少し驚いた顔をした。
そして——あっさりと、渡した。
「どうぞ」
——え。
俺は拍子抜けした。
前回、俺はこの扇を根拠に「あなたは物も仕事も預けられない」と言った。張飛がその解釈を叫び、諸葛亮は「耳が痛い」と笑った。
だから今回も渋ると思っていた。
渡された。
俺は羽扇を両手で抱えた。
思ったより重い。柄は白木で、汗が染みて色が変わっている。羽は白鳥のものだろうか。長く使い込まれて、先が少し擦り切れていた。
——そして、柄の端に、細い糸が巻いてあった。
擦り切れた箇所を、誰かが繕った跡である。
糸の色が、二種類あった。
——二度、繕われている。
三年で、二度。
この人は、三年で二度しか帰っていない。
そして、帰るたびに、誰かがこの扇を繕った。
「重うございましょう」
「うん」
俺は羽扇を振ってみた。
風は起きなかった。二歳の腕では、振ることすらできない。
諸葛亮が笑った。
「まだ、若君には早うございます」
——そして俺は、見た。
諸葛亮の右手が、何も持っていないのに、扇ぐ動作をしていた。
指が、二度、空を撫でた。
本人は気付いていない。
◆
俺は、羽扇を見た。
そして、諸葛亮の空の手を見た。
——渡せるのは、物だけだ。
この人は扇を人に渡せる。筆も渡せる。竹簡も渡せる。
だが、手が覚えている動作は、渡せない。
仕事も同じだ。
紙の上では、確かに馬良へ渡した。指示も明確だった。期限も切った。
だが、この人の頭の中では、一度も手放していない。
だから深夜に確認し、三十四箇所を直し、一時間しか眠らない。
——過労は、結果である。
原因は、これだ。
俺は、ようやく理解した。
諸葛亮を休ませるだけでは、意味がない。
温泉へ送っても、書類を隠しても、この人は治らない。
「渡した」と本人が思える状態を、作らなければならない。
そのためには——
渡した相手が、自分より下手でも構わない、と思えなければならない。
◆
「こうめい」
「はい」
「これ」
俺は羽扇を持ち上げた。
「だれの」
諸葛亮の動きが、止まった。
長い沈黙があった。
灯火の芯が、ぱち、と鳴った。
「……ある者から、贈られました」
「だれ」
「若君には、まだ早いお話です」
逃げた。
だが、逃げ方で分かった。
俺は諸葛亮の顔を見上げた。
この人は、隆中に家がある。畑があり、書斎があり、妻がいる。
そして三年前、劉備が三度訪ねてきたとき、それを全部置いて出てきた。
それきり、ほとんど帰っていない。
——この扇は、家から持ってきた唯一の物なのではないか。
だから手放さない。
だから何も持っていないときも、手が扇を探す。
「こうめい」
「はい」
「かえりたい?」
諸葛亮は、答えなかった。
俺は、もう一つ聞いた。
「だれか、いる?」
——諸葛亮の指が、止まった。
「……おります」
「だれ」
「若君には、まだ早いお話です」
——二度目である。
この人は、同じ台詞で、二度逃げた。
代わりに、羽扇へ手を伸ばした。
俺は、渡した。
諸葛亮はそれを受け取り、膝の上に置いた。
そして、初めて——扇がなくても、手を動かさなかった。
「若君」
「うん」
「私は、帰るために働いております」
——嘘だ。
この人は、帰らない。
俺は知っている。
二十五年後、この男は五丈原の陣中で倒れる。
隆中へは、帰らない。畑も、書斎も、二度と見ない。
「こうめい」
「はい」
「かえって」
「はい?」
「いちど、かえって」
諸葛亮は、俺を見た。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「天下が定まりましたら」
——それでは、遅い。
天下は定まらない。少なくとも、この人が生きているうちには。
◆
その日の午後、俺は馬良を探した。
彼は倉庫の裏で、竹簡を運んでいた。
「若君? どうなさいました」
「きじょう」
「はい」
俺は、地面に落ちていた小枝を拾った。
そして、土の上に線を引いた。
三十四本。
「なに、これ」
「……三十四?」
「なおされた、かず」
馬良の表情が、固まった。
「若君は、それを」
「うん」
彼はしばらく黙り、それから困ったように笑った。
「孔明さまは、私のために直してくださったのです」
「きく」
「は?」
「つぎ、きく」
——次は、聞け。
なぜ直したのか、三十四箇所全部、本人に聞け。
黙って「次から書式を揃えます」と言うな。
あなたが聞かなければ、あの人は永遠に黙って直し続ける。
馬良は、俺を見つめた。
そして、白い眉を少しだけ上げた。
「……お尋ねしても、よろしいのでしょうか」
「うん」
「孔明さまのお時間を、頂くことになります」
「とる」
俺は言った。
「時間を、取ってよいと?」
「うん」
「しかし」
「とらないと、しぬ」
馬良が、息を呑んだ。
「……誰が、でございますか」
俺は答えられなかった。
二歳の口では、「あの人が二十五年後に過労で死ぬ」とは言えない。
言えたとしても、言わない。
俺は代わりに、地面の三十四本の線を、足で消した。
そして言った。
「みんな」
```
【馬良】
提案意欲 58 → 66
```
——八、戻った。
十三下がって、八戻った。
まだ五、足りない。
俺は木簡を出して、書き足した。
《一度下がった意欲は、下がった分だけ戻らない》
◆
別れ際、馬良が言った。
「若君。実は、弟がおります」
「おとうと」
「はい。馬謖と申します。まだ二十歳ですが、いずれ荊州へ呼び寄せたいと」
俺の身体が、固まった。
馬謖。
「あの子は、私よりずっと弁が立ちます。兵法を語らせれば、私など足元にも及びません」
馬良は、心底嬉しそうに笑っていた。
「よく、喋る?」
「ええ。よく喋ります」
「あにうえ、より?」
「私より、ずっと」
——説明能力と、現場能力は、別物である。
前世で、俺はそれで何度も人事を誤った。
会議室で最も理路整然と話す人間が、現場で最も指示を出せない、ということが本当にある。
そして俺は知っている。
十九年後、この弟が街亭で敗れる。
そして諸葛亮が、泣いて彼を斬る。
俺は馬良を見上げた。
この人は、その八年前に夷陵で死ぬ。
だから弟の最期を、知らずに済む。
それが救いなのか、それとも一番の残酷さなのか、俺には分からなかった。
◆
その夜、俺は木簡へ二行、書き足した。
《孔明を止められる者を、増やす》
その下に、《今のところ、一人》とある。
俺はそこへ、線を足した。
《一人と、半分》
——馬良は、まだ半分だ。
質問はできるようになった。だが、断れない。断る力十七のままでは、遠からずこの人も潰れる。
そして俺は、もう一行書いた。
《馬謖/二二八年/街亭》
書いてから、少し迷って、その横に丸を描かなかった。
——まだ、決まっていない。
死ぬと決まったわけではない。
俺が変えれば、変わるかもしれない。
そう思いたかった。
◆
灯火を消す前、俺は窓の外を見た。
執務室の明かりが、まだ点いていた。
——
俺は木簡を胸に抱えたまま、その光を見ていた。
あの人は、二十五年後に死ぬ。
原因は、魏でも、司馬懿でも、病でもない。
今、あの部屋で三十四箇所を直している、その手だ。
残り、二十五年。
長いようで、短い。
そして俺は、まだ、二つである。
次回 第13話「魯粛は採用できない」




