第11話 先生は二歳児を試験する
二歳になった。
語彙が、一語から二語に増えた。
そして俺が最初に覚えた二語は、「もう、ねろ」だった。
◆
相手は諸葛亮である。
赤壁が終わり、荊州南部の四郡が劉備の手に落ちた。劉備軍は、生まれて初めて「本社」と呼べる土地を得た。
創業十五年目にして、ようやく賃貸物件から自社ビルへ移った段階である。
それに伴い、諸葛亮が俺の先生になった。
正確には、軍師として働く傍ら、「時間があるときに」文字や歴史を教えることになった。
問題は、この男に「時間があるとき」が存在しないことである。
◆
朝は軍議。
昼は孫権との同盟に関する書状の作成。
夕方は兵糧の確認。
夜は曹操軍の進路分析。
そして深夜には、なぜか倉庫の計量単位統一についての細則まで書いていた。
——それは、俺が始めた話だ。
去年の冬、夏口で帳簿の単位がずれていた。荊州の斛と江夏の斛を、同じ一斛として合計していた。だから米が消えたように見えた。
俺は「単位を揃えろ」と言った。正確には「これ」と升を指差しただけだが、糜竺が汲み取ってくれた。
それを、この男は九か月かけて三十七条の細則にしていた。
前世で言えば、俺が会議で「経費精算の単位を統一しましょう」と言ったら、翌年、部長が一人で規程集を作って提出してきたようなものである。
正しい。完璧である。
そして、絶対に一人でやる仕事ではない。
◆
「こうめい」
俺は竹簡の山を指差した。
「おおい」
諸葛亮は羽扇を静かに動かした。
「これでも、必要最低限にございます」
嘘をつけ。
【諸葛亮】
身体疲労 12 → 19
睡眠不足 軽度
仕事満足度 96
休養意思 2
——休養意思、二。
権限委譲三より低い。
この男は、働かせれば働かせるほど喜ぶ。
非常に危険な人材である。
◆
「孔明。阿斗の相手までさせて、すまぬな」
劉備が言った。
「いえ。若君との時間は、私にとっても有意義です」
諸葛亮が俺を見る。
笑顔は穏やかだ。
だが、目が笑っていない。
完全に、俺を観察している。
——去年の冬、俺は一歳児としては不自然なことを言いすぎた。
「無駄には、死なせぬ国を」——あのとき、俺の言葉を継いだのはこの男自身だった。
だから疑っている。
あの子は、神童なのか。それとも、別の何かなのか。
俺は諸葛亮を採用したつもりだった。
しかし、諸葛亮も俺を審査している。
幼児教育という名の、相互面接が始まった。
◆
部屋は寒かった。
冬の川風が、板の隙間から入ってくる。灯火の油が焦げる匂いと、墨をすった後の水の匂いが混ざっていた。
諸葛亮は、木の駒を五つ、床に並べた。
「本日は、数を学びましょう」
「うん」
「ここに、兵が五人おります」
——一歳児向けとしては、妥当な設問である。
いや、俺はもう二歳だ。まあ、妥当だ。
「二人が、別の場所へ移りました。残りは何人でしょう」
三人である。
当然だ。
だが、即答してはならない。
俺は駒を掴み、口へ運んだ。
「若君」
諸葛亮が、静かに止めた。
「これは、食べ物ではありません」
知っている。
一歳児らしさを演出しているのだ。
いや、二歳児らしさだ。
俺は駒を床へ落とした。
「あー」
——張飛なら、ここで「神童ではなかったか」と安心するだろう。
しかし、諸葛亮は表情ひとつ変えなかった。
「では、もう一度」
しつこい。
知略百の男は、一度の偽装では騙されない。
◆
諸葛亮は駒を並べ直した。
「兵が五人おります。そのうち二人が、負傷しました」
——設定が、変わった。
「残りは、何人でしょう」
五人である。
負傷しても、人数そのものは減らない。
単純な引き算ではない。
俺は黙った。
諸葛亮が続けた。
「では、戦える者は何人ですか」
三人。
「食料は、何人分必要でしょう」
五人。
「負傷者を運ぶ者を一人ずつ付ければ、前線に残るのは何人でしょう」
一人。
——一歳児向けではない。
完全な圧迫面接である。
俺は諸葛亮を睨んだ。
「むずかしい」
「申し訳ありません」
口では謝っているが、明らかに楽しそうだ。
◆
俺は駒を動かした。
負傷者二人を、後方へ置く。
一人を、その横に付ける。
残った二人を、前へ並べた。
諸葛亮の眉が、わずかに動いた。
「……二人ですか」
俺は頷いた。
——負傷者一人につき一人の護衛を付ければ、前線には一人しか残らない。
だが、負傷の程度によっては、一人で二人を支えられる。
「なぜ、二人なのです」
説明しにくい。
俺は負傷者の駒を隣り合わせに置き、護衛役をその間へ移した。
諸葛亮が、理解した。
「一人で、二人を支える」
「うん」
「しかし、一人では負傷者二人を運べません」
俺は、部屋の隅を指差した。
そこには、荷を運ぶための小さな車が置かれていた。糜竺が帳簿を運ぶのに使っているものだ。
「これ」
諸葛亮が、荷車を見た。
「……車を、使う」
「うん」
「人員の不足を、道具で補うのですか」
——そうだ。
人手が足りないなら、人を増やすだけではない。
道具、制度、配置によって、一人あたりの仕事量を変える。
諸葛亮は、しばらく駒を見つめていた。
諸葛亮から劉禅への興味度 61 → 72
——上がってしまった。
もう少し、馬鹿なふりをするべきだった。
◆
諸葛亮は、次に十個の石を並べた。
「こちらは、兵糧です」
また、問題が始まる。
「兵五人が、一日に一つずつ食べます。何日、持つでしょう」
二日。
俺は指を二本立てた。
「正解です」
——今度は、幼児向けだった。
安心した瞬間、諸葛亮が石を一つ取り除いた。
「輸送中に、一つ失いました」
残り、九。
一日目に五つ。
二日目には、四つしかない。
——五人に、四つ。
俺は石を四つと五つに分けようとして、手を止めた。
「二日目は、一人だけ食べられません」
諸葛亮が言った。
俺は、首を横に振った。
そして、石を五つに分ける動作をした。指で、一つの石を割るような真似をする。
「全員の量を、減らす」
「うん」
「では、兵全員の力が、少しずつ落ちます」
俺は頷いた。
「一人を飢えさせるか、全員へ少なく配るか」
諸葛亮は、俺を見た。
「若君なら、どちらを選びますか」
——難しい質問である。
状況による。任務。兵の体力。翌日の補給。敵との距離。
一律の答えはない。
前世でも同じだった。人員削減で、一部門を丸ごと切るか、全社で一律に給与を下げるか。
前者は組織が残る。後者は人が残る。
どちらを選んでも、恨まれる。
◆
俺は、石を一つ持ち上げた。
そして、諸葛亮の前へ置いた。
残りを、五人分へ分ける。
「これは?」
「よび」
「予備として、一つ残すのですか」
「うん」
「ただでさえ足りないのに?」
俺は頷いた。
——不足しているときこそ、すべてを使い切ってはならない。
事故。負傷。追加任務。予測不能な事態。
前世で、俺が見た倒産企業には、共通点があった。
運転資金を、ぎりぎりまで削っていた。
効率化の名の下に、余裕を全部そぎ落としていた。だから、たった一件の入金遅延で倒れた。
「みんなで」
俺は言った。
全員が、少しずつ負担する。
誰か一人に、犠牲を集中させない。
それが最善とは限らない。だが少なくとも、俺が作りたい国の考え方には近い。
◆
諸葛亮は、羽扇を止めた。
そして、静かに言った。
「若君は——明日の不足より、明後日の不測を恐れるのですね」
俺は、諸葛亮を見上げた。
正確すぎる。
俺が二歳の身体と、崩れた発音と、駒と石だけで示したものを、この男は一行で言語化した。
「うん」
「ですが、そのために、今日の兵が空腹となります」
「うん」
「それでも、残しますか」
「のこす」
諸葛亮は、石を一つずつ拾い上げた。
そして、独り言のように呟いた。
「……経営とは、正解のない選択をすることなのか」
◆
俺は、そこで気付いた。
——この人は、俺を試していたのではない。
いや、試してもいた。
だが、それ以上に——自分が悩んでいることを、誰かに聞いてほしかったのではないか。
この男の周りには、対等に議論できる人間がいない。
劉備は「孔明に任せる」と言う。関羽と張飛は戦のことしか聞かない。糜竺は数字は見るが、判断はしない。
知略百の人間は、孤独である。
前世の俺と、同じだ。
俺は誰にも相談しなかった。相談しても、俺より詳しい人間がいなかったからだ。
だから全部、自分で決めた。
そして全部、自分で抱えて死んだ。
「こうめい」
俺は呼んだ。
「はい」
「せんせい、ねた?」
諸葛亮の羽扇が、止まった。
「……は?」
「ねた?」
「本日のことでございますか」
「きのう」
「……昨日は」
「おととい」
諸葛亮は、答えなかった。
睡眠時間 直近三日 合計四刻
——四刻。
一刻がおよそ二時間だ。
三日で八時間。
前世の俺の、繁忙期より悪い。
そして俺は、その働き方で死んだ。
◆
「ねろ」
俺は言った。
「若君。まだ書状が」
「ねろ」
「三通だけです」
「ねろ!」
「……ご心配には及びません」
趙雲と同じ台詞を言うな。
この軍の人間は、全員同じ台詞で断ってくる。「問題ありません」「ご心配には及びません」——
誰か一人でも、素直に「疲れました」と言え。
俺は諸葛亮の筆へ手を伸ばした。
諸葛亮は、静かに筆を持ち上げた。
俺の手が届かない高さである。
「若君。書は、まだ早うございます」
取り上げようとしたのだ。
俺は立ち上がり、諸葛亮の膝によじ登った。
「若君?」
そして、腕を掴んだ。
「ねろ」
「……困りましたな」
困っているのはこちらだ。
俺は諸葛亮の腕にぶら下がったまま、視界の数字を睨んでいた。
休養意思 2 → 2
動かない。
一ミリも動かない。
趙雲は動いた。生存意思が三上がった。
この男は、動かない。
◆
そのとき、扉が開いた。
「孔明さま」
甘夫人だった。
湯の入った椀を、二つ持っている。
「阿斗が、ご迷惑をおかけしておりませんか」
「いえ。若君は、大変よくお勉強なさいます」
嘘をつけ。
俺は駒を口に入れた男である。
甘夫人は椀を置き、諸葛亮の手元を見た。
竹簡。筆。灯火。
そして、静かに言った。
「お休みください」
「もう少しだけ」
「お休みください」
「しかし、書状が三通」
「お休みください」
——声が、まったく変わらない。
大きくもならない。強くもならない。
ただ、同じ言葉を、同じ調子で三度言った。
諸葛亮は、しばらく黙っていた。
そして、羽扇を閉じた。
「……承知いたしました」
俺は、目を疑った。
休養意思 2 → 2
実際の行動 休養へ移行
数値は動いていない。
だが、行動が変わった。
——なんだ、それは。
俺が全力でぶら下がっても一ミリも動かなかった男が、母の三言で筆を置いた。
◆
甘夫人は俺を抱き上げた。
「阿斗も、もう寝る時間です」
「かいぎ」
「一つの子が、深夜まで学問をしてはいけません」
二つです。
先月、二つになりました。
甘夫人は笑って、俺の額を撫でた。
「そうでしたね。二つでした」
「うん」
「では、二つの子が、深夜まで学問をしてはいけません」
論点が変わっていない。
母は俺を抱いたまま、部屋を出た。
廊下は冷えていた。長江から吹き上げてくる風が、麻の衣を通り抜けていく。
俺は母の肩越しに、部屋を振り返った。
諸葛亮が、灯火を消していた。
本当に、休むらしい。
◆
——この家で、あの人を止められるのは、母上だけだ。
俺は考えた。
なぜだ。
俺には未来知識がある。能力値が見える。権限委譲三も、休養意思二も、過労死という予測死亡要因も、全部見えている。
それでも、動かせない。
母は何も知らない。
諸葛亮が二十五年後に五丈原で倒れることも、権限委譲三という数字も、知らない。
それでも、動かせる。
なぜだ。
——俺は、母の首に額を押し付けた。
薬草の匂いがした。
分かった気がした。
俺は「休め」と命令していた。
母は「休め」と心配していた。
同じ言葉でも、届き方が違う。
前世で、俺は部下に何度も言った。「無理するな」「早く帰れ」。
一人も、早く帰らなかった。
当たり前だ。
俺自身が、誰よりも遅くまで残っていたのだから。
◆
「阿斗」
甘夫人が言った。
「孔明さまが、お好きですか」
「うん」
「では、あの方が疲れておられるとき、教えてくださいね」
「かかも」
「私も?」
「かかも、つかれる」
甘夫人は、少し驚いたように俺を見た。
それから、笑った。
「大丈夫です」
——六回目。
俺は数えている。
「かか」
「はい」
「うそ」
「まあ」
母は声を上げて笑った。
「阿斗には、敵いませんね」
◆
その夜、俺は木簡へ一行、書き足した。
《孔明を止められる者を、増やす》
そして、その下に。
《今のところ、一人》
——一人。
たった一人しかいない。
俺はこのとき、この一人がいなくなる日のことを、まったく考えていなかった。
母は、この年に死ぬ。
そして俺がその役目を継ぐまでに、二十五年かかる。
次回 第12話「羽扇を手放せない男」




