第155話 六十四年ぶりの文字
【景耀十四年|成都】
西暦二七一年。
——六十四である。
寝台から起き上がれなくなって、十日が過ぎていた。
——半月前に、一度倒れた。
そして、峠を越した。
翌朝、朝議は予定どおり開かれ、俺の席は空いていた。
——あのときは、「ご休養中」と告げられた。
そして、五日で、また臥せった。
——医官は、日を言わない。
俺も、聞かない。
成都の、宮である。
窓の外に、粟の畑があった。
——丞相府の庭から、移したものだ。
黄夫人が、四十年、育てていた。
そして、十八年前にあの人が死んでから、俺が引き取った。
——枯らしていない。
四十年分の種が、まだ続いている。
そして、名は《二畝》のままである。
四十六年前、俺がつけた。
——二つの畝で、二人という意味である。
そして、その意味を知っていた人は、二人とも、もういない。
◆
枕元に、郤正がいた。
——十年、この人は俺のそばにいる。
そして、いつも書いている。
「陛下」
「うむ」
「何か、遺されますか」
——俺は、首を振った。
「もう、渡した」
「……はい」
「四行だ」
「はい」
——郤正は、懐から木簡を出した。
八年前、俺が焼かなかった一枚である。
四行、書いてある。
「陛下」
「うむ」
「一つだけ、伺ってよろしいか」
「申せ」
——郤正は、聞いた。
「四人とは」
◆
俺は、少し笑った。
——八年前と、同じである。
一字も、変わっていない。
そして、この人は、八年待って、同じことを聞いた。
「令先」
「はい」
「八年前、何と答えた」
——郤正は、答えた。
「『それを聞くのが、史の仕事だ』と」
「はい」
「『そして、答えぬのが、こちらの仕事だ』と」
「覚えておるな」
「覚えております」
「では、今日も同じだ」
——郤正は、深く頭を下げた。
そして、こう言った。
「……八年、待った甲斐がございませんでした」
「うむ」
「次の者にも、聞かせます」
「そうしろ」
俺は、そこで、一つ付け足した。
「令先」
「はい」
「三十年、聞き続けろ」
「答える者が、いなくなってもだ」
◆
その夜、視界に、文字が出た。
——六十四年ぶりである。
いや。
——人の能力は、毎日見ていた。
そうではない。
あの声が、文字になって出たのは、六十四年ぶりだった。
【国家経営目標 達成状況を確定します】
対象国家 蜀漢
最終目標 西暦二六三年の国家滅亡を回避する
結果 達成
——俺は、その二文字を、長いこと見ていた。
——達成。
そんな言葉が出るとは、思っていなかった。
六十四年、一度も出なかった。
丸を四角に変えるたび、数字が二か三動くだけだった。
◆
文字が、続いた。
副次結果
救えた者 十一名
救えなかった者 五名
記録した名 千二百八十七名
うち、名の不明な者 二千四百戸ほか
主人公依存度 最終値 十九%
——俺は、その最後の数字で、息を止めた。
——十九。
二十五年前、七十一だった。
そして、俺は、それを下げるために二十五年使った。
制度を増やしたのではない。減らした。
——俺が決めなくてよいことを、一つずつ、他人へ渡した。
十九である。
六十四年前、劉備の子として生まれた日と、ほぼ同じだ。
あの日、俺は何も決められなかった。
今日も、何も決めなくてよい。
——違うのは、理由だけである。
そして、最後の一行が出た。
【終了しますか】
はい
いいえ
——俺は、その二つを、しばらく見ていた。
——終了。
そういう言い方をするのか。
前世で、俺は何度もこの言葉を書いた。
《本案件は、これをもって終了とする》
《引き継ぎ完了後、担当を解く》
——そして、俺は一度も、引き継ぎ資料を作らなかった。
深夜二時四十七分に、床へ倒れた。
引き継ぎは、一枚もなかった。
◆
俺は、「いいえ」を見た。
——押せば、どうなるのだろう。
まだ、やることがあるのか。
いや。
——関羽は、生きて閬中で死んだ。
張飛は、部下に殺されなかった。
趙雲は、退役の日に自分で「明日の予定」を書いた。
諸葛亮は、七十まで生きて、隆中の畑を一度見た。
馬謖は、斬られなかった。
孟達は、転職願を出した。
諸葛瞻は、綿竹から帰ってきた。
——そして。
諸葛喬は、谷で死んだ。
甘夫人は、二歳の俺の前で死んだ。
張松は、兄に売られた。
魯粛は、呉で死んだ。
蘇路は、三つの国のどこにも載らなかった。
——五人である。
六十四年で、五人。
——押しても、五人は戻らない。
◆
俺は、「はい」へ、手を伸ばした。
そして——止めた。
——四人の名は、どうなる。
俺が終われば、消える。
どこにも書いていない。
甘夫人。孫夫人。糜夫人。黄夫人。
四人とも、俺しか知らない。
——消える。
俺は、枕元を見た。
郤正が、眠っていた。
膝に、木簡が乗っている。
《四人の名を、俺は知っている》
《どこにも、書いていない》
《書かなかったのではない》
《書くなと、言われたからだ》
——書いてある。
「知っている」と、書いてある。
そして、「書くなと言われた」とも。
——名前は、消える。
そして、名前が四つあったことは、消えない。
——それで、いい。
あの四人は、たぶん、それを望んだ。
俺は、「はい」を押した。
——押した、という感覚は、なかった。
ただ、視界が、静かになった。
——六十四年、俺の目の隅では、いつも数字が動いていた。
誰かの疲労。誰かの忠誠。誰かの危険度。
——全部、消えた。
何も、表示されなかった。
二歳の朝に見た、あの空白と同じだった。
——遠くで、郤正が何か言った。
聞こえなかった。
そして、たぶん、俺の名を呼んだのだと思う。
——六十四年である。
そして、最後に呼ばれたのは、諱ではなかった。
「陛下」である。
——それで、よかった。
名は、たぶん、呼ばれないほうが長く残る。
——そして、成都では。
◆
翌朝、蜀漢の朝議は、予定どおり開かれた。
皇帝の席は、空いていた。
——陳恭が、劉禅崩御を伝えた。
全員が、立ったまま泣いた。
しばらく、誰も話せなかった。
——やがて、記録官が議題を読み上げた。
第一——河川の堤防修理。
第二——魏との国境交易。
第三——退役兵への土地給付。
第四——新帝即位の日程。
——一つずつ、議論が始まる。
意見が分かれる。反対が出る。記録する。修正する。決める。
——皇帝が死んだ日も、国は動いた。
劉禅が、望んだとおりに。
◆
——半月前、同じ席が、一度空いていた。
あのときは、「ご休養中」と告げられた。
そして、議題は、同じ四つだった。
——違いは、一つである。
今度は、戻らない。
——そして、朝議は、同じように終わった。
同じ刻に始まり、同じ順で議題を読み、同じように意見が割れた。
——予行が、あった。
半月前の一日が、そのまま使われた。
——本人は、それを知らない。
そして、たぶん、いちばん喜ぶ形である。
◆
それから、さらに年月が過ぎた。
魏では、司馬氏が皇帝位を奪い、晋を建てた。
呉でも、皇帝と重臣の争いが続いた。
——蜀漢は、大国にはならなかった。
天下を統一もしなかった。
漢中全域を取り戻すことも、長安へ帰ることもできなかった。
——何度か、領土を失った。
何度か、取り戻した。
魏。晋。呉。羌族。南中。
多くの勢力と、戦い、交渉した。
——蜀漢が、永遠に続いたわけではない。
永遠に続く国など、おそらく存在しない。
だが。
——西暦二六三年。
その年に、蜀漢は滅びなかった。
劉禅は、洛陽へ連れて行かれなかった。
宴席で、蜀を思わないと言う必要も、なかった。
◆
そして、声がした。
——六十四年ぶりの、声である。
——お疲れさまでした。
俺は、答えた。
——ずいぶん、遅い。
——申し訳ございません。
——六十四年だ。
——はい。
——一つ、聞いていいか。
——どうぞ。
俺は、聞いた。
——なぜ、俺だったんだ。
——声は、少し黙った。
そして、答えた。
——あなたが、引き継ぎ資料を作らずに死んだからでございます。
——俺は、そこで、笑った。
六十四年で、いちばん、腹の底から笑った。
◆
——黒瀬直人さま
——六十四年前、私はあなたに、こう伺いました
——「あなたは、英雄に依存しない組織を作れますか」
——そして、あなたは「当たり前だ」と答えられました
——今は、いかがでしょう
俺は、答えた。
——一人では、無理だ。
——はい。
——十一人でやって、四角一つ分だった。
——はい。
——だが、できる。
声は、答えた。
——では
——六十四年前と、同じ声である。
そして、同じように、次の話を始めようとしている。
〈あとがき〉
「四人とは」——八年待って、同じことを聞かれました。そして、同じ答えを返しました。「三十年、聞き続けろ。答える者が、いなくなってもだ」。
主人公依存度、十九。生まれた日と、ほぼ同じです。あの日は何も決められませんでした。今日は、何も決めなくてよい。違うのは、理由だけです。
「押しても、五人は戻らない」。六十四年で、五人でした。
そして「なぜ、俺だったんだ」「あなたが、引き継ぎ資料を作らずに死んだからでございます」。
半月前に一度、同じ席が空きました。あのときは「ご休養中」でした。そして今度は、戻りません。議題は、同じ四つでした。「予行が、あった。半月前の一日が、そのまま使われた。——本人は、それを知らない。そして、たぶん、いちばん喜ぶ形である」。
次回、エピローグ。




