第156話 エピローグ 阿斗は、蜀を思わない
——もう一つ、お引き受けいただけますか。
——今度は、条件が、三つ違います。
——一つ。組織は、既にございます。
——巨大でございます。天下の富の、半ばを持っております。
——制度も、法も、検地も、貨幣も、既にございます。
——創業者が、間もなく死にます。
——そして、その方は、後継の仕組みを、何一つ作っておられませぬ。
◆
俺は、聞いた。
——蜀と、同じか。
——いいえ。
——蜀は、貧しく、時がございました。
——今度は、富んでおり、時がございませぬ。
——何年ある。
声は、答えた。
——六年です。
——六年。
五十五年で、ぎりぎりだった。
龐統の兜に、四年かけた。
関羽の丸を四角にするのに、十年かかった。
張飛の暗殺危険度を、七から下げるのに、十一年かかった。
——六年で、何ができる。
◆
——二つ目でございます。
声は、続けた。
——今度は、頂点では、ございませぬ。
——重臣でございます。
——上に、人がおります。
——俺は、そこで、少し黙った。
六十四年、俺は皇帝だった。
嫌な命令も、出せた。規定も、自分で決められた。
——今度は、決められない。
——上の方は。
声は、答えた。
——検討という言葉を、嫌っておられます。
——俺は、笑った。
——龐統か。
——少し違います。
——どう違う。
——士元さまは、退屈すると働きませんでした。
——今度の方は、退屈すると、人を燃やされます。
◆
——三つ目でございます。
——これが、いちばん大きゅうございます。
——声は、少し間を置いた。
そして、こう言った。
——あなたが入る方は、既に四十八でございます。
——俺は、そこで、息を止めた。
——赤子では、ないのか。
——ございませぬ。
——病で臥せっておられます。
——重うございます。
——そして、周囲は、死ぬと思っております。
——俺は、そこで、一つ考えた。
六十四年前、俺は生まれたところから始めた。
首が据わらない。歩けない。話せない。
そして、時間だけは、あった。
——今度は、逆である。
◆
俺は、聞いた。
——誰だ。
——文字は、出なかった。
——申し上げられませぬ。
——なぜだ。
声は、答えた。
——申し上げれば、六年、そのつもりで生きられます。
——そして、あなたは、それを一番得意とされます。
——俺は、そこで、黙った。
——正しい。
六十四年、俺は死亡年表を持っていた。
誰が何年に死ぬかを、知っていた。
そして、知っていたから、優先順位をつけた。
——母を、後回しにした。
——お答えは。
文字が、出た。
【引き受けますか】
はい
いいえ
——俺は、そこで、少し考えた。
六年である。上に、人がいる。
身体は、四十八で、死にかけている。
そして、誰に入るかも、教えられていない。
——俺は、「いいえ」を押した。
何も、起きなかった。
そして、文字が、また出た。
【引き受けますか】
はい
いいえ
——そうですか。
——では、もう一度伺います。
——俺は、もう一度「いいえ」を押した。
【引き受けますか】
——お戯れを。
——三度目。
——恐れながら、それは選べませぬ。
——四度目。
——陛下。
◆
俺は、そこで、手を止めた。
——六十四年で、初めて呼ばれた。
この声に、である。
六十四年前は、「黒瀬さま」だった。
そして、今は「陛下」である。
——叱るときの呼び方だ。
五度目を、押した。
——董允さまが、生きておられましたら。
——同じことを、申されたと存じます。
——俺は、そこで、手を下ろした。
——反則である。
二十三年、四百六十二回叱られた人の名を出された。
◆
俺は、聞いた。
——なぜ、選べないものを出す。
文字は、少し遅れて出た。
——選べぬと書けば、お叱りを受けます。
——「選択肢を示しておいて、選ばせぬのは、欺いておる」と。
——俺は、そこで、声を出して笑った。
三十九年前、俺が規定に書いた。
《辞退は、認めない》
《理由——辞退できる休暇は、休暇ではないゆえ》
丞相に、六か月の休暇を命じたときのものである。
そして、あの人は、辞退しようとして、規定を読んだ。
◆
俺は、六度目を押さなかった。
代わりに、一つ聞いた。
——断れないなら、なぜ聞く。
文字は、答えた。
——命じられて行く方は、六年保ちませぬ。
——自分で選んだと思っておられる方は、保ちます。
——俺は、そこで、しばらく黙っていた。
——六十四年、俺がやってきたことである。
関羽に、三つの条件を出させた。
黄忠に、「自分のことでございますゆえ」と言わせた。
張飛に、「俺を掲げろ」と言わせた。
——全部、自分で選ばせた。
そして、選択肢は、一つしかなかった。
俺は、「はい」を押した。
そして、押す前に、一つ言った。
——一つ、覚えておけ。
——はい。
——次は、選ばせろ。
文字は、少し遅れて出た。
——善処いたします。
——善処。
前世で、俺はこの言葉を何度も使った。
一度も、やらなかった。
——理由を、伺ってよろしいですか。
俺は、少し考えた。
そして、答えた。
——六十四年、人の残り時間を数えてきた。
——はい。
——一度も、自分のを数えなかった。
——今度は、最初から出ている。
——楽だ。
——声は、少し黙っていた。
そして、こう言った。
——黒瀬さま
——はい
——それが、いちばん危のうございます
——視界が、暗くなった。
暗い。
そして、重い。
——身体が、動かない。
六十四年前と、同じである。
そして、理由が違った。
——六十四年前は、生まれたばかりだったからである。
——今度は、死にかけている。
◆
竹の匂いが、しなかった。
——六十四年、俺のそばには、いつも竹の匂いがあった。
墨と、竹の繊維と、灯火の油の匂い。
——しない。
代わりに——
畳の、青い匂いがした。
遠くで、蝉が鳴いていた。
そして、女の声がした。
——言葉が、違う。
漢の言葉では、なかった。
それでも、意味が分かった。
「殿」
「お目を、開けられました」
——殿。
六十四年で、一度も呼ばれなかった呼び方である。
俺は、陛下だった。
◆
俺は、目を開けた。
天井が、低い。
木と、紙でできている。
そして、女が一人、枕元にいた。
痩せている。
そして、三日は寝ていない顔だった。
俺は、視界を確認した。
そして、そこにあったものを見て——
息が、止まった。
【? 字・?】
年齢 四十八
生命危険度 赤
残り時間 六年
——そして、その下に、一行あった。
史書における最終評価 ——謀反人
——俺は、その四文字を、長いこと見ていた。
名前は、出ていない。
そして、評価だけが出ている。
——六十四年前、俺は暗愚と書かれる男だった。
そして、今度は、謀反人である。
◆
俺は、そこで、一つ思い出した。
六十二年前、四つの字を書いた。
木簡である。
法正という男について、こう書いた。
《行い、悪くない》
——あの人は、庭の土の上に手をついた。
四つの字で、である。
——そして、あのとき、俺はこう思った。
《それは、書いても、誰も読みませぬ》
《国の役には、立ちませぬ》
そう言われて、「それでも書く」と答えた。
——四つの字で、人が変わることがある。
六十二年、俺はそれを知っている。
俺は、枕元の女を見た。
名を、知らない。
そして、この人が誰かは、分かった。
——六十四年、俺は人を見てきた。
三日寝ていない顔をするのは、一種類しかいない。
俺は、口を開こうとした。
声が、出なかった。
喉が、渇いている。
それでも、喋れる。
——六十四年前は、喋れなかった。
二年かかった。
俺は、言った。
「水を」
——そして、自分の声で喋れることに、驚いた。
◆
女が、水を持ってきた。
手が、震えていた。
そして、こう言った。
「三日、お目を覚まされませんでした」
——俺は、水を飲んだ。
そして、一つ聞いた。
「何年です」
女は、怪訝な顔をした。
そして、答えた。
「天正四年でございます」
——天正四年。
六十四年、俺は建安と建興と延熙で生きた。
知らない年号である。
そして、六年後に、何かが起きる。
◆
俺は、そこで、少し笑った。
喉が、痛んだ。
それでも、笑った。
——六十四年、俺は人の記録を直してきた。
名のない者に、名を与えた。
正しく呼ばれていない者の、字を書いた。
誤って書かれた男に、四つの字を渡した。
——そして、自分のことは、一度も書かなかった。
俺は、女に聞いた。
「筆は、ありますか」
——この人は、驚いた顔をした。
そして、こう言った。
「殿。まだ、お休みください」
——俺は、首を振った。
首が、据わっている。
振れる。
六十四年前は、これができなかった。
「一行だけです」
俺は、言った。
「一行書いたら、休みます」
——女は、しばらく俺を見ていた。
そして、筆を持ってきた。
——六十四年前、甘夫人も、同じ顔をした。
止めようとして、止めなかった顔である。
◆
筆が、来た。
紙である。
竹では、ない。
——六十四年で、初めて紙に書く。
俺は、一行書いた。
手が震えて、字が歪んだ。
六十四年前、三歳で書いた字と、同じくらい下手だった。
《まだ、書かれていない》
——そして、俺は、筆を置いた。
女が、それを読んだ。
そして、こう聞いた。
「殿」
「何です」
「これは、何でございましょう」
——俺は、答えた。
「私の評です」
「……」
「まだ、書かれていません」
——女は、意味が分からないという顔をした。
そして、紙を畳んで、懐へ入れた。
——捨てなかった。
六十四年、俺はそれを何度も見た。
意味が分からないものを、捨てずに持っている人がいる。
そして、そういう人が、いちばん長く、それを持っている。
俺は、目を閉じた。
——六年である。
上に、人がいる。
身体は、四十八で、死にかけている。
そして、俺の評は、まだ書かれていない。
——まず、起き上がることからだ。
六十四年前は、二年かかった。
今度は、三日で済ませる。
蝉が、鳴いていた。
そして、遠くで、誰かが薪を割る音がした。
——朝である。
俺は、その音を聞きながら、一つだけ考えた。
——今度は、誰の名を、最初に聞こうか。
◆
~MBAホルダーの阿斗、関羽の孤立・張飛のパワハラ・孔明の過労死を組織改革で止める~
第一部 完
——第二部へ続く
〈あとがき〉
六十四年、人の残り時間を数えてきた人が、初めて自分の残り時間を渡されました。「楽だ」——そして、「それが、いちばん危のうございます」。
「陛下」と呼ばれました。叱るときの呼び方です。そして董允の名を出されて、手を下ろしました。反則です。
《辞退は、認めない》《辞退できる休暇は、休暇ではないゆえ》——三十九年前、自分が書いた規定で、自分が捕まりました。
「一つ、覚えておけ」「次は、選ばせろ」「善処いたします」。
そして、最後の一行。《まだ、書かれていない》。
——ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
三国志の物語を書くつもりで始めたはずなのに、気が付けば「組織の話」になっていました。
優秀な人がいることと、優秀な組織であることは違う。
英雄がいることと、英雄に依存しないことも違う。
前世の知識を持った阿斗が変えたかったのは、歴史そのものではありませんでした。
関羽を助けたかった。
張飛を止めたかった。
諸葛亮を休ませたかった。
けれど本当に残したかったのは、一人の天才や英雄に国の運命を預けなくても回る仕組みだったのだと思います。
そして、この物語でもう一つ書きたかったことがあります。
三国志には英雄がいます。
劉備がいます。
関羽がいます。
張飛がいます。
諸葛亮がいます。
趙雲もいます。
ほとんど欠点がなく、最後まで人としても武人としても立派だった趙雲でさえ、この物語では一人の人間でした。
一方で。
関羽を裏切った麋芳や士仁。
張飛を殺した范彊や張達。
失街亭の馬謖。
反骨の将として語られる魏延。
蜀を滅ぼした奸臣として語られる黄皓。
失脚した李厳。
傲慢と呼ばれた廖立。
歴史の中では、
英雄、
忠臣、
問題児、
失敗者、
裏切り者、
奸臣。
それぞれの名前に、簡単な評価が与えられています。
私はこの物語を書きながら、何度も考えました。
彼らは本当に、その一言で説明できる人たちだったのだろうか、と。
麋芳や士仁は、本当にただの裏切り者だったのか。
范彊や張達は、本当に卑怯者だったのか。
馬謖は、本当に無能だったのか。
魏延は、本当に反骨だけの人だったのか。
黄皓は、本当に最初から国を滅ぼすために生きていたのか。
姜維は、本当に北伐だけを考える戦争好きだったのか。
王平は、なぜあれほど目立たないのに国を支え続けられたのか。
毎日怒鳴られ続けた人だったのかもしれない。
失敗を許されなかった人だったのかもしれない。
組織の歪みを一身に引き受けた人だったのかもしれない。
ただ生き残りたかっただけの人だったのかもしれない。
もちろん、彼らの行動を正当化したいわけではありません。
ただ、英雄にも事情があるように、失敗した人にも事情がある。
忠臣にも弱さがあり、
裏切り者にも恐怖があり、
問題児にも誇りがあり、
奸臣にも人生がある。
私はそう思っています。
だからこの物語では、
諸葛亮だけでなく董允を書きました。
趙雲だけでなく王平を書きました。
劉備だけでなく
龐統を書きました。
法正を書きました。
黄夫人を書きました。
張皇后を書きました。
姜維を書きました。
魏延を書きました。
黄皓を書きました。
名も残らない兵士たちを書きました。
そして麋芳や士仁も、范彊や張達も書きました。
三国志は英雄の物語です。
ですが同時に、
英雄を支えた人たちの物語であり、
英雄に救われた人たちの物語であり、
英雄に振り回された人たちの物語でもあります。
阿斗が守ろうとしたのは、英雄だけではありませんでした。
失敗した人も。
疲れた人も。
休めなかった人も。
歴史から悪役にされた人も。
歴史に名前が残らなかった人も。
みんなまとめて守りたかったのだと思います。
関羽は孤立せず、
張飛は部下に殺されず、
諸葛亮は五丈原から生きて帰りました。
長安は取れませんでした。
天下も統一していません。
それでも、皇帝が死んだ翌日、朝議は予定どおり開かれました。
この物語は、そういう話でした。
歴史を変えた英雄の物語ではなく、
英雄がいなくなった後も続く国を作ろうとした、一人の阿斗の物語です。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
またどこか別の物語でお会いできれば幸いです。
東雲 諒杏 (シノノメ リョウアン)




