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転生したら劉禅だったので、諸葛亮に有給休暇を取らせます~MBAホルダーの阿斗、関羽の孤立・張飛のパワハラ・孔明の過労死を組織改革で止める~  作者: 東雲 諒杏
第九部 英雄がいなくても、明日は来る

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第154話 歴史書に、残らなかったもの


【後世】


後世、歴史家たちは、劉禅(りゅうぜん)をどのように評価するか迷った。


——戦場での大勝利、ほとんどない。


自ら敵将を討った記録、ない。


天下統一、未達成。漢室復興、未達成。領土拡大、限定的。


それでも、蜀漢は、国力差を抱えたまま、予想以上に長く存続した。


歴史書には、奇妙な記録が残っていた。


——皇帝が、高官へ休暇を命じた。


将軍が、部下へ謝った。


軍神が、自分の旗を下ろした。


敗将が、処刑されず水を運んだ。


裏切りを考えた者が、裏切る前に相談した。


丞相が、戦場から生きて帰った。


皇帝の命令が、臣下の異議で修正された。


無名の将が、成都を守った。


そして——皇帝が死んだ翌日も、朝議が開かれた。


    ◆


ある歴史家は、劉禅を批判した。


《武功なし》


《大志なし》


《父祖の旧都を回復せず》


《魏へ朝貢し、屈辱を受く》


別の歴史家は、こう書いた。


《国を存すること、武名に勝る》


《一人に依らず、衆議をもって政を行う》


《敗を隠さず、誤りを後世へ伝う》


《故に小国なれど、急には亡びず》


——どちらが正しいか、決める者はいない。


そして、両方が同じ簿に載っている。


——それは、偶然ではない。


二百六十年前、一人の男が、そういう様式を作った。


《反対した者の名も、賛成した者の名も、同じ簿に載ります》


書いたのは、諸葛亮(しょかつりょう)である。


    ◆


数百年後、軍学校跡から、古い木箱が見つかった。


中には、畳まれた旗。普通の団扇。割れた水桶。


そして、多くの報告書。


——最初の一枚。


幼い文字である。


《父上へ》


《今日は、何もしないでください》


——諸葛亮へ休めと命じる前。


劉備(りゅうび)へ、一日だけ仕事を減らしてほしいと書いた。


幼い劉禅の文書だった。


その横に、諸葛亮の筆跡。


《陛下》


《主公へ休暇を取らせるのは、臣にも困難です》


さらに下、張飛(ちょうひ)の字。


《酒は休暇に含まれるか》


関羽(かんう)の字。


《軍務に支障がなければ、少量》


董允(とういん)の追記。


《含まれません》


——誰かが、後から書き加えたのだろう。


そして、最後に、もう一行あった。


字が、下手である。


《俺は含まれると思う》


——誰の字かは、分からない。


そして、たぶん、分からないほうがいい。


    ◆


歴史家は、その木簡を読んで、初めて笑った。


——英雄たちは、遠い神ではなかった。


休まない。怒る。間違える。言い訳する。酒を飲む。失敗を隠したくなる。


——ただの、人間だった。


そして、劉禅も、全てを見通した名君ではなかった。


未来を知り、数字を見る力を持ちながら、何度も間違えた。


父を止めきれず、兵を死なせ、制度の隙を作り、働きすぎ、叱られた。


——それでも、間違えた人間を、記録から消さなかった。


後世のある学者は、劉禅の政治を《阿斗政》と呼んだ。


——最初は、愚かな政治という意味で使われた。


だが、時代が下るにつれ、意味が変わった。


《優秀な一人へ依存しない政治》


《失敗を隠さず、修正可能にする政治》


《皇帝すら、休ませ、止め、交代できる政治》


——皮肉なことに、暗愚の象徴だった名前が、英雄依存を避ける言葉へ変わった。


    ◆


ある学生が、教師へ尋ねた。


「劉禅は、蜀を愛していたのでしょうか」


教師は、答えた。


「分からない」


——学生は、驚く。


「国を残したのに」


「国を愛したから残したのか」


「人を愛したから戦わなかったのか」


「父との約束を守っただけなのか」


「全てかもしれない」


——教師は、畳まれた旗を見る。


「ただ」


「彼は蜀を」


「自分一人のものだとは思わなかった」


——それだけは、記録から分かる。


蜀は、皇帝のものではない。


関羽のものでも、諸葛亮のものでも、英雄たちのものでもない。


そこに生き、働き、反対し、間違え、直し、休み、明日へ渡す。


——全ての人のものだった。


    ◆


学生が、もう一つ聞いた。


「先生」


「なんだ」


「この箱に、名簿はございませんか」


——教師は、答えた。


「ある」


「何人分でございましょう」


「千二百八十七」


——学生は、しばらく黙った。


そして、こう言った。


「全部、名がございますか」


教師は、答えた。


「ある」


「……」


「そして、一つだけ、名のない行がある」


——学生が、顔を上げた。


教師は、竹簡を開いた。


そして、一行を指した。


そこには、線が一本、引いてあるだけだった。


——六百本、引こうとして、途中で腕が疲れた木簡である。


墨が、面の半分を黒く塗り潰している。


「これは」


「分からぬ」


「では、なぜ残っております」


——教師は、答えた。


「消さなかったからだ」


    ◆


学生は、名簿の末尾も開いた。


そこには、小さな注記があった。


《名を望まなかった者、四名》


《望みの通りとする》


——その下に、皇帝の筆跡で一行、書き足されている。


《代わりに、実るものへ置いた》


「先生。二畝、でございますか」


「だろうな」


——教師は、答えた。


「簿に載る名は、功にもなり、責にもなる。その、どちらにもならない場所を選んだ人たちがいた、ということだ。そして、その場所には、名の残らなかった千人がいる」


——学生は、二畝という粟の名を思い出した。数百年、田で呼ばれ続けてきた名である。


——名は、残らなかったのではない。


形を変えて、毎年、実っていた。


    ◆


劉禅が死ぬ、その日。


後世には残らなかった小さな会話がある。


——半月前に一度倒れ、峠を越し、そして再び臥せった日である。


侍中の陳恭(ちんきょう)が、寝台の横で尋ねた。


「陛下」


「魏へ朝貢し」


「漢中を取り戻せず」


「天下を統一できなかったことを」


「悔いておられますか」


——劉禅は、少し考えた。


そして、こう答えた。


「悔しいです」


「では」


「蜀を思われますか」


——後世の劉禅なら、楽しくて思わない。


そう答える場面だった。


劉禅は、笑った。


「思います」


「毎日」


「では、なぜ」


陳恭が尋ねる。


「そのように穏やかでいられるのです」


——劉禅は、窓の外の成都を見た。


市場。灯り。人の声。


明日の朝議へ向けて、文書を運ぶ官吏。


訓練から帰る兵。家族のもとへ帰る者。


「私が思わなくても」


劉禅は言った。


「皆が思っています」


——自分一人が、蜀を思い続けなくてよい。


国を背負い続けなくてよい。


忘れても、休んでも、死んでも、ほかの誰かが、明日を考える。


「だから」


劉禅は、目を閉じた。


「もう」


「私一人では」


「蜀を思わなくてよいのです」


    ◆


——英雄が国を救うのではない。


英雄がいなくても動く仕組みが、国を残す。


そして、仕組みだけが国を残すのでもない。


仕組みを守り、必要なら変え、次の人へ渡す。


名もない人々が、国を残す。


——劉禅は、天下を統一しなかった。


それでも、人が明日を迎えられる国を、残した。


それが、暗愚と呼ばれるはずだった皇帝の、誰にも奪えない勝利だった。



〈あとがき〉


《武功なし》と《国を存すること、武名に勝る》。二つの評が、同じ簿に載っています。それは偶然ではありません。二百六十年前、諸葛亮がそういう様式を作りました。


木箱の最後の一行——《俺は含まれると思う》。誰の字かは分かりません。たぶん、分からないほうがいい。


千二百八十七人分の名簿に、一行だけ名のない行があります。線が一本、引いてあるだけです。「これは」「分からぬ」「では、なぜ残っております」「消さなかったからだ」。


「もう、私一人では、蜀を思わなくてよいのです」。


次回、六十四年ぶりの文字。


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― 新着の感想 ―
「自分が過労死した記憶を恐れたのか」 これ前世のこととか一般に広まってるってことですよね シミュレーション世界とかの電脳空間に意識放り込まれて観察されてたとか?
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