外伝・姜維伝 『上に、三十人おりました』 (〜270年)
序 死亡記事
史書には、こう書かれるはずだった。
《維、魏に降り、鍾会と共に乱を図る》
《事敗れ、殺さる》
——蜀が滅んだ後、姜維は魏に降り、鍾会をそそのかして反乱を企て、露見して殺された。腹を裂かれ、胆の大きさを検分された、と伝わる。
◆
そうならなかった。
国が、滅ばなかったからである。
そして、国が滅ばなかった理由の一つは——三十五年前、この男が名簿の欄外に書いた、一行だった。
《上に、三十人おりました》
第1話 閉められた門
建興六年、天水。姜維は、二十六だった。
そして、置いて行かれた。
◆
蜀が来た、と聞いた翌日、太守の馬遵は夜のうちに上邽へ逃げた。部下を、連れて行かなかった。
残されたのは、四人。功曹の梁緒。主簿の尹賞。主記の梁虔。そして、参軍の姜維。
役職だけは、立派に揃っていた。守るべき太守だけが、いなかった。
◆
四人は翌朝、上邽へ向かった。半日で着いた。
門が、開かなかった。
上から、声がした。
「賊が来た」
姜維は、上を見た。見知った顔である。半年前に、同じ卓で飯を食った。
「私だ」
「知っておる」
「では、開けよ」
「太守が、開けるなと申された」
「理由は」
男は、答えなかった。そして、姿を消した。
——知っていて、賊と呼んだ。この呼吸を、姜維は生涯忘れない。
◆
次に、冀城へ向かった。姜維の生まれた城である。
母が、いる。
一日半かかった。そして、そこも開かなかった。
今度は、誰も上に出てこなかった。
姜維は、門の前で四半刻立っていた。
「母がおる」
返事は、なかった。
「姜家の者だ。母がおる」
返事は、なかった。
◆
梁緒が、袖を引いた。
「伯約。行こう」
姜維は、動かなかった。
「開けば、我らが入る。入れば、城が蜀に通じたことになる」
姜維は、そこで理解した。
——開けないのが、正しい。母を守るには、閉じるしかない。
正しさが、これほど寒いものだとは、二十六まで知らなかった。
◆
四人は、野に臥した。三日である。
一日目——誰も喋らなかった。
二日目——尹賞が泣いた。
三日目の朝、梁虔が聞いた。
「伯約。どうする」
「決めておらぬ」
「三日、経った」
「うむ」
「四日目は、来る」
姜維は、その日、決めた。理由を、後に一度だけ言っている。
「一日で決めれば、恨みでござる。十日待てば、打算でござる。三日は」
——迷っております。
◆
降った。
名簿に、自分で書いた。姓名。出身。年齢。降伏の日。
そして、率いていた者——なし。
参軍である。兵を率いていない。書かなくてよい欄外に、一つ迷って、書いた。
《上に、三十人おりました》
愚痴のつもりか、申告のつもりか、本人にも分からなかった。
これが、三十五年後に国を守る一行になる。
第2話 翌日、呼ばれた
降った翌日、丞相府へ呼ばれた。
姜維は、覚悟をしていた。降人の扱いを言い渡される、と。
諸葛亮は、一つしか聞かなかった。
「上の三十人は、何をしておられた」
◆
姜維は、正直に答えた。
「存じませぬ。会ったことがございませぬゆえ」
「三十人のうち、何人が使えるか」
——会ったことがない相手である。答えられない質問だ。
そして、答えた。
「七人」
「根拠を」
「命令が、七人からしか降りて参りませなんだ」
諸葛亮の羽扇が、止まった。
「二十三人は」
「職に、就いております」
「それだけか」
「それだけでございます」
◆
諸葛亮は、しばらく黙り、言った。
「よい」
「……何が、でございましょう」
「上を数える者は、多い。……上のうち何人が働いているかを数える者は、おらぬ」
◆
その日のうちに、武器が返された。降って、翌日である。
宴の席は、末席ではなかった。決めたのは、費禕である。
三月後、奉義将軍・当陽亭侯。降って、三月である。
評定で、反対が三つ出た。三人とも同じことを言った。
「早うございます」
皇帝が、聞いた。
「何年なら、よろしいですか。三年ですか。五年ですか」
三人は、答えられなかった。
「決めておられないなら、それは反対ではありません」
一人が食い下がった。
「降人でございます」
「王平どのも、降人です。九年前に降られました。……先月、四千二百を連れて帰られました」
◆
反対は、記録に残された。三名の署名と、空いた理由の欄。
皇帝が、そこへ一行書かせた。
《理由——降人であるため》
董允が、聞いた。
「なぜ、書かせますので」
「二十年後に、読むためです。……そのとき、正しかったかどうかが分かります」
姜維がそれを読むのは、二十五年後である。
第3話 止められた三十年
姜維は、北伐を止められ続けた。三十年である。
止め方が、変わっていた。禁じられたのではない。——書類で、落とされ続けたのである。
◆
一度目、建興十二年。却下理由の欄に、四文字あった。
《種の分類なし》
意味が分からず、費禕に聞いた。
「種とは、出兵の目的でございます。甲——領土を取る。乙——敵を拘束する。丙——情報を得る。……一つの出兵に、二つ以上の種を混ぜてはならぬ、とございます」
姜維は、書き直した。
二度目——《甲種。維持費の見積もりなし》
三度目——《維持費が歳入の三割を超える》
四度目——《終了条件なし》
五度目——《終了条件が「勝利」となっている。数字で書かれたし》
◆
却下の木簡を、姜維は捨てなかった。綴じて、取ってあった。
後年、この綴りは丞相府で『却下集』と呼ばれ、新任武官の教本に使われることになる。本人は、複雑な顔をした。
——三十年落とされ続けた男の落とされ方が、教材として一級だったのである。
◆
五度目の後、姜維は皇帝に直接会いに行った。
「陛下。勝利では、いけませぬか」
「いけません。……勝利がいつ来たか、誰が決めますか」
「……私でございます」
「では、あなたが決めるまで終わりません」
◆
六度目、終了条件を数字で書いた。
《四十日、または三郡回復》
通った。
そして姜維は、三十九日目に、自分で退いた。一日、早い。
「なぜ、一日早く退かれました」
「四十日目に、迷いとうございませんでしたゆえ」
◆
通った出兵は、いずれも終了条件どおりに帰った。一度も、超えなかった。
超えなかった北伐の指揮官は、史上この男だけである。
そして、通らなかった案の方が、はるかに多かった。
◆
延熙十六年、費禕が刺された。刺したのは、降人だった。
姜維は評定で、降人の扱いを改めよと言った。三つ挙げた。
三年、武器を持たせぬ。宴の席を離す。昇進に上限を置く。
皇帝が、静かに聞いた。
「伯約どの。あなたは、降人です」
広間が、静まった。
「三年、武器を持たされませんでしたか」
「……持たされました」
「翌日に、ですね」
「翌日でございます」
「宴の席は」
「末席では、ございませなんだ」
「昇進の上限は」
姜維は、長く黙った。
「……大将軍になっております」
「三つとも入れていたら、あなたは今、どこにおられますか」
長い沈黙のあと、姜維は答えた。
「……天水の参軍のままでございましょう」
◆
その夜、姜維は二十五年前の記録を見せられた。
三名の署名。そして、理由の欄。
《理由——降人であるため》
「二十五年前です。……そのとき正しかったかどうかが、今分かります」
姜維は、長いことそれを見ていた。そして、聞いた。
「私の三つも、二十五年後に読まれますか」
「読まれます」
姜維は、三つの提案を、自分で取り下げた。
終章 剣閣
景耀六年。魏が来た。姜維、六十一である。
鍾会。鄧艾。諸葛緒。三方からだった。
姜維は、剣閣にいた。道は一本。そこを塞いで、四十日、動かなかった。十万の鍾会が、退きかけた。
◆
その頃、鄧艾が陰平を越えていた。
——三十四年前、武都・陰平を取ったとき、皇帝は維持費を数字で書き、一言残している。
「山だから、道を塞げば済みます」
姜維は、それを記録で読んでいた。そして、塞ぐ者を置いていた。
鄧艾は、江油で止まった。守将の馬邈——史実では降る男である。降らなかった。二十年前、武備学舎で退き方を習っていた。教えたのは、関羽の弟子の弟子である。
綿竹では、諸葛瞻が止めた。死ななかった。終了条件が書いてあり、退く順番が決まっていたからである。
◆
成都で、降伏の議が起きた。譙周が五つ挙げ、末席の劉諶が崩した。
姜維は剣閣にいて、報せを七日後に受けた。三行だった。
《降伏の議、退けられる》
《北地王、五つ目のうち三つ目を崩す》
《根拠——于禁の記録》
「于禁とは」
伝令は、答えられなかった。四十四年前の話である。
◆
姜維は、後にそれを調べた。
樊城で降り、名簿に載せてくれと言い、三百四十二人目として自分で名を書いた男である。魏へ送り返され、辱められて死んだ。
その記録が、四十四年後、降伏の議を崩した。
姜維は、そこで一つ理解した。
——降人の記録が、国を守った。
三十五年前、自分が名簿の欄外に書いた一行と、同じものである。
◆
剣閣で、姜維は竹簡に書いた。
《降人の記録は、消してはならぬ》
《理由——四十四年後に、使うことがある》
成都へ送ると、皇帝はそれを規定に入れた。理由の欄は、姜維の文を、そのまま使った。
◆
魏軍は、退いた。姜維は、剣閣にそのまま留まった。
三年後、成都へ戻った。六十四である。
そして、退役願を出した。
◆
表題——《北方軍事評議常任職離任願》
理由の欄には、老い、とだけあった。
皇帝は、意外な顔をした。
「伯約どのが。……自分から」
「陛下。私は、以前より戦いたくなくなったのではありません」
「では」
「むしろ——残された時間が少ないほど、一度、大きな戦をしたくなります」
「……」
「だから、権限を持つべきではありません」
◆
——関羽は、自分の権威を理由に退いた。
そして姜維は、自分の感情を理由に退いた。
「いつ、そう思われましたか」
「三年前でございます。魏が来た年に、鍾会から書が参りました。……そして、私は、三日、迷いました」
皇帝は、頷いた。
「一日なら、恨みです」
「はい」
「十日なら、打算です」
「——」
「そして、三日は」
姜維は、答えた。
「迷っております。……そして、迷った者は、いつか決めます」
——三十六年前、天水の野で三日臥した男の、同じ台詞である。
本人が言うのを、皇帝はこの日初めて聞いた。どこで覚えたのかと問われて、姜維は少し笑った。
「武備学舎でございます。祭酒が、教材にしておられました」
——自分の三日が、教材になっていた。
◆
後継者を問われて、姜維は一人の名も出さなかった。
羌族交渉。兵站。山岳戦。防御。情報。それぞれに、別の若い者を推した。
「私の志を、誰か一人へ渡さないでください」
——丞相と、同じ結論である。
北伐は、国の選択肢の一つ。誰かの人生そのものにはしない。
◆
「伯約どの。二十年、待っていただきました。……そして、三十六年になりました」
姜維は、少し笑った。
「陛下。桟道は、できております。輸送の損耗は、三割から、一割を切りました」
「はい」
「——そして、私は、それを使っておりませぬ」
皇帝は、答えられなかった。
姜維は、続けた。
「使わずに済んだのでございます。……そして、それを、私は、二十年目に分かりました」
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退役の受理された日、姜維は二つ聞いた。
「陛下。北伐は、成りませなんだ」
「成らなくてよいのです。……乙種でしたゆえ」
——敵を拘束する。魏は、ついに蜀を落とせなかった。乙種としては、満点である。
「もう一つ。三十年、止められました。なぜ、追い出されませなんだ」
「止めるのと、追い出すのは違います。……止めれば、次があります」
◆
そして、最後に一つ聞いた。三十六年、聞かなかったことである。
「冀城の門は、開くべきでございましたか」
皇帝は、しばらく黙り、答えた。
「開かなくて、よかったのです。開けば、城が蜀に通じたことになります。そして、母上が」
言葉が、止まった。
姜維は、言った。
「母は、翌年に死にました。城の中で、でございます」
「……」
「城は、落ちませなんだ」
閉じられた門の内側で、母は畳の上で死んだ。開かなかった門を、姜維は三十六年かけて、恨まないことにしたのである。
◆
姜維は、二七〇年に死んだ。六十九である。
退いてから、五年。北伐を止められ続けた三十年より短く、そして、この男の生涯で最も静かな五年だった。
遺品に、竹簡が一本あった。四十二年前、天水で書いた名簿の、写しである。
《姜維 字は伯約》
《天水郡冀県の出》
《年、二十六》
《降伏の日——建興六年、二月》
《率いていた者——なし》
そして、欄外の一行。
《上に、三十人おりました》
◆
裏に、書き足しがあった。姜維の字で、三行。
《三十人のうち、七人が使えると申し上げた》
《四十二年、そのつもりで生きた》
《使えなかった二十三人が、なぜ職に就いていたかは、ついに分からぬ》
◆
皇帝は、それを読んだ。そして、四行目を書き足した。
《分からぬままでよい》
《分かれば、二十三人を数えることになる》
そして、その下に。
《数えれば、七人を忘れる》




