第153話 休沐日の、庭
【景耀十四年|成都】
西暦二七一年。
蜀漢皇帝・劉禅は、六十四歳になっていた。
朝、目を覚ますと、身体が重かった。
——以前から、長く歩くと息が切れる。
食事の量も減った。
医官は、休養を勧めている。
侍中は、既に俺の執務時間を、一日二刻へ減らしていた。
「陛下」
陳恭が言う。
「本日のご決裁は、三件です」
「少ないですね」
「昨日、陛下ご自身が二件増やされました」
「重要でした」
「地方の橋の修理と、軍馬の飼料です」
「重要です」
「担当官が決められます」
——昔、董允にも、同じように叱られた。
四百六十二回である。
数えていたのは、俺ではない。あの人が、自分で数えていた。
「休沐日は」
陳恭が言う。
「明日です」
「覚えています」
「先月は、休沐日に軍学校へ」
「散歩です」
「講義をなさいました」
「質問されたので」
「執務です」
——逃げ道は、ない。
三代目にして、この職はまだ生きている。
◆
俺は、三件の文書を読む。
一件目——魏との国境交易。
二件目——呉からの避難民受け入れ。
三件目——皇位継承に関する確認。
——最後の文書で、手が止まった。
俺は、既に退位の準備を進めていた。
息子へ、皇位を渡す。
ただし、皇帝の仕事を、全て渡すわけではない。
執行評議。行政院。軍事評議。監察院。外交会議。
それぞれの権限は、そのまま残す。
——新しい皇帝が、自分の側近だけで国を動かせないようにする。
「陛下」
陳恭が尋ねる。
「ご気分が」
「問題ありません」
——その瞬間、胸の奥に、小さな痛みが走った。
陳恭の目が、細くなる。
「今、痛みがございましたね」
「ありません」
「医官を呼びます」
「決裁が」
「それはなりません」
——最後まで、この国の侍中は強い。
◆
医官が来る。脈を取る。胸へ耳を当てる。横になるよう命じる。
俺は、執務室ではなく、庭へ運ばれた。
——空が、青い。
昔、初めて休暇を取った日も、同じ庭を歩いた。
母と粥を食べ、弟たちと馬へ乗った。
——父は、もういない。
母も、弟たちも。
関羽。張飛。趙雲。諸葛亮。
龐統。法正。蔣琬。費禕。董允。
王平。馬謖。姜維。
——多くの人が、先に去った。
それでも、国は残っている。
——完全な形では、ない。
魏へ朝貢している。漢中北部の一部も、まだ戻っていない。
呉との同盟も、何度も揺れた。
南では反乱。北では小競り合い。財政が苦しい年もある。
官吏の不正も、将の対立も、皇族の面倒も、なくならない。
——組織改革をすれば、全ての問題が解決する。
そんなことは、なかった。
ただ、問題が起きたとき、誰か一人が、全てを背負わなくてよくなった。
誰か一人が、死ぬまで働かなくてよくなった。
誰かが間違えても、国全体が、一緒に崩れなくなった。
——それだけだった。
だが、それで十分だった。
◆
「陛下」
陳恭が、庭へ一枚の報告書を持ってきた。
「休養中です」
「緊急ではありません」
「では、なぜ」
「陛下へ見せたいと」
——差出人、軍学校。
表題、《指揮官不在訓練・第百回実施報告》
——趙雲が始めた訓練である。
百回目。
最高指揮官——途中で離脱。
第二指揮官——負傷判定。
第三指揮官——通信不能。
それでも、避難民、負傷者、兵站車、全てが予定地点へ到着。
損失、想定以内。
報告書の最後に、一行あった。
《本訓練の創設者である趙雲将軍へ、感謝を記録する》
——俺は、笑った。
「子龍叔父上は」
「喜びますか」
陳恭が尋ねる。
「困ると思います」
「なぜです」
「自分の名を、消してほしいと言うでしょう」
——だが、消さない。
人へ依存しないことと、人を忘れることは違う。
名前は残す。功績も、失敗も。
その上で、同じ人間を再現しようとしない。
——四十二年前、俺は簿の三行目を線で消した。
《いつか、名簿の順を、変える》
そして、書き直した。
《名簿の順は、変えない》《代わりに、簿を増やした》
——今日、その簿が百回目になった。
◆
「陛下」
別の若い官吏が、庭へ入る。
「軍学校から、もう一件」
——小さな木箱。
中には、古い布。
関羽の旗だった。
——長年、講堂へ保管されていた。
生地が傷み、修復が必要になった。
「新しく作り直すべきか」
「現物を保存するか」
——軍学校で、意見が分かれているらしい。
「新しい旗を作る必要はありません」
俺は答えた。
「では、古い旗を修復しますか」
「最小限で」
——破れた部分を、全て美しく直さない。
下ろされた旗であることが、分かるように残す。
「なぜです」
若い官吏が尋ねる。
——何度も、同じ質問を受けた。
「勝った旗ではないからです」
「敗北の記念ですか」
「帰還の記録です」
——旗を下ろした。
だから、関羽は帰れた。
兵も、一部が帰った。
失ったものは、多い。
それでも、全てを失わなかった。
「この国は」
俺は言った。
「勝利の記録より」
「帰った記録を大切にしてください」
——若い官吏は、深く頭を下げた。
そして、一つ聞いた。
「陛下」
「はい」
「この旗を、下ろされたのは、どなたでございますか」
——俺は、そこで、少し驚いた。
五十二年である。
そして、この人は、知らない。
「関雲長どのです」
「……」
「そして、旗を降ろせと申し上げたのは、私です」
——若い官吏は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「では、なぜ、旗のほうが残っておりますので」
俺は、答えた。
「言った人より、やった人のほうが、偉いからです」
◆
その日の夕方、息子が来た。
——次の皇帝となる男である。
緊張している。
俺が皇帝になった日と、同じ顔をしている。
「父上」
「座ってください」
「御加減は」
「悪くありません」
——医官が、背後で首を横に振っている。
「少し悪いそうです」
「父上」
——息子の顔が、曇る。
「皇位の件ですが」
「はい」
「私は」
——言葉を探す。
「祖父上のような魅力も」
「孔明様のような知略もありません」
——同じだ。
俺も、即位の日に言った。
「必要ありません」
「ですが」
「私のようになる必要もありません」
——息子が、顔を上げる。
「父上のような皇帝に」
「ならなくてよいのです」
——母が、俺へ言った言葉である。
玄徳様にならなくてよい。
同じように苦しまなくてよい。
◆
「皇帝の役割は」
俺は言う。
「全てを正しく決めることではありません」
「では」
「間違えた時に」
「止めてもらえる状態を守ることです」
——侍中。監察官。執行評議。軍事評議。地方官。民の訴え。
皇帝へ、反対する経路である。
「賢い皇帝になろうとしなくてよい」
「愚かな皇帝にならないよう」
「周囲を黙らせないでください」
——息子は、しばらく考え、頭を下げた。
「承知しました」
「もう一つ」
「はい」
「休んでください」
「父上まで」
——苦笑する。
「皆に言われます」
「ならば守っていないのでしょう」
——血は、関係ない。
働きすぎは、継承されるらしい。
俺は、そこで、一つ渡した。
「これを」
——木簡である。
《私の、休んだ日》
四十八年、書いてきた。
そして、一年に平均して、四日である。
息子は、それを読んだ。
そして、こう言った。
「……少のうございます」
「はい」
「父上」
「はい」
「これは、見習うものでございますか」
俺は、答えた。
「いいえ」
「では」
「数えるところだけ、見習ってください」
◆
夜、身体の痛みが強くなった。
医官が集まる。
家族。侍中。側近。
——大勢を呼ぼうとした。
俺は、止めた。
「朝議は」
「通常どおり行ってください」
陳恭が答える。
「陛下が危険な状態です」
「だからです」
——趙雲の葬儀。
翌日に、訓練を行った。
皇帝が倒れた日も、国を止めない。
「ですが」
「悲しむなとは言いません」
——俺は、息を整える。
「仕事が終わった後に」
——趙雲と、同じことを言っている。
陳恭は、涙を拭い、こう言った。
「承知しました」
◆
家族だけが、残る。
窓の外、成都の灯りが見える。
——この街へ、転生した最初から住んでいたわけではない。
長坂。荊州。益州。漢中。
多くの場所を、移った。
——前世では。
東京。米国。上海。
会議室。空港。ホテル。
仕事の途中で、死んだ。
——自分がいなければ、組織が回らない。
そう思っていた。
実際には、自分で全てを抱え、周囲が動けない組織を作っていた。
——転生して、同じことを繰り返しかけた。
諸葛亮を休ませようとして、自分が働きすぎた。
父を止めようとして、自分が全て決めようとした。
制度を作ろうとして、細部まで自分で書いた。
——董允に、何度も止められた。
四百六十二回である。
「父上」
息子が、手を握る。
「国が」
「心配ですか」
——以前、諸葛亮が退く前に、同じことを聞いた。
国は、私がいなくても動くか。
「心配です」
俺は答えた。
——息子の顔が、強張る。
「ですが」
「私がいても、心配でした」
——人がいる限り、問題は起きる。
未来は、未確定。
それでよい。
「阿斗」
——声が、聞こえた気がした。
父の声である。
《生まれてきてくれて、ありがとう》
——長坂。
抱き上げられた。
投げられそうになり、必死に指へしがみついた。
「父上」
俺は、呟く。
「今度は」
——もう、落とさなくてよい。
国も、俺も、誰か一人の腕の中にはいない。
皆で、持っている。
◆
医官が、息子へ何か言った。
小さな声だった。
——聞こえた。
「今夜が、峠でございます」
——息子が、俺の手を握り直した。
「父上」
「はい」
「何か、お言葉を」
——遺言を、求められている。
国家の未来。魏。呉。軍。財政。
多くのことが、言える。
——だが、細かな命令を残せば、次の世代を縛る。
「明日の朝議を」
「はい」
「予定どおりに」
——息子の目から、涙が落ちる。
「それだけですか」
「はい」
——一度、息を吸う。
「それと」
「何でしょう」
「休沐日を」
「守ってください」
——息子が、泣きながら笑った。
それを見て、安心した。
俺は、目を閉じた。
◆
翌朝、蜀漢の朝議は、予定どおり開かれた。
皇帝の席は、空いていた。
——陳恭が、こう告げた。
「陛下は、ご休養中でございます」
——それだけだった。
病状も、容体も、言わなかった。
そして、誰も聞かなかった。
——やがて、記録官が議題を読み上げた。
第一——河川の堤防修理。
第二——魏との国境交易。
第三——退役兵への土地給付。
第四——新帝即位の日程。
——一つずつ、議論が始まる。
意見が分かれる。反対が出る。記録する。修正する。決める。
◆
俺は、庭で、その報告を聞いた。
——生きていた。
峠を、越したらしい。
「陛下」
陳恭が言った。
「本日のご決裁は、ございませぬ」
「ゼロですか」
「ゼロでございます」
——俺は、そこで、少し笑った。
四十八年で、初めてである。
「一件も、来なかったのですか」
——陳恭は、答えた。
「参りました」
「はい」
「そして、私が止めました」
「何件ですか」
「——」
「二件でございます」
◆
俺は、そこで、一つ聞いた。
「陳恭どの」
「はい」
「二件を、書いてください」
「……はい」
「そして、報告に『ゼロ』とは書かないでください」
——この人は、少し驚いた顔をした。
「では、何と」
——俺は、答えた。
「『二件。うち二件を、侍中が止めた』と」
「……なぜ、でございましょう」
——俺は、答えた。
「ゼロは、誰も困らなかったという意味です」
「……」
「二件は、誰かが持ったという意味です」
「——」
「そして、持った人は、たぶん、眠っていません」
——陳恭は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「……六年前にも、同じことを仰せになりました」
「はい」
「そして、私は、そのとき記録を読みました」
「——」
「ゆえに、本日、止めました」
俺は、その日、一つだけ書き足した。
——《私の、休んだ日》である。
四十八年で、平均四日。
そして、今日が、四十八年目の一日になった。
——俺は、その横に、一行書いた。
《皇帝が休んだ日も、国は動いた》
——そして、その下に。
《ただし、二件は、誰かが持った》
◆
医官は、俺の脈を取って、こう言った。
「あと、幾日かでございます」
——数は、言わなかった。
そして、俺は、聞かなかった。
——四十八年前、黄夫人が同じことをした。
「還暦には届きませぬ」と書いて、日は書かなかった。
——数えられないものは、書かない。
そして、書かないほうが、たぶん、正しい。
——俺は、庭の粟を見た。
《二畝》である。
——今年も、芽が出ていた。
〈あとがき〉
「この旗を、下ろされたのは、どなたでございますか」——五十二年経って、若い官吏は知りませんでした。「言った人より、やった人のほうが、偉いからです」。
《私の、休んだ日》。四十八年で、年に平均四日です。「これは、見習うものでございますか」「いいえ。数えるところだけ、見習ってください」。
「明日の朝議を、予定どおりに」「それだけですか」「それと、休沐日を守ってください」。
翌朝、朝議は開かれました。皇帝の席は空いていて、侍中はただ「ご休養中でございます」とだけ告げました。そして、誰も聞きませんでした。
決裁はゼロ——ではありませんでした。二件あり、陳恭が止めていました。「ゼロは、誰も困らなかったという意味です。二件は、誰かが持ったという意味です」。六年前の言葉を、この人は記録で読んでいました。
次回、第154話「歴史書に、残らなかったもの」。




