第152話 終わっていないものは、捨てないでください
【景耀十四年|成都】
退位の支度を、進めていた年である。
西暦二七一年。俺は、六十四になった。
決裁は、一日に三件。
そして、侍中が二件に減らそうとしている。
陳恭という。
——董允の弟子の、弟子である。
董允が死んで、二十八年になる。
そして、この職だけは、一度も空かなかった。
その日、庭で休んでいると、文書が一枚来た。
「巴東からでございます」
——羅憲である。
字は令則。五十三になっている。
譙周の門下で、郤正の同門だ。
十三年前、巴東の太守に任じた。
永安である。
そして、一度も成都へ戻っていない。
◆
任じた日のことを、覚えている。
——古い衣を着て来た。
洗ってある。繕ってもある。
そして、新しくない。
俺は、そこで一つ聞いた。
「令則どの」
「はい」
「なぜ、巴東を望まれますか」
——この人は、三つ挙げた。
一つ。三峡の入口。
二つ。呉との境。
そして、三つ目。
「先帝が、崩じられた城でございます」
——俺は、そこで、しばらく黙った。
そして、聞いた。
「三つ目は、書きますか」
羅憲は、答えた。
「書きませぬ」
「なぜですか」
「私事でございますゆえ」
——五十年、俺は職掌表に書けない理由を、別の簿へ回してきた。
《りゆうを、かかなかったこと》
そして、この人の分は、そこの十七行目にある。
◆
文書は、十二項目である。
——様式のとおりだ。
戸数。糧。船。呉との往来。橋。病者の数。
そして、俺は、その十二項目を、十三年読んできた。
——毎年、同じ形である。
数字だけが、変わる。
そして、一度も「異常なし」と書かれていない。
——五十二年前、俺はその四文字と戦った。
そして、四百六十八枚を読んだ。
今、その様式で書く人が、この国に何百人といる。
そして、誰も、それを作った日のことを知らない。
——それで、いい。
作った日を覚えている制度は、たぶん、まだ制度になっていない。
◆
そして、十三項目目があった。
《永安宮、埃を払い了る》
《十三年、毎年払っております》
《机の上の竹簡は、そのままでございます》
——俺は、そこで、手が止まった。
十三年前である。
この人が、巴東へ着いた年だ。
そして、着いてすぐ、報告に一行あった。
《机の上に、書きかけの竹簡が一本ございます》
《一行目——阿斗へ》
《二行目——空白》
《三行目——空白》
——父の字である。
四十八年前に、書きかけて止まった。
そして、俺は十三年前、こう返した。
《そのままにしておいてください》
文書の続きに、一行あった。
《今年も、そのままにしております》
《ただし、一つ伺います》
《いつまで、そのままにいたしますか》
——俺は、その一行を、長いこと見ていた。
——いつまで。
そして、この人は、十三年待って、初めて聞いた。
十三年、毎年払って、毎年書かずにいた。
——たぶん、俺が退位すると聞いたからである。
俺が答えられるうちに、聞いておく。
そういう人だ。
◆
「陳恭どの」
「陛下」
「筆を」
「休養中でございます」
「一行です」
——この人は、少し黙った。
そして、筆を持ってきた。
——二十八年前、董允なら、もう少し粘った。
そして、この人は、弟子の弟子である。
粘り方まで、二代で少し薄くなった。
——それでいい。
濃いまま続く制度は、たぶん、続かない。
俺は、返書を書いた。
一行である。
《書きかけの文書は、終わっておりません》
そして、その下に、もう一行足した。
《終わっていないものは、捨てないでください》
——俺は、そこで、筆を置いた。
四十八年である。
二行目と三行目は、空白のままだ。
そして、誰も埋めない。
◆
「陳恭どの」
「はい」
「一つ、覚えておいてください」
「永安の机の上に、竹簡が一本あります」
「はい」
「書きかけです」
「そのままにしておいてください」
「いつまででございましょう」
俺は、答えた。
「決めていません」
——陳恭は、拝礼した。
そして、竹簡へ一行書いた。
記録である。
《永安宮の書きかけの竹簡、保存》
《期限——定めず》
俺は、そこで、一つ足させた。
「陳恭どの」
「はい」
「理由も、書いてください」
「何と」
——俺は、少し考えた。
そして、答えた。
「『二行目と三行目が、空いているため』」
陳恭は、書いた。
そして、書いてから、こう聞いた。
「陛下」
「はい」
「二行目には、何が書かれるはずでございましたか」
——俺は、答えなかった。
四十八年、考えてきた。
そして、答えは、たぶん、こうである。
——父は、二行目を書けなかったのではない。
書くことが、なかったのだ。
一行目に「阿斗へ」と書いて、それで済んでしまった。
——三千八百四十二人の名を読んだ後である。
書くことは、もう、名簿の側にあった。
俺は、そこで、目を閉じた。
——四十八年である。
父は、三行書こうとして、一行で止まった。
そして、止まったまま、置いてある。
◆
その日の夕方、俺は簿を全部出させた。
——退位の支度である。
《名のない者》。《殴られた者》。《数えられた者》。
《正しく呼ばれていない者》。《救えなかった者》。
《渡したもの》。《行かなかった戦》。《次に反するまでの年数》。
《まだ、手のないもの》。《りゆうを、かかなかったこと》。
《丞相の、休んだ日》。《私の、休んだ日》。
——十二である。
そして、そのうち十一は、郤正に渡すことになっていた。
「令先どの」
「陛下」
「一つだけ、渡しません」
「どれでございましょう」
俺は、答えた。
「《りゆうを、かかなかったこと》です」
——十九行ある。
そして、十九行とも、職掌表に書けなかった理由である。
馬岱の従軍。羅憲の巴東。
そして、あと十七。
「なぜ、でございましょう」
俺は、答えた。
「書けなかった理由を渡せば、次の人が書きます」
「……」
「そして、書けば、それは理由でなくなります」
——郤正は、少し黙った。
そして、こう聞いた。
「では、その簿は」
俺は、答えた。
「焼きます」
「……」
「ただし、一行だけ、残します」
——俺は、その一行を選ぶのに、三日かけた。
そして、選んだのは、こうである。
《書けなかった理由が、十九あった》
——中身は、書かない。
数だけ、残す。
「令先どの」
「はい」
「十九という数だけ、記録に入れてください」
「中身は」
「ありません」
郤正は、筆を取った。
そして、書きながら、こう言った。
「……いつか、誰かが探しますな」
「はい」
「そして、見つかりませぬ」
「はい」
——俺は、頷いた。
「見つからないものが十九あったと、分かればよいのです」
◆
——終わっていないものは、捨てない。
そして、終わっていないものは、続けなくてもよい。
置いておけば、誰かが見る。
——十三年、一人が見ている。
そして、二十八年後に、また誰かが見る。
俺は、そこで、一つだけ思った。
——空白は、下げられない。
四十八年前、俺はそう書いた。
父の生命の欄が、空白だった日である。
——そして、今日、同じ空白を、俺は残すことにした。
下げられないものを、埋めずに置く。
それができるようになるまでに、四十八年かかった。
〈あとがき〉
十三年、毎年埃を払って、一度も書かなかった人が、今年だけ聞いてきました。主人公が退位すると聞いたからです。答えられるうちに、聞いておく。そういう人です。
「二行目には、何が書かれるはずでございましたか」——父は書けなかったのではなく、書くことがなかったのかもしれません。三千八百四十二人の名を読んだ後で、書くことはもう名簿の側にありました。
「空白は、下げられない」。四十八年前に書いた一行です。そして今日、同じ空白を、埋めずに置くことにしました。
次回、休沐日の庭。




