第151話 英雄がいなくても、明日は来る
【景耀十一年|成都】
三年後。
魏との休戦更新会議。
俺は、出席しなかった。
——皇帝が、国家間の重要会議へ出ない。
以前なら、考えられない。
◆
蜀側代表。
外交担当官。財政官。軍事代表。住民移動担当。記録官。
——若い者たちである。
俺の能力表示にも、諸葛亮の推奨にも、歴史書にも、名前のない人々が多かった。
魏側。
司馬昭の使者。鍾会の代理官。国境担当。
——交渉は、七日続いた。
二度、決裂しかけた。
——一度。
魏側が朝貢量を倍にしようとした。
蜀側は、拒否。
——一度。
蜀側軍人が漢中返還を求め、会議が止まった。
費禕がいれば、一日でまとめたかもしれない。
諸葛亮なら、三日で完全な文書を作ったかもしれない。
魯粛なら、互いの利益を言葉にしたかもしれない。
——だが、全員いない。
会議は、遅い。
不器用。誤解もある。
それでも、八日目、合意した。
朝貢量——現状維持。
国境交易——拡大。
住民移動——継続。
軍事的不可侵——五年。
漢中領有——棚上げ。
◆
誰か一人の英雄が、相手を説得したのではない。
——財政官が、魏側の要求では蜀経済が弱り、朝貢自体が続かないと説明した。
軍人が、国境での兵力配置を示した。
住民担当が、家族分断の記録を出した。
記録官が、過去の約束を確認した。
外交官が、全体をまとめた。
——一人では、ない。
そして、俺は、その報告を読んで、一つ数えた。
——五人である。
五十九年前、夏口で、俺は父にこう言った。
「ふたつ、いります」
「ひとつは、はやいひと」
「ひとつは、まちがいをみつけるひと」
——二つが、五つになった。
◆
会議の報告書が届く。
俺は、最終承認だけを行った。
「陛下」
侍中が尋ねる。
「修正は」
「ありません」
「本当に」
「はい」
「一か所」
「何でしょう」
「敬称が一つ抜けています」
——俺は、文書を見る。
司馬昭の称号。
確かに、一部足りない。
「交渉結果に影響しますか」
「おそらく、しません」
「次回、直してください」
——侍中は、頷いた。
諸葛亮なら、その場で修正した。
俺も、以前なら直した。
——今は、小さな誤りを、次の人が直す余地として残す。
——二十九年前、この光景を、俺は見ている。
費禕が、諸葛亮から筆を取り上げた月である。
そして、あのときの敬称も、一つだった。
◆
同じ年、姜維が、正式な退役願を出した。
表題——《北方軍事評議常任職離任願》
理由——老い。
——何度も戦い、何度も退き、昔より、自分が進みたい感情を制御できなくなっている。
——意外だった。
「伯約どのが」
俺は尋ねる。
「自分から」
「陛下」
姜維は答える。
「私は、以前より戦いたくなくなったのではありません」
「むしろ」
「残された時間が少ないほど」
「一度、大きな戦をしたくなります」
——自己認識。
非常に、高い。
「だから」
姜維は言った。
「権限を持つべきではありません」
◆
関羽が、自分の権威を理由に退いた。
姜維も、自分の感情を理由に退く。
——俺は、そこで、一つ聞いた。
「伯約どの」
「はい」
「いつ、そう思われましたか」
——この人は、答えた。
「三年前でございます」
「魏が来た年ですね」
「はい」
「——」
「鍾会から、書が参りました」
「——」
「そして、私は、三日、迷いました」
——俺は、そこで、頷いた。
「一日なら、恨みです」
「はい」
「十日なら、打算です」
「——」
「そして、三日は」
——姜維は、答えた。
「迷っております」
「——」
「そして、迷った者は、いつか決めます」
◆
「後継者は」
俺が尋ねる。
——姜維は、一人の名前を出さなかった。
「北方戦略部門へ」
——複数の若い者を推薦した。
羌族交渉。兵站。山岳戦。防御。情報。
それぞれ、別。
「私の志を」
姜維は言った。
「誰か一人へ渡さないでください」
——諸葛亮と、同じ結論へ着いた。
北伐は、国の選択肢の一つ。
誰かの人生そのものにしない。
——俺は、そこで、一つ聞いた。
「伯約どの」
「はい」
「二十年、待っていただきました」
「はい」
「そして、三十五年になりました」
——姜維は、少し笑った。
そして、こう言った。
「陛下」
「はい」
「桟道は、できております」
「はい」
「輸送の損耗は、三割から、一割を切りました」
「はい」
「——」
「そして、私は、それを使っておりませぬ」
——俺は、そこで、答えられなかった。
そして、この人は、こう続けた。
「陛下」
「はい」
「使わずに済んだのでございます」
「——」
「そして、それを、私は、二十年目に分かりました」
◆
俺は、姜維の退役願を受理した。
そして、木簡を出した。
《待たせた者》
一行目——姜維 字・伯約 三十二
《二十年》
《この人は、五十二になる》
——三十五年前に書いた。
そして、その下に、こう足してあった。
《これは、投資ではない》
《この人の一生を、俺が使っている》
——俺は、そこで、筆を取った。
そして、最後に一行書いた。
《六十四で、退いた》
——そして、その下に。
《そして、この人は、生きている》
◆
その夜、視界に、以前から出ていた表示を開く。
【システム主要任務】
・関羽死亡回避 達成
・張飛暗殺回避 達成
・龐統死亡回避 達成
・法正早逝回避 達成
・劉備夷陵壊滅回避 部分達成
・馬謖処刑回避 達成
・李厳虚偽報告への制度対応 達成
・魏延、楊儀内戦回避 達成
・諸葛亮五丈原死去回避 達成
・蜀漢二六三年滅亡回避 達成
最終目標
英雄がいなくても動く国家
評価中
——評価。
何をもって、決める。
英雄がいない。
それだけでは、足りない。
国が、動く。
——どこまで。
俺がいなくても、か。
◆
俺は、一か月間、皇帝決裁を停止することにした。
——病では、ない。
退位でも、ない。
指揮官不在訓練。
趙雲の最後の訓練を、国家全体で行う。
「陛下」
侍中が言った。
「皇帝が突然いなくなる訓練は、民を不安にします」
「公表します」
《皇帝休務試験》
期間——三十日。
皇帝の重大決裁は、執行評議が代行。
戦争開始。皇位継承。大規模増税。死刑の最終承認。
——これらだけ、凍結。
緊急時は、皇帝へ連絡。
目的——皇帝不在時の継続性確認。
「陛下は」
「何をなさいます」
「休みます」
——三十七年前、趙雲は「突然いなくなる訓練です」と言った。
そして、今度は、公表する。
理由は、一つである。
——皇帝は、突然いなくならないほうがいい。
◆
三十日。
完全には、休めない。
国のことを、考える。
報告も、気になる。
——だが、見ない。
母は、既に亡くなっている。
弟たちは、それぞれ家庭を持つ。
俺は、宮殿の庭を歩いた。
本を読む。馬に乗る。子供や孫と食事をする。
——父の最後の週報を読む。
関羽の報告書。張飛の講義録。趙雲の撤退教範。
諸葛亮の出師表と、休暇記録。
馬謖の《なぜ私は山へ登ったか》。
李厳の兵站失敗報告。
姜維の撤退条件。
——全て、人の失敗が、国の教材になっている。
◆
一日目。地方で洪水。
行政部門が対応。皇帝へ連絡なし。
三日目。魏との国境で小競り合い。
軍事評議が、交戦拡大を止める。
七日目。税の減免要請。
財政と行政が調整。
十二日目。高官人事の対立。
異議制度。記録。再審議。
十八日目。呉との交易船が拿捕。
外交部門が、国境会合を開く。
二十四日目。皇族の一人が、自分の地位を利用し、地方官へ圧力。
侍中と監察官が、処分。
——俺へ、確認しない。
二十九日目。大きな問題は、ない。
小さな遅れ。誤り。口論。
——全て、ある。
三十日目。朝。
俺は、宮殿へ戻った。
誰も、国が止まったとは言わなかった。
◆
最終報告書。
【皇帝休務試験】
期間 三十日
国家機能停止 なし
重大判断 三件(全て執行評議で処理)
行政遅延 平均十二%増加
文書誤り 七件(修正済み 七件)
不正 一件発見
皇帝への緊急連絡 ゼロ
——ゼロ。
俺がいなくても、三十日、国は動いた。
——寂しくは、なかった。
父。関羽。張飛。趙雲。諸葛亮。
皆が、同じ寂しさを感じた。
——自分がいなくても動く。
それは、不要になったことではない。
自分の仕事が、人の中へ残ったということだった。
◆
俺は、そこで、一つだけ、報告に印をつけた。
——皇帝への緊急連絡、ゼロ。
そして、郤正を呼んだ。
「令先どの」
「はい」
「一つ、聞きます」
「どうぞ」
——俺は、聞いた。
「本当に、ゼロですか」
——郤正は、しばらく黙っていた。
そして、こう答えた。
「……三件、ございました」
「はい」
「そして、三件とも、途中で止めております」
「誰がですか」
——この人は、答えた。
「私でございます」
「理由を」
——郤正は、こう言った。
「三件とも、翌日には片づいておりましたゆえ」
——俺は、そこで、少し笑った。
そして、こう聞いた。
「令先どの」
「はい」
「片づかなかったら」
——この人は、答えた。
「出しました」
「——」
「そして、その日は、眠っておりませぬ」
◆
俺は、そこで、一つ命じた。
「令先どの」
「はい」
「三件を、書いてください」
「はい」
「そして、報告書を、直してください」
「——」
「『ゼロ』ではなく、『三件。うち、三件を侍中が判断して止めた』と」
——郤正は、筆を取った。
そして、こう聞いた。
「陛下」
「はい」
「ゼロのほうが、よろしいのでは」
——俺は、答えた。
「よくありません」
「……」
「ゼロは、誰も困らなかったという意味です」
「——」
「三件は、誰かが持ったという意味です」
「——」
「そして、持った人は、眠っていません」
——郤正は、書いた。
そして、報告書の数字が、一つ変わった。
視界が、ゆっくり変わる。
【最終評価】
英雄がいなくても動く国家 達成
英雄依存指数
開始時 100
現在 17
主要な単一障害点 なし
蜀漢
状態 存続
未来 未確定
——未確定。
それでよい。
未来が、俺の知る歴史へ戻らない。
誰が勝つか。魏が続くか。司馬氏が晋を作るか。
呉が滅びるか。蜀がどこまで残るか。
——分からない。
◆
システムが、最後の質問を出す。
【管理システムを終了しますか】
終了した場合
・人物能力表示を失います
・未来死亡予測を失います
・歴史危機警告を失います
・最適配置提案を失います
注意
以後、人を数値で確認できません。
——怖かった。
関羽の忠誠。法正の恨み。孟達の離反危険。諸葛亮の疲労。
——数字で、見えた。
見えたから、救えた者もいる。
——だが、最後の十四年。
システムに名前のない人間が、国を守った。
杜祺。若い官吏。無名の将。住民。記録官。
——彼らの能力は、行動するまで分からなかった。
本来、人とはそういうものだ。
◆
数値で、全てを知ることはできない。
——忠誠と書かれた百が、心の全てではない。
能力九十九が、必ず正しいわけでもない。
疲労百でも、最後に言いたいことは表示されない。
——父の。
「生まれてきてくれてありがとう」
——趙雲の。
「役に立たない日も、いてよかったか」
——関平の。
「父の後継者になりたかった」
——どれも、数値では分からなかった。
そして、もう一つ。
——黄夫人の。
「代わってほしゅうございました」
——四十五年、数えていた人である。
そして、その欄は、どこにもなかった。
俺は、《終了》を選んだ。
視界が、一度、白くなる。
関羽——表示なし。
張飛——表示なし。
諸葛亮——表示なし。
自分の能力も、歴史変動率も、死亡予測も。
——何もない。
静かな世界。
——目の前には、朝議の人々がいる。
若い者。老いた者。有名な者。無名の者。
何ができるか。何を考えているか。
——もう、見えない。
だから、聞く。
「本日の議題を」
◆
記録官が読み上げる。
国境交易。水害対策。学校制度。兵の退役。農地。医療。皇族の支出。
——地味な議題。
天下統一も、英雄の決戦もない。
それでも、国を残すのは、こういう仕事だった。
朝議が終わる。
——一人の若い官吏が、俺へ意見を出した。
俺の案へ、明確に反対している。
「陛下」
「それは、現場では機能しません」
——以前なら、能力表示を見た。
知略。政務。忠誠。
——今は、ない。
「理由を聞かせてください」
——若い官吏が、説明する。
俺は、途中で間違いに気付いた。
「分かりました」
「私の案を撤回します」
——官吏が、驚く。
「よろしいのですか」
「はい」
「皇帝のご提案です」
「皇帝も間違えます」
——父の言葉。諸葛亮の制度。董允の諫言。
全てが、国の普通になっていた。
俺は、そこで、一つだけ聞いた。
「あなたの名は」
——若い官吏は、答えた。
そして、俺は、それを覚えた。
——書かない。
覚えるだけである。
六十四年、俺はそうしてきた。
そして、六十四年で、初めて——
書かなくてよい相手が、増えていた。
◆
その日の夕方、俺は軍学校へ行った。
講堂。
畳まれた関羽の旗。張飛の講義録。趙雲の白い旗。
諸葛亮の、普通の団扇。
馬謖が運んだ水桶。
——全てが、残っている。
英雄の武器では、ない。
英雄が、自分の失敗と弱さを認めた証拠。
——若い生徒が、関羽の旗を見て尋ねる。
「陛下」
「なぜ、この旗は掲げないのですか」
——俺は答える。
「下ろしたからです」
「敗れた旗ですか」
「はい」
「なぜ残すのです」
「帰るために下ろした旗だからです」
——少年は、分かったような、分からないような顔をした。
それでよい。
いつか、自分で意味を見つける。
◆
俺は、そこで、一つ聞いた。
「あなたは、何を習っていますか」
——少年は、答えた。
「敗因簿でございます」
「何件ありますか」
「——」
「千三百八十六件」
「一件目は」
——この子は、即答した。
「街亭でございます」
「誰の話ですか」
——少年は、答えた。
「幼常どの、と伺いました」
「——」
「そして、山へ登った方でございます」
——俺は、そこで、一つ聞いた。
「その人は、どうなりましたか」
——この子は、答えた。
「三十五年、水を運ばれました」
「はい」
「そして」
——少年は、少し考えた。
そして、こう言った。
「そして、千三百八十六件、書かれました」
俺は、講堂を出た。
成都の街。
市場。子供。商人。兵士。農民。
呉から来た使者。魏から来た商人。
——皆が、明日の話をしている。
国は、完全ではない。
いつか滅びるかもしれない。
どの国も、永遠には続かない。
——だが、今日。
誰か一人が倒れたから、明日がなくなる国ではない。
◆
俺は、劉禅。
後世で、暗愚と呼ばれるはずだった男。
未来から来た転生者。
アルファードMBA。十一年、部長代理。
——多くの名前を持っていた。
今、視界には、何も表示されない。
残っている名前は、一つだけだった。
——劉禅。
父の息子。蜀漢の皇帝。
そして、国を一人で背負わなかった人間。
——六十四年前、俺は問われた。
「英雄に依存しない組織を作れますか」
そして、「当たり前だ」と答えた。
今なら、違う答え方をする。
——一人では、無理だ。
十一人でやって、四角一つ分だった。
だが、できる。
朝が来る。
明日も、会議がある。
誰かが反対する。誰かが間違える。誰かが直す。
誰かが休む。誰かが帰る。
——それで、国は続いていく。
◆
俺は、箱を出した。
——六十四年分である。
《名のない者》。《殴られた者》。《正しく呼ばれていない者》。
《救えなかった者》。《ふるい功》。《四方将軍に、入らなかった人》。
《かぞえていた人》。《戦死者名簿》。《輸送死亡記録》。
——名前が、千を超えていた。
数えるのを、二十年前にやめた。
そして、いちばん底に、一枚。
——死亡年表である。
二歳のときに、書き始めた。
字が歪んでいる。墨が滲んでいる。
◆
俺は、それを開いた。
二〇九——母。丸。
二一二——張松。丸。
二一四——龐統。四角。
二一七——魯粛。丸。
二一九——関羽。四角。
二二〇——法正。四角。
二二一——張飛。四角。
二二二——馬超。四角。
二二三——劉備。丸。
二二八——孟達。四角。
二二九——趙雲。四角。
二三四——諸葛亮。縦線。
——丸が、四つ。
四角が、七つ。
縦線が、一つ。
◆
俺は、その縦線を、長いこと見ていた。
——二三四年である。
五丈原。
四十八年前、俺は九つで、この記号を発明した。
丸でも、四角でもない。
《まだ、決めていない》という意味だ。
そして、書き換えなかった。
——あの人は、二五一年に死んだ。
七十である。
十七年、延びた。
——それでも、俺は書き換えなかった。
理由は、分からない。
たぶん、書き換えたくなかったのだと思う。
◆
俺は、火を熾させた。
そして、一枚ずつ、焼べた。
——最初は、《殴られた者》である。
王阿三の名が、いちばん上にあった。
「さんかい、たった」と、俺が言った兵である。
——次に、《救えなかった者》。
甘夫人。孫夫人。張松。魯粛。蘇路。
——五人。
六十四年で、五人だけだった。
——そして、《名のない者》。
千を、超えていた。
一枚ずつ焼くのに、半刻かかった。
阿仙。阿六。楊阿七。陳紀。馬岱。
犍為郡、二千四百戸。名前は、分からない。
——蘇路。
三月ごとに主が変わり、どちらが勝ってもよいと言った、痩せた男。
三つの国のどこにも、載っていなかった人。
——俺は、その名を、声に出して読んだ。
そして、火へ入れた。
◆
最後に、死亡年表である。
俺は、それを火の前で持った。
そして、郤正が言った。
「陛下」
「うむ」
「それは、史にございます」
——俺は、答えた。
「違う」
「……」
「これは、予定表だ」
「六十四年前、俺はここに、人が死ぬ年を書いた」
「はい」
「そして、その予定を変えるために、六十四年、働いた」
「はい」
——俺は、その一枚を、火へ入れた。
墨が、めくれた。
丸が、消えた。
四角も、消えた。
三角も、一つだけ消えた。
——縦線だけが、最後まで残った。
そして、消えた。
◆
郤正が、聞いた。
「陛下」
「うむ」
「何も、お残しになりませんか」
——俺は、答えた。
「一つだけ、残す」
——俺は、木簡を一枚、取った。
新しいものである。
そして、書いた。
——六十四年で、いちばん、手が震えなかった。
《四人の名を、俺は知っている》
《どこにも、書いていない》
《書かなかったのではない》
《書くなと、言われたからだ》
——俺は、その木簡を、郤正へ渡した。
「陛下。これは」
「読め」
「……はい」
「そして、継げ」
「何を、でございましょう」
——俺は、答えた。
「書かないことを、だ」
郤正は、しばらく、その四行を見ていた。
そして、聞いた。
「陛下」
「うむ」
「四人とは、どなたでございますか」
——俺は、答えなかった。
そして、少し笑った。
「それを聞くのが、史の仕事だ」
「はい」
「そして、答えぬのが、こちらの仕事だ」
◆
俺は、千を超える名を書いた。
そして、四人だけ、書かなかった。
——それが、たぶん、俺の一生で、一番正しかったことだ。
〈あとがき〉
財政官。軍人。住民担当。記録官。外交官——五人でまとめました。五十九年前、夏口で「ふたつ、いります」と言いました。二つが、五つになりました。
「桟道は、できております。そして、私は、それを使っておりませぬ」「使わずに済んだのでございます。そして、それを、私は、二十年目に分かりました」。
皇帝への緊急連絡、ゼロ——ではありませんでした。三件あり、郤正が止めていました。「ゼロは、誰も困らなかったという意味です。三件は、誰かが持ったという意味です。そして、持った人は、眠っていません」。
数値では分からなかったもの——父の「生まれてきてくれてありがとう」、趙雲の「役に立たない日も」、関平の「後継者になりたかった」。そして黄夫人の「代わってほしゅうございました」。四十五年数えていた人の欄は、どこにもありませんでした。
「あなたの名は」——書かず、覚えるだけ。六十四年で初めて、書かなくてよい相手が増えていました。
「そして、千三百八十六件、書かれました」。
次回、第152話「終わっていないものは、捨てないでください」。




