第149話 四つは事実で、一つは願望でした
【景耀六年 冬|成都】
降伏派の中心に、一人の学者がいた。
譙周。字を允南という。
——巴西の出。
諸葛亮が益州の学問所を作ったとき、最初に招いた一人である。
そして、太子僕として、俺の子らに学問を教えた。
——学識では、この国で並ぶ者がいない。
そして、四十年、一度も政に関わらなかった。
その人が、今日、初めて上奏した。
「陛下」
「允南どの」
——六十三である。
そして、この人は、いつも同じ衣を着ている。
「讎国の論を、申し上げます」
——俺は、その言葉を知っていた。
史実で、この人が書いたものである。
そして、その論に説かれて、劉禅は降った。
◆
譙周は、感情を交えずに述べた。
「一。魏と蜀の国力は、およそ九対一にございます」
「はい」
「二。四十年、北伐は成りませんでした」
「はい」
「三。いま降れば、礼をもって遇されます」
「はい」
「四。破れてから降れば、辱めを受けます」
「五。呉へ奔れば、いずれ呉も滅び、二度、降ることになります」
——五つである。
そして、五つとも、短い。
四十年、この人は「分からず」と書いてきた。
そして、今日は、断定している。
◆
俺は、聞いた。
「允南どの」
「はい」
「四十年、なぜ、何も仰らなかったのですか」
——この人は、答えた。
「申し上げる必要が、ございませんでした」
「……」
「陛下は、正しくあられました」
「では、今日は」
「今日は、正しさでは足りませぬ」
——俺は、その言葉を、しばらく噛んでいた。
十七年前、董允が同じことを書いた。
《正しい方の周りには、耳あたりのよい者しか残りませぬ》
——黄皓の職掌と、同じである。
そして、この人は、命じられていない。
◆
俺は、そこで、一つ聞いた。
「允南どの」
「はい」
「今日、上奏することを、いつ決められましたか」
——譙周は、少し黙った。
そして、こう答えた。
「五年前でございます」
「……」
「白帝城の門の話を、伺いましたゆえ」
——俺は、そこで、顔を上げた。
「なぜ、あれを聞いて」
——この人は、答えた。
「三十六年、閉じておりませぬ」
「はい」
「——」
「そして、陛下は、それを数えると仰せになりました」
「——」
「数える方は、いつか、零になる日を見ます」
——俺は、そこで、何も言えなくなった。
◆
俺は、譙周に聞いた。
「允南どの」
「はい」
「一つだけ、伺います」
「どうぞ」
——俺は、聞いた。
「降ったあと、この国の民は、どうなりますか」
——譙周は、しばらく黙った。
そして、正直に答えた。
「分かりませぬ」
——四十年ぶりの、四文字である。
「では、もう一つ」
「はい」
「四十年、この国が作ってきた簿は、どうなりますか」
「……簿、でございますか」
「はい」
「戸籍。敗因簿。戦死者名簿。輸送死亡記録。反対理由の記録」
「……」
「あれは、誰が引き継ぎますか」
——長い沈黙があった。
そして、譙周は答えた。
「……残りませぬ」
「なぜですか」
「負けた国の記録は、要りませぬ」
広間が、静かになった。
四十人いた。
そして、誰も喋らなかった。
——末席から、声がした。
「嘘でございます」
——全員が、振り返った。
劉諶である。
二十四。
——五番目の子で、北地王に封じている。
そして、職掌は、まだない。
「諶」
俺は、言った。
「末席です」
「存じております」
「……」
「職が、ございませぬゆえ」
「では、なぜ喋りますか」
——劉諶は、答えた。
「皆が、黙っておりますゆえ」
——俺は、そこで、手が止まった。
十七年前である。
七つだった。
「何が嫌ですか」
「皆が、黙っていることでございます」
——十七年、変わっていない。
◆
「諶」
「はい」
「何が嘘ですか」
——この子は、譙周を見た。
そして、こう言った。
「五つ、挙げられました」
「一つ。国力が九対一」
「二つ。四十年、北伐が成らなかった」
「三つ。今降れば、礼をもって遇される」
「四つ。破れてから降れば、辱めを受ける」
「五つ。呉へ奔れば、二度降ることになる」
——そして、続けた。
「そのうち」
「四つは、事実でございます」
「一つは」
「——」
「三つ目でございます」
◆
俺は、そこで、竹簡を見た。
——《今降れば、礼をもって遇されます》
「諶」
「はい」
「根拠を」
——劉諶は、懐から竹簡を出した。
一本である。
そして、端が擦り切れていた。
「四十四年前の記録でございます」
「——」
「于禁どのの件」
——俺は、そこで、息を呑んだ。
于禁である。
樊城で降り、名簿に載せてくれと言った男だ。
そして、魏へ送り返され、辱められて死んだ。
◆
「諶」
「はい」
「どこで、それを」
「瓚兄上から」
——劉瓚である。
三十二。
記録の職に就いて、十八年。
そして、郤正の下にいる。
——十七年前、この子は俺の木簡を見た。
そして、こう言った。
「ですから、私が、記録をやります」
「諶」
「はい」
「兄上は、何と言って渡されましたか」
——劉諶は、答えた。
「『これは、父上の簿ではない』と」
「……」
「『于禁どのの簿である』と」
◆
劉諶は、読み上げた。
「《蜀の文書、一通を所持す》」
「《捕虜の証なり》」
「《焼かんとするに、これを拒む》」
——広間が、静かになった。
そして、劉諶は、こう言った。
「于禁どのは、礼をもって遇されませんでした」
「はい」
「三万を率いた将でございます」
「そして、壁に絵を描かれました」
——譙周が、口を開いた。
「北地王さま」
「はい」
「四十四年前でございます」
「曹丕は、既に死んでおります」
——劉諶は、答えた。
「存じております」
「では」
「——」
「人が変われば、礼も変わりますか」
——譙周は、答えなかった。
そして、劉諶は、こう続けた。
「変わるなら、三つ目は保証ではございませぬ」
「願望でございます」
◆
俺は、そこで、一つ理解した。
——四つは事実で、一つは願望である。
そして、決め手になるのは、願望のほうだった。
「允南どの」
俺は、聞いた。
「はい」
「三つ目に、根拠はありますか」
——譙周は、長いこと黙っていた。
そして、正直に答えた。
「ございませぬ」
——そして、こう続けた。
「ですが、陛下」
「はい」
「降らねば、民が死にます」
「それには、根拠がございます」
——俺は、そこで、頷いた。
正しい。
四十年、この人は一度も間違えていない。
そして、今日も、間違えていない。
◆
「諶」
「はい」
「民は、どうしますか」
——劉諶は、答えられなかった。
二十四である。
そして、職掌がない。
「……存じませぬ」
——俺は、頷いた。
そして、こう言った。
「正直です」
——そして、譙周を見た。
「允南どの」
「はい」
「二人とも、『存じませぬ』と申しました」
「はい」
「——」
「そして、あなたは四十年、その言葉で通してこられました」
——譙周は、少し黙った。
そして、こう言った。
「……北地王さまは、若うございます」
「はい」
「——」
「四十年、同じことを申せば、諦めたと思われます」
◆
俺は、そこで、一つ聞いた。
「允南どの」
「はい」
「諦めておられますか」
——この人は、答えた。
「諦めております」
「いつからですか」
——譙周は、こう答えた。
「二十六年前でございます」
「何がありましたか」
「——」
「丞相が、五丈原から帰られました」
——俺は、そこで、動きを止めた。
「生きて帰られました」
「はい」
「——」
「そして、私は、そのときこう思いました」
「——」
「『この国は、滅びぬ』と」
——俺は、聞いた。
「では、なぜ諦めましたか」
——譙周は、答えた。
「滅びぬ国は、いつまでも滅びませぬ」
「はい」
「——」
「そして、いつまでも、大きくもなりませぬ」
◆
俺は、そこで、この人の四十年を、初めて理解した。
——政に関わらなかったのではない。
関わっても、変わらないと思っていた。
そして、それを一度も口に出さなかった。
「允南どの」
「はい」
「今日、なぜ口に出されましたか」
——この人は、答えた。
「魏が、来ましたゆえ」
「はい」
「——」
「そして、退きました」
「——」
「退いたのに、国が大きくなっておりませぬ」
——そして、こう続けた。
「陛下」
「はい」
「四十年、この国は、一度も大きくなっておりませぬ」
「——」
「そして、一度も、滅びておりませぬ」
「——」
「私は、それを、どう書けばよいのか分かりませぬ」
俺は、そこで、頷いた。
そして、言った。
「では、降りません」
「陛下」
「民のためでは、ございませぬのか」
「……」
「簿のためです」
——譙周は、俺を見た。
そして——四十年で初めて、この人の顔が動いた。
「……陛下」
「はい」
「それは、理ではございませぬ」
「はい」
「知っています」
◆
俺は、そこで、説明した。
——五十六年である。
そして、俺が作ったものは、全部、紙である。
戸籍。敗因簿。名のない者。渡したもの。行かなかった戦。
門が閉じられなかった年数。数えられた者。
——土地では、ない。
兵でも、銭でもない。
「允南どの」
「はい」
「降れば、土地は残ります」
「はい」
「民も、多くは残ります」
「はい」
「——」
「そして、紙が消えます」
——譙周は、答えなかった。
俺は、続けた。
「四十四年前、犍為郡から二千四百戸が消えました」
「はい」
「名前が、分かりません」
「——」
「理由は、一つです」
「——」
「出ていくときに、誰も書かなかったからです」
——そして、こう言った。
「今度は、書く人がいます」
「——」
「そして、降れば、その人がいなくなります」
◆
「陛下」
譙周が言った。
「一つ、伺ってよろしいか」
「どうぞ」
——この人は、聞いた。
「簿と、民と、どちらが重うございますか」
——俺は、そこで、長いこと黙っていた。
そして、答えた。
「民です」
「では」
「——」
「そして、民が誰であったかは、簿にしか残りません」
——譙周は、しばらく動かなかった。
そして、こう言った。
「……それは、五十年後の話でございます」
「はい」
「今日の民は、今日死にます」
「はい」
——俺は、答えた。
「そして、今日、降らなくても、死にません」
「なぜ、そう申されますか」
——俺は、答えた。
「魏が、退いたからです」
「——」
「三年、休戦です」
「——」
「三年あれば、次を考えられます」
◆
譙周は、そこで、拝礼した。
そして、こう言った。
「承りました」
——そして、一つ聞いた。
「陛下」
「はい」
「私の論は、記録に残りますか」
——俺は、答えた。
「残ります」
「……」
「そして、五つとも、書きます」
「——」
「四つが事実で、一つが願望であったことも」
——譙周は、長いこと黙っていた。
そして、こう言った。
「……ありがたく存じます」
「なぜ、ありがたいのですか」
——この人は、答えた。
「消されると、思っておりましたゆえ」
◆
俺は、そこで、郤正に命じた。
「令先どの」
「はい」
「今日の議事を、全部書いてください」
「はい」
「そして、譙周どのの五項を、先頭に」
——郤正は、筆を止めた。
そして、こう聞いた。
「陛下」
「はい」
「降らぬと決まりました」
「はい」
「——」
「降る論を、先頭に書きますので」
——俺は、答えた。
「はい」
「……」
「そして、その下に、反論を書いてください」
「——」
「順を逆にすると、反論が主になります」
——郤正は、書いた。
そして、四十六年前、諸葛亮が言った。
《反対した者の名も、賛成した者の名も、同じ簿に載ります》
◆
俺は、そこで、劉諶を見た。
二十四である。
そして、まだ職掌がない。
「諶」
「はい」
「職を、与えます」
——この子は、顔を上げた。
そして、俺は言った。
「記録の、二人目です」
——広間が、静かになった。
劉諶は、しばらく黙っていた。
そして、こう聞いた。
「父上」
「はい」
「私は、申し上げる役では、ございませぬのか」
——俺は、答えた。
「違います」
「……」
「申し上げる役は、侍中です」
「——」
「そして、皇子は、侍中になれません」
「なぜですか」
——俺は、答えた。
「叱れなくなるからです」
◆
劉諶は、しばらく考えた。
そして、こう言った。
「父上」
「はい」
「では、記録では、何をいたしますか」
——俺は、答えた。
「今日と、同じことです」
「……」
「四十四年前の竹簡を、出してください」
「——」
「そして、皆が黙っているときに、それを読み上げてください」
——劉諶は、頷いた。
そして、こう聞いた。
「父上」
「はい」
「四十四年前の竹簡は、いくつございますか」
——俺は、答えた。
「分かりません」
「……」
「そして、それを数えるのが、記録の仕事です」
◆
その夜、俺は木簡を出した。
《りゆうを、かかなかったこと》
——五十六年で、十九行である。
そして、二十行目に、こう書いてあった。
劉諶——未定
《侍中に向いている》
《書けば、叱れなくなる》
——十七年前に書いた。
そして、その下に、こう足してあった。
《この子も、たぶん、気付く》
《気付いたら、その日に、書く》
——俺は、そこで、筆を取った。
そして、今日、この子は聞いた。
「私は、申し上げる役では、ございませぬのか」
——気付いた。
俺は、二十行目を、線で消した。
そして、書き直した。
劉諶 二十四
《侍中に向いている》
《ゆえに、記録へ配した》
《本日、本人へ告げた》
——五十六年で、初めてである。
《りゆうを、かかなかったこと》から、一行減った。
俺は、そこで、しばらく動かなかった。
——十八行である。
そして、これは、たぶん、いいことではない。
書けなかった理由が、一つ減った。
——それは、一人分、隠さずに済んだということだ。
そして、同時に——
一人分、この子が背負ったということでもある。
俺は、その下に、一行足した。
《減らすと、誰かが持つ》
◆
最後に、俺は譙周の五項を、もう一度読んだ。
そして、三つ目に、印をつけた。
《今降れば、礼をもって遇されます》
——願望である。
そして、俺は、そこで一つ思った。
——五十六年、俺も、願望で決めたことがある。
十九年前、費禕が規定案を断った。
「三万六千八百四十人、一人も叛いておりませぬ」
——そして、俺は、引っ込めた。
理由は、この人が正しかったからではない。
——正しくあってほしかったからである。
俺は、木簡へ一行書いた。
《四つ事実で、一つ願望》
そして、その下に。
《俺の場合は、いくつだったか》
——数えていない。
そして、たぶん、数えないほうがいい。
〈あとがき〉
「今日は、正しさでは足りませぬ」——十七年前、董允が同じことを書いています。《正しい方の周りには、耳あたりのよい者しか残りませぬ》。
「五年前でございます。白帝城の門の話を、伺いましたゆえ」「なぜ、あれを聞いて」「数える方は、いつか、零になる日を見ます」。
「滅びぬ国は、いつまでも滅びませぬ。そして、いつまでも、大きくもなりませぬ」——四十年、政に関わらなかったのではなく、関わっても変わらないと思っていました。
「簿と、民と、どちらが重うございますか」「民です」「では」「そして、民が誰であったかは、簿にしか残りません」。
「消されると、思っておりましたゆえ」。
「降る論を、先頭に書きますので」「はい。そして、その下に、反論を書いてください。順を逆にすると、反論が主になります」。
そして《理由を、書かなかったこと》が、五十六年で初めて一行減りました。《減らすと、誰かが持つ》。
次回、第150話「三国の、三つの後継」。




