第146話 錦だけが、この国の資である
【景耀元年 秋|成都】
諸葛亮が、生前、こう書いていた。
《今、民は貧しく国は虚し》
《決敵の資は、ただ錦に仰ぐのみ》
◆
延熙二十一年の秋。西暦二五八年である。選挙の一年目が終わった年だ。
俺は、五十一。そして、財政の報告を読んでいた。
【歳入 構成】
田租 三十七%
戸調(絹・綿) 二十六%
塩・鉄の専売 二十一%
交易(南中・涼州) 十一%
その他 五%
戸調が、二十六である。三十年前は、二十三だった。
「尚書令どの」
「はい」
「戸調の内訳は」
この人は、答えた。
「絹が、大半でございます」
「はい」
「そして、そのうち七割が、蜀錦」
蜀錦。魏へも、呉へも売れる。そして、他に作れる土地がない。
十九年前、費禕が呉から帰ってきて、こう言った。
「孫権どのが、蜀錦を三度褒められました」
そして、俺はそのとき、笑って聞き流した。
外交の話だと思っていた。そして、財政の話だった。
「尚書令どの」
「はい」
俺は、聞いた。
「織る者は、何人いますか」
この人は、竹簡を見た。そして、こう言った。
「戸数で、千二百戸でございます」
「人は」
この人は、答えられなかった。
「数えておりませぬ」
「……」
「戸で数えますゆえ」
俺は、そこで、木簡を置いた。
戸である。税は、戸に課す。だから、戸で数える。そして、中に何人いるかは、数えない。
四十八年前である。龐統が、兵籍を作り直した。そして、こう言った。
「人を数えるのに、人を数えておりませぬ」
「隊を数えております」
同じである。四十八年、同じことをやっている。
「尚書令どの」
「はい」
「数えます」
「何を、でございましょう」
俺は、答えた。
「織る人を、一人ずつ」
この人は、怪訝な顔をした。そして、こう聞いた。
「陛下」
「はい」
「税は、戸に課します」
「はい」
「——」
「一人ずつ数えても、税は変わりませぬ」
俺は、答えた。
「変わりません」
「では」
「——」
「そして、人が減ったとき、分かります」
◆
半年かかった。
【錦 従事者】
戸数 千二百
人数 三千百四十一
内訳
男 三百四十一
女 二千八百
年齢
十五未満 四百二十
十五〜五十 二千百七十
五十以上 五百五十一
二千八百である。九割が、女だった。
俺は、その数字を、長いこと見ていた。
この国の歳入の、五分の一。それを、二千八百人の女が作っている。そして、四十八年、誰も数えていなかった。
俺は、そこで、一つ聞いた。
「尚書令どの」
「はい」
「十五未満が、四百二十います」
「はい」
「何をしていますか」
この人は、答えた。
「糸を、繰っております」
「何歳から、ですか」
「——」
「六つ、七つからでございます」
俺は、そこで、竹簡を置いた。
六つである。四十四年前、俺は七つだった。そして、荊州で烽火台を七つ置いた。
「尚書令どの」
「はい」
「一日、何刻ですか」
この人は、答えられなかった。そして、こう言った。
「……数えておりませぬ」
俺は、そこで、一つ命じた。
「数えてください」
「はい」
「そして、四百二十人のうち、何人が字を習っているかも」
◆
錦官を、置いた。
【錦官】
機能
一 織工の登録(姓名・出身・技能)
二 技術の記録(織り方・染め方)
※図示を含む
三 品質の等級
四 販路の管理(魏・呉・南中)
備考
一の登録は、戸ではなく、人で行います。
備考を書いたのは、俺だ。
そして、錦官には、去年の選挙で官になった男を置いた。三十半ばである。そして、織工の家の出だった。三人のうちの、一人である。
一年後。報告が、来た。
「陛下」
「錦官どの」
「登録、終わりましてございます」
「はい」
「三千百四十一名」
そして、この人は、こう続けた。
「一つ、申し上げます」
「どうぞ」
この人は、こう言った。
「字を書く者が、百二十名おりました」
俺は、そこで、顔を上げた。
「百二十」
「はい」
「女で、ですか」
「百十四名が、女でございます」
俺は、そこで、動けなくなった。
百十四人。四十八年前、七千人のうち、読み書きできる者は三十四人だった。
「錦官どの」
「はい」
「なぜ、書けるのですか」
この人は、答えた。
「織り方を、覚えるためでございます」
「……」
「口では、伝わりませぬゆえ」
そして、こう続けた。
「糸の数。色の順。踏む順」
「はい」
「覚えきれませぬ」
「——」
「ゆえに、書きます」
「誰に習いましたか」
この人は、答えた。
「母でございます」
「……」
「母は、祖母に習いました」
「何代、続いていますか」
この人は、少し考えた。そして、答えた。
「存じませぬ」
「……」
「漢の頃から、と申します」
俺は、そこで、理解した。
官が教えたのでは、ない。織る者が、自分で覚えるために字を作った。そして、母から娘へ、何百年も渡している。
誰も、数えていなかっただけである。
俺は、そこで、一つ聞いた。
「錦官どの」
「はい」
「何字、書けますか」
この人は、答えた。
「百に、足りませぬ」
「はい」
「そして、その百は、糸と色と踏み方でございます」
「——」
「他は、書けませぬ」
俺は、そこで、王平を思い出した。
十字である。そして、四十七になった。
同じである。必要な分だけ、書ける。そして、それは「読み書きができない」と記録される。
「錦官どの」
「はい」
「その百字を、書き出してください」
この人は、怪訝な顔をした。
「陛下」
「はい」
「織り方の字でございます」
「はい」
「——」
「他の用には、立ちませぬ」
俺は、答えた。
「立ちます」
「……」
「百字書ける人は、百五十字書けます」
前世で、俺は会社の強みを説明する言葉を、いくつも習った。ほとんどは、商品の話だった。何が売れているか。何が儲かっているか。
一つだけ、違う説明があった。
強みは、商品ではない。商品を作れる力のほうである。
その本には、条件が三つ書いてあった。ほかへ移せること。真似されにくいこと。そして、客がその価値を認めること。
三つ揃うと、それは一つの商品ではなくなる。次の商品も、その次の商品も、そこから出てくる。
俺は、それを読んで、正しいと思い、そして、いつも商品のほうを数えていた。売上は、商品にしか付かないからである。
錦は、商品である。年に何匹、いくらで売れたか。四十年、俺はそちらを見てきた。
織れる人のほうを、数えたことがなかった。
千五百三十人が辞めた。理由は、五年、禄が上がらないからである。俺は、教える側の数だけを見ていた。
そして、この人は言う。糸と、字は、一緒でございます。
糸の数を書くゆえ。
「——」
「そして、二百字書ける人は、規定が読めます」
◆
俺は、その日、技能簿を作らせた。
【技能簿】
分類
船大工/鍛冶/織/薬/算/通訳/医/土木
登録
姓名/出身/技能/師/弟子の数
備考
「弟子の数」の欄は、
当該技能が次代へ渡ったかを示します。
弟子の数。そして、この欄を作ったのは、俺である。
「錦官どの」
「はい」
「弟子の数を、数えてください」
この人は、怪訝な顔をした。
「なぜ、でございましょう」
俺は、答えた。
「上手い者を探すためではありません」
「……」
「上手くて、弟子がいない者を、探します」
この人は、しばらく黙っていた。そして、こう言った。
「そういう者は、おります」
「はい」
「多うございます」
「なぜですか」
この人は、答えた。
「教えると、自分の仕事が減りますゆえ」
俺は、そこで、前世を思い出した。
熟練工である。技術を教えない。理由は、自分の価値が減るからだ。そして、その人が辞めた日に、技術が消える。
俺は、その報告書を書いたことがある。
《技能継承リスク》
そして、対策として、こう書いた。
《マニュアル化を推進する》
そして、五年後、その工場は閉じた。
理由は、マニュアルが作られなかったからではない。作られた。そして、誰も読まなかった。読める人が、辞めていたからである。
「錦官どの」
「はい」
「弟子の数を、禄に入れます」
この人の動きが、止まった。
「陛下」
「はい」
「上手さでは、ないのでございますか」
俺は、答えた。
「両方です」
「……」
「上手さと、渡した数」
【錦官 考課】
一 織った量
二 品質の等級
三 弟子の数
四 弟子の到達した等級
備考
三と四は、五年遅れて評価されます。
教えた年には、成果が出ません。
備考の二行である。
「陛下」
郤正が言った。
「五年遅れは、長うございます」
俺は、答えた。
「短くすると、壊れます」
「……」
「一年で測れば、弟子を数だけ取ります」
「——」
「そして、教えません」
三十九年前、犍為郡で学んだ。
《測ると、測ったものが増える》
《測らないものは、壊れる》
そして、測る時期を間違えると、測ったものも壊れる。
俺は、そこで、一つ足した。
「令先どの」
「はい」
「五年待つあいだ、教えた者はどうなりますか」
郤正は、答えた。
「禄が、上がりませぬ」
「はい」
「そして、五年生きねば、受け取れませぬ」
俺は、そこで、頷いた。そして、こう命じた。
「五年目の分を、死んだ者にも出してください」
「……陛下」
「はい」
「死んだ者は、受け取れませぬが」
俺は、答えた。
「家の者が、受け取ります」
「……」
「そして、それを、皆が見ます」
郤正は、筆を取った。そして、こう書いた。
《五 三と四の評価は、
本人が死没していても行い、
その家へ支給する》
そして、こう聞いた。
「陛下」
「はい」
「これは、黄忠どののときと同じでございますな」
俺は、そこで、少し驚いた。
「令先どの」
「はい」
「三十三年前です」
「はい」
「——」
「そして、あなたは、まだ生まれていません」
郤正は、答えた。
「簿にございます」
◆
五年後。数字が出た。
【技能簿 五年】
登録 八千七百四十
(織・鍛冶・船・薬・算・通訳・医・土木)
弟子を持つ者 五千二百十
弟子を持たぬ者 三千五百三十
弟子の総数 一万一千四百
一万一千四百である。五年で、技術が一万人に渡った。
「令先どの」
「はい」
「弟子を持たぬ者が、三千五百三十います」
「はい」
「理由は」
この人は、答えた。
「三つ、ございます」
「一つ。教える相手がおらぬ者」
「はい」
「二つ。教えぬと決めた者」
「三つ」
「——」
「教えたが、弟子が辞めた者」
「何人ずつですか」
郤正は、答えた。
「千二百。八百。そして、千五百三十」
俺は、そこで、動けなくなった。
千五百三十である。いちばん多い。教えた。そして、弟子が辞めた。
「令先どの」
「はい」
「辞めた理由は」
この人は、答えた。
「聞いております」
「はい」
「多くは、一つでございます」
「何ですか」
郤正は、こう言った。
「『五年、禄が上がりませぬ』」
俺は、そこで、竹簡を置いた。
弟子の側である。教える側の考課は、五年遅れにした。そして、習う側のことを、考えていなかった。
「令先どの」
「はい」
「弟子の禄は」
この人は、答えた。
「一人前になるまで、上がりませぬ」
「何年ですか」
「——」
「織で、七年でございます」
俺は、そこで、頷いた。
七年である。そして、五年で辞める。
俺は、そこで、六番目を作った。
《六 弟子の禄は、
到達した段階ごとに上げる》
備考
段階は、師が決めません。
別の技能者三名が、見て決めます。
三名である。
「陛下」
錦官が聞いた。
「師が決めぬのは、なぜでございましょう」
俺は、答えた。
「師は、弟子を長く置きたいからです」
「……」
「そして、それは、悪意ではありません」
「——」
「もう少し、と思うだけです」
錦官は、しばらく黙っていた。そして、こう言った。
「陛下」
「はい」
「私も、そう思っておりました」
「弟子が、おられますか」
「——」
「二人」
「何年ですか」
この人は、答えた。
「六年と、四年でございます」
「一人前ですか」
「——」
「六年のほうは、私より上手うございます」
「言われましたか」
錦官は、答えた。
「申しておりませぬ」
◆
その夜、俺は木簡を出した。
《名のない者》
五十一年で、百二十二人になっていた。
阿仙。阿六。王阿三。楊阿七。陳紀。馬岱。潘濬。そして、犍為郡の二千四百戸。
名前は、分からない。
俺は、そこへ書こうとして——止めた。
三千百四十一人である。書けない。そして、名は、錦官の簿にある。
俺は、別の木簡を出した。そして、書いた。
《四十八年、戸で数えていた》
そして、その下に。
《中に、二千八百人の女がいた》
そして、その下に。
《そのうち百十四人は、字を書く》
俺は、そこで、筆を止めた。
四十八年前。赤壁の降兵の名を、俺は書き取れなかった。二歳だった。字が、書けなかった。
三十七年前。犍為郡から、二千四百戸が消えた。名前は、分からなかった。
そして、今。女の名が、三千載っている。
俺は、もう一行書いた。
《書けなかったのではない》
そして、その下に。
《数えなかっただけだ》
そして、その下に、もう一行足した。
《そして、六つの子が、糸を繰っている》
四百二十人である。俺は、その数を、まだ何もしていない。
五十一年、俺は数えてきた。そして、数えた後にやることを、いつも後から考えている。
俺は、《まだ、手のないもの》を出した。そして、七行目に、こう書いた。
《六つの子が、糸を繰っていること》
そして、その横に、小さく書き足した。
《やめさせれば、家の錦が減る》
《そして、家の錦は、この国の歳入の五分の一である》
手が、ない。そして、五十一年で、初めて、こういう理由で手がない。
◆
俺は、そこで、錦官を呼び戻した。
「錦官どの」
「はい」
「一つ、伺います」
「どうぞ」
俺は、聞いた。
「あなたは、何歳から糸を繰りましたか」
この人は、答えた。
「六つでございます」
「辛かったですか」
この人は、少し考えた。そして、こう答えた。
「存じませぬ」
「……」
「他を、知りませぬゆえ」
俺は、そこで、もう一つ聞いた。
「では、ご自分の子には」
錦官は、答えた。
「繰らせております」
「何歳から」
「——」
「六つでございます」
「……」
「そして、字も教えております」
俺は、そこで、顔を上げた。
「いつからですか」
この人は、答えた。
「同じ年でございます」
「——」
「糸と、字は、一緒でございます」
「——」
「糸の数を書くゆえ」
俺は、そこで、一つ理解した。
やめさせる話では、ない。そして、たぶん、こうである。
《糸を繰る子に、字を教えているかを数える》
俺は、《まだ、手のないもの》の七行目を、線で消した。そして、書き直した。
《六つの子が、糸を繰っている》
《そして、糸の数を書く子がいる》
《何人か、数える》
三年後、その数が出た。四百二十人のうち、二百六十七人だった。
そして、その二百六十七人のうち、女が二百四十九人である。
俺は、その日、もう一行書いた。
《数えれば、手が見える》
そして、その下に。
《五十一年、いつもその順だった》
そして、その下に、最後の一行。
《数える前に手を考えたことは、一度もない》
〈あとがき〉
「孫権どのが、蜀錦を三度褒められました」——十九年前、外交の話だと思って聞き流していました。財政の話でした。
「一人ずつ数えても、税は変わりませぬ」「変わりません。そして、人が減ったとき、分かります」。
「その百字を、書き出してください」「他の用には、立ちませぬ」「立ちます。百字書ける人は、百五十字書けます。そして、二百字書ける人は、規定が読めます」。
前世の《技能継承リスク》——マニュアルは作られました。そして、誰も読みませんでした。読める人が、辞めていたからです。
「これは、黄忠どののときと同じでございますな」「三十三年前です。そして、あなたは、まだ生まれていません」「簿にございます」。
五年後、弟子が辞めた者が千五百三十人。理由は「五年、禄が上がりませぬ」——教える側だけを考えて、習う側を考えていませんでした。
「私も、そう思っておりました」「六年のほうは、私より上手うございます」「言われましたか」「申しておりませぬ」。
そして「糸と、字は、一緒でございます。糸の数を書くゆえ」。
《劉禅文庫 蔵書その五十五『コア・コンピタンス経営』——強みは商品ではなく、商品を作れる力のほうである。四十年、織れる人を数えたことがなかった》
次回、第147話「名前のない将軍が、国を遅らせる」。




