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転生したら劉禅だったので、諸葛亮に有給休暇を取らせます~MBAホルダーの阿斗、関羽の孤立・張飛のパワハラ・孔明の過労死を組織改革で止める~  作者: 東雲 諒杏
第九部 英雄がいなくても、明日は来る

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外伝・費禕伝 『二百十四回、笑われた』 (〜253年)


   序 変わらなかった死亡記事


史書には、こう書かれるはずだった。


《延熙十六年、歳首の大会》


《魏の降人 郭循、席に在り》


《禕、歓飲沈酔し、循の手刃する所と為る》


——歳首の宴で、費禕(ひい)は魏からの降人・郭循(かくじゅん)に刺されて死んだ。


    ◆


そのとおりになった。


この外伝集で、先帝と並んで、死亡記事の変わらなかった男である。


変わったのは、死んだ後だった。


普通、大将軍が降人に刺されれば、降人狩りが始まる。三万六千八百三十九人の降人が、この国にはいた。


一人も、狩られなかった。


理由は、この男が最後に言った八文字である。


   第1話 酒に弱い男


呉へ行けと言われたのは、三十一のときである。


費禕は、一つだけ確かめた。


「陛下。私は、酒に弱うございます」


即位したばかりの皇帝は、答えた。


「存じています。……孫権殿は、必ず酒で試されます」


「では、なぜ私を」


「酔っても、言わない人だからです」


    ◆


費禕は、返す言葉がなかった。


酔えば、人は口が軽くなる。費禕は、ならない。理由は簡単で——酔うと、黙るのである。


使者の適性として、酒豪より上位の資質があった。「飲めるが漏れる」より「飲めないが漏れない」。この国の人事は、そこを見ていた。


    ◆


建業へ着いた日、宴があった。孫権は、費禕が座った途端、盃を出した。


「蜀の使者は、酒が強いと聞く」


「弱うございます」


孫権は、笑った。


——一回目である。


    ◆


その夜、費禕は八杯飲んだ。そして、一言も国の話をしなかった。


孫権が三度、水を向けた。三度とも、費禕は関係のない話をした。蜀の茶。成都の雨。桟道の長さ。


四度目に、孫権が聞いた。


「そなた、酔うておるか」


「酔うております」


「では、なぜ言わぬ」


「酔うと、黙りますゆえ」


孫権は、また笑った。二回目である。


    ◆


翌朝から、費禕は数え始めた。


——笑われた回数を数えれば、腹が立たない。数えている間は、数えることに気を取られる。そして、腹が立たなければ、失言しない。


怒りの処理を経理に回した男である。


    ◆


三日目、諸葛恪(しょかつかく)が孫権の前で費禕をからかった。


「蜀には、驢馬が多いと聞く」


蜀の道は険しく馬より驢馬が要る——そして、蜀の者を驢馬に喩えている。


費禕は、答えなかった。代わりに、聞いた。


「呉には、船が多うございますな」


「多い」


「船は、陸を走りませぬ」


広間が、静かになった。孫権が、笑った。三回目である。


その夜、費禕は竹簡に書いた。


《笑われた回数——三》


《怒った回数——〇》


《言い返した回数——一》


言い返しは、二十二年で三度になる。三度とも、自分ではなく蜀を侮られたときだった。


   第2話 末席に置かない


降人の扱いは、費禕の職掌だった。


二十二年、同じことをした。


——末席に、置かない。


    ◆


最初は建興六年である。天水(てんすい)から四人が降った。梁緒(りょうしょ)尹賞(いんしょう)梁虔(りょうけん)。そして、姜維(きょうい)


宴の席次を、費禕が決めた。四人を、中ほどに置いた。


諸将から抗議が来た。


「降ったばかりの者でございます。末席が、礼にかないましょう」


「かないます」


「では」


「そして、末席に置けば、次が降りませぬ」


    ◆


理由を、費禕は三つ書いている。


末席に置けば、降人と分かる。分かれば、周りが避ける。避けられれば、居場所がなくなる。


そして、居場所がなくなった者は、戻る。戻った者を見て、次の者が降らなくなる。


——席次一つが、国境の向こうまで読まれている。宴会の座席表が、この男の手の中では外交文書だった。


    ◆


名簿も、自分で書いた。姓名。出身。年齢。降伏の日。率いていた者の数。


官になった者、四百十二人分。二十二年、自分の筆で書いた。


——書けば、覚える。覚えていれば、宴の席で名を呼べる。名を呼ばれた者は、降人でなくなる。


    ◆


建興十二年、姜維が礼に来た。


「六年前、席をお決めになりましたな。なぜ、中ほどに」


「末席に置けば、次が降りませぬゆえ」


姜維は、しばらく黙り、聞いた。


「私は、次のために置かれましたか」


費禕は、そこで一つ、答え方を変えた。


「違います。……伯約どのが、末席に座る顔をしておられなかったからです」


    ◆


二十二年で、降人は三万六千八百三十九人になった。


そして、叛いた者は、一人もいなかった。


——延熙十六年の正月まで、である。


   第3話 断った規定


延熙十五年。大将軍になって九年、五十五になっていた。


皇帝が、一つ案を出した。


《大将軍・丞相と同席する宴において、武器の携行を全員禁ずる》


《備考 降人の規定ではありません。全員の規定です》


    ◆


費禕は、それを断った。


「よろしいので」


「二十二年、そうしておる」


    ◆


一年が過ぎた。延熙十六年の歳首の宴を明日に控えた夜、費禕は名簿を確かめている。四百十二人分の中から、郭循の欄を探した。自分の字である。


《郭循 字・不詳 西平の出 年四十一》


《降伏の日——延熙十四年 九月》


《率いていた者——七百》


《魏にて、中郎将》


《家族——不明》


——家族が、不明である。


四百十二人のうち、不明は十一人。十一人とも、単身で降った者だった。


費禕は、それを見た。そして、何もしなかった。


——不明であることは、罪ではない。書いてある。それで足りる。


そして、書いた者が書いたことを疑い始めれば、名簿は名簿でなくなる。


    ◆


二十二年、名簿を信じることを職掌にしてきた男である。最後の夜も、職掌に殉じた。


これを油断と呼ぶか、筋と呼ぶかは、読む者に委ねる。


本人は、迷わなかった。


   終章 郭循の名を、消すな


翌日、歳首の宴が始まった。


費禕は、七杯飲んだ。そして、いつもどおり黙っていた。酔うと、黙る男である。


    ◆


午の刻を過ぎた頃、郭循が立った。近くである。


費禕は、それを見た。盃を、置こうとした。


置く前に、刺された。


    ◆


郭循は、その場で取り押さえられた。


費禕は、まだ息があった。そして、一つだけ言った。


「名簿を」


「……何と、仰せでございましょう」


費禕は、言った。


「郭循の名を、消すな」


それが、最後の言葉になった。


    ◆


報せは、六日で成都へ届いた。三行である。


《歳首の宴において》


《降人 郭循、大将軍を刺す》


《大将軍、薨ず》


    ◆


遺品は、竹簡が三本だった。少ない。


一本目——呉との会談記録、二十二年分の要点。


二本目——降人の名簿、四百十二人。


三本目——表題がない。数字だけが並んでいた。


《孫権に笑われた回数——二百十四》


《怒った回数——〇》


《席を立った回数——〇》


《言い返した回数——三》


最後の頁に、一行。


《三度とも、蜀を侮られたときでございます》


    ◆


皇帝は、それを読んだ。そして、少し笑った。


笑いながら、止まらなくなった。


——二百十四回である。自分を笑われても、数えて済ませた。蜀を侮られたときだけ、三度、言い返した。


二十二年、この男は数字の置き場所を一度も間違えなかった。


    ◆


評定は、三日続いた。


姜維が、降人の扱いを改めよと言った。三つ挙げた。その顛末は、姜維の伝に書いたとおりである。


皇帝は、退けた。そして、言った。


「疑いません。……三万六千八百三十九人を、疑うことになりますゆえ」


    ◆


規定は、一つだけ足された。


一年前、費禕が断ったものである。


《大将軍・丞相と同席する宴において、武器の携行を全員禁ずる》


《備考 降人の規定ではありません。全員の規定です》


一字も、変わっていない。


皇帝は、書きながら手が止まった。


——同じ文である。一年前、費禕に見せた。そして、断られた。


断られたとき、書き直さなかった。書き直せば、断られた事実が消える。断られた規定が断った人の血で通る日を、この皇帝は待ちたくなかったはずである。それでも、一字も変えなかった。


——変えれば、あの人の「二十二年、そうしておる」まで消えるからだ。


    ◆


皇帝は、木簡を出した。


《渡したもの》


新しい行を書いた。


《費禕 字・文偉 五十六》


《降った者を、末席に置かなかったこと》


そして、横に小さく。


《三万六千八百三十九人が、残っている》


    ◆


名簿は、消されなかった。四百十二人分、そのままである。


郭循の名も、残っている。備考に、郤正(げきせい)の字で一行だけ足された。


《延熙十六年 正月 大将軍を刺す》


そして、その下に。


《本欄を消すべからず。大将軍の遺命による》


    ◆


刺した男の名が、刺された男の遺命で守られている。


名簿とは、そういうものだと、この男は最後に教えて逝った。


——書いた者が疑えば、名簿は名簿でなくなる。


四百十二人の名は、今日も一人も欠けていない。

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