外伝・龐統伝 『天才は、定時で帰りたい』 (〜241年)
序 死亡記事
史書には、こう書かれるはずだった。
《統、雒県を攻め、流矢に中りて卒す》
《時に年三十六》
——龐統は雒城攻めの最中、流れ矢に当たって死んだ。落鳳坡という、鳳雛が落ちるにはあまりに出来過ぎた名の坂で。
◆
そうならなかった。
理由は、兜である。
《はずすな》と書いた四つの子と、恨みながら外さなかった男の、兜であった。
第1話 かもしれない
まず、一枚の木簡の話をする。
龐統がそれを見たのは、三つの子の部屋であった。
木簡には、こうあった。
《士元/落鳳坡》
その横に、小さく四文字。
《かもしれない》
◆
自分の字と、聞いたこともない坂の名が、並んでいる。
そして、死ぬ、とは書いていない。かもしれない、とだけ書いてある。
龐統は、三つの子に問答を仕掛けた。天下の鳳雛が、本気でやった。
そして、落ちなかった。子は「わからない、から」としか言わなかった。
◆
龐統は、酒甕を置いた。そして、生涯で初めて、真面目な顔をした。
「若君。私は、この一行のために働きます」
「え」
「劉皇叔のためでも、天下のためでもございません」
龐統は、立ち上がった。
「三つの子に『かもしれない』と書かれて、そのまま死ぬわけには参りませぬ」
◆
後年、龐統はこの日のことを一度だけ書いている。
《断定されていれば、動かなかった》
《「救える」と書いてあれば、「では、お任せします」と言った》
《分からない、と書いてあった。ゆえに、自分でやることにした》
——天才の扱い方を、三つの子が知っていた。知っていたのか、たまたまか。龐統は、確かめなかった。
確かめて、たまたまだったら、悔しいからである。
第2話 はずすな
それから、兜が来た。
飾りがなく、内側に布が何重にも縫い付けられた、異様に分厚い兜である。着けさせたのは、あの子だった。
龐統は、兜が嫌いである。首が凝るからだ。首から上だけで禄を食んでいる自覚があるのである。
◆
龐統は、書状で抵抗した。相手は、四つになっていた。
《兜は重い。首が痛い。三十日で外す》
返事は、即日来た。四つの字である。半分は、読めない。
《はずすな》
十日後、龐統は返した。
《外さぬ。ただし恨む》
恨む、と大人が四つの子に宣言した。四つの子は、構わなかった。
この書状の往復は、その後も続いた。
《視界が狭くなります》——《かぶと》
《軍師は前線に出ませぬ》——《でてます》
事実である。龐統は、しょっちゅう前線に出ていた。四つの子に虚偽報告を看破された軍師は、古今この男だけであろう。
◆
建安十九年、雒城。攻囲は一年を超え、龐統は三十六になっていた。
七月、総攻めがあった。龐統は東の攻め口を指揮し、いつものように、城壁の下まで自分で出た。
そして、城壁の上から、矢が降った。
その中の一本が、龐統の顔へ飛んだ。
◆
成都には、伝令が走った。
七歳の子は、関羽の腕の中で、報告を聞いている。
「その中の一本が、士元どののお顔へ」
「——」
「兜の——眉庇に、当たりました。鏃が、逸れました」
「……」
「頬に、傷を負われましたが、それだけにございます」
七歳は、関羽の肩に額を押し付けて、声を殺した。
◆
当の龐統は、雒城の下で尻餅をつき、空を見ていた。
——今のは、ここで死ぬはずの矢だな。
理屈ではなく、体がそう言った。
その夜、龐統は兜を膝に置いて、長いこと眺めた。そして、生涯でただ一度だけ、兜に礼を言った。
「……首は、凝ったがな」
◆
さらにその夜、算盤を弾いた。
——三十六で死ぬはずだった。
——人の寿命を、まあ六十とする。
——差し引き、二十四年。
「……余ったな」
余った人生をどう使うか。龐統は三日考え、結論を出した。
「半分は昼寝に使う」
この結論は、のちに蜀漢の人事制度を根底から揺るがすことになる。
第3話 働いたら負け
蜀漢には、変わった制度がある。
休みを取らねば叱られる制度である。丞相・諸葛亮に有給休暇を取らせるために生まれた制度だと、もっぱらの噂だった。
この制度を、蜀漢で最も濫用した男が、龐統である。
◆
龐統の働き方は、官吏たちの怪談になっていた。
まず、働かない。
来ない日は、来ない。来た日も、寝ている。執務室に持ち込んだ長椅子で寝ている。長椅子は私物である。持ち込む情熱だけは、あった。
そして月に数日、突然、猛烈に働く。
溜まった案件四十七件を、一晩で裁いたことがある。翌朝、四十七件すべてに決裁と理由書きと、担当者への嫌味が一行ずつ付いていた。
嫌味の分だけ、余計に働いている。
◆
若い官吏が、たまりかねて聞いたことがある。
「龐軍師は、なぜ毎日均して働かれぬのですか。その方が、皆が楽です」
龐統は、長椅子から答えた。
「毎日働くとな。毎日、私が要ることになる」
「……はい?」
「私が十日寝ても回る形にしておけば、私が死んでも十日は回る。十日あれば、次の形が作れる。……分かるか。軍師の仕事は、軍師を要らなくすることだ」
若い官吏は、感動して席に戻った。
戻ってから、気付いた。
——今の理屈だと、結局この人が寝たいだけなのでは。
両方、正しかった。
◆
丞相府では、諸葛亮としばしば衝突した。内容は、決まっていた。
「孔明。休め」
「士元こそ、働け」
「私は制度どおり休んでおる」
「制度の三倍休んでおる」
「では貴公は制度の何倍働いておる」
諸葛亮は、答えなかった。答えれば負ける計算が、一瞬で立ったのである。
このやり取りは丞相府の風物詩となり、若い官吏は「今日は龐軍師が勝った」「今日は引き分け」と星取り表を付けていた。
星取り表の存在を、二人とも知っていて、二人とも咎めなかった。
◆
ただ一度だけ、様子の違う日があった。
建興十二年。五丈原から、丞相が生きて帰ってきた年である。史実なら、帰らぬはずの遠征だった。
その夜、龐統は諸葛亮の部屋に酒を持ち込み、珍しく自分から注いだ。
「孔明。余った年は、重いぞ」
諸葛亮は、盃を持ったまま、龐統を見た。
「私は二十年、余りを生きた。先に言っておく。……余った年には、利子が付かぬ。元本を、ただ使うだけだ。惜しむな。眠れ。それだけだ」
諸葛亮は、その夜、何も問わなかった。
ただ、注がれた酒を、最後まで飲んだ。
終章 四角のまま
延熙四年、成都。
龐統は、死んだ。六十三である。
長椅子の上だった。昼寝と、見分けがつかなかった。
机には、決裁済みの木簡が積んであった。未決は、一件もなかった。
——最後の月だけ、毎日均して働いていたことに、皆はあとで気付いた。
◆
遺品の整理は、簡単だった。物を持たぬ男である。
長椅子。酒器。そして、兜。
あの兜である。二十七年、外さなかった、と言いたいところだが、実際には成都の執務室では外していた。長椅子で兜は、さすがに眠れない。
ただし、戦場と、視察と、遠出には、必ずかぶった。二十七年、一度も忘れなかった。
兜には、遺言が添えてあった。宛先は、皇帝である。
◆
《陛下。兜をお返しいたします》
《三十六の年に頂戴した命の余りは、本日で二十七年になりました》
《使い道を申告いたします。昼寝、およそ九年。酒、二年。星取り表の観戦、通算三月》
《残りは、あなたの国に使いました。よい国でした。割に合いましてございます》
《それから、古い書状の件でございます》
《「外さぬ。ただし恨む」と、かつて申し上げました》
《外しませなんだ。恨みは、本日限りで取り消しまする》
《二十七年分の首の凝りは、そちらの帳簿へ付けておいてください》
◆
皇帝は、それを読んだ。三十五になっていた。
侍中が見ている前だったので、泣かなかった。
代わりに、古い木簡を出させた。三十二年、仕舞ってあったものである。
《士元/落鳳坡》
《かもしれない》
その横に、四角が一つ、描いてある。
丸は、死ぬ年の印。四角は、まだ何も決まっていない印。
三つの年の皇帝が、そう決めて描いた四角である。そして、いつか自分でこう書いていた。
——このまま、四角で終わらせる。
◆
皇帝は、筆を取った。
丸は、描かなかった。年も、書かなかった。
四角の横に、一行だけ足した。
《四角のまま、終わった》
◆
侍中が、恐る恐る尋ねた。
「陛下。その印は、何でございますか」
「約束です」
「……どなたとの」
皇帝は、少し考えて、答えた。
「三つの私と、です」
◆
兜は、武庫に納められなかった。
皇帝の書庫の、木簡の隣に置かれた。
内側の布に、後から書き足された達者な字が、一行ある。
《余りの二十七年、面白うございました。——士元》




