第131話 同じ家から、二人目
【延熙元年 冬|成都】
継承規定に、こう書いた。
《太子は、一名のみとする》
そして、后は、同じ家から二人目を迎える。
◆
延熙元年の冬。皇后が死んで、半年である。
評定に、議題が一つ出た。
《皇后の冊立について》
出したのは、俺ではない。郤正である。三十三。記録を、十年やっている。
「陛下」
「令先どの」
この人は、竹簡を置いた。そして、こう言った。
「半年、空いております」
「はい」
「礼では、一年以内でございます」
俺は、答えなかった。
分かっている。皇后が空けば、後宮の序列が決まらない。序列が決まらねば、子の扱いが決まらない。
そして、俺には、七人の子がいる。
許靖は、既に死んでいる。十六年前である。そして、この人は、死ぬ前に一つ残した。
《人を評するには、法が要る》
《法は、私が死んでも残る》
礼を担っているのは、その法で選ばれた者だった。そして、候補を三つ挙げてきた。
俺は、それを見た。
一人目——益州の豪族の娘。
二人目——荊州の名族の娘。
そして、三人目。張氏。翼徳叔父上の、次女である。
俺は、そこで、手が止まった。
十七年前と、同じ三つである。益州。荊州。涿郡。順も、同じだった。
「令先どの」
「はい」
「十七年前の竹簡は残っていますか」
郤正は、答えた。
「残っております」
「出してください」
竹簡が来た。端が、擦り切れている。十七年である。そして、そこにこう書いてあった。
【太子妃 決定】
決定 張氏(張飛長女・十五)
理由
一 軍の安定
二 涿郡以来の家であること
三 ——
備考
三は、殿下が書かれました。
三つ目が、空欄である。十七年、そのままだった。そして、半年前、俺は中身を言った。
「令先どの」
「はい」
「三つ目を、書きます」
この人は、筆を取った。そして、俺は言った。
「『断ってよいと、言われた人だから』」
広間が、静かになった。郤正は、書いた。そして、何も聞かなかった。
三十三である。そして、この人は、聞かないほうが正しいときを知っている。十年で、覚えたのだろう。
「令先どの」
「はい」
「今度も、三人に会います」
この人は、答えた。
「承りました」
「十七年前の前例がございます」
俺は、そこで、少し笑った。
前例である。十七年前、三日揉めた。前例がない、と。そして、今、前例になっている。
十四年前、俺は譙周にこう言った。
「前例は、最初の一度で作られます」
そして、あの人は「分からず」と書いた。
◆
三人に、順に会った。一人につき、四半刻である。
一人目と二人目は、十七年前と同じだった。喋らない。そして、よく喋る。
変わったのは、俺である。三十一になった。
そして、十七年前、俺は三人に同じ問いを二つした。
《何ができますか》
《何がしたいですか》
今回は、一つ増やした。
《何を、数えられますか》
一人目は、答えられなかった。二人目は、こう答えた。
「陛下の御心を」
俺は、そこで、少し困った。数えられないものを、数えると言われた。
三人目が、来た。二十四である。そして、姉に似ていなかった。背が、高い。そして、目の感じが、父親に似ていた。
「張氏どの」
「はい」
俺は、聞いた。
「この話を、いつ聞かれましたか」
この人は、答えた。
「十七年前でございます」
俺は、そこで、動きを止めた。
「……十七年前」
「はい」
「姉が、太子妃に決まりました日でございます」
「はい」
「父が、申しました」
「何と」
この人は、答えた。
「『次は、お前かもしれん』」
俺は、そこで、何も言えなくなった。
七歳である。そして、十七年、それを持っていた。
「翼徳叔父上は」
「はい」
「他に、何か仰いましたか」
この人は、少し考えた。そして、こう言った。
「『そのときも、断ってよい』と」
俺は、そこで、息を呑んだ。
同じ言葉である。十七年前の夜、この人は姉に言った。そして、妹にも言っていた。七歳の子に、である。
俺は、そこで、一つ聞いた。
「叔父上は、なぜそれを、七つのあなたに」
この人は、答えた。
「存じませぬ」
「……」
「ただ、父は、こう申しました」
「はい」
「——」
「『俺は、断れと言えぬ』」
俺は、そこで、動けなくなった。
十七年前、この人は俺の家臣だった。そして、娘の親だった。
断れと言えば、皇太子の妃の話を拒むことになる。言わなければ、娘が行く。
だから、「断ってよい」と言った。そして、それが、この人にできる限界だった。
「張氏どの」
「はい」
俺は、聞いた。
「断られますか」
この人は、長いこと黙っていた。そして、こう聞き返した。
「陛下」
「はい」
「姉は、幸せでございましたか」
俺は、答えられなかった。
十七年である。そして、一度も聞かなかった。
俺は、正直に答えた。
「分かりません」
「……」
「聞いていません」
「十七年、聞きませんでした」
張氏は、しばらく黙っていた。そして、こう言った。
「姉から、書状が参りました」
「……いつ」
「去年の暮れでございます」
死ぬ、三月前である。
「何と、書いてありましたか」
この人は、懐から竹簡を出した。細い。そして、一行しか書いていない。
《数える者が、要る》
俺は、その一行を、長いこと見ていた。
半年前、皇后は同じことを言った。
「見る者が、いなくなりますゆえ」
「張氏どの」
「はい」
「意味を、ご存じですか」
この人は、首を振った。
「存じませぬ」
「……」
「姉は、書きませんでした」
そして、こう続けた。
「ですが、一つ分かります」
「何を、でしょう」
この人は、答えた。
「姉は、断れと申しておりませぬ」
俺は、そこで、竹簡を返した。そして、こう聞いた。
「数えられますか」
張氏は、怪訝な顔をした。
「何を、でございましょう」
俺は、袋を出した。布である。三度、作り直した。そして、石が入っている。
「三百八十四です」
「十七年分です」
「そして、去年は、七つでした」
張氏は、それを見た。そして、受け取らなかった。
「陛下」
「はい」
「姉は、数えるだけでございましたか」
俺は、答えた。
「はい」
「何も、言いませんでした」
張氏は、しばらく考えた。そして、こう言った。
「私は、申します」
俺は、そこで、顔を上げた。
「何を、でしょう」
この人は、答えた。
「増えた年に、申し上げます」
「……」
「減った年は、申しませぬ」
俺は、そこで、息を呑んだ。
増えた年だけ。それは、悪い報せである。
そして、悪い報せを運ぶ者を、俺は一人置いている。黄皓という。十年、その職にいる。
そして、この職の者は、二年で辞める。平均である。黄皓だけが、十年もっている。
「張氏どの」
「はい」
「それは、辛い役です」
この人は、答えた。
「存じております」
「……」
「ですから、申し上げました」
俺は、そこで、一つ理解した。
姉は、規定を守った。七番目である。
《六の数は、掲示しない》
そして、妹は、規定を変えると言っている。
俺は、そこで、一つ聞いた。
「張氏どの」
「はい」
「規定に、反します」
この人は、答えた。
「掲示は、いたしませぬ」
「……」
「申し上げるだけでございます」
「——」
「掲示と、申し上げるのは、違いますゆえ」
俺は、そこで、少し笑った。
十三年前、翼徳叔父上が言った。
「掲げれば、多い者が偉くなる」
掲げなければ、よい。そして、この人は、条文を読んで、抜け道を見つけた。
父親に、似ていない。そして、たぶん、姉に似ている。
「張氏どの」
「はい」
俺は、聞いた。
「お名前を、伺ってよろしいですか」
この人は、少し驚いた顔をした。そして、こう言った。
「姉から、伺っております」
「……何を」
「『陛下は、名を聞かれる』と」
「はい」
「そして、『書かれぬ』と」
「覚えるだけだ、と伺いました」
俺は、頷いた。そして、この人は、名を言った。一度だけである。
五人目である。そして、六人目になった。
◆
冊立は、その冬に行われた。評定で、理由を三つ書かせた。十七年前と、同じ様式である。
【皇后 冊立】
決定 張氏(張飛次女・二十四)
理由
一 軍の安定
二 涿郡以来の家であること
三 増えた年に、申し上げると言った
備考
三は、陛下が書かれました。
三つ目が、埋まっている。十七年で、初めてである。
「陛下」
郤正が聞いた。
「三つ目は、見えております」
「はい」
「よろしいのでございますか」
俺は、答えた。
「今度は、見えてよいのです」
そして、こう続けた。
「前は、書けませんでした」
「……」
「十四でしたゆえ」
郤正は、そこで、一つ聞いた。
「陛下」
「はい」
「十四で書けなかったものが、三十一で書けるようになりましたので」
俺は、答えた。
「違います」
「では」
「——」
「本人が、言ったからです」
十七年前、姉は何も言わなかった。そして、俺も、聞かなかった。
◆
冊立の日、一つ問題が出た。譙周である。三十七になっていた。そして、礼を担っている。
「陛下」
「允南どの」
「申し上げにくいことがございます」
「どうぞ」
この人は、こう言った。
「同じ家から、二人目でございます」
「はい」
「外戚が、強くなります」
「はい」
「そして、継承規定に反します」
俺は、そこで、竹簡を出した。七年前に作ったものである。
【継承規定】
一 太子は、一名のみとする
二 他の皇子には、太子と異なる職掌を与える
三 皇子の禄・儀・師傅は、太子と同一にしない
四 太子が不適と判明した場合の手続を、事前に定める
五 四の判定は、皇帝が単独で行わない
「允南どの」
「はい」
「后のことは、書いてありません」
譙周は、答えた。
「書いてございませぬ」
「……」
「ですから、申し上げております」
俺は、そこで、少し笑った。
正しい。書いていないから、止められない。そして、止められないなら、書くべきである。
「允南どの」
「はい」
「六番目を、書いてください」
この人は、怪訝な顔をした。
「何と、でございましょう」
俺は、答えた。
「『同じ家から、三人目は迎えない』」
広間が、静かになった。そして、譙周は、長いこと黙っていた。
「……陛下」
「はい」
「二人目は、認められるのでございますか」
俺は、答えた。
「認めます」
「……」
「そして、三人目は認めません」
「理由を、伺ってよろしいか」
俺は、答えた。
「二人目は、偶然です」
「……」
「三人目は、制度になります」
譙周は、そこで、拝礼した。そして、こう言った。
「承りました」
「六番目を、書きます」
そして、一つ聞いた。
「陛下」
「はい」
「偶然と制度の境は、二人目と三人目でございますか」
俺は、答えた。
「分かりません」
「……」
「そして、どこかに線を引かねばなりません」
「——」
「そして、引いた線は、必ず正しくありません」
譙周は、しばらく黙っていた。そして、こう言った。
「……陛下」
「はい」
「それは、四十年前、私が伺ったことと同じでございます」
「何を、ですか」
この人は、答えた。
「『前例は、最初の一度で作られます』と」
「はい」
「——」
「そして、私は『分からず』と書きました」
「はい」
「——」
「今日も、『分からず』と書きます」
四十年である。そして、この人は、まだ「分からず」と書いている。
そして、俺は、それを止めない。分からないと書き続ける人が、一人いるほうがいい。
◆
その夜、俺は袋を出した。三百八十四である。そして、十八行目を見た。
《十八年目 ——》
半年前、空欄のままにした。数える者が、いなくなったからである。
俺は、その竹簡を新しい皇后へ渡した。そして、こう言った。
「十七行あります」
「はい」
「姉君が、書かれました」
新しい皇后は、それを読んだ。そして、十八行目で止まった。
「空いております」
「はい」
「書いてよろしいのでございますか」
俺は、答えた。
「書いてください」
そして、こう付け足した。
「増えた年は、言ってください」
「はい」
「減った年は」
「言わなくて結構です」
この人は、頷いた。そして、こう言った。
「一つ、伺ってよろしいですか」
「どうぞ」
「増えた年は、何をなさいますか」
俺は、そこで、答えられなかった。
考えていなかった。数えることだけを、考えていた。
「分かりません」
俺は、答えた。
「……」
「そのときに、考えます」
新しい皇后は、少し笑った。そして、こう言った。
「姉は、そう仰せになると申しておりました」
俺は、そこで、動けなくなった。
三十一年である。そして、俺は初めて、誰かに予測されていることを知った。
十七年、見られていた。そして、その人は、妹に引き継いだ。
「皇后」
「はい」
「姉君は、他に何か」
この人は、答えた。
「一つ、ございます」
「何ですか」
新しい皇后は、こう言った。
「『陛下は、五人の名を覚えておられる』と」
俺は、そこで、息を呑んだ。
「……五人」
「はい」
「そして、姉君は」
この人は、答えた。
「『六人目にしてもらえ』と」
◆
俺は、その夜、木簡を出した。母の名を書いた木簡である。
諸葛亮と二人で書いた、歪んだ一文字がある。
俺は、その隣に、指で六つ、なぞった。
甘夫人。孫夫人。糜夫人。黄夫人。そして、姉。
六人目。
俺は、そこで、手を止めた。
五人目を、俺は書かなかった。聞かなかったからだ。そして、六人目は、聞いた。
そして、書かない。理由は、同じである。
書けば、この人がこの家の者になる。そして、この人は、もうこの家の者である。
だから、書かなくていい。
俺は、そこで、初めてそう思えた。三十一年で、初めてである。
〈あとがき〉
「『次は、お前かもしれん』」——十七年前、七歳の子に言われていました。そして「『そのときも、断ってよい』」。
「『俺は、断れと言えぬ』」。断れと言えば皇太子の妃の話を拒むことになり、言わなければ娘が行く。だから「断ってよい」と言いました。それが、この人にできる限界でした。
「掲示と、申し上げるのは、違いますゆえ」——条文を読んで、抜け道を見つけました。父親に似ていません。たぶん、姉に似ています。
「偶然と制度の境は、二人目と三人目でございますか」「分かりません。そして、どこかに線を引かねばなりません。そして、引いた線は、必ず正しくありません」——四十年、譙周は「分からず」と書き続けています。
「『陛下は、五人の名を覚えておられる』」「そして、『六人目にしてもらえ』と」。
次回、第132話「呉の監察官は、誰も監察しなかった」。




