外伝・関羽伝 『降ろして、から』 (〜236年)
序 死亡記事
史書には、こう書かれるはずだった。
《羽、麦城に走る》
《臨沮に至り、斬らる》
《時に年六十》
◆
前半は、そのとおりになった。関羽は麦城へ走り、兵二万三千は九千三百になっていた。
後半が、そうならなかった。理由は、三十八時間である。十二歳の子が呉から買った時間だった。四十時間で注文し、二時間、値切られた。
そして関羽は、その三十八時間に、四十時間かけることになる。二時間の超過である。誰も咎めなかった。理由は、終章で述べる。
第1話 値切られた二時間
建安二十四年、成都。荊州の報せは悪くなる一方だった。徐晃の反撃。洪水。そして、呉が動いた。太子は、重臣を集めて言った。
「関将軍を、帰します」
異論はなかった。問題は、宛先である。
◆
法正が、指を折って予測を述べた。
「『退け』と書けば、三つに一つです。読まぬ。読んでもなかったことにする。あるいは、書いた者を義理堅く恨みながら樊城で華々しく死ぬ」
「三つ目は困ります」
「三つ目が一番あり得るから、困っておるのです」
◆
文面の案は、出ては沈んだ。
《戦況不利につき撤退せよ》——法正が却下した。「《不利》の二文字で、あの御仁は逆に動かなくなります」
《転進せよ》——太子が却下した。「負けの言い換えを、公文書に入れたくありません。一度入れると、癖になります」
《帰ってきてください。みんな寂しがっています》——提案者は名を秘す。全員一致で却下されたが、趙雲だけが「気持ちは、これが一番正しゅうござる」と弁護した。
◆
二晩目の明け方、太子が結論を出した。
「文面では、退きません。……あの方が退けるのは、文面ではなく、条件です。開いていない退路は、退けと言われても、ありません。まず、退路を買います」
「買う」と法正が繰り返した。「誰から」
「呂蒙どのから」
会議室が、静かになった。攻めてくる当の敵から退路を買う、と十二歳が言ったのである。注文は、四十時間の停戦であった。
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使者には、馬良が立った。
呂蒙は、商人のように応じた。すなわち、値切った。
「三十八時間」
削られた二時間の意味を、馬良は一行で報告している。
《まけさせた、という形が要るのです。呉にも、面子の帳簿がございますゆえ》
そして呂蒙は、代金を最後に提示した。
「麦城で、関羽どのの軍旗を降ろしてください」
——一番高い値段を最後に出し、値切る余地を残さなかった。
◆
太子は、それを呑んだ。そして、書状を書いた。推敲はしなかった。二晩かけた名文の類は一つも使わず、事実だけを書いた。
《叔父上へ》
《呂蒙殿との一時停戦が成立しました》
《三十八時間、退路が開きます》
《条件として、麦城で軍旗を降ろしてください》
使者は、趙雲であった。太子は一つだけ添えた。
「返事は、受け取らないでください。叔父上は、返事を書かれる方ではありません」
趙雲は馬を三度替え、一日半で麦城へ入る。三十八時間のうち三十四時間が道で消えた。
第2話 四十時間
書状を持ってきたのは、趙雲であった。
関羽は三度読み、破らず、燃やさず、長く手に持っていた。歪んだ十二歳の字で、一字も間違っていない。
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一時間目から三時間目まで、関羽は怒った。声には出さない。六十年、怒りを声に出したことがない。代わりに、髭を撫でた。
「子龍。返事は、要らぬのか」
「要らぬと承っております。……『叔父上は、返事を書かれる方ではありません』と」
関羽は、髭から手を離した。そのとおりで、それを十二歳に見抜かれていた。
◆
四時間目、関平が来た。
「父上。旗を降ろしましょう」
関羽は、顔を上げた。——逆らった。三十年で、初めてである。
「平。もう一度言え」
声は震えた。それでも、同じことを言った。
「旗を、降ろしましょう」
関羽は、答えなかった。答えられなかったのである。
◆
五時間目から十時間目まで、関羽は数えた。二万三千が、九千三百。死んだ者、六千二百。捕らわれた者、三千百。去った者——四千四百。
三つ目で、手が止まった。旗はまだ立っている。そして、去った。
集まったのも旗、散ったのも旗である。
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十一時間目、周倉が来た。
「私が旗を持ち、城へ残ります」
「ならぬ」
即答である。一つ、周倉が死ぬ。二つ——旗が残れば、また人が集まり、集まって死ぬ。
「では、将軍が持たれますか」
「持たぬ」
「では、誰が」
答えは一つしかない。誰も、持たぬ。
◆
十二時間目から、関羽は筆を執った。九千三百に退くことを告げる、布告を書くためである。
書いては、破った。
《転戦す》——負けを言い換える言葉である。同じ案が成都で却下されたことなど知る由もないが、破った理由は同じだった。
《移駐す》——破った。
《呉との盟約により》——盟約ではない。買った停戦である。破った。
十九時間がこれに消えた。負けたと書かずに退く言い方——名を守る作業である。そして二十時間目、気付いた。名を守る文を探す間も、兵は減っている。
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二十一時間目、三十年分の地図を広げた。勝った場所に印がある。負けた場所には、ない。そして、退いた印は——六十年で、一つもなかった。
二十二時間目、城壁へ上った。下で、九千三百が旗を見上げていた。顔を数え、三十でやめた。全部、若い。三十年前、白馬で見た若い顔は、今、一人も残っていない。
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三十時間目、趙雲が二度目に来た。何も言わずに立っている。関羽の方から、聞いた。
「子龍。お前は、旗を降ろしたことがあるか」
「ございます。数えておりませぬ。……私の旗では、ございませぬゆえ」
——この男の旗は、主公のものである。だから、降ろせる。
「主公の旗を降ろすとき、何を思う」
「明日、また立てる、と。……布でございますゆえ」
◆
三十一時間目、関羽は一つ理解した。自分の旗だと、六十年思ってきた。
三十二時間目から三十八時間目まで、旗の下で死んだ者を数え直した。数えられなかった。名も、数も、覚えていない。
そこで一つ、認めた。
——自分の旗ではない。集まった者の旗である。集めた責任が、自分にある。
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三十九時間目、関平を呼んだ。
「平。四時間目に、お前は何と言った」
「旗を降ろしましょう、と」
「うむ。……三十年で、初めて逆らったな」
「申し訳ございませぬ」
関羽は、首を振った。
「謝るな。……三十年、待っておった」
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四十時間目。布告は、二行になった。
《旗を降ろす》
《江陵へ帰る》
十九時間かけて探した言い方は、一つも入らなかった。
——成都の十二歳と麦城の六十歳が、別々に二晩苦しみ、同じ結論に落ちた。飾る言葉を捨て、事実だけを書く。似た夜を過ごしたことを、当人たちは知らない。
◆
関羽は、旗の下へ行き、自分で縄を解いた。誰にも触らせなかった。
旗は、ゆっくり降りた。
音が、しなかった。
布である。六十年、布だった。
九千三百が、見ていた。誰も、声を出さなかった。
そして——一人も、去らなかった。
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関羽は、数え違えたことに気付いた。旗が降りれば散ると、六十年思っていた。
散らなかった。
第3話 祭酒
九千三百のうち、八千九百が帰った。四百は、道中の傷で逝った。
成都で、関羽は前将軍のままだった。降格も叱責もない。そして五年、樊城の話をしなかった。言葉に、ならなかった。
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代わりに、名簿を書いた。「兵の名前を、書いてください」——皇帝から与えられた、それだけの仕事である。死んだ者、帰った者、残った者。三万に近い名を、毎日、一人で書いた。四十時間目に数えられなかったものを、五年かけて数え直していたのである。
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五年目、十六の皇帝が来た。
「叔父上。退き方を、教えてください」
「できませぬ。一度しか、降ろしておりませぬ」
「この国で、一度でも降ろした人は、叔父上だけです」
関羽は、受けた。武備学舎の祭酒である。六十五だった。
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最初の講義の日、関羽は弟子十一人を前に半刻黙り、こう言った。
「今日は、終わる」
弟子は、出ていかなかった。「明日は、話されますか」「分からぬ」「では、待ちます」
十一人は翌日も来た。その翌日も来た。四日目に、関羽は話し始めた。最初の一言は、こうである。
「私は、判断を誤った」
それだけで、その日は終わった。「開講まで四日かかった学舎」と呼ばれ、四日待った十一人ごと語り草になった。
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学舎には、じきに名物ができた。弟子が祭酒の髭の角度で機嫌を観測するのである。「本日、髭晴れ」「昼から髭くもり」。記録は本人にだけ隠し通され、「髭晴れ」が最も安定するのは、退いた弟子の報告が届いた日だった。
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入学を断られた者が、一人いる。魏延である。理由は一つ——負けたことがない。
魏延は一度だけ、酒を持って聞きに来た。関羽が飲まぬと知っていて持ってくる、そういう男である。
「なぜ、入れぬ」
「退いたことがないゆえ。……教えることが、ない」
「将軍も、一度だけでござろう。なら、私と変わらぬ」
「変わる。……一度で、足りる」
魏延は立ち上がり、扉の手前で振り返った。
「降ろされたとき、何を思われた」
「散ると思った」
「散りましたか」
「散らなんだ」
魏延は、しばらく立っていた。そして、言った。
「私は、散ると思う。……思っておるうちは、降ろせませぬな」
関羽は、答えなかった。
——この男は、分かっている。分かっていて、できない。自分も、六十年そうだった。
◆
講義の題目は十三年間、三つだった。《なぜ樊城で退けなかったか》《なぜ糜芳と士仁が報告できなかったか》《なぜ旗を降ろしたか》。
そして、一人称だけが変わった。
最初の年——「私は、判断を誤った」
五年目——「我らは、判断を誤った」
十三年目——「国の仕組みが、私一人に依っておった」
責任を薄めたのではない。一人称を変えるのに十三年かかった。次に同じ場所へ置かれる者は自分ほど強くない。強くない者が助けを求められる形へ、言葉を作り直していたのである。
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講義は十一度行われ、十一度とも、同じところで止まった。
《退くというのは》
続きが、言えなかった。弟子は百六十四人になり、そのうち十七人が、実際に退いた。関羽は、十七人の名を覚えた。順番も、覚えた。
◆
建興十二年、丞相が五丈原で危ないと聞くと、七十五の関羽は馬で発ち、八日かけて着いた。そして、床几に三日、何も言わずに座った。三日目の夜、諸葛亮が筆を置いた。
「雲長どの。何か、仰せになってください」
「言わぬ。……言えば、お前は理で返す。そして、私は理で勝てぬ」
「では、なぜ来られました」
「見に来た。十五年前、お前は荊州に来なんだ。私は、一人で降ろした。誰も、見ておらなんだ。——今度は、見ておる」
諸葛亮は、仕えて二十七年で初めて泣いた。翌朝、退却が始まった。麦は刈らず、誰も走らなかった。
関羽は三日座ったせいで馬に乗れず、車で十六日かけて帰った。成都で三日眠り、四日目に起きて言った。
「授業は」
終章 二時間の超過
建興十四年の秋、関羽は授業の途中で倒れた。七十七である。魯の将・曹沫——三度負けて三度逃げた男——の話をしていた。倒れる前の言葉は、こうである。
「三度負けた者を、なぜ将にしておいたか」
◆
夕に目を開けた。医官は、今夜だろうと言った。最初に聞いたのは、授業のことだ。
「……どこまで話した」
「『退くというのは』まで」
「続きを、書いておけ。私は、言えぬ」
「何と書きますか」
「知らぬ」
◆
皇帝が、枕元にいた。
「叔父上。退かれたのは、十七年前です。十七年、考えておられませんか」
「考えた。毎日、考えた。……そして、言葉にならなんだ。十一度講じて、十一度とも、そこで止まった」
毎回、同じところで終わっていた。誰も、気付かなかった。
「叔父上。十七人が、退きました。言葉にならなくても、伝わっています」
「……十七人の名を、覚えておるか」
「覚えています」
「言ってみよ」
皇帝は、十七、言った。三人目で関羽は目を閉じ、最後まで聞いていた。そして、言った。
「順が、違う。三人目と、四人目が逆だ」
皇帝は、少し笑った。喉が詰まった。それでも、笑った。順番まで覚えていたのである。
◆
夜、関羽は最後に一つ聞いた。
「陛下。旗は」
「立っています」
「……三本か」
「三本です」
嘘である。関羽が倒れたとき、学舎の旗は三本とも倒れ、誰も立て直していなかった。そして、関羽は知っていた。六十年、旗を見てきた男が、倒れる音を聞かぬはずがない。
関羽は、目を閉じた。
「よい」
それが、最後の言葉だった。亥の刻である。苦しんだ様子は、なかった。
◆
「よい」の意味は二つある。立っているなら、よい。——倒れていても、よい。
布である。そして、十七人は、退いた。
◆
麦城で降ろされた旗は、関羽が自分で畳み、武備学舎の壇の脇に置かれた。掲げず、仕舞いもしない。年に一度、講義の最後にだけ広げて見せた。「軍神の旗」を見ようと弟子が身を乗り出すと、広げられるのは、雨と泥の染みた、ただの古い布である。
関羽は、毎年、同じ一言を添えた。
「これが、旗である」
続きは、なかった。三年通った弟子だけが、それが講義の全部だと気付く。
——布である。降ろせる。降ろしても、人は散らぬ。それを知るのに自分は六十年かかった。諸君は、今日知った。
◆
序で予告した件である。二時間の超過を、呉は咎めなかった。理由は、後年見つかった呂蒙の陣中日誌にある。
《三十八時間目、麦城の旗、未だ降りず。諸将、追撃を請う》
《許さず》
《理由。——六十年立った旗である》
《二時間は、六十年の端数と心得よ》
敵将が、待ったのである。
この二時間を、関羽は生涯知らなかった。知らないまま、呂蒙の訃報に接した年、講義でただ一度、敵の名を出している。
「呉に、呂蒙という将がおった。……商人のように値切り、武人のように待った」
その日の観測が、残っている。
《本日、髭晴れ》




