第124話 星に祈る前に、医師を呼んでください
【建興十二年|成都】
五丈原。蜀軍は、渭水の南へ陣を置いた。
諸葛亮は屯田を始めた。兵士だけでは、ない。現地の農民と、取引する。
種籾を奪わない。収穫の一部を買う。用水路を修理する。
軍が去った後も、土地が残るようにする。
九年前、南中で同じことをした。そして、あのとき、この人は官を置かなかった。
今度は、田を置いた。置いていくものが、人ではなく、水路になった。
◆
司馬懿は、戦わなかった。蜀軍が挑発する。戦書。陣形。小部隊。司馬懿は、出ない。
魏延は苛立った。
「仲達は、我らを恐れている」
楊儀が言う。
「恐れている相手へ、なぜこちらから攻める必要がある」
「このままでは、何も得られぬ」
「目的は、長安攻略ではない」
「だから役人は嫌いだ」
「私も、命令を守らぬ将が嫌いだ」
費禕が、二人の間へ入る。そして、交代制で董允の代理官も調整する。
制度は、何とか機能している。
「文長どの」
費禕が言った。
「はい」
「拘束が、目的でございます」
「知っておる」
「では、仲達どのが出てこぬのは」
魏延は、しばらく黙った。そして、こう言った。
「……達成しておる、ということか」
「はい」
「面白くない」
「はい」
費禕は、頷いた。
「面白くないのが、乙種でございます」
史実では、諸葛亮が司馬懿に女性用の衣服を送り、挑発したが、
この戦いでは、司馬懿が、諸葛亮へ女性用の衣服を送った。
《戦わず陣へ籠もるのは、女子と同じ》
侮辱である。面子を刺激し、心身の状態を乱す策だ。
諸葛亮は、衣を受け取った。
「お似合いでは」
楊儀が言いかける。費禕が、肘で止めた。
諸葛亮は、怒らなかった。衣服を広げる。縫製を見る。
「よい布です」
「丞相」
「兵士の防寒具へ使いましょう」
司馬懿の挑発は、布資源へ変えられた。
【諸葛亮】
挑発耐性 72 → 91
面子優先 34 → 17
【司馬懿 決戦誘導】 失敗
十四年前、関羽は于禁を辱めなかった。そして、曹丕は于禁を辱めた。
挑発する側は、相手が同じ物差しを持っていると思っている。
そして、この人の物差しには、面子の欄がない。もともと、あった。十二年かけて、俺が削った。
◆
戦闘面では、うまくいっていた。問題は、諸葛亮の身体だった。
最初の三十日。睡眠、平均三刻半。ぎりぎりである。食事、一日二回。量は少ない。決裁文書、五十件。規定どおりだ。
ただし、口頭相談が増えた。規定は、文書の件数だけである。
諸葛亮は、書かずに部下を呼び、話を聞き、判断する。
「丞相」
休暇監察官が言う。蔣琬の部下で、二十九になる。三年前から、この人がこの職に就いている。
「口頭決裁も、件数へ含めます」
「規定には、文書と」
「今から改訂します」
諸葛亮の逃げ道が、塞がる。
次。本人が決めず、助言だけする。部下が決裁する。実質的には、諸葛亮の判断である。
「助言も」
「件数へ入れます」
「雑談です」
「国政内容です」
戦場でも、休暇監察官は強かった。そして、この人が強い理由は、一つである。
十年前、俺が職掌に「代案の有無を問わない」と書いた。この人は、代案を持っていない。そして、それでも言う。
しかし、日数が進むほど、諸葛亮の食事が減った。
五十日目——粥半杯。八十日目——粥三口。百日目——果物と湯。
医官が警告する。
「丞相」
「食欲がないだけです」
「腹痛は」
「軽い」
「便は」
諸葛亮が、周囲を見る。張飛は、いない。三年前に死んだ。六十八である。
それでも、この質問は嫌らしい。
「異常ありません」
医官が、記録を見る。
「黒いと」
諸葛亮が、黙る。
消化管からの出血。この時代に、正確な診断はできない。だが、危険な兆候である。
発熱。食欲低下。腹痛。睡眠不足。体重減少。四項目を、超えた。
規定上、指揮権一時移譲である。
「王平将軍へ」
医官が言う。
「前線指揮を移してください」
「まだ動けます」
「規定です」
「司馬懿は、私が倒れたと知れば」
「だから情報を隠すのですか」
「敵へは隠します」
諸葛亮は、答える。
「味方へは」
一瞬、止まる。
「必要な範囲で」
危険な言葉だった。必要な範囲を、病人本人が決めようとしている。
十九年前、関羽が同じことをした。
《荊州、異常なし》
そして、四百六十八枚である。
医官は、赤い緊急報告を出した。諸葛亮本人の承認なしで、である。
これも、規定に書いてある。三年前、俺が足した一行だ。
《病者本人の承認を、報告の条件にしない》
◆
成都。俺のもとへ届く。
【諸葛亮・五丈原】
作戦百十九日目
身体疲労 100
精神疲労 91
食事量 危険水準
睡眠 不足
発熱 高
腹痛 持続
消化管出血疑い
体重減少 著明
生命危険度 赤
予測
現状継続 死亡確率 81%
即時休養 死亡確率 46%
撤退・後送 死亡確率 27%
赤。また、大切な人の状態が、赤くなった。
十一年前、父のときは、空白だった。
《制度的介入余地 ——》
そして今回は、三つ、書いてある。
数字が出るということは、動かす手があるという意味である。
俺は、その報告を、黄夫人へ見せた。丞相府の庭にいる。六十を過ぎている。そして、いまも粟を作っている。
「夫人」
「陛下」
「丞相が、危のうございます」
この人は、竹簡を読んだ。そして、しばらく黙っていた。やがて、こう言った。
「二十七年前に、伺いました」
「……何を、でございましょう」
黄夫人は、答えた。
「還暦には届きませぬ、と」
十八年前、この人が竹簡の最後に書いた一行である。そして、諸葛亮は、いま五十四である。
「夫人」
「はい」
「六年、足りません」
「はい」
俺は、聞いた。
「間に合いますか」
黄夫人は、粟の穂を見ていた。そして、こう答えた。
「分かりませぬ」
「……」
「そして、数えることは、やめませぬ」
十八年前、この人は言った。
「答えられぬときは、答えぬのが、いちばん正しゅうございます」
そして、いまも、同じである。
◆
「撤退命令を」
俺は言った。
諸葛亮へ、前線指揮を王平へ。全軍撤退準備。
ただし、急な撤退は司馬懿の追撃を招く。屯田を行い、長期間陣を維持した蜀軍が、突然退けば——丞相の異変を悟られる。
龐統が、地図を見る。
「撤退まで、十日必要です」
「丞相は」
「十日持たせる必要があります」
「人を兵站品のように言わないでください」
「だからこそ」
龐統は、答えた。
「丞相の仕事を、今日で止めます」
前線へ命令。諸葛亮の決裁——ゼロ。全て、代理。
王平——軍事。楊儀——撤退表。魏延——後衛計画。費禕——情報統制。そして、医官。
「丞相の担当は」
俺は言った。
「寝ることです」
前線で、諸葛亮が命令を読んだ。
「陛下は」
声が、弱い。
「私へ、戦場で寝よと」
「はい」
費禕が答える。
「これは、皇帝の勅命です」
「司馬懿が」
「丞相が起きていても、戦いません」
「軍の士気が」
「病状を公表しません」
「部下の判断に」
「任せてください」
「失敗すれば」
「責任は、陛下と執行評議が負います」
諸葛亮の目が、動く。
「私は」
「責任を負わなくてよいと」
「今は」
費禕は、答えた。
「患者です」
諸葛亮が、初めて明確に、仕事から外された。二十七年である。
後に、そのときのことを、費禕が話した。
「陛下」
「はい」
「丞相は、しばらく黙っておられました」
「はい」
「そして、こう仰せになりました」
費禕は、そのまま復唱した。
「『では、私は、何を数えればよい』」
俺は、そこで、動きを止めた。
数える。この人は、二十七年、数えてきた。戸数。糧の斛。矢の本数。兵の日数。職掌の項目。
そして、去年から、畝を四つに分けて水の量を数えている。
数えることを、取り上げられた。
「文偉どの」
「はい」
「何と、お答えになりましたか」
費禕は、答えた。
「『日数を』と申しました」
「……」
「『あと何日で、帰れるかを』と」
俺は、そこで、少し息を吐いた。
正しい。この人は、数えるものがなければ、たぶん、耐えられない。
そして、日数なら、減っていく。減っていくものを数えるのは、この人の得意である。
◆
その夜、一部の将が、祈祷を提案した。北斗七星へ祈り、灯火を守り、寿命を延ばす儀式である。
兵たちは、不安だった。丞相が倒れたという噂が、少しずつ広がっている。
「祈ることは禁止しません」
俺からの指示を、費禕が読み上げる。
「ただし」
「祈祷によって、医官の処置を遅らせない」
「灯火を守る者より」
「丞相の食事と水分を確認する者を優先する」
「星に祈る前に」
「医師を呼ぶ」
龐統が成都で言った言葉が、前線へ伝わった。
この男は、二十五年前、赤壁の降兵から病の数を聞き出した男である。そして、いまも、同じことを言っている。
諸葛亮の寝台の近く、灯火が並べられる。兵士は、祈る。
医官は、脈を取り、水を与え、腹を温め、少量の粥を口へ運ぶ。
信仰と医療。どちらか一方にしない。祈りたい者から、祈りを奪わない。だが、祈りを理由に、治療をやめない。
俺は、そこで、一つ思い出した。
二十五年前、甘夫人が死んだとき。張飛が、鹿の角を持ってきた。
「薬になると聞いた」「俺の郷ではなる」
あれは、祈りだった。そして、あのとき、俺は医官を呼ぶのを一日、遅らせた。「明日でいい」と思ったからだ。
二十五年、俺はその一日を覚えている。
◆
司馬懿の陣営。蜀軍の使者や捕虜から、情報が集まる。
「諸葛亮は、食事が減っているようです」
司馬懿が尋ねる。
「一日に、どれほど事務を」
「以前より少ないとのことです」
「本当に」
「代理者が増えております」
司馬懿は、少し驚いた。
「諸葛亮が、仕事を渡したか」
「皇帝の命令と」
司馬懿は、笑った。
「蜀の若帝は、恐ろしい」
「なぜです」
「諸葛亮を休ませられる者は」
静かに言う。
「魏にも、おらぬ」
そして、この人は、こう付け足した。
「わしを休ませる者も、おらぬ」
だが、司馬懿は、蜀軍が撤退準備を始めていることも見抜いていた。
「追いますか」
郭淮が尋ねる。
「まだだ」
司馬懿は答える。
「魏延と楊儀が争うのを待つ」
諸葛亮が倒れれば、蜀軍内部が割れる。歴史なら、そうなる。
しかし、二人は既に、互いに嫌いなまま、緊急計画へ署名していた。楊儀の筆圧が強すぎて、木簡に傷が付いた、あの署名である。
次に試されるのは——制度が、本人たちの感情より強いかどうかだった。
〈あとがき〉
「軍が去った後も、土地が残るようにする」。九年前、南中で官を置かなかった人が、今度は田を置きました。
「よい布です」「兵士の防寒具へ使いましょう」——挑発する側は、相手が同じ物差しを持っていると思っています。この人の物差しから面子の欄を削るのに、十二年かかりました。
「味方へは」「……必要な範囲で」。十九年前、関羽が同じことをしました。四百六十八枚の《異常なし》です。
「星に祈る前に、医師を呼ぶ」。祈りたい者から祈りを奪わず、祈りを理由に治療をやめない。二十五年前、主人公は「明日でいい」と思って、一日遅らせました。
《劉禅文庫 再読『ファスト&スロー』——祈りは速いほうで動き、医師を呼ぶのは遅いほうである。片方を消すのではなく、両方置く》
次回、孔明、生きて帰る。




